顔がはっきり確認できるほどの距離で、男は足を止め、そして口を開いた。 「貴様が、ファバルか」 問われた方は、無言で頷く。 お互いの距離は、せいぜい十歩程度。 互いの得意とする武器の射程を考えるなら、これはもはや致命の間合いといって良いだろう。 「あんたが、スコピオだな」 彼もまた、無言で頷いた。 貴公子然とした振る舞い。 鮮やかな装飾が施された、見事な礼服には、肩に弓を象ったユングヴィの紋章が刺繍されている。 ファバルは知らなかったが、その服はグランベル七公爵だけが纏うことを許される服であった。 かつては人が住んでいたであろう、そのうち捨てられた村落に、今、ユングヴィの公爵と、ユングヴィ家に伝わる神器、聖弓イチイバルの継承者は、ただ二人で対峙していた。 |
まさか本当に一人で来るとは思ってもいなかった、というのがファバルの正直な感想だ。 ドズル、エッダを攻め落とした解放軍の次の攻撃目標であるフリージを攻撃する、という時になって、突然西側から一千ほどの部隊が現れた。 最初、解放軍はそれを味方かとも思ったのだが、それは、先に住民と軍の蜂起によって解放軍に恭順した、ユングヴィから逃げ出した公爵スコピオと彼に従うバイゲリッターだったのである。 しかし、解放軍には戦力的な余裕はない。 フリージのゲルプリッターは、バーハラのヴァイスリッターにも匹敵する錬度を誇る、最強の騎士団であり、これに対抗するには解放軍のほぼ全軍であたる必要があるのだ。 そこでファバルは、自分の軍だけで足止めすることを、セリスに提案した。 正確には、スコピオを説得することを提案したのである。 ユングヴィからの使者、およびシアルフィの者達の話から、少なくともスコピオは公爵として領民に慕われていることは分かっていた。 子供狩りについても、さすがにお膝元たるグランベルでまったくやってない、ということはなかったようだが、その数は他国――ドズルなど――と比較すると、驚くほど少なかったようだ。 これが、スコピオが聖戦士の末裔としての誇りを、まだ持っているのではないか、という可能性があるのではないか、とファバルは考えている。 ゆえに、ファバルは彼を説得可能ではないか、と思ったのだ。 しかし一方で、住民が幾度となく求めた解放軍への恭順を彼は拒み続け、結果、住民の蜂起という事態を招いている。 スコピオは住民が蜂起したのに対して、それを弾圧することはせず、自分に従う騎士と将兵を連れてユングヴィを脱出した。 その後の行方は分かっていなかったのだが、それが突然、解放軍がフリージを攻撃する、というこの一番嫌なタイミングで現れたのである。 セリス、オイフェ、レヴィンはファバルが単独であたることはさすがに了承しなかったが、ファバルは麾下の弓兵部隊も連れて行くことを提案し、了承された。弓兵部隊の数は約一千。数ならば、ほぼ互角である。 ファバルは、本隊を離れた後、フリージの西でスコピオの軍と対峙した。 そして、スコピオとの一対一での会談を申し入れたのである。 「本当に一人で来るとはな」 「そう、書状にはあったと思うが?」 ファバルの言葉に対するスコピオの返事は素っ気無い。 改めてファバルは、自分の従兄を見た。 背は、自分より高い。髪は自分と同じ蜂蜜色。父の髪の色を受け継いだという、もう一人の従兄レスターより、よほど親戚に見える。 すらりとした体格は、だが、痩せているというわけではなく、むしろ、豹のようなしなやかさを感じさせた。 貴公子然としたその容貌は、宮廷ではさぞ人気があるだろう。 肩に弓をかけ、腰に剣と矢筒。これは自分と同じである。 「確かにそうだがな……なら、話し合いの余地はあると思っていいんだな」 スコピオは今年で二十歳。まだ十八にもなってない自分よりは年長であり、あるいは『本来ならば』年長者として敬意を表すべきなのかもしれないが……今はそういう間柄ではない。 ファバルはとりあえず武器を取るつもりがない、ということを示すように、両の掌を開き、スコピオに示してみせる。 「解放軍に降伏してもらいたい。もはや、帝国に正義はない。