風の勇者




「地を渡る風よ。自由なるその身、疾く来たりて、今一時我が意志に従え。我は風神フォルセティの名において、汝を求めん」
 朗々たる声が響く。それほど大きな声ではない。だが、なにかの力を秘めたような、そんな声だった。声の主は、まだ若い。少年と青年の、ちょうど中間のような年齢である。城壁の上に立つ彼は、翡翠玉が中央にはまった魔道書を持っている。そしてその翡翠玉が、にわかに輝きを放ち始めた。
 風が静かに、だが確実に変わり始める。そよ風ほどしか吹いていなかった風が、彼を中心にまるで渦を巻くようになっていく。彼の緑色の髪の毛が、わずかに風に舞う。それはまるで、彼を守っているようだった。
 厳しい目で彼が睨んだ方角には、空がある。そしてその青い空に、黒い点がいくつもあり、それが少しずつ近づいてきた。
 竜騎士。人は戦いの場を、地上だけではあき足らず、空にも求めた。自在に空を飛ぶ、強靭な肉体を持つ飛竜を飼い慣らし、空を自在に飛ぶ死神達。それらが、彼のいるマンスターを奪わんと、急接近してくる。
 風が変じた。彼を取り巻く風が、急激に激しくなる。まるで嵐のように。飛竜は、風に乗って空を滑空する。その勢いを利した槍の一撃は、あらゆる騎兵の中で最強とされている。しかし、今その風が突然乱れた。
 風が荒れ狂う。通常あり得ないような、猛烈な風だった。
 必死に、振り落とされないように竜を御していたとき、急に一騎が落ちた。ただバランスを崩したわけではない事は、赤い線が続いている事から想像できる。
 竜騎士達は狼狽した。この猛烈な風の中、何かが彼らを襲ったのだ。しかし、その正体すら分からない。そこへ、また一騎が落ちた。そしてこの時、彼らは敵の正体を知った。
 風そのものが、彼らを襲っていたのだ。
「散れ!!この場を離れるんだ!!」
 指揮官が、半ば絶叫する。しかしこの嵐の中、落ちないようにするだけでも精一杯だった。荒れ狂う風は、飛竜達を捕らえて放さない。そして……
 それからわずかな間で、竜騎士達は大半を失った。かろうじて嵐の外に出た竜騎士は、ちょうど駆けつけた解放軍の攻撃に晒されてしまい、数騎がかろうじて逃げ延びた。市民達の歓呼の声が、大気を満たす。風を操った者の名は、セティといった。

「お兄ちゃん!!」
 元気のいい声に、セティは振り返った。もっとも、振り返らなくても、誰の声なのかは、すぐに判断がつく。だが、それでも軽い驚きの表情を浮かべた。
「フィー、解放軍にいたのか。でもフィーがここにいるってことは母さんは……」
 セティの表情が翳る。フィー、と呼ばれた少女は、セティと同じ緑色の髪の毛をしていた。短く切られた髪の毛が、活動的な印象を与える。しかし、セティの言葉に、フィーは不似合いなほど表情を翳らせた。
「うん……それに……」
「父さんの事だろう?」
「お兄ちゃん、もう会ったの?!」
 フィーは驚いて兄の顔を見る。だが、その表情は暗い。
「父さんには父さんの考えがあるのかもしれない。でも、涙の一つも見せないなんて……」
 セティはその先の言葉を続けなかった。
 父の考えは理解できない。だが、なにか隠している。そんな気がしてならなかった。
「どうしたの? お兄ちゃん」
 考え事は妹の声で中断された。妹は、母と同じ天馬騎士ではあるが、雰囲気は随分違うように思う。母に言わせれば、フィーはむしろ父に似たところがある、と言っていたが、あの小難しい顔をした父と、妹を重ねることはできない。
 そうしている間に、フィーはまた行ってしまった。約束がある、というが、あれは恋人に逢いに行く足取りだ。そうか、妹ももうそんな年なんだ、などと感慨にふけってしまっていることに、セティは気がついた。自分もまだまだ若いはずなのに、と思わなくもないが、どうも自分は年齢より上に見られがちである。自分自身、年齢の割に老け込んでいるような気がする。まだ生まれてから16年半しか経っていないというのに。
「お兄ちゃんは元はいいんだから、あとはその苦労性を何とかしないとね」
 フィーにいつか言われたことがある。その通りだろうな、と思う。前半ではなく後半が。
 別に意識してのことではないが、セティは昔からなんでも自分でやろうとするところがあった。父は幼いころにいなくなってしまい、母は病弱で働くことはできなかった。十分な蓄えがあったからよかったが、そうでなければセティもフィーも、今ごろは飢えで死んでいただろう。だが、一家が生き抜いていくためには、セティがしっかりするしかなかった。子供のころから、自然とそう考えるようになる。結果、苦労性になってしまったのだろう。
