新芽が雪の下から顔を出すのが、今年はずいぶん早かった。例年より暖かい。風が、優しい暖かさを南から運んでくる。 シレジアの大地の遅い春の訪れ。そして、毎年この季節に、シレジアでは新たな天馬騎士が任命されるのである。 今年新たに任命される騎士は、全部で34人。例年よりやや少ない。天馬騎士は、ペガサスがあまり重いものを乗せることが出来ないという限界から、そのほとんどが女性である。したがって、天馬騎士一人の寿命そのものは他国の男性騎士に比べ、かなり短くなる。だから、毎年50人程度が騎士になる。 とはいえ、審査基準が甘いわけではない。むしろ、家柄にとらわれない実力主義のため、他国の騎士になるより困難なことも多い。 ひときわ強い風が吹きぬけ、少女の髪をなびかせた。胸甲には、シレジアの天馬騎士であることを示す、風を意匠化した紋章が刻まれている。周囲の景色にそぐわない、暖かさを含んだ南からの風。シレジアのすべての人がそうであるように、少女もまた、この風が好きだった。もっとも、彼女にとって、「風」というものは、もう一つの存在を思い出させた。 |
「そんなところに立っていると、風邪をひくぞ」 突然、後ろから声をかけられた少女は、驚いて振り返る。その人の存在を確認した瞬間、自分の頬が紅潮するのを感じた。 「レ、レヴィン様。お城におられたのではないのですか?!」 まさか、今考えていた人に、こんなところで会えるとは思わなかった。動揺を悟られまいと必死に表情を固定しようとするが、かえって不自然になったのだろう。レヴィンは吹き出した。 「なんて顔だ?驚かせるつもりはなかったんだが。ちゃんと個人的におめでとう、って言っておきたかっただけなんだが」 そう言うと、レヴィンは笑うのをやめ、懐から、小さな耳飾りを出す。緑色の、まるで雫のような飾り。 「え、あの、その……」 フュリーは戸惑ってしまった。自分は、もうシレジア天馬騎士の一員であり、レヴィンはシレジアの王子である。身分に、はっきりとした開きが出来てしまった。 以前のように、遊ぶようなことはしてはならない。それは、フュリーにとっては辛いことだったが、それ以上に、レヴィンの傍にいたかった。だから、姉と同じ天馬騎士の道を志した。 「なにぼうっとしているんだ?ほら、付けるぞ」 言うが早いか、レヴィンはフュリーの横に回って、耳飾りを付けようとする。レヴィンの顔が、フュリーのすぐ横にまで来る。そのわずかな呼気すら、感じることができた。 「あ、ちょ、ちょっとレヴィン様」 はっと我に返って、フュリーは慌てて離れようとする。騎士である以上、必要以上に主筋に近い存在であってはならない。少なくとも、フュリーはそう考えていた。 「ほら、動くなって。……っと、付けたぞ」 少しだけ耳に重さを感じた。動いたとき、かすかに鈴のような、高い澄んだ音が聞こえた。 「あ、あの、これ……」 「いいだろう?小さな音が聞こえないか?結構気に入ったんだけど、男の俺が付けるわけにもいかないしな。お前なら似合うと思ったんだ。気に入らなかったか?」 フュリーは慌てたようにぶんぶんと首を横に振る。 「いえ、違うんです。あ、その、いいんですか?こんなもの頂いてしまって」 レヴィンは少し意外そうな顔をした。そして、フュリーの頭を撫でる。 「いまさら気にするなよ。それほど、他人行儀になるような仲じゃないだろう」 レヴィンはあっさり言う。確かに、今までであれば、そうだったかもしれない。でも、フュリーは騎士になったのであり、レヴィンは王子である。フュリーにとって、レヴィンは守るべき主君であり、レヴィンにとって、フュリーは家臣でしかない。軽々しく口を聞いていいものではない。 だが、当のレヴィンは、そんなことは全く気にしない性格だった。もちろん、それは嬉しいことではある。だが、自分が騎士になったんだ、と言い聞かせる度に、どこかで罪悪感を感じてしまうのも、また事実だった。 「しかしお前が騎士になるとはなぁ。昔っからすぐ泣く弱虫だったのに」 「私は……!!」 フュリーは抗議しかけたが、中断した。レヴィンが、懐から銀の笛を取り出し、それを口に運んだ。静かな、心の休まるような旋律が流れてくる。フュリーはしばらくそれに聞き入っていた。 「何で騎士になろうと思ったんだ?」 レヴィンは急に演奏を中断した。まさかいきなり聞かれるとも思っていなかったため、フュリーは混乱してしまう。 「え、その、あの……」 取り繕うとして、さらに混乱してしまう。自分で、何故なのかははっきり分かっている。しかし、フュリーにはそれを、少なくとも目の前の人物に言う勇気は、なかった。 「マーニャと同じか?シレジアのためって」 しどろもどろになるフュリーに、レヴィンの方から言ってきた。ようやく落ち着いたフュリーは、少し深呼吸気味に息を吸い込むと、首を横に振る。 「私は……マーニャ姉さんみたいに、そんな強くないです。でも、姉さんのお手伝いができれば、とは思っています」 「それが、騎士になったわけか?」 フュリーは一瞬戸惑ったが、「はい」と言った。それも、理由の一つではある。 自分より7歳年上のマーニャは、フュリーにとっても自慢の姉だった。美人で、騎士としても立派で、騎士になってわずか3年で、シレジア天馬騎士の栄誉ある称号、四天馬騎士の末席となった。