「本当に……本気なの? あなた達」 黒髪の少女の言葉に、その前に立つ二人は迷うことなく頷いた。 「父上のやり方には私は賛成できない。どうにかしなければ……と、歯がゆく思っていた。だが、そのために何をしなければならないか、それすら分からずに無為の日々を送ってしまった……許してほしい、ラクチェ。しかしもう、君のその星々のごとき煌きが曇るのを、私は看過することは出来ないのだ」 「え、え〜と……」 「ま、要するに親父のやり方が気に食わない、それは確かさ。俺も、兄貴もな。子供狩りなんてやったって、未来はない。親父だってそれは分かってるだろうに、親父はそれを推し進めちまってる。ホントは俺や兄貴がちゃんと言えばいいんだろうが……」 だがもう、それでも思い留まってくれなかった、と彼は言葉を続けた。 「もうこれ以上我慢できないところまで来てる。だったら俺達も、最終手段を取るしかねえって、な、兄貴」 話を振られたほうは、うむ、と大仰に頷いた。 「そもそも、君がこの軍にいたこと、それそのものが運命というものだ。我らが君に協力するのに、何の躊躇いがあろうか」 とても『彼らしい』言い方ではあるが、一度ならず会ったことのある少女――ラクチェはともかく、初めて会った、ラクチェの後ろにいる青い髪の青年は、むしろ圧倒されていた。 「え、えと……とにかく、よろしく」 彼が言えたのは、それだけであった。 |
元イザーク王国――現ドズル王国――の北方、ティルナノグに隠れ住んでいた、かつての英雄シグルドの子セリスは、この地で始まった子供狩りに対抗するゲリラ活動を行っていたのだが、ついに発見され、討伐軍が編成された。 しかしセリスは、その襲撃部隊を迎撃、逆にそのままガネーシャまで攻め上がり、陥落させ、させてしまった。 そして、解放軍の挙兵を宣言したのである。 ドズル王国には主だった城砦が四つある。 一つがガネーシャ城で、ここを治めていたのはハロルドというドズルの将軍だったが、すでにセリスらに敗れ、戦死している。 そして、解放軍の次の障害となるのが、ソファラ城、イザーク城の二つだった。 このイザークの地を開放する、という目的であれば、セリスら解放軍の進路はイザーク城の攻略しかない。だが、イザーク城の攻略に時間がかかると、ソファラからの援軍に背後を突かれる事になる。かといって、ソファラを攻略するとしても同じことが言え、どうすべきか、とセリス、オイフェらが協議していたところに飛び込んできたのが、イザーク城主ヨハン、ソファラ城主ヨハルヴァの投降の報せだったのだ。 もっとも、ヨハンの送ってきたそれは、とてつもなく分かり難いものだったのだが。 最初、罠である可能性も考えないではなかったが、その報せを持ってきたのが、あろうことかその本人達だったのである。しかも、随従も連れず、だ。偽者、あるいは影武者の可能性も考えたが、なんとそこでスカサハ、ラクチェが彼らと知り合いであることが判明、彼らが間違いなく本人であると保証した。 こうして、解放軍は予想もしない形でイザークまでを攻略したことになったのはもちろん、大幅な戦力の拡大すら果たすことが出来たのである。 最初、セリスやオイフェは投降したヨハン、ヨハルヴァを疑っていたが、彼らと話すうちにそれらの疑いはほぼ晴れてしまった。 彼らが、たとえドズルの者であっても、聖戦士としての、そして為政者としての誇りを持っており、そして今の状況に強い憤りを感じているのが、よく分かったからだ。 また、スカサハ、ラクチェの二人も彼らの人となりが信用できると弁護したため、二人はその連れてきた軍もそのまま二人に――彼らの配下がヨハン、ヨハルヴァ以外が上官となるのを承服しなかったこともあって――預けられた。 「しかしまさか、ラクチェがこの軍にいるとはな」 「うむ。解放軍に『ラクチェ』という女戦士がいることは聞いていたが、あの可憐なラクチェと『女戦士』は結びつかなかった」 ヨハン、ヨハルヴァとラクチェらは、かつて、まだ戦争が始まるよりも前、まだ今より少し平和だった時期に会ったことがあるのだ。 