 フィーはああいうが、責任の一端はフィーにもあることを、棚に上げている。別にそれで文句を言う気はないのだが。ただ、そのうちフィーの恋人には会わせてもらいたい。この感覚が、兄としてなのか、あるいは父性的な感覚なのか、セティには分からなかった。

 マンスターの城壁は、それほど高くはない。もともと、この地の脅威はトラキアの竜騎士であり、空を駆ける竜騎士に、城壁など意味はない。ただしその分、城壁の幅は広い。多くの弓兵を待機させるためのものだ。ちょっとした大道くらいの幅はある。考え事をしながら歩くのにはちょうど良い。
 山々の間を吹き抜ける風が、セティの緑色の髪を弄ぶ。
 セティは風が好きだった。風の聖戦士だから、というわけではないと思う。何者の束縛も受けない、そして止まることのない風が好きなのだ。自分の生き方がそれとまるで違うからなのかもしれない。風のような生き方、というのはむしろフィーにふさわしい形容だろう。
 偉大なる十二聖戦士、風使いセティの名と力を受け継ぐ自分。だが、果たして何ができたのか。マンスターの人々は、勇者セティ、といって褒め称える。だが、自分がそんな大層な称号に値するのだろうか。
 ふと先ほどセリス皇子に会ったことを思い出した。
 自分より少しだけ年上なだけのはずなのに、皇子には自分にはない強さを感じた。それがなんなのかは分からない。
 それが、今自分に欠けている何かなのかもしれない、とセティは感じていた。
「お前にはまだ、成すべき事は見えていない。それが、セリスとの差だ」
 セリスとの対面の最後、父に言われた言葉が脳裏によみがえる。
「お前はまだ自分が何者であるかも、何を成すべきかも分かっていない。だからフォルセティも応えない。そんなことでは、いつか身を滅ぼすぞ」
 どういう意味だろうか。自分の成すべき事。セリス皇子はそれが見えているという。それにフォルセティが応えない、とは一体……
「もっともセリスも、まだまだ未熟だがな」
 父は最後にそう言った。セリス皇子の目指すもの。大陸の解放。では自分は。
 父レヴィンを探して、旅を続けていた。それがこの地に来て、何故か市民の蜂起に付き合っている。そして今度は解放軍。最初の旅立ちだけが自分の意志。だが、それすらも本当に自分が望んだからなのか。セティは頭を振った。
 違う。母から逃げたのだ。母が自分を通して父を見ている事から。
 ただの臆病者だ。そんな自分が、どうして『勇者』などと呼ばれるに値しようか。
「キャ!!」
 突然の声にセティは驚いた。直後、自分も尻餅をついている事に気がつく。目の前には、同じような格好で座り込んでいる女の子がいた。やや紫がかった銀色の髪の毛。それを大きく二つ結わえた髪型がよく似合っている。フィーと同じ年くらいだろうか。
「す、すみません。私、ぼーっと考え事していたので!!」
 少女は慌てて立ち上ろうとする。
「いや、私の方こそすまない。考え事をしていて、前を見ていなかった。怪我はないかい?」
 セティはすっと立ち上がり、少女に手を貸す。少女はためらいながらも、素直にその手を借りて立ち上がった。
「あ、あの……解放軍の方……ですよね?」
 少女は不安そうに尋ねた。今この城にいるのは、解放軍の兵士だけだ。市民は、トラキアの襲撃がある前に、セティが北のコノートや、村に逃げるよう指示した。そのまま、ここが最前線になりそうなので、市民は各地に避難してもらっている。
 ただ、見た事のない顔だったので、戸惑ったのかもしれない。
「ええ。最近解放軍に加わったセティと申します。よろしく。ええと……」
「あ、ティニーと申します。セティ様……あ、このマンスターを開放されたセティ様ですね?!」
「たいしたことはしていないよ」
 半ば自嘲気味に言う。実際、マンスター開放に際しては、セティはほとんど何もしていない。その後に襲ってきた竜騎士を撃退したのは、確かに自分だが。
「そんなことないです!!お一人でトラキアの竜騎士と戦われたなんて、凄いです」
 ティニーと名乗った少女は、力いっぱい力説する。セティは「そうかい」と相槌をうった。そしてその時は、そのままお互いの部屋へ戻っていった。気がつくと、もう陽が落ちつつあったのだ。

