昼は広く、穏やかにみえる海でも、夜はその姿を変じる。暗闇の中の海面は、あらゆるものを飲み込むかのように、暗く、深い。海の持つ二面性は、穏やかなときと嵐とで語られるが、夜も入れるべきではないだろうか。いや、だとすれば嵐の夜はもっとも狂暴な海、と言うことになる。そして、今がそれだった。 「間違い、ないのか?」 シグルドは、確認するように言った。 「間違いありません。たとえ十年以上離れていたとしても、間違えるはずはありません。私は、そのために、神官の道を選んだのです。それに、この神弓イチイバルが、あの人に共鳴したんです」 その女性は強く反論した。シグルドはその剣幕に押されるように、少しひくような体勢になってしまった。 「別に君の言うことを信用していないわけではない、エーディン」 シグルドはそう言って、エーディンをなだめると、「さて、どうしたものか。」と考え込んだ。 シグルド軍のおかれた状況は、決して良いとは言えなかった。 ヴェルダン王国のユングヴィ襲撃に端を発した戦乱は、シグルド達を、ずるずると望まぬ方向へ導いていた。そして、いつのまにか、アグストリアの北に縄張りを持つ、オーガヒルの海賊と対峙することになっていた。 アグストリアを事実上滅ぼしてしまったシグルドだったが、そのシグルド自身、父バイロンが、王子殺しの疑いをかけられ、シグルドはその共謀者として警戒されている。シグルド自身は、自分の忠誠心になんら恥じるところはないので、王都から呼び出しがあった場合、即座に応じるつもりだった。 しかし、王都からはいまだに何も言っては来ない。そうなるとシグルドは、当面、制圧したアグストリアを落ち着かせることが仕事になった。 オーガヒルの海賊は、昔からかなり有名ではあった。話によると、かつての聖戦のときには、聖戦士たちに協力し、ロプト帝国と戦ったとされている。その後、この地域に縄張りをはり、この海をとおる商船などから、通行料を取る代わりに、航海の安全を保障してきた。 しかし、最近は村などから略奪を繰り返す、野蛮な、本当の意味での海賊になってしまっていた。そしてそれが、頭が急に変わったためだとわかったのは、ついこの間のことだった。 そして今、シグルドを悩ませているのは、その急に変わった海賊の先代の頭が、自分の姉だといったエーディンであった。エーディンに生き別れの姉がいることはわかっていた。子供のころ、行方不明になった姉で、ユングヴィ家の当主となるべき人物であることも。 シグルド軍はオーガヒルの海賊と、現在マディノの北の海峡を挟んでにらみ合っている。そして、その海賊の動きが妙だと気づいたとき、シグルドは小部隊を派遣させ、調べさせた。それに、エーディンが志願したのは、本人以外の全員を驚かせた。恋人のジャムカが止めるのも、エーディンは聞き入れず、シグルドもやむを得ず同行を許可したのだ。 海賊達の動きを調べた一行は、海賊達が、先代の頭を追っていることを知った。なにか、内紛でもあったのだろう。先代の頭は、義理堅く、村からの略奪など一切させない人物だったらしいから、大方それに不満を持ったものたちが、陥れたのかもしれない。それだけならシグルド軍にとっては、これから始まる戦いを有利に進めるための、要素の一つにしか過ぎなかった。しかし、一緒にいったエーディンが、その先代の頭が自分の姉だと言い出した。それが、シグルドを現在悩ませていた。 今、外は大嵐で、海賊もシグルド達も身動きが取れないでいる。お互いの陣へ乗り込むためには、海峡を超えなければならない。 海賊達は、海峡に簡単な橋を架ける技術を持っているようだが、この嵐の中、それをやるのは無謀であろう。 また、追われているという先代の頭、おそらくはエーディンの生き別れの姉もまた、この嵐では身動きは取れない。 幸い、海賊達もこの嵐ではまともな捜索などできはしないだろうから、おそらく見つかってはいない。だが、それでもシグルド達は、エーディンの姉を助けにいくには、海賊達よりかなり不利な位置にいた。 |