無論その時は、ラクチェは自分の出生などは伏せていたし、剣を使うことも黙っていた。 「あのねぇ、一体……」 何を想像していたの、とラクチェが問い詰めようとしたその横で、スカサハが必死に笑いをこらえている。 「ちょっとスカサハ、何笑ってんの」 「い……いや、別に笑ってなんか……ぷくく……いないって、うん」 どこが笑ってないのやら、と言おうとしたが、その後のスカサハの「か、可憐って……ラクチェが……」という呟きが聞こえたとたん、ラクチェは問答無用でスカサハの頭部に拳を叩き込んだ。 ガン、という盛大な音の直後、スカサハが頭を抑えて呻いた。 「いって〜、何するんだよ、ラクチェっ」 「あんたが悪いんでしょっ」 相当見事に叩き込まれらしく、スカサハは本当に痛そうにしている。 そこに、新たな人影が現れた。 「あ、あの……」 呻いているスカサハ以外の三人が、声の方に注目した。 そこに立っているのは、ゆったりとした白いローブを着た、淡い紫銀の髪の少女。イザークでは、まずお目にかかることがない容貌だ。 「あ、ユリア。えと、スカサハ?」 「あ……はい。セリス様がお呼びで……」 「分かった、今行く……」 なおも痛そうに頭を抑えるスカサハを、ユリアが心配そうに看る。 「あの、大丈夫ですか? スカサハ様」 「あ……うん。ちょっと凶ぼ……いや、大丈夫、なんでもないから」 さすがに『口は災いの元』という言葉を思い返したのか、スカサハはユリアに連れられてセリスらのいる天幕の方へと歩いていった。 「ったく、あのバカ」 「今の可憐な少女は誰だ?」 「あ、ユリアっていうの。レヴィン様……あ、私達の指導者の一人ね。その人が連れてきた少女らしいんだけど、わけありらしくて。で、スカサハが護衛についてるのよ」 「なんだ兄貴。もしかして一目惚れでもしたか?」 ヨハルヴァの言葉に、ヨハンは「何をバカな」と言うと、大仰なまでの動作でラクチェの前に跪いた。 「わが心に住まう女神はラクチェ、君一人だ」 そしてどこから取り出したのか、手には一輪のバラが、ラクチェに差し出されている。 「え……と、う、うん……」 ラクチェはその勢いに押されてそれを受け取ってしまった。 「おお、ラクチェ!! 私の愛を受け取ってくれるとは!! さあ、これから私達の輝かしき未来について話し合おうではないか!!」 言うが早いか、ヨハンはラクチェの手を取るとそのまま自分の方に引き寄せ、肩を抱こうとする。 「こ、こらぁっ」 ガン、という先ほどのスカサハよりは少しだけ優しい(気がする)音が響いた。 「調子に、乗らないっ」 「ひゅ、ひゅまない……ラクチェ。わらひとひたことが」 ラクチェの拳は見事にヨハンの顔面を捉えており、ヨハンは顔を抑えながらのため、発音がままならない。 その様がおかしくて、ラクチェは思わず笑った。つられて、ヨハルヴァも笑い、ヨハンもそれに続く。 ヨハンのこの『愛の告白』は、正直相当に恥ずかしい。だが、悪い気はしなかった。 ヨハルヴァもまた、ヨハンの様に飾った言葉ではないが、それでも好意を持ってくれている事は明らかで、また、ラクチェも二人のことが好きだった。 いつか、あるいはどちらかを選ばなければならないとしても、今はそんなことを考える余裕もないし、二人もラクチェにすぐ結論を迫るようなことはしなかった。 だから今は、このまま三人でいたい。 この時ラクチェは、そう、思っていた。 |
