小さな音を立てて廻り始めた歯車は、今、かみ合おうとしていた。まるで、お互いが引き合うように。そして、その二つがかみ合う時、何が生じるのか。それは、あるいは知るべきではないのかもしれない。 予言。予知。人々は、自分の分からない何かに対して、そういう名をつけて遠ざけてきた。 無知、あるいは未知への恐怖。それは、人がもっとも恐れるものであった。そして、それを覆い隠すために、分からない事に対して目を瞑る。分からなくていい、という言葉の免罪符を与えて。 かみ合うべきではない、という予言を与えられた二つの歯車。それを『運命』と呼ぶものもいるだろう。しかし、別の人は、こうも呼ぶかもしれない。 『宿命』と。 |
グラン暦七五七年。東方イザーク王国のダーナ襲撃に始まったイザーク戦争は、長期化の様相を呈し始めていた。そして、国内が手薄になったところで、突如、同盟国ヴェルダンが、国境を侵し、ユングヴィを急襲、留守を預かるエーディン公女を誘拐する、という暴挙に出た。 隣国のシアルフィ公国公子シグルドは、わずかな手勢を率いて、ユングヴィ救出に出撃する。 しかし、エーディン公女はヴェルダン国内に連れて行かれた後であった。 シグルドは、エーディン公女救出のため、ヴェルダンへの侵攻を開始した。そして、今回の事件の首謀者である、ヴェルダン第一王子ガンドルフを討ち倒し、マーファ城を制圧した時、シグルドはある女性に出会った。薄い紫色の髪と、紫紺の瞳、透き通るような肌の、妖精のような美しい女性。 ディアドラ、という名は後から聞いた。精霊の森、というマーファ城の北に広がる深い森の住人。人と交わってはならない、と予言された少女。しかしそれを聞いてなお、シグルドは彼女の事を忘れられないでいた。 しかし、シグルドがその少女の事を想ってばかりいても、事態は何も進まない。シグルドは、今回の争乱の責任を問うために、ヴェルダンの王都まで進軍しなければならない。それは、シグルドの、指揮官としての責任であった。 森に向かう途中、シグルド達は、第三王子ジャムカ率いる部隊との戦闘になった。しかし、いかに相手に地の利があるとは言え、シグルド達グランベル軍の敵ではなかった。 短いが激しい戦闘の後、ジャムカ王子は、部隊と共に降伏した。これは、前にジャムカ王子に助けられた、というエーディンの口添えがあったからでもある。 |
「精霊の森を抜けるのか。ならば、おれが案内する」 降伏したジャムカは、そのままシグルド軍に編入された。ジャムカ自身、今回の混乱の原因は、父王ではなく、父王のそばにいる魔道士にある、と睨んでいたのだ。 ヴェルダン王都に行くには、精霊の森を抜けなければならない。別名、『迷いの森』とまで称される精霊の森は、うっそうとした、グランベル王国では見る事の出来ないような、深い森だった。 「知らないものが迷い込んだら、文字通り、精霊に惑わされて一生出る事が出来ない。だが、精霊に気に入られると、ささやかな富を得て戻る事が出来るとも言う。実際、おれにもよく分からない。ただ、一応わずかながら抜け道があるんだ。逆に、そこからそれて、森に入り込んじまったら、見捨てるしかないからな。気を付けてくれよ」 森に入る前、ジャムカ王子はそう忠告した。思わず、全員の息が詰まる。精霊の森、というより死の森と呼ぶべきではないのか、という意見を言いたい者もいるだろう。ジャムカ王子は、「なに、道からそれなければ大丈夫だ」というと、さっさと案内を開始した。 左右に広がる森は、外から見たときより更にいっそう暗く、また、それでいてどこか神秘的な美しさを感じさせた。馬に乗ったまま行軍するのは困難なため、皆馬を下りている。全員、戦場にいる時より緊張してた。まるで、夜襲を警戒する軍隊のような緊張感であった。 馬も、その雰囲気を感じ取っているのか、嘶き一つ上げない。重く、まるでなにかに押しつぶされるような、そんな時間が流れていった。 「こんなところに彼女は……」 シグルドとて、緊張していなかったわけではない。むしろ、他の誰よりも神経を張り詰めていた。 ジャムカ王子が降伏したからといって、ヴェルダンが降伏したわけではない。ジャムカ王子の話によると、まだヴェルダンに残存の兵力は残されている。