「とにかく、私は一人でも姉を助けにいきます!!」 エーディンは語気を荒げていった。これだけ感情をはっきり出すエーディンは、非常に珍しい。だが、それも無理はなかった。彼女はこのために、幼いころから、司祭としての修行を積んできたといっても、過言ではないからだ。シグルドも、彼女のその気持ちはよく分かっていた。 「わかった。だが、とにかく君一人では無理だ。何人かで行って、海賊より先に君のお姉さんを助けることにしよう」 シグルドはそういって、エーディンを落ち着かせてから、エーディンと同行する者を誰にするかを考えた。 結局、行くのはエーディンのほか、ジャムカ、デュー、アレクの合計4人になった。シグルドははじめ、アレクではなく、ノイッシュを行かせようと考えていたが、アレクが自分が行く、と言い出したのだ。もっともその動機を、アレクは「あのエーディン公女の姉なら美人だろう。会いに行くのは悪くない」とノイッシュにもらしていた。 とにかく、結成された救出隊は、地元の漁師の船に乗り込んだ。今回、アレクは鎧は軽い皮製のものだけで、剣もかなり小振りなものにした。ジャムカも、この嵐では弓は役に立たない、と考え、小剣と斧を持っていた。デューは相変わらず、何も持っていない。そしてエーディンは、回復の杖ではなく、何か大きな包みを持っていた。 「エーディン……それは?」 シグルドが聞いた。エーディンは黙ってその包みを開いた。そこにあったのは、見事な装飾が施された、淡い光すら放つ弓だった。 「これが……神の弓、イチイバルか」 シグルドは、感心したようにそれを見つめて言った。横でアレクがひゅう、と口笛を吹く。 「ブリギッド姉様は、このイチイバルを受け継ぐ資格を持っています。そして、この弓なら、姉様にすべての真実を、教えてくれる気がするのです。私達が姉妹であることも、姉様が何者であるかも」 シグルドは、何も言わずに頷いた。 「とにかくこの嵐だ。危険だと思ったらすぐに引き返せ」 シグルドは、最後にそういって、4人を送り出した。船を出してくれた漁師は、この水域で、もう何十年も漁をしているもので、ほかの漁師が遠慮した中、ただ一人船を出してくれる、といってくれたのだった。 船は嵐の波にもまれながら、あっという間に黒い波間に消えた。 |
船が対岸に着くころには、東の空が少し明るくなってきていた。しかし、嵐はまだ収まる様子を見せない。漁師の話によると、この時期の嵐は、たいして激しくはないが(アレクはこれで大したことがないのか、と声を上げて驚いた)かなり長い時間続くという。下手をすると、夕方ぐらいまではこのままだろう、と教えてくれた。 上陸した四人だったが、前にエーディンがイチイバルが共鳴した、と言った場所はそう遠くない。だが、嵐の中、歩くのすら困難なこの状況で、果たして一人の人間を見つけられるのか、と不安に駆られずにはいられない。しかしかといって、今更戻るわけにもいかない。 「とにかく、行こうぜ」 アレクの言葉で、四人は嵐の中を、風に逆らって歩き始めた。 |
「結局私には、何も残されていないわけだ」 女戦士は自嘲気味に呟いた。左腕がうまく上がらない。逃げ出すときに飛来した手斧が、かすったためだろう。このままでは、得意の弓を引くことも、満足に出来そうになかった。女戦士の名は、ブリギッド、といった。 「今は嵐だからそうそう見つかるとも思えないが、嵐が終わる夕方が勝負かな。夕闇に紛れることが出来れば、あるいは……」 ブリギッドはそこまで考えてから、自分が生き残ろうとしていることに気づいた。すべてを失ってもまだ、自分は生きていたのだろうか。生きていて、一体何があるというのだろうか。かといって、自分で命を断つ気には、なれなかった。もう何も残されてはいない。だが、何故か生きなければならない、と何かが警鐘を鳴らしている気がした。 「一体私は……これまで何をしていたんだ……?」 