「う……」
 夜遅くにセティはなぜか目を覚ました。
 あてがわれた部屋は、もとはマンスター城の客室だったところで、かなり広い。ベッドは二つあるのだが、同室のものはいない。これまで旅続きで、宿の小さな部屋に慣れていたセティにとっては、逆に眠りにくいものである。明日からは、もっと小さな部屋をあてがってもらおう、などと考える。
 外を見てみると、美しい満月が地上を照らしていた。正確には満月まであと一日二日、といったところだが、それでも十分な光で、地上を照らしていた。
 一度目が覚めてしまうと、なかなか寝付けないもので、セティはなんとなく外を歩いてみることにした。手ぶらで出ようとして、ふと足を止め、フォルセティの魔道書を取り、マントを羽織った。いくら夜とはいえ、トラキアの襲撃がないとは限らない。今夜は十分な明るさがある。それに、もう寒くなり始めているので、マントがなくては風邪を引いてしまう。
 屋外は、思ったほど寒くはなかった。そのまま、城壁へ出る。遮るもののない城壁の上は、月の光のおかげで、歩くのには全く困らない。ただし、風も吹きぬけていく。それが、少し肌寒さを感じさせた。
 ふと気がついた時、セティは城壁に座っている人影に気がついた。白い夜着を月の光が青白く染め上げ、一瞬幽霊のようにも見え、どきりとしたが、それは夕方に会ったティニーであった。西の方角をみたまま、セティに気付いた様子はない。
 もう少し近づくと、風に乗って何かが聞こえてきた。それは、歌だった。歌っているのはティニーである。澄んだ、きれいな声であったが、どこか悲しい感じがした。あるいは、そういう歌なのかもしれない。
 歌い終えたところで拍手が聞こえて、ティニーは驚いて振り返った。そこには、緑色の髪と瞳の青年が立っていた。
「きれいな歌だね。誰に教わったの?」
「セ、セティ様。いつからそこに?!」
 ティニーは顔を真っ赤にしている。
「いや、ついさっきから。中断するのが惜しくてね」
 そう言いながら、セティは近くの台座に腰掛ける。もとは、弓兵のためにあったものだろう。
「私はあまり歌は詳しくないが、でも今のティニー殿の歌はきれいだと思ったよ。お世辞じゃなくてね」
 この場にレヴィンがいたら少し複雑な表情を浮かべただろう。少なくとも、セティはレヴィンの歌の才能は継いでいなかった。
「あ、あの……ありがとうございます。これ、母に教えてもらった歌なのです。母が祖母に教えてもらった歌だそうです」
「御両親は今は?」
 聞いてしまってから、セティはしまった、と思った。解放軍に参加している時点で、なにかしら、不幸な身の上であるのは間違いないのだ。あまりにも迂闊な質問に、セティは自分を呪いたくなった。
「母は私が子供の時に亡くなりました。父は……私は顔も知りません。アゼル、という名前だけ……」
 ティニーの表情が翳る。セティは、自分達はまだ恵まれている方だ、と感じた。少なくとも、最近まで母は生きていた。父は今も生きている。冷たからろうが、父であることに変わりはないはずだ。家族で過ごした日々の記憶だってある。しかし、目の前の少女は、そんな当たり前の記憶すらないのだ。
「す、すまない。その……」
「いえ、いいんです。それより、セティ様ってフィーさんのお兄さんだったんですね」
「え、ああ。フィーを知っているの?」
「はい。なにより同じ部屋ですから」
 そう言ってティニーはくすくす笑った。セティは、何か笑われるようなことがあっただろうか、と怪訝な表情を浮かべる。
「あ、すみません。本当に聞いていた通りの方だったので……」
 あいつ、一体何を言ったんだ、と思ったが、それは口には出さなかった。
「べつにひどいことを言っていたんじゃないですよ。ただ……」
「年のわりに老けている、とでも言ったんでしょう」
 ティニーは笑いを堪えようとして失敗した。セティの推測は、完全にあたっていたようだ。
「ご、ごめんなさい。その、あの……」
「いいんですよ。事実ではあるし」
 セティは苦笑する。つられてティニーも笑い出した。
「そういえば、フィーに恋人っているのですか?」
 セティは急に笑うのを止め、ティニーに尋ねた。同じ部屋ならば、知っているかもしれな、と思ったからだ。だが、次のティニーの返事までは予想していなかった。
「ええ、いますよ。相手は私の兄です」
「え?」
「なんでも、解放軍には一緒に入ったそうです。私が解放軍に入った時は、もういらっしゃいましたし」