こんな、一直線に細く伸びきり、また左右を入れない森に囲まれた状態で不意打ちをされては、たまったものではない。 だがそれでも、この近くにディアドラがいるのではないか、という考えを止める事は出来なかった。もしかしたら、その木の向こうにいるかもしれない。だが、そう思っていても、確認する事は出来ない。全軍を指揮する彼が、いきなり方向を転じては、なにより他の者たちを巻き込んでしまう。 シグルドは今、責任を負わねばならないこの身が、非常に歯がゆかった。 「そう無理に思い込むな。この混乱が片付いたら、ゆっくりとここにくればいいだろう」 まるで、シグルドの心情を見透かしたように、キュアンが声をかけてきた。シグルドは驚いて振り向く。その横では、エスリンがにっこりと笑ってうなずいた。シグルドは二人を見やってから、ゆっくりとうなずく。 「そうだな。まずはこの混乱を収めよう。全ては、それからだ」 シグルドは迷いを振り払うように頭を振ると、再び前進する。今度の歩みには、迷いはなかった。キュアンとエスリンが、その姿をみて安堵する。その雰囲気が伝わったのか、全体の雰囲気が和む。ちょうどその時、ジャムカの声が全軍に響いた。 「もうすぐ出られるぞ。一人も欠けていないな〜」 その声を聞いて、全軍に安心感が広がった。森を抜ければ、すぐヴェルダン城は見えてくるという。ようやく、この陰湿な場所から出られる。そう思った時だった。 最初、異変に気付いたのはエーディンとエスリンだった。もっとも、その感覚は、なにか邪悪な、そして強力ななにかが自分達に迫っている、という漠然とした感覚だった。しかし、それは数瞬後には確信となった。 「キュアン!!」 エスリンは突然キュアンを突き飛ばした。あまりに急の事で、キュアンは大きくバランスを崩した。木の根に足を取られながらも転ばなかったのは、手綱を掴んでいたからだ。 直後。なにかがキュアンのいた場所――今はエスリンがいる――に炸裂した。 「きゃあああ!!」 エスリンの叫びが森に響いた。 「エスリン?!」 キュアンは驚いて振り向く。そこには、エスリンが大怪我をして倒れていた。 「エスリン!!しっかりしろ!!」 キュアンは青い顔をしてエスリンを助け起こした。怪我はひどかったが、命に関わるほどではないようだった。しかし、気を失っている。 「い、一体どこから?!」 シグルドは驚いて周囲を見渡す。しかし、何もいない。気配を探ろうにも、全軍が騒然としてしまって、それもままならない。そこへ、再びなにかが炸裂した。 「うわ!!」 今度は、キュアンの部下のフィンが吹き飛ばされた。しかしフィンは、何とか立ち上がる。 「な、何か邪悪な……邪悪ななにかに睨まれたかと思うと、突然……」 「しかしどこにも敵は……」 シグルドがそう言いかけた時、今度はシグルドが見た。空一面に広がる、それを。まるで、ユグドラルの創世神話に出てくる、天空神ユードゥに刃向かい、封印された悪魔たちを思わせるような、そんな像を。その目がゆっくりと開く。その直後、シグルドはまるでなにかに突き飛ばされたように吹き飛んだ。 そして、吹き飛ばされた方向が、シグルドにとって不幸だった。ちょうど木々の隙間。そして、全く見えなくなっていたが、そこは崖になっていたのだ。 「し……しまった!!」 翼を持たぬ身のシグルドに、空を飛ぶ力はない。かの天馬騎士とて、騎士だけでは空を飛ぶ事は出来ない。そして、ここには天馬もいなかった。 「お兄様!!」 エーディンの魔法で意識を回復したエスリンの声が最後に聞こえた。そして、シグルドの意識と体は、暗い底へと落ちていった。意識の底と、森の底へ。 |