オーガヒルの海賊の頭の娘。今までそう信じてきた。だが、それが偽りである、と知らされたとき、ブリギッドはすべてを失った。残されていたのは、父が教えてくれた、弓の技だけ。それが逃げるときにブリギッドの命を救ってくれた。しかし、今はそれも失われつつあった。 この地域の嵐の雨は、海水が巻き上げられたものが混じっている。ブリギッドは、逃げ出してからずっと、左腕の傷をその雨にさらしていた。もはや、痛みなどはまり感じなくなっている。それは、もう、左腕がまともに機能しなくっていることを示していた。 ブリギッドは、無意識のうちに左肩を押さえていた。そこには、奇妙な紋様があった。けがや何かで出来たものとは違う。子供のころから、左肩にその紋様はあった。時々、何か疼くようなことがある。そして、今もそうだった。 |
「以前見たのは、このあたりでしたわ」 エーディンはそういった。海に程近い、入り口の狭い湾のようになっている海岸である。海に面している海岸は、切り立った崖のようになっているが、この場所は、波はそれほど荒れてはいなかった。ジャムカも同意する。彼も、前回偵察にはついていっていた。 「しっかしほんとに今昼前か? なんだこの暗さは」 アレクがぼやく。およそ、昼とは思えないような明るさだった。太陽は完全に、天空の支配を失っている。聖戦の叙事詩にある一説「むなしく見上げる天は暗い」とは、まさにこのようなものだったのではないか、とすら思えてきた。 「う〜ん。やっぱりここからじゃ、どこにいったかなんてわからないなぁ」 デューは地面を調べていたが、あきらめたように立ち上がる。 「とにかくこの嵐だ。そんなに離れたところには行けないだろう。どっちのほうに行ったかは、大体わかるのだから、その方角へ行ってみよう」 ジャムカはそう言って、気落ちしている恋人を元気付けようとした。 「えぇ、そうね。きっとまだ、無事でいる。そんな感じがするわ」 エーディンはそう言うと、ニコリと笑った。 「ま、とにかく行ってみようぜ。ここにいつまでもいても仕方ないしな」 アレクは陽気な声で言って、それから歩き始めた。 |
雨は収まってきた。風は相変わらずだが、雲も厚みを失いつつあった。もうかなり明るい。このままでは、いつまでも隠れていることは出来ないな。ブリギッドはそう考えると、立ち上がった。 すでに、左腕はほとんど動かない。だが、海賊たちはブリギッドの弓の腕を知って、恐れている。弓は、今となっては無用の長物ではあるが、脅しくらいにはなるだろう。どの程度効果があるかは、分からないが。 実際に、いまの自分が使いこなせる武器は、護身用に持っている短剣だけだった。しかし、この小さな刃では、海賊たちが得意とする斧を防ぐことなど、出来はしない。接近されたら、終わり。だが、それでも自分は、今は生きなければならない気がしていた。 左肩の紋様のような痣が、また疼いた。 |
「見つけたか?!」 「いや、だが、俺の斧は確実にお頭の腕に当たった。あの傷は軽くねぇはずだ。もう弓は引けやしない」 「とにかく、早く探せ。もしお頭がグランベル軍なんかに逃げ込んだら、オーガヒルの砦だって、落とされねぇとは限らないからな」 男達は、怒鳴るように言い合うと、また、周囲に気を配り始めた。大体十人ほど。短弓と斧で武装しており、見たとき、最初に抱かれる印象は「野卑な」感じだろう。 彼らはオーガヒルの海賊達であった。オーガヒルの海賊は、今やピサールとドバールが仕切っていた。以前のブリギッドが頭だったほうがよかった、と思うものはいなくもなかったが、表立って逆らうものはいなかった。 ピサールは、自分のオーガヒル内での地位を確固たるものにするために、ブリギッドを殺さなければならなかった。養女とはいえ、先々代の頭の娘であったブリギッドを慕うものは、少なくない。いまでこそ、自分にしたがっているが、ブリギッドが呼びかければ、応えるものは多く、自分の勢力をしのぐだろう。だから、そうした者に反攻の機会を与えないために、ブリギッドには死んでもらう必要があったのだ。 |