「ダナン王はどっちなの!?」 「こっちだ、ラクチェ!!」 ラクチェとヨハン、ヨハルヴァは、リボー城の回廊を駆けていた。 リボーの攻略戦は、解放軍の予想したとおり、リボー側が篭城してきた。 ヨハン、ヨハルヴァの戦力を吸収した解放軍は、すでにリボーに駐留する軍総数と同数になっており、さらに、リボーからイザーク攻防戦の援軍として派遣されたスレイダー将軍――彼はヨハン、ヨハルヴァが裏切ったことを知らなかった――を壊滅させていたため、すでにリボーの全軍より、解放軍のほうが数で勝っていたのである。 一般的に、篭城する相手を攻め落とすには篭城する戦力の三倍が必要とされているが、解放軍とドズル軍には決定的な違いがあった。 魔道士の存在と、何より、ドズル軍がそもそも『侵略者』である、という事実である。 解放軍がリボーの城壁の外に来たことを知った市民は――セリス、シャナンらの活躍はすでに知れ渡っていたのだ――リボー城内で蜂起、これによりリボーの守備隊は外部内部両方に対処しなければならなくなり、一昼夜の攻防の末、城門が開かれた。 そして真っ先にその城門に飛び込んだのが、ヨハン、ヨハルヴァ、ラクチェの三人だったのである。 これには、ヨハン、ヨハルヴァがなんとか父を説得したい、という願いもあった。 本来、リボーの攻略はもっと時間をかけるはずだった。 ドズルの王であるダナンは、聖斧スワンチカの継承者だ。当然、聖斧を持っているとみられていた。 そして現在、解放軍に神器に対抗する手段は、ない。 ゆえに、現在バルムンク回収に向かっているシャナンの帰還を待って、攻撃をかける予定だったのだが、ヨハンとヨハルヴァが、思いもしない情報をもたらしたのだ。 スワンチカは、すでに彼らの兄であるブリアンに継承され、今はグランベルにあるというのだ。 神器がないのであれば、ダナンは強敵ではあるが、何とかならない相手ではない。 ゆえに、解放軍はリボー攻撃に踏み切ったのである。 城内にはまだかなりの兵が残ってはいるが、ほとんどはヨハン、ヨハルヴァを見ると、それだけで攻撃するのを躊躇ってしまうらしい。たまに襲ってくる者もいないわけではないが、ほとんど障害なく、三人は城の最深部まで到着した。 巨大な、両開きの扉。ドズルの国王が謁見を行うための広間である。 「ここね」 「多分な」 「ふ、では行くぞ!!」 鍵がかかっている様子もなく、扉は強く押すとその見かけどおりの重さによる抵抗だけを示して、ゆっくり開かれた。 扉の向こう側に待っていたのは、十人ほどの騎士、そしてその一番奥の、この間でもっとも豪奢な椅子に座るのは、ヨハン、ヨハルヴァの二人にとってはもっとも近しい存在の一人だった。 「親父……」 「父上……」 ヨハン、ヨハルヴァの二人は父がいることは分かっていたが、ダナンの方では予想外だったらしい。 二人の姿を見て、半ば唖然としている様子だった。 「ヨハン……ヨハルヴァ……貴様ら、ドズルの誇りはどこへいった!! あろうことか、反乱軍に与し、実の父に弓引くとは何事だ!!」 謁見の間全体に響き渡る、すさまじい声量は、あるいは胆力のないものはそれだけで意気が折れてしまうのではないか、というほどの圧力を伴っていた。 だが、この場にそれで委縮する者はいない。 「父上。お考えをお改め下さい。この戦い、すでに勝敗は決しております。そしてまた、解放軍とドズル、どちらに義があるか……父上にもお分かりでしょう」 「親父だって言ってたろう。子供狩りは出来ればやりたくはないって。セリス達は、そういう世の中にしたいんだ。だからここは降伏してくれ。すぐ、解放軍の他の連中も来る。もう勝ち目はないんだ」 父はかつて子供狩りに消極的だった。已む無く実施せざるを得なくなった時も、出来るだけ数を抑え、また、悲しむ親がいないように計らっていた。だから、降伏してくれるに違いない。 二人はそう思っていたのだ。 だが、その後のダナンの答えは、二人の予測を完璧に裏切るものであった。 「言いたいことはそれだけか、裏切り者ども!!」 「なっ……」 「親父!?」 「ドズルに恥さらしな裏切り者などいらぬ!! 殺せ!!」 その命令に驚いたのは、むしろ回りに控えていた騎士達だった。 「し、しかしお二人は……」 「構わん!! ドズルを滅ぼそうとする者は、誰であろうと殺せ!!」 騎士にとって、王の命令は絶対である。騎士達は戸惑いつつも、それでも剣を抜き、ラクチェ達に迫ってきた。 「このバカ親父!!」 「見損なったぞ、父上!!」 ラクチェが動くよりも先に、兄弟二人の一撃が、それぞれ先頭にいた騎士を吹き飛ばした。 