優しい声が、シグルドの耳に届いた。祈るような、それでいて非常に心地よい声。まるで、天女の歌声のようにも聞こえる。このまま、ゆっくりとしていた。何故か、いま起きたいとは思わなかった……。 だが、シグルドは急速に意識を回復した。素早く自分がどうなったのかを確認する。そして、自分の剣を捜し求めた。そこへ、静かに彼の剣が差し出された。 シグルドは一瞬驚いて、剣を差し出してくれた人物を見た。薄紫色の髪と、紫紺の瞳。透き通るような白い肌。見間違えようもなかった。 「ディアドラ!」 「シグルド様……」 ディアドラの瞳は、まるで水晶の欠片を溶かしたような涙であふれていた。気がつくと、体のどこにも痛みはない。彼女が、治癒の魔法を使ってくれたのか。 「よかった……ご無事で……」 ディアドラは、涙声でそれだけを言った。 「もう……会えないかと思っていた。もう一度会えるなんて……」 シグルドは立ち上がると、再び剣を取った。そして、厳しい目でディアドラに尋ねる。 「どうやったらみんなのところへ戻れる?」 するとディアドラは悲しげな表情を浮かべた。 「やはり……行かれるのですか?」 「ああ。私は指揮官だ。皆に対する責任がある」 シグルドはきっぱりと明言した。するとディアドラはもう何も言う事はない、というように首を振った。 「分かりました。私も行きます」 シグルドは驚いて彼女をかえりみた。揺るぎ無い決意が、彼女から感じられた。 「ヴェルダン城にいるサンディマという魔道士がいます。暗黒魔法を使う、闇の司祭です。そして……」 ディアドラはそこで言いよどんだ。なにか、言うべきことを迷っているような、そんな感じだった。 「彼の使う暗黒魔法フェンリルは、非常に離れた距離から使用する事の出来る魔法なんです。だから、近付く事すら容易では……」 「だが、それでは君も危ないじゃないか。私は……君をそんな危険な目に合わせたくない」 するとディアドラは、傍らにおいてあった杖を取り出した。ただの治癒のための杖でないのは、見て分かった。 「これは、サイレスという魔法を封じてある魔杖です。私の魔力が……サンディマの抵抗力を上まれば、サンディマの魔法を、一定時間封じておけます。その間に……」 「君にそんな力が……だが、いいのか? 森の外に出る事すら、君は禁忌とされているのでは……」 ディアドラは一瞬悲しげな表情を浮かべた。それは、郷里との別離を惜しむものであった。 「忘れようと思った……努力しました。でも……だめでした。もう、どうしていいか……私にもわからないんです……でも、でも私は……」 ディアドラは何かを振り払うように首を振る。 「私には……暗黒神の血を引いているのです。だから、人と交わってはならないと……森を出てはいけないと」 シグルドはそれで、彼女になぜあのような予言がなされたかを理解した。 「それで私から……森の外から逃げるようにしていたのか」 ディアドラは小さくうなずいた。 「人を好きになる事が恐かった。でももうだめです。あなたを失いたくない。あなたを失うくらいなら……」 ディアドラは言葉を続けなかった。そして、それはシグルドも同じ気持ちだった。 「ディアドラ。君が自らの運命を恐れる気持ちは分かる。だけど、恐がっているばかりでは、何も生まれない。私が君を守ってみせる。たとえどんな事があろうとも、どんな時であろうとも、守ってみせる。ディアドラ、二人の気持ちが同じなら、何も恐れるような事などないはずだ」 そういうとシグルドは、自分の剣を高々と天に掲げた。 「神よ!!もし私達の愛が罪だというなら、その罰は私一人に与えよ!!今この剣に雷を落とし給え!!」 数刻の静寂。しかし、辺りの音は、シグルドの声の残響以外、なにもなかった。 「私は誓う!!たとえ、この身が切り刻まれようとも、私は決して後悔しない!!神よ、どうか我が愛しきディアドラを、永遠に守り給え!!」 静寂を満たす森に、シグルドの宣誓だけが響き渡る。その時、木々の葉の間から、太陽の光が洩れた。それはまるで、シグルドの誓いを、神が聞き届けたかのように見えた。 |
二つの歯車が巡り合い、そして一つの道を辿り始めた。 予言も、予知も、それらは決して定まった未来ではない。不確かなものに、人間がかってに名称を付けただけである。そして人は神ではない。あるいは、神ですら、未来を定める事は出来ないのではないだろうか。 神の力を引く若者の運命は、あるいは神ですら運命を定められないのかもしれない。 運命が二人を引き合わせたのか。あるいは、彼らの意志で二人は巡り合ったのか。それとも出会う事が、彼らの『宿命』だったのか。 歯車は止まる事なく廻り続ける。不確かだった歯車が、互いを得て、確実な未来を導こうとしている。それが絶望へと行くのか、希望を導くのか、それは誰にも分からなかった。 |
written by Noran |