やがて、太陽が雲間から現れた。風のほうは、前よりも更に強くなっている気がするが、見通しは利くようになってきた。 一番都合が悪い状態になった。ブリギッドはそう思った。この風では、弓などまともに使えはしない。これでは、弓を持っていても、脅しの効果はない。さらに、自分が逃げているほうは、風下だった。追ってくるであろう海賊達は、矢はよく飛ぶが、ブリギッドは飛ばすことなど、出来はしない。もっとも、今では引くことすら出来ないが。 そして、運がないときというのは、悪いことが重なるものだ。 風に、違う音が混じった。その一瞬後に、自分の足元に矢が突き刺さった。はっと後ろを振り向くと、十人ほどの人影が見えた。一応、木などの影に入っている。だが、目のいいブリギッドには、それが誰なのか、すぐに分かった。もっとも、今この周辺にいるのは、自分を殺そうと考えている海賊達以外、いるはずはない。人影が見えたら、敵だと思ったほうが早いのだ。 無論、妹が来ているとは、思ってもいなかった。 |
「今、何か聞こえなかった?」 最初にそれに気がついたのはデューだった。盗賊であるデューの聴覚は、他の者たちよりかなりいい。 「ほら、聞こえる。たくさんの人が騒ぐ音。いや、違う。誰かを追っているんだ」 その言葉に、一同ははっとなった。今、この周辺で追われているとしたら、一番確率が高いのは、エーディンの姉、ブリギッドなのだ。 「急ごう、デュー、どっちだ」 アレクは急いで歩き出した。デューはうなずいて歩き出す。アレク、エーディン、ジャムカがその後に続いた。 |
「やはり、気づかれていたか」 ブリギッドは、そう独語した。海賊達は、ブリギッドが弓を引けないことを、知っているようだった。弓の射程など気にする様子はない。もっとも、風上にいる彼らが、弓を恐れること自体、まずないだろう。風上にいる海賊達は、適当に矢を射るだけで、相当な威力になる。ブリギッドに、勝ち目はなかった。 |
「いた!!」 最初に見つけたのは、ジャムカだった。弓を得意とするジャムカの目は、シグルド軍ではフュリーに次いで、いい。 ジャムカが指した方角を見ると、人が一人、10人くらいの人間に追われていた。開けた草原を逃げていて、隠れるようなものは何もない。加えて、追っている側が風上のため、強風でも弓を射ることが出来ていた。 「間違いないわ、あれはブリギッド姉様!!」 エーディンが走り出そうとするのを、ジャムカは慌てて止めた。 「無茶だ、連中を突破しなければ、行けないんだぞ。ここは俺に、任せておけ」 ジャムカはそういうと、弓を引き絞った。ジャムカの弓の技量は、騎士であったミデェールをも凌いでいる。しかし、今は通常の状態ではなかった。 ジャムカの放った矢は、大きくそれた。海賊達と、ブリギッドに対して、ジャムカ達はほぼ直角の方向にいた。そのため、強い横風を受けた矢は、あっという間に風に巻かれ、あらぬ方向へ飛び、失速して落ちた。 「なんて風だ……とてもじゃないが、弓は使い物にならない」 「なら、直接接近して助けるしかないんだろう」 簡潔に言い切ったのは、アレクだった。 「だが、相手は十人はいるぞ。我々は4人。しかも俺は接近戦は得意ではない。明らかに……」 ジャムカは、途中まで言って、そこで言葉を飲んだ。アレクが、すさまじい顔をして、ジャムカをにらんでいたのだ。 「だからなんだ? 俺はシグルド様から、エーディン公女の姉君を救出することを命じられた。俺は騎士だ。命じられたからには、自分の全能力をかけて、命令を実行する。その結果、命を落としたとしても、俺は後悔などしない」 アレクは、剣を抜くと、エーディンに聖弓イチイバルを渡すように言った。 「なんとか連中を突破して、彼女に渡してやるよ。それさえ渡せば、何とかなるんだろう?」 エーディンはあっけに取られながらも、イチイバルをアレクに渡した。 「意外に重いんだな。これ」 アレクはそれだけ言うと、それを紐で括りつけて、海賊達へ突っ込んでいった。 ジャムカは一瞬呆然としていた。今まで、アレクという騎士は軽薄で、およそ騎士らしくない、と思っていた。ジャムカはフッと笑うとデューのほうを振り返った。 「デュー、いつかのように、エーディンを守っていてくれ」 ジャムカはそれだけ言うと、デューが何かを言い返す前に、走っていった。 |