その凄まじい一撃に、騎士達は一瞬怯んだが、すぐまた襲い掛かってくる。だが、迷いのある彼らでは、ラクチェ、ヨハン、ヨハルヴァの敵ではなかった。 「おのれ……」 「親父、もうやめろ。もはや勝ち目はないのは親父にだって分かるだろう」 だが、そのヨハルヴァの言葉に対する返答は、言葉ではなく、巨大な斧の刃だった。 「なっ?!」 ヨハルヴァはかろうじてそれをかわす。勢いあまったその斧の一撃は、そのまま床に叩きつけられ、まるで炎の魔法が炸裂したかのように爆裂した。 「ドズルは潰させん。わしがこれまで、どれだけそのことに心砕いてきたか、お前達に分からんのか!!」 「親父……」 「父上……」 「もうよい!! 貴様らも、反乱軍も、わし一人で叩き潰してくれる!! ドズルはわしが守る!!」 言葉に続いた攻撃は、まさしく暴風の如きものだった。 斧という武器は、その武器の重量ゆえ、威力はあるが攻撃の隙が大きいとされている。 ゆえに、小回りが利き、また、攻撃を受け流すことを得意とする剣との相性が悪いと云われているのだ。 だが今、ラクチェはどんなものにも例外があるということを思い知らされることになった。 ダナンの攻撃は、速さ、鋭さ、そして隙の少なさ、いずれをとっても、今この場にいる三人を大きく凌駕していたのだ。 神器の継承者、というのは伊達ではない、というべきか。 その手に聖斧スワンチカこそないが、それでもなお、ダナンは最強の斧の使い手であるのだ。 三対一で戦っているというのに、ラクチェ達が圧倒されてしまっている。 彼らの攻撃があたっていないわけではない。 だがダナンは、攻撃を受ける際に微妙に体を動かし、鎧のもっとも硬いところで攻撃を受け、しかもその勢いを鎧の上を滑らせることで完全に殺してしまっているのである。いわば、鎧そのもので攻撃を受け流しているのだ。 これほど見事なまでの防御の技は、ラクチェはもちろん、ヨハン、ヨハルヴァも初めて見るものだった。彼らは知らなかったが、この技術こそが、スワンチカの守りの力を、より鉄壁になさしめている力なのである。 「しょせん……この程度か!!」 ガン、という凄まじい音と共に、一振りの斧が跳ね飛ばされ、もう一振りの斧は跳ね上げられた。 「ぐっ」 ダナンの凄まじい一撃によって、ヨハンの斧は遠くに乾いた音を立てて転がり、ヨハンもまた吹き飛ばされた。そしてヨハルヴァは、斧を思い切り上に弾き飛ばされた。斧を手放すまい、としたヨハルヴァは、父親の正面で、無防備なに体を晒してしまっている。 「ヨハルヴァ!!」 「ヨハルヴァ!!」 ラクチェは反射的にその二人の間に飛び込んだ。そして同時に、その体から翡翠の光があふれ出す。 「ぬ!?」 イザーク王家の秘剣、流星剣。 この間合いならば、回避は不可能だと判断したラクチェは、迷うことなくそれを繰り出した。 実はラクチェは、実戦において流星剣を使うのはこれが初めてである。普段はシャナンに使用を禁じられているのだ。 というのも、確かにラクチェの流星剣はすでに完全なものに近くなってはいるが、特に繰り出した後にその反動からか、完全に動きが止まってしまう、という致命的な欠点があるのである。 止まってしまう時間は、本当にわずかなのだが、状況によってはそれは致命的な隙となる。 だからシャナンは禁じていたのだが、この一撃で終わらせられる、という自信がラクチェにはあった。 だが。 続いて響いた音は、非常に嫌な音だった。 金属と金属がぶつかり合い、削りあう音。そして半瞬遅れて、金属が焦げたような嫌なにおいが広がる。 「え……」 あろうことか、ダナンは流星剣のすべてを、鎧で弾いたのである。 「イザークの剣士、所詮この程度か!!」 「しまっ……」 ラクチェは慌てて上体を起こそうとするが、意思に反して体がついてこない。 まるで重石でもつけられているかのように、全身の動きが緩慢になっている。 瞬間的に、莫大な力を放出した、その代償。ほんの一瞬とはいえ、体が動かなくなるその隙。 時間そのものは一瞬なのだが、その一瞬がラクチェには永遠にも感じられていた。