それは、お前も分かっているだろう。ユングヴィにも公爵にも、悪いようにはしない」 スコピオは答えない。 そこでファバルは、さらに言葉を続けた。 「ユングヴィの公爵としての地位も、保証する。本来は、イチイバルの継承者が公爵になるものらしいが……俺は、ヴェルダンの王族でもあるらしい。だから、俺はユングヴィは継承しない。また、エーディン公女の息子がいるが、彼も公爵がそのままその地位に続けてあることを認めるといっている」 この戦いの前に、レスターと相談して決めたことである。 ファバルは、ヴェルダンの王子、ジャムカを父に持つ。よって、ユングヴィの公爵位を継ぐ資格があるとともに、ヴェルダンの唯一の王位継承権者でもあるのだ。 一番ありそうな話は、グランベルがヴェルダンを併呑し――現在は完全に放置され、荒れ放題となっているらしいが――ユングヴィ家がそれを管理、ファバルはユングヴィ公爵となる、ということだろう。神器を他国に流出させないためにも、そう考える廷臣はおそらく、いる。 だが、ファバルは『ユングヴィ公爵』などというものにこだわりはない。つい一年ほど前まで、ただの傭兵だったのだから、正直、今でも自分が『聖戦士』の一人だという実感すら怪しいものだ。 だから、ユングヴィの継承にはこだわるつもりはない。 ただ、父の祖国が荒れ放題だというのならば、それを立て直したい、とは思っている。 そして、レスターもまた、ユングヴィを継承する、という意思は強くない。 レスターの母エーディンは、ユングヴィ家の公女ではあるが、ユングヴィの公爵位継承者ではなかった。長女であるブリギッドが行方不明――というか絶望視されていた――であったため、弟であるアンドレイが正式に継承権の第一位を保有しており、二人の父リング卿がイザークで戦死した時――これについては暗殺説もあるのだが――に、正式に公爵になっている。 しかしアンドレイはシグルドとの戦いで破れて戦死した。 そのため、当時まだ三歳でしかなかったスコピオが、シグルドの反乱の後、正式に公爵位を継承している。 しかもこれらはまだ『グランベル王国』だったころに行われた手続きである。 よって、スコピオは正式にユングヴィの公爵なのだ。 無論、敗戦側に回ればその限りではないが、今ここで降伏し、解放軍に恭順してくれれば、解放軍としてもその責任を戦後にそれほど追及しなくてもすむ。何しろ、ユングヴィ家はまだ一度も解放軍と刃を交えてもいないのだ。 であれば、戦後の枠組みの中で、スコピオがユングヴィ家の公爵であり続けることは、むしろ自然な流れになる。無論、まずこの戦争に勝たなければならないが。 しかし、スコピオと、彼の率いる戦力が解放軍に加わってくれれば、それは解放軍にとっても大きな力となる。 「公爵位は保障する……か。なるほどな」 「ああ。決して悪いようにはしない」 スコピオの表情と言葉が、和らぐ。 ファバルもこれで親類同士で刃を交えずにすむ――と思いかけた時、抜剣の鞘走る音と、それに続く強烈な剣閃が、ファバルを襲った。 「なっ……!!」 それを避けられたのは、かなり幸運がファバルを味方したとしか思えなかった。 反射的に半身をずらしたその場所に、スコピオの鋭い剣の一撃が襲い掛かる。 ブツ、という何かが切れる音がしたが、ファバルはそれに構わず地を蹴って、スコピオとの距離をとった。 「何をする!!」 だが、それに対するスコピオの返答は、冷淡であった。 「何を……だと? 帝国に仇なす敵将を、帝国の将たる私が屠るのに、理由がいるのか?」 スコピオがさらに踏み込んでくる。 この距離では、さすがに弓は使えない。ファバルは剣を抜いて、スコピオのそれを防ぐ。 「やめろ!! 俺達が殺しあう理由はないだろう!!」 だが、スコピオの剣は勢いを増すばかりであった。 「殺しあう理由だと!? 十分すぎるほどあるわ!!」 ファバルは、傭兵をやっていただけあって、弓以外の武器も一通り使うことは出来るし、また、並の兵士はもちろん、騎士にだって遅れをとるつもりはない。