もはやこれまでか。 ブリギッドは、死を覚悟していた。 弓を引くことは出来ない。かといって、今ある小剣で、あの人数に勝つ自信はない。もともと、剣術は得意ではなかった。 いくら風上にいるとはいえ、やはり弓は思うように飛びはしない。海賊達はやがて、ブリギッドを囲むように半円の形に散って、追いつめ始めた。 無様な最期は、迎えない。ブリギッドはそう決意していた。たとえ、本当の父親でなかったとしても、父は自分には本当に優しかった。そして、誰よりも誇り高かった。その父が病床に臥せったとき、父は、無様に生き続けることよりも、安らかな死を求め、医者にもかからなかった。 唯一、ピサール達が、父を侮辱したままだというのが悔しかった。 彼らは、ブリギッドがオーガヒルを脱出する直前、父を「海賊のくせに義賊なんぞ気取る馬鹿な頭だった」と言った。それだけは後悔させてやりたかった。しかし、今からでは遅い。せめて一人でも、道連れにしてやるか。ブリギッドはそう思って、剣を構え直した。 |
ブリギッドがその人影を見つけたのは、手斧の一撃をかろうじて避けたときだった。 「どきな!!」 その走ってきた男は、そういって、囲みの一人を斬ると、そのまま駆け抜けて、ブリギッドのすぐ傍まできた。敵か。味方か。ブリギッドが判断に困っているところに、男は大きな包みを投げた。 「受け取れ。それは、あんたしか持つ資格がないんだと」 ブリギッドは何がなんだか、わからなかった。だが、その包みを受け取ったとき、急に左肩の紋様のような痣が疼いた。 ブリギッドはその包みを開いた。出てきたのは、弓だった。それがただの弓でないのは、一目で分かった。そして、その弓が、自分にとってもなにか特別なものだと、ブリギッドは理解した。 「この場は俺が何とかする。あんたはそれもってさっさと行け。こう見えても俺は騎士なんでな。婦女子を守る戦いなら、大歓迎だ」 男はそういうと、ブリギッドの前に立ち、大きく剣を振ってみせた。 「さぁて、このグランベル王国シアルフィ公国騎士、アレク様と戦うという命知らずは、誰だ?」 だが、ブリギッドはこの、アレクと名乗った騎士でも、この人数を相手にするのはつらい、と判断した。そして、踏みとどまろうとしたとき、アレクがブリギッドをにらんだ。 「早く逃げろ!! ここは俺が食い止める!!」 アレクはそう怒鳴ると、海賊の一人に斬りかかった。海賊は、まさかこの人数相手に、本当に向かってくるとは思わなかったのだろう。完全に対応が遅れた。不幸にも、最初に斬りかかられた海賊は、首筋を切られ、絶命した。 「早く行け!!」 ブリギッドはその言葉に弾かれるように、走り出した。 海賊の一人が慌てて追おうとするところに、アレクはすばやく立ちふさがる。その間に、ブリギッドは一気に距離をとっていた。 「さて、と」 アレクはブリギッドが走り出したのを見て、安心した。 「この先に行きたかったら、俺を倒してから行きな」 海賊達は、一瞬アレクのその行動に、圧倒された。だが、自分達は十人、相手は一人であることが、彼らを攻撃に駆り立てた。だが、そのうちの一人は、動けなかった。後ろから、何者かに斬られていたのだ。 「悪いな。俺は騎士じゃないから、後ろから斬らせてもらった」 そう言ったのは、ジャムカだった。 「こないと思っていたぜ」 アレクはそう言いながら、海賊との間合いを詰め始めた。いくらなんでも三人も同時にこられたら、ただではすまない。