燦々と降り注ぐ太陽が覆い隠されて、どんよりとした曇り空に変わるのにかかった時間は、本当に少しだった。 さらに、その雲から、水滴が雨という形で落ちてくるまでにかかった時間は、さらに少ない。 そして、朝は気持ち良いくらいの快晴が広がっていたから、と出かけていた男女に、雨具の用意などあるはずもない。慌てて馬を駆けさせたところで、偶然、打ち捨てられた古い屋敷を見つけることが出来た。とりあえず二人の男女を乗せた馬は、そのままその屋根の下に入っていく。 「ふぅ。まさか盛夏祭の最中に雨が降るとも思わなかった。ティア、大丈夫?」 「は、はい。大丈夫です」 ティア、と呼ばれた少女は実際ほとんど濡れていなかった。今呼びかけた男性――セリオのマントに覆われていたからである。 「悪かったね。さすがに雨が降るとは思わなくて。街にいれば、濡れることもなかったんだけど」 「いえ……」 「少し人込で疲れていた気がしたから、と思って誘ったんだけど。天気がいいからと思ったら……」 「あ、ありがとうございます。確かに……ちょっと疲れてはいましたから……」 かすれそうに、けれど少しだけ嬉しそうにはにかむ少女に、セリオはにっこりと笑いかけると雨に濡れたマントを外して、壁にかけた。 盛夏祭。夏至にあわせて開かれるこの祭りは、主に収穫の時期を前にしての豊穣祈願と、太陽への感謝を込めて大陸各地で開かれる季節祭の一つである。特にグランベルの王都バーハラと、トラキアの王都コノートで開かれる盛夏祭はその規模で知られ、多くの人々が集まる。この時期は、街の人口が五割以上増える、と言われているほどだ。 そんな中、グランベルの王太子であるセリオは、バーハラ王家にいるティアを盛夏祭に案内した。ティアは去年まで――去年は実際はほとんど戦乱の渦中にいたが――トラキアの片田舎に住んでいたため、このような大きな祭りなど知らないのである。 しかし、元々人馴れしてないティアは、一日目、二日目は物珍しさからいつになくはしゃいでいたが、その夜に疲れて多少熱を出してしまった。翌日はすっかり熱が引いていたのだが、そのティアを、セリオは遠乗りに誘ったのである。遠乗りといっても、それほど遠くへ行くわけではない。ただ、祭りの開催されている間は、バーハラは人でにぎわっているし、宮殿内も何かと騒がしい。気分転換になればと思ったのだ。 セリオにはグランベルの王太子としての仕事があったはずだが――それはきっちりと父セリスに押し付けてきた。もっとも、セリスもティアのことを察して引き受けたわけだが。 しかし天気がいいと思ったのもわずかな間で、バーハラを出てしばらくしてから急に雨が降り始め、結局二人は慌てて森の中に行き、そこで廃屋敷を見つけたというわけである。 「元はどなたのお屋敷だったのでしょうか……?」 ティアがやや不安げにたずねてくる。確かに、まだ使っていたら招かれざる客、という可能性もある。ただその心配はなさそうだった。 捨てられてからかなりたっているであろう屋敷は、所々が崩れ、またひどく汚れていたが、中央の辺りはまだ作りもしっかりしていた。部屋も埃さえ目を瞑ればかなりまともな状態で残されている。崩れ方から見て、かつてのグランベル帝国の貴族か何かの別宅だろう。規模的には、それほど珍しいものではない。 ただ、わずかだが最近使われた形跡もある。あるいは、自分達と同じように屋根を求めたのか、あるいは一夜の宿を求めた旅人がいたのか。 「さあ。どちらにしても、私達が使っても問題はないと思うよ。持ち主がいるとも思えないし。雨が止むまでは、ここにいよう」 セリオはそういうと、馬の鞍などについた雨滴を払っている。その間にティアは奥に入って、少し見渡してみた。静まり返った邸内は、外の雨が木々の葉や地面を打つ音だけが響いている。 「誰かいた?」 「いえ……でもセリオ様、申し訳ありません。私などのために……。しかも雨に降られて……」 「いいって。私も少しあの人出にはうんざりきてたから、ちょうどいい気分転換になる」 そういってセリオは砕けた窓の外を見やった。やや薄暗い中に降り続ける雨は、一定の調子で音を鳴らし続け、まるでそれ自体が音楽のようにも聞こえる。二人はしばらく無言で、ただその音を聞き入っていた。 どのくらいの時が流れたか、不意にセリオがその雨の静寂を破る。 「それに、私は雨は嫌いじゃないんだ。ティアは?」 「私も……嫌いではありません。その、雨自体というより……」 「あれ。じゃあ私と同じ理由……」 言いかけたセリオの目に、突然陽光が煌いた。思わず、セリオは顔を綻ばす。ふとセリオは思いついて、ティアの手を引っ張った。 「ティア、おいで。もしかしたら……」 「え、あの、セリオ様!?」 ティアは引かれるままに、セリオについていく。 セリオは残された階段の中でも、まだほとんど崩れてない階段を、ティアを引いて上がっていった。 二階から、さらに三階へ。この頃の建築は、中央に展望室を造るのが流行ったことをセリオは知っているのだ。 木々よりも高いその場所は、もう屋根も壁もなくなっていて、床は雨で濡れていたが、雨はすでに上がっていた。 「やっぱり。これは、通り雨だったんだね」 セリオに引かれて、ティアがやや遅れて展望室に出る。そして、その目には。 「虹……!!」 空に空いた雲の穴から差し込む太陽の光は、神秘的な情景を演出していた。そして、その神秘の結晶のようにそこに広がるのは、七色の天の橋。 「イザークにいた時ね、剣の稽古が辛くて、逃げ出したことがあるんだ。まだ子供の頃だけど」 ティアは驚いてセリオを見上げた。ユグドラル最強とまで謳われるセリオに、そんなことがあったというのは、にわかに信じられない。 「その時ね、結構強い通り雨が降って、やっぱ今日みたいに通り雨が降って、その後に虹が見えた。なぜか分からないけど……もう少しがんばろう、って気になったんだ」 「私も……」 ティアはいつもより少しだけ大きな声で、そしていつもよりずっと嬉しそうに口を開いた。 「覚えてらっしゃいますか、セリオ様。あの時、やはり雨が降っていたことを……」 セリオは言葉で答えずに、にっこりと笑って応えた。 「あの時も、雨上がりにやっぱり虹が見えて。それで私、まだもし生きられるなら、精一杯生きていこう、って決めたのです。そして……」 ティアはつないだままの手に、少しだけ力を込めた。 「ティアは生きていないと。少なくとも、私はそう思ってる。シアも、父上も母上も、もちろん君の両親も」 「……はい。私も、セリオ様と一緒に……」 そこまでいいかけて、ティアは頬を真っ赤に染めた。セリオはくす、と小さく笑うと、そのままティアを抱き寄せた。 「君は私が守る。ずっとね――そう、言っただろう?」 降り注ぐ光と雨に濡れた木々の香りが、まるでそれが祝福であるかのように。 全てが、二人を優しく包み込んでいた。 |