実際、神器の継承者を除けば、剣の技量でも解放軍の中でトップクラス――スカサハやラクチェなどにはさすがに敵わないが――にある。 だがそのファバルをしても、スコピオの剣は防ぐのがやっとだった。スカサハやラクチェとすら渡り合えるほどの技量だ。 「くっ!!」 このまま撃ち合っていても勝ち目はない、と判断したファバルは、一瞬距離をとると、腰に挿してあった短剣を投じた。 さすがにこの至近距離でそんなことをされると思わなかったのか、短剣を弾いたスコピオの足が一瞬止まる。 その隙にファバルはすばやくイチイバルを構え、矢を番えようとしたところで、その右腕が空振りした。 「え?」 見ると、矢筒がない。 最初のスコピオの一撃の時、何かが切れた音がしたのは、どうやら矢筒をとめていた革紐が断たれた音だったようだ。 「しまっ……」 そして、ファバルが弓を使える距離、ということは、スコピオもまた弓を使える距離である、ということだ。 ファバルが空振りし、一瞬立ち止まったその間に、スコピオもまた弓を構えた。そしてこちらには、矢筒がある。 ひゅん。 弓から放たれた矢を見切ることなど、通常不可能である。 ましてや、この至近距離では、回避もままならない。 そして今目の前にいる射手は、この大陸でも随一の弓の使い手だ。 ファバルは回避できない、と判断して、とっさに顔と左胸を手で覆った。それが、幸いした。 直後、頭を庇った腕に激痛が走る。 スコピオの矢は、正確にファバルの額を狙っていたのだ。だがそれゆえに、ファバルの腕に命中し、手甲を貫いて腕に食い込んだところで、矢は止まってくれた。 「ぐっ……」 その痛みをとりあえず無視して、ファバルは転がるように廃屋の影に入る。反瞬遅れて、ファバルのいた場所を次々と矢が通過していった。 ファバルはそのまま、右腕の痛みに耐え、さらに走る。ここが、廃村であるのが幸いした。射線を通さないための遮蔽物には、事欠かない。 十分に距離をとると、ファバルは腕に突き刺さった矢を引き抜いた。 幸い、傷はそれほど深くはない。 だが、いくら至近距離とはいえ、鋼鉄製の手甲を貫くのだから、相当な弓勢だ。 「情けないな。イチイバルの継承者ともあろうものが、隠れるしか能がないのか?」 スコピオの声が響く。 「なぜだ!! それともお前は、帝国の、いや、暗黒教団のことをすべて承知で、それで盲従しているのか!!」 位置が相手にばれる可能性もなくはないが、それでもファバルは声を張り上げた。 ドズル公爵たるブリアンがそうだった、と聞いている。 彼はドズル公爵という、聖戦士の末裔であり、神器の継承者でもありながら、全て承知で暗黒教団に協力していたらしい。 だが、スコピオは違うのではないか。そう思っていたのだが。 「貴様には分かるまい!! 生まれながらにして、その資格を持った貴様には!!」 そのスコピオの声には、悔しさにも似た感情が宿っていた。 「聖戦士の末裔であり、そして本来継承者が継ぐべき偉大なるユングヴィ家。それを継いだ、継承者でもない私の苦しみが、何も努力せずに、継承者である貴様などに、分かるのか!!」 「お前……」 そういいつつ、ファバルは自らの腕の痛みが完全にひいたのを確認する。 これが、イチイバルの力の一つ。所有者を治癒する力だ。 だが、矢がなくては弓など飾りに過ぎない。 「分かるか!? 継承者でもなく、あろうことか継承者が反逆者とされた、その家の後継者であるということが!! しかも、神器の継承者でもないのに、公爵位にあるということが!!」 哭いている。 ファバルは、そう感じた。 スコピオは、物心ついたときには公爵だった。しかも、神器を受け継ぐべき家の公爵だった。 だが彼は、継承者ではなかった。なぜなら、継承者はグランベル王国を裏切り、敵対し、反逆者として討たれ、行方不明になったからだ。 宮廷闘争などまるで経験のないファバルでも、その後、帝国内でユングヴィ家がどう遇されてきたのか、分かる。 裏切りの家系、本来資格を持たない公爵……スコピオは、そんな周囲の視線に晒され続けてきたのだろう。 だからこそ、継承者である自分を憎むのだ。 