シグルド軍最強とまでいわれているアイラやホリンなら、この程度の敵はおそるるにたりないのだろうが、アレクは、それほどの剣の腕はない。騎士として、十分な訓練は受けてきたつもりはあるが、彼らのレベルは、根本的に違う気がする。 だが、今ここでそんな泣き言を言う気はなかった。今はブリギッドが逃げ切るだけの時間を稼ぐ必要があった。 海賊は、新たな敵の出現に驚いたが、自分達が数で圧倒しているという優位は、彼らの戦意を奮い立たせた。また、ブリギッドを殺さなければならない、という意識も働いただろう。グランベルの騎士が出てきたということは、ブリギッドがグランベルに逃げ込む、ということを意味する。それは、オーガヒルの海賊達にとって、非常に都合の悪いことだった。 |
「姉様!! ブリギッド姉様!!」 ブリギッドは突然呼び止められて、立ち止まった。そしてその声の方へ振り向いて、ぎょっとした。そこには、自分とそっくりの顔があったのだ。 「私です。あなたの妹の、エーディンです」 よく見ると、その女性はそういって、涙を浮かべていた。 「どうしたわたしの名前を……それに、あんたの顔、私にそっくりだ……エーディン……確かにどこかで……」 エーディンと名乗った女性は、ブリギッドの持っている弓を指した。 「その弓をお引きください。そうすれば、きっとすべてが分かります」 「一体この弓は……それに今の私は左腕が動か……」 言いかけてから、ブリギッドは自分の左腕の感覚が戻っていることに、気づいた。 あれほどの怪我だったというのに、今はまったく痛みもない。 「そんな……一体何が……」 「その弓は神弓イチイバル。我がユングヴィに伝わる神の武器です」 神々の武器の話は、ブリギッドも知っていた。しかし、それをなぜ自分が持つ資格があるというのか。 「ブリギッド姉様、あなたは幼い頃に行方不明になられたのです。そして私はあなたの双子の妹、エーディンです。あなたはユングヴィの、神器を受け継ぐべき継承者なのです」 「私……が……?」 ブリギッドは言われるままに、その弓、イチイバルを握った。刹那、何か、がからだの中を駆け抜ける。すさまじい力が、体の中から湧いてきた。 「こ……これは……ああ、そうか。私は……」 「思い出したのですね。姉様」 ブリギッドは妹に応えようとして、はっとなった。 「そうだ!! さっき私を助けてくれた二人は……」 「ジャムカ!!」 エーディンが、突然走り出す。すでに戦っている場所は、かなり移動しているらしく、見えなくなっていた。ブリギッドは慌ててその後を追う。 「大切な人なのね、エーディン」 走りながら、妹にそう聞いた。まだ風が強く、エーディンは時々飛ばされそうになる。 「私の、大切な人です。あぁ、ジャムカ、生きていて……」 ブリギッドはそれを聞くと、ニコリ、と笑った。 「あなたにそれだけ思われている人なら、そう簡単に死にはしないわ。大丈夫。今度は、私が助ける番だ」 そう言うとブリギッドは、一気に走る速さを上げた。重い弓を持っているとは思えない。このあたりは、起伏が激しく、見通しも悪い。ブリギッドは、そのうちの、一番高い場所に登った。そして、イチイバルを引き絞った。 |
「おい、生きているか」 アレクは、肩で息をしながら、背中合わせになっているジャムカに聞いた。 二人ともまだ戦ってはいた。海賊達の、数に任せた戦い方は、確実にアレクとジャムカの体力を奪い、二人は小さな傷は、もう数える気もしなかった。海賊達は、まだ七人残っている。最低でも一度に三人同時に攻撃してくるやり方は、幼稚ではあるが、確実に効果はあったのだ。 「あぁ、何とかな。だがすまんな。もうそんなに持ちそうにない」 ジャムカの方は、実際には立っているのもつらいであろう。今まだ吹きつづける風に、ふらついてしまうことすらある。 「次に俺が斬りかかるときに、血路を開く。おまえはそこから何とか逃げ切れ」 アレクのその言葉に、ジャムカは驚いて振り返った。