 ティニーの話によると、解放軍が旗揚げをしたイザークで二人同時に合流したのだという。フィーはシレジアから来たし、ティニーの兄のアーサーもシレジアに住んでいた。アーサーは妹を迎えに行くために旅に出たそうだが、成り行ききで解放軍に加わっているという。もっとも、それで目的を果たしているのだから、運がいいといえば運がいいのだろう。
 この少女の兄、というなら、安心して妹を任せられるような気がした。もっとも、大分苦労はしそうだが。
「セティ様は恋人とかいらっしゃらないのですか?」
 突然の質問に、セティは苦笑いをしつつ答えた。
「この性格だからね。それに私は、故郷のシレジアでは帝国にマークされていたから、最近まで山奥の村から出ることすらでいなかった。これを……」
 そう言いながらフォルセティの魔道書を取り出した。
「このフォルセティを使えるようになるまでは、村から出てはいけない。そう言われていたから……」
 セティが育った村は、シレジアの山奥にある小さな村で、冬になると毎日数回は雪かきをしなければ家の外に出れなくなってしまうほどの場所であった。家はみな二階以上の高さがあり、冬は雪に埋没してしまう一階の出入り口が使えなくなり、二階から出入りする。だが、そのような場所だからこそ、帝国の監視の目も届かず、セティはこの年まで無事に生き延びてこれたのだ。
「つらい……つらい時期を過ごしてこられたのですね……」
「あなたほどではないよ。少なくとも私は父も母も記憶に留めているし、父は……まだ生きている」
 ティニーはじっとセティの顔を見ている。まるで、小さな変化も見逃すまいとするように。
「セティ様……ご無理をなさっていませんか?」
 一瞬、セティは驚いたようにティニーを見た。青白い月の光に照らされたティニーの瞳に自分が映っている。一瞬、気恥ずかしくなったが、ティニーは目をそらさなかった。
「勘違いだったらすみません。でも、セティ様、いつも何かを我慢してきたような……そんな気がしましたので……」
「あなたには敵わないな」
 セティは苦笑した。
 確かにセティは、今まで常に自分を押さえて生きてきた。幼いころは、そうではなかった。父がいて、母がいて、フィーがいて。村の外には出られなかったが、それにも何の疑問も抱かなかった。父は時々、魔法の使い方について教えてくれた。「いつか必ず必要になる」教えてくれる時の父の口癖だった。
 セティが初めて、最下級の風の魔法を使えるようになった時、父は彼らの前から消えた。母はそれ以後、子供たちの前で父の話はしなかった。だがセティは、母が一人で泣いていることを知っていた。そしてその時から、セティは父に代わって母を守らなければならない、と考えるようになったのだ。しかし、成長すればするほど、母が自分を通して父を見ていることに気がついてしまった。そして、それに耐えられなくなった時、セティは父を捜す、という名目で旅に出たのだ。それが正しかったとは、母がいなくなった今ではとても思えない。
 セティには弱音を吐ける人がいないのだ。ティニーは直感的にそう悟った。だから、常に冷静にしている。感情を押し殺し、常に自分を制御している。
 魔法という不安定な力を振るう者にとって、常に心の状態を一定に保つことは重要なことである。ともすれば、暴発してしまうこともあるからだ。精神の力を顕現させるのが魔法。ゆえにその力は精神状態に大きく依存する。実際、感情が激発している状態で放たれた魔法が、通常より遥かに強力になることもある。たまに、その状態を制御できるものもいるというが、これは本当に希だろう。そうでなければ、常に一定の効果を期待するのであれば、常に冷静であるのが理想である。しかし、それが正しい人間のあり方だろうか。
「セティ様……私でよろしければ、いつでも相談にのります。自分一人だけで無理をしないで下さい」
 セティははっとティニーを見た。その言葉が、かつて母に言われた言葉と重なったのだ。
『セティは一人でなんでもできるかもしれないけど、でも自分だけで何でもしよう、と考えちゃだめよ』
 あれはセティがシレジアを出立する時に母に言われた言葉だ。その時は、その字面とおりの意味として捉えていた。しかし……
「ありがとう。ティニー殿。なんか少し楽になったよ」
「セティ様……」
 しばらく沈黙が空間を支配した。先に気付いたのはどっちだったのか。いつの間にか、二人は手を握り合っていた。