今スコピオを駆り立てているのは、帝国への忠誠ではない。帝国の将軍としての、義務感でもない。 憧憬、怒り、渇望、憎悪。 そういったものの総和だろう。 「貴様が継承者であるというならば、力を示せ!! この私を討ってみるがいい!!」 彼からしてみたら、『ユングヴィ公爵は任せる』という提案は、屈辱でしかなかったのだ。 彼は誇り高き聖戦士の末裔であり、そして、おそらくずっと、その誇りゆえに苦しんできた。 それでも、彼はユングヴィ公であった。 その立場に、一番納得していないのが自分であるにも関わらず。 ある意味、誰よりも誇り高きユングヴィの公爵。それが、彼なのかもしれない。 そして今、彼は全てに決着をつけようとしている。ユングヴィ家の公爵として。光に弓引いた、その罪を購うために。 ユングヴィの、力と血を継ぐ者として。 「これは……俺が討たなければ……ならないんだろうな……」 これは、レスターにも任せられない。 彼を討つ権利は、ファバルにしかなく、彼を討つ義務もまた、ファバルにある。 継承者として。 そして、ユングヴィの誇りを継ぐ者として。 その時、不意に弦にかけた指先が、熱くなった。見ると、指先に光が宿っている。 そしてその光の意味を、ファバルは唐突に理解した。 |
スコピオは、村の広場の真ん中にいた。 ファバルに矢がないことが分かっているのだろう。確かに弓を恐れないのであれば、見通しの利く場所なら、不意打ちはない。 だが、迷うことなくファバルはスコピオの前に進み出た。 「終わりにしよう、スコピオ」 彼我の距離は五十歩ほど。並の射手では、当てることすら難しい距離だが、この二人にとっては十分に射程距離であり、また、外すこともありえない距離だ。 だが、ファバルの手には矢がない。そして、スコピオの手には、鋭い鏃を持つ矢が、握られている。 「ふ……観念したか」 スコピオが、ゆっくりと矢を番える。視線は、まっすぐファバルに向けられていた。 そして、ファバルもまた、その空の手で、弦を引き絞った。 そこに生まれるのは、光。 その視線の先は、スコピオ。 しかし、スコピオにはそれは見えていないのか、動じた様子はない。 「もう一度だけ聞く。降伏してはもらえないのか?」 ありえない、と心の中では分かっていても、それでも言わずにはいられなかった。 「否」 簡潔を極める返答。 直後、一際強い風が吹き抜ける。 風が止んだ時、その風にあおられたのか、バランスを崩した棒切れが、カタン、と音を立てて倒れた。 そして。 それを合図としたように、二人の右手から、弓弦が解き放たれた。 |
お互いに放った一撃は、まったく同じ軌道をたどった。そして、ファバルの放った光は、スコピオの矢を飲み込み、消滅させると、そのままスコピオを貫いたのである。 胸の中央を貫通。 即死だった。 だが、彼の死に顔は、それだけの一撃を受けての死であるにも関わらず、穏やかなものだった。 「これがスコピオの……望み、だったのか……?」 「はい」 答えたのは、ファバルの後ろに立つ騎士。 一部始終を見ていたのだろう。 戦いが終わった後現れたその騎士は、バイゲリッターの団長だと名乗った。 「お前達はどうするんだ? 主たるスコピオは、もういない」 すると騎士は、ファバルの前に跪き、頭を垂れた。 「我らはユングヴィ家、そして聖弓イチイバルを継承する者に従う者です」 あるいはスコピオは、始めからそのつもりだったのかもしれない。 ファバルはそう思った。 継承者ではない公爵というものが、どういうものだかは分からない。ただ彼は、有形、無形のプレッシャーと戦い続けてきたのだろう。 あるいは彼がイチイバルの継承者であったならば、彼は解放軍に協力してくれたに違いない。 それは、確信に近かった。 「分かった。じゃあ、いくぞ」 ファバルは、弓を鞍にかけると、馬上の人となる。 「戦いはまだ終わってない。そして戦いを終わらせるためには、ユングヴィの力も必要なんだ」 言うが早いか、ファバルは手綱を振るい、馬を走らせた。 |
2005.09.06 written by Noran |