そのすきを、海賊が攻撃しようとするが、ジャムカがすぐに睨み返した。 「どういうつもりだ。俺だけ助かれとでも言うのか?」 「そう言ったつもりだ。あんたは死んだら悲しむ女がいる。残念ながら、俺にはいない」 「そんな理由でっ……」 ジャムカの反論は、強風とアレクの威嚇のための叫びでかき消された。アレクは、海賊達の包囲の中で、もっとも少ないところを切り崩そうと、突っ込んでいった。 これでも結構面白い人生だった。アレクはそう思った。気の合う仲間には出会えたし、騎士として、戦いに赴くことも出来た。ブリギッドを守ることは出来たし、ジャムカもなんとか逃げてくれるだろう。死ぬのがいやなわけではないが、こういう死に場所も、悪くはない。 アレクは、最初の一人に斬りかかった。海賊達はアレクにまだこんな体力が残っているとは思わなかったのだろう。完全に対応が遅れていた。 「一人!!」 頚部を斬られた海賊は、断末魔の悲鳴もなく、倒れた。そして、我に返った海賊達が、アレクに殺到する。そのうちの、もっとも大柄の海賊の斧を受けたとき、アレクの剣にヒビが入った。二撃目を受けたときに、剣は半ばから折れた。ただ、その衝撃でアレクは吹き飛ばされ、斧を躱すことは出来た。 アレクは、護身用の短剣を抜くと、その男に組みかかり、首に短剣を突き刺す。だが、男が倒れたとき、バランスを崩して自分も倒れてしまった。そこに、海賊の斧が振り下ろされた。 しかし、その斧はアレクには振り下ろされることはなかった。 ドン、という音がしたあと、アレクに斧を振り下ろそうとしていた海賊は、吹き飛ばされた。ごろごろと転がって、止まったとき、その男が生きてないのは、誰の目にも明らかだった。胸部に穴が空いていた。 海賊達は、何が起きたかもわからなかった。だが、それはアレクも同じだった。そこへ、また同じことが起きた。海賊の一人の体が、何かに貫かれたような傷を受け、吹き飛ばされる。 海賊達が驚いて何か、が飛んできた方向を見た。そこには、ブリギッドがいた。 「くそっ!! やつを殺せ!!」 海賊は弓に矢をつがえ、ブリギッドの方に射た。風はまだ追い風である。しかし、この強風の中、まともに的に当てることなどできはしない。ブリギッドは、海賊達の矢など気にせずに、再び矢を番え、弓を引き絞る。放たれた光の矢は、逆風を切り裂くような鋭い音をたて、海賊をまた一人貫いた。信じられないような光景だった。 結局、海賊は半数以上が殺された時点で、自分の命を優先し、逃げた。 アレクは、何とか立ち上がろうとしたが、急に体が痛くなり、そのまま座り込んだ。ジャムカは、まだ呆然と光の矢の奇跡を見ていた。 「ジャムカ!!」 エーディンがジャムカに抱き着いた。そのまま、少女のように泣いている。ジャムカは、大丈夫だ、といって、エーディンの頭をなでていた。 「これが……聖弓イチイバルの力か。なんだ。これなら俺が命張る必要、なかったなぁ」 アレクはすっとぼけたように、言った。そこへブリギッドがきた。 「あんたがいなかったら、私はこの弓を受け取れなかった。あんたは私の命の恩人だよ」 そういって、座り込んでいるアレクに手を差し伸べた。 「こういう時のお礼は、美女のキスってのが相場なんだがなあ」 アレクはそう言いながら、ブリギッドの手を借り、立ち上がる。 「何だ、そうしてほしかったのか?」 ブリギッドはそういうが早いか、アレクの頬にキスをした。 それに、誰よりも驚いたのは、アレク自身だった。ひどく狼狽して、怪我も忘れて、ブリギッドから離れる。その様子を見て、ブリギッドは声を上げて笑った。 「あはははは。あんた、色男気取っているけど、意外に純情なんだな」 「な……っ、ち、違う、今のは不意をつかれて、驚いただけだ!!」 アレクは必死に否定した。そしてジャムカは、その様子を見て大笑いをして、怪我の痛みを思い出す羽目になった。 嵐は、収まりつつあった。 |
written by Noran |