 慌てて二人とも手を放す。同時に二人とも目をそらした。別に誰が見ているわけでもないのに、と思うものもいるだろう。そうしてしばらく二人とも立っていたが、やがてティニーが自分の肩を抱く。いつのまにか、かなり寒くなってきていた。
「これを羽織るといい。私は大丈夫だから」
 セティは、自分が羽織っていたマントを、ティニーの肩にかけた。
「あ、でもセティ様が」
「大丈夫。そういえば、なんでティニー殿はこんな時間に外に?」
 ティニーはその質問にはすぐには答えず、また西の方角を見る。
「姉様の……イシュタル姉様のことが心配で……」
「イシュタル王女か……」
 セティはイシュタル王女とは少なからず因縁がある。まだ、マンスターに来る前に、一回会ったことがあるし、今回、もしイシュタルがブルーム王に呼ばれてコノートに行かなかった場合は、セティがイシュタルと戦うことになっていた。正直、戦いたくはない、と思っていた。勝てる勝てないではなく、戦いたくない相手なのである。
 『雷神』の異名を持つ雷の神魔法トールハンマーの使い手。正直、セティでも勝てるかどうかは分からない。父に言われたことが、再び思い出される。
 フォルセティの魔道書を渡されたのは、父がいなくなる前日だった。セティはフォルセティを使いこなしている、と思っていた。実際、トラキアの竜騎士を退けたのは、フォルセティの力だ。父もそれを見ていたはずなのに。
「セティ様?」
 不意にティニーの顔が正面にあった。座ったままうつむいていたのだろう。顔を上げた時、お互いの吐息が分かるほどの距離しかなかった。慌てて二人とも距離を開ける。数瞬後、ティニーがくすくすと笑い始めた。つられてセティも笑う。静かな月夜に、二人の笑い声だけが響いた。
「ティニー殿。イシュタル王女とは、私も多少縁がある。大丈夫。彼女は悪人じゃない。きっと、ティニー殿が思っていることを分かってくれるだろう」
 セティを微笑みながら言った。
「はい!!」
 ティニーは微笑んでそれに答えた。
 やがてにわかに風が冷たくなり始め、二人はお互いの部屋に戻っていった。

「おっはよ〜、お兄ちゃん!!」
 セティはいきなり後ろから大声で呼ばれた。しかし、すぐに後ろを見ることができなかった。顔を井戸水で洗っている最中なのだが、そこで強く背中を叩かれ、せき込んでしまっていたのだ。
「フィー、何をするんだ!」
 抗議も、咳き込みながらでは様にならない。するとフィーは、いきなり声を窄めた。
「ティニー狙っている人、多いから、ぼうっといつもみたいにのんびりしていると、持ってかれちゃうわよ、がんばって、お兄ちゃん」
 そういうとそのまま走り出す。セティは追いかけようとして、危うく躓いて転びそうになる。
「おい、ちょっと待て、フィー。なんでそんなこと……」
 フィーはさっさと城内へ入ろうとする。そこで、長い銀髪の青年を見つけると、すぐその青年のところへ行って、何事か話している。その男は、しばらくセティの方を見ていたが、やがて納得したようにうんうんとうなずくと、フィーと一緒にいなくなってしまった。
「セティ様? どうかなさいました?」
 いきなりのティニーの声に、セティは慌てて振り向いた。夜の月明かりの時とはまた違う印象だ。それが髪を結わえていないからだ、というのに気がつくのに数瞬を必要とした。
「あ、ああ。おはよう。ティニー殿」
 セティはなぜか自分が熱くなっているのを自覚した。ただ、それがなんなのかは、まだ分からない。ティニーは、どうしたんだろう、というような不思議そうな顔をした後、水場へ行き、水を手ですくった。
「あ、そうだ。セティ様」
 顔を洗い終えたティニーが、立ち去ろうとしたセティを呼び止めた。内心、どきりとしていたが、なんとかその動揺を押え込むことに成功する。
「私のこと、ティニー、でいいです。ティニー殿、なんてなんか堅苦しくって」
 ティニーはそういうとさっさと走り出す。朝は、女の子同士で食事をしているらしい。もっとも最近は、恋人と朝食を、というのが増えているらしいが。
 ふと先ほどのフィーの言葉が思い出される。だがすぐに、「ガラじゃないよなぁ」といって、自分もまた食堂へ向かった。



written by Noran

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