そして、その静止した時間の中で、ダナンの斧だけが動き、ラクチェに振り下ろされようとしている。 「ラクチェ!!」 その、斧以外が静止した光景が、突然ぶれた。 それが、ヨハルヴァに横から突き飛ばされたからだと分かったのは、そのすぐ後。 同時に、豪風を伴って、斧が振り下ろされる音が聞こえ、同時にすさまじい金属音が響いた。 ラクチェはヨハルヴァに思い切り突き飛ばされ、謁見の間の床の上を転がりつつ、体を回転させて体勢を立て直す。 だが、すばやく立ち上がったラクチェは、目の前で絶望的な状況を目にした。 おそらく、先の一撃で斧を叩き落としたのだろう。 上段から振り下ろされた一撃で、ヨハルヴァの斧は床に転がっていて、その衝撃からなのか、ヨハルヴァは片膝を床についていた。 そして、その目の前で、ダナンが再び、大上段からその巨大な斧を振り下ろそうとしてるのだ。 駆けつけようと足に力を入れる。だが、間に合わないのは明らかだった。 「だめぇ!!」 ラクチェは思わず目を瞑った。 その直後、嫌な音が続いた。 それは、鋼の刃が金属の鎧を砕く音。そして、肉に食い込む音。 そしてラクチェが再び目を開けたとき、ラクチェの前には予想もしなかった光景が広がっていた。 「がっ……」 「あ、兄貴!!」 ひざ立ちになり、斧を取り落としているヨハルヴァ。そして、その目の前で、ヨハンが武器も持たないまま、ダナンの斧を肩口に受けていたのだ。その刃は、ヨハンの肩甲を完全に打ち砕き、胸の半ばにまで達している。 「ヨ、ヨハン……」 ダナンもまた、ヨハンがそこに割り込んでくるのは予想外だったのかもしれない。半ば呆然としている。 だが、時間が止まるわけではない。 ずるり、と。ヨハンの体が崩れ落ちるのにあわせて、嫌な音と共にヨハンの体から斧が開放される。 斧を叩き込まれた勢いからか、重心が後ろに傾いていたヨハンの体は、そのままヨハルヴァに倒れこんできた。 そして、その傷口からは止め処もなく血が流れ、あっという間にヨハルヴァの鎧と服を赤く染め上げ、そのまま大理石の床に血の池を作り出す。 「ば、ばか者が……な、なぜ……」 「ヨハ……ルヴァ……大丈……夫……か……」 「兄貴!!」 ヨハルヴァは慌ててヨハンを支えようとするが、ヨハンの体からはすでに力が抜けきっていた。 ヨハルヴァがわずかに体を動かすだけで、ずる、と崩れて、床に倒れ伏す。 その、右肩の傷は明らかに致命傷だった。 「あ……兄貴……」 「ウソ……でしょ……ヨハン……」 そうしている間にも、ヨハンの傷口からは血が溢れ出している。 「い、いか……ヨハル……ヴァ……ラク……チェを……」 すぐそばにいるヨハルヴァにしか聞こえないような声。そしてその言葉を紡ぎ終わると同時に、ヨハンは事切れた。 「兄貴……?」 しかしもう、ヨハンの口が動くことはなかった。 その瞬間、何かがヨハルヴァの中で弾けた。 「う、う、うああああああああああああ!!」 その直後のことを、ヨハルヴァは後で思い返しても、思い出せなかった。 そしてラクチェもまた、覚えているのは床に広がる赤だけだったという。 次に顔を上げた時見えたのは、ヨハルヴァの斧が、ダナンの首筋に深く食い込んでいる光景だった。 ダナンは、一瞬で絶命していた。 |
ダナンの死で、事実上リボーは陥落した。 解放軍の戦死者は三十名に届かなかった。だが、その中の一人に、ヨハンの名がある。 戦死したものは、遺族がいる場合は遺族に遺体を引き取ってもらい、そうでないものは、リボーから程近い丘の上に埋葬された。 ヨハンもまた、そうした一人となった。 故郷に葬るなら、グランベルまで行かなければならない。だが、そこまでヨハンの遺体を連れまわすのは不可能である。 「それに、兄貴はここで眠りたいと……多分、思ってる」 ヨハルヴァはそういって、ヨハンを埋葬した。 |
グラン暦七七七年春。 ドズル第二王子ヨハン、リボー攻略戦において戦死。 史書は、それだけを伝えている。 |
2005.08.26 written by Noran |