さらに一年でその筆頭にまで上り詰めた。今では、シレジア天馬騎士600騎全てを統べる立場にいて、代王であるラーナ王妃の信任も篤い。いまや、シレジア天馬騎士の象徴的存在、とまで言われている。 「それも……あります」 「それも、ということは他にもあるのか?」 レヴィンが興味深げに聞いてくる。 「……ありますけど……ヒミツです」 「おいおい、俺にもか?」 レヴィンは不満そうに言う。 『あなただからです』 そう言いかけるが、それは口にはしなかった。 決して語られぬ想い。語ってはいけない、少なくとも今は。自分がシレジアの騎士であり、彼はシレジアの王子である。 「まあ、いいさ。何にしても、よくあの泣き虫フュリーが騎士になるなんて決断したよ」 「ひどい、レヴィンさま。私だって、いつまでも泣き虫ではありません」 フュリーがぷう、と頬を膨らませて抗議する。その顔が面白かったのか、レヴィンは大笑いをした。それを見て、さらにフュリーが顔を膨らませると、レヴィンはさらに笑った。しまいには、腹を押さえている。 「もう、知りません!」 フュリーは怒って、ぷい、と顔を背けた。 しばらくすると、ようやく笑いが止まったのか、レヴィンは、歩き始めた。一瞬、ここに置いていかれるのか、という孤独感が襲う。別段、レヴィンがフュリーを伴って歩く必要はない。だが、それでも何も言わずに、とはひどいきがした。 慌てて振り返ると、レヴィンは立ち止まっていて、こっちを見ていた。少し意地悪そうに笑っていた。 「いつまで突っ立っているんだ?来いよ。見せたいものがあるんだ」 レヴィンは相変わらずすたすたと先に行ってしまう。フュリーは慌てて後を追いかけた。 「ここは……」 レヴィンが案内したのは、雪で出来た、大きな洞窟だった。春で、所々氷が薄くなっていて、太陽の光が射しこみ、幻想的な光景を演出している。時折、天井から落ちる水滴が、音楽的な響きを穴全体に響かせている。 「綺麗だろう?毎年この時期しか、これは見れないんだ。見つけたのは3年前だけどな。一応、今まで誰にも教えてはいないんだ」 「それを……私に?」 レヴィンはちょっと照れくさいのか、そっぽを向いている。 「お前、騎士になるのに、ずっと努力していただろう?なんかあげられるもの、って考えていたんだが……これぐらいしかなくてな」 「いえ……あの、とっても嬉しいです。ありがとうございます……レヴィン様……」 レヴィンは「ああ」とだけ言うと、まだそっぽを向いていた。 「あと、実はここ、もう一つ、いいことがあるんだ。そこにいろよ」 レヴィンはそういうと、ひょいひょい、と凍った地面を半ば駆け足で奥へ行く。奥までは陽の光は射しこんでいないため、すぐに見えなくなった。一人になると、また急に寂しくなってくる。時折落ちる、水滴の音だけが、定期的に響く。先程はあんなに綺麗に聞こえた音も、却って恐怖を感じさせる。 「レ……」 寂しさに耐えられなくなって、レヴィンの名を呼ぼうとした時、別の音が聞こえてきた。まるで、雪洞全体に響くような、美しい旋律。レヴィンが、良く奏でている旋律だった。しかし、いつも聴いているものとは、まるで違っていた。あちこちから反射する音が、美しい和音を奏でていた。 「すごい……」 フュリーは先ほどの不安も忘れて聞き入っていた。どのくらいの時が経ったか、気がつくとレヴィンが前に立っていた。 「どうだった?」 「とっても……とっても素敵だったです。あの、本当にありがとうございます……」 二人は並んで外に出る。まだ太陽は、空の高きにあった。 「フュリー!!」 レヴィンはそう呼びかけて、フュリーの方に何かを放った。フュリーは慌ててそれを受け取る。それは、小さな飾り短剣だった。 「騎士になったんだろ、常にそのぐらいは持っておけ。親父の形見だ。二つあったから、一つ持っておけ」 「そ、そんなに大切なものを?!」 「気にするな。道具は使ってこそ価値があるんだ」 そういうと、レヴィンは急にいそいそと歩き出す。ふと気がつくと、天空に影が生まれていた。 影はやがてどんどん大きくなって、地上に降り立つ。降りてきたペガサスから鮮やかに飛び降りた人物を、フュリーは良く知っていた。 「マーニャ姉様!」 「フュリー。レヴィン王子をちゃんと逃がさないように見張っていなくてはだめでしょう。といっても、まだ騎士になったばかりのあなたには無理かしらね」 マーニャは苦笑しながら、言っていたが、ふと、フュリーが持っている短剣に目を止めた。 「フュリー、それ……」 一瞬、フュリーは姉が何を指しているのか分からなかったが、マーニャの視線を見て、何を見ているのかに気付いた。 「あ、その、これは……」 どう説明していいのか分からなくて、しどろもどろになってしまう。マーニャはクスリと笑って、マーニャの頭をなでてやった。 「大切にしなさい、せっかくの王子様の贈り物なんだから」 「え、そんな、その……」 マーニャはクスクス笑いながら、再びペガサスにまたがった。 「フュリー、レヴィン王子を逃がした罰よ。一緒に追いかけなさい!」 言うが早いか、マーニャは一気に天空へ舞い上がる。 「はい!」 フュリーもそれに続く。レヴィンは、もう遠くに走り去っていた。 |
written by Noran |