在りし日の情景




 風が、髪の毛を弄んだ。よく切れ、といわれるが、いわれると逆らってみたくなる。広大な盆地にあるこの宮殿は、だが風がよどむこともなく常に気持ちの良い風が吹いている。神に祝福された場所だからだ、というが、彼は神などあまり信じてはいなかった。しかし、人の力を超えた力は、確かにある。今、彼が持っている武器もまた、人の力を超えた力を顕現させることの出来るものだ。
「出撃命令は出たはずだぞ。なぜまだ行かない」
 後ろから声をかけられて、彼はやや緩慢に振り返った。来ているのは知っていたが、無視していたのだ。
「命令拒否は……出来ないな。いや、当然か」
 呼びかけた方が一瞬、不振そうな表情になる。くすんだ金色の髪。端正の取れた顔立ちであるのだが、彼は、この男が不機嫌そうな表情をしたときは、アカネイアで一番不機嫌そうに見えると思っている。
「何を考えている、ジョルジュ。お前は……」
「分かっている。アカネイア神聖帝国弓騎士団団長。皇帝陛下よりこの地位を賜った以上、陛下の命は絶対だ。だが、お前はそれで納得しているのか?」
 ジョルジュ、と呼ばれた若者は、そう言ってまた外を見た。遥か彼方に広大な山脈が見える。アカネイア盆地を囲む山々だ。そして、その遥か西、そこに反乱軍がいるという。その首謀者の名はマルス。一年前、大陸全土を恐怖に陥れた、暗黒地竜メディウスを頭とするドルーア帝国との戦争において、その先頭に立ち、メディウスをも倒したアリティアの王子。かつて、ジョルジュも彼の元で戦い、そして平和なときを迎えたというのに。
「俺はどうしても納得がいかない。なぜあのマルス王子が反乱を起こす? アストリア、お前だってそうは思わないのか?」
 アストリアという名を持つ騎士は、そこで言葉に詰まった。それは、彼自身も考えていたことなのだ。数瞬の沈黙。やがて、アストリアがひねり出すように口を開いた。
「それでも、陛下の命令は絶対だ。仮に、マルス王子が謀反など起こしていないというのであれば、なぜそれを釈明しない。己に後ろめたいことがないのであれば、このパレスまで来て、その旨を説明すれば良いだろう」
 そう言っているアストリア自身、その言葉の正しさを無条件に信じることが出来なかった。何かがおかしい。何かが狂い始めている、という感覚は、常に感じていたのである。
「……ふう。相変わらず変わらんなあ、お前は。そんな堅苦しく物事考えていたら、すぐ禿げるぞ。ミディアだって禿はいやだろう」
 ミディアの名が出てきたとたんに、アストリアの方が取り乱した。
「な、なんでここでミディアが出てくるんだ。彼女は関係ない!!」
 その反応を見て、ジョルジュはクスクスと笑っている。明らかに反応を楽しんでいるだけである。
「変わらんなあ。初めて会ったときのことを思い出すぜ。お前はまだアカネイアの騎士でもなんでもなく、ただの傭兵だったな」
 ジョルジュは再び外を眺めるとそう言った。アストリアも横に並ぶ。
「お前だって変わっちゃいないだろう。相変わらず、誰に何を言うにも遠慮しない」
「俺は相手を選んでいるだけだ。アカネイアに対する忠誠心は、全く揺らいでいない」
 平然とそう言いきっている辺り、逆に言えばジョルジュの忠誠の対象に、ハーディン皇帝が入っていないことを意味している。だが、アストリア自身それを咎められないでいた。なぜなら、自分もまたそう感じていたからである。
「確かに、アカネイアは昔の栄光を取り戻しつつある。それは、ハーディン皇帝のおかげだ。だが、どっか昔とは違うという気がしなくはない。俺とお前が、初めて会ったときのような時の感じは、今の街からは感じられなくなっている」
 アストリアは、それには何も答えなかった。

 まだ、大陸は平和なときであった。
 実際には、後にメディウスを復活させるガーネフが魔道都市カダインにあり、また、後に父殺しの王、と呼ばれることになるミシェイルもマケドニアにいて、父王への不満をつのらせている。だが、それは多くの――というよりほとんどの――人にとって、知りうるはずのないことであり、大陸はまだ平和そのものであった。
 無論、小さな事件や小競り合い、反乱などは各地でその火種があり、また暴発していたりもするのだが、それもまた、少なくともこの千年王国と呼ばれるアカネイアのパレスの市民にとっては関係のないことだった。彼らにとっての危険、というのはせいぜいひったくりや泥棒などで、行商達にとっても、せいぜい盗賊達を警戒することぐらいである。
 そんな中を一人の若者が歩いていた。まだ二十歳にもなっていないだろう。剣を腰に下げているところを見ると、剣士であることは分かる。この場合、若さと無謀さは比例するものであり、その若者の前で騒ぎがあったとしたら、それはどちらにとって不幸なのかは分からない。
 街というものは必ず暗部を抱えるものである。それはこの聖都パレスとて、例外ではなかった。
「どいて下さい。あなた方に付き合うつもりはありません!!」
 若者が、その声を聞いたのは、パレスの繁華街のはずれ、いわば、暗黒街に近い場所である。一瞬、若者は呆然としてしまった。このような場所にそぐわないほど澄んだ声だったのだ。だが、すぐに声のした方へ走り出す。そこは、裏路地、というものの見本のような場所であった。そして、女性が4人ほどの――外見で人を判断するのは正しくないが――無頼漢に囲まれていた。
「通して下さい。邪魔をするのであれば、私も容赦はしませんよ」
 気丈な女性だ、と若者は思った。このような場所に一人でいるくらいだから、当然かもしれない。だが、市井の街娘にも見えなかった。服装は街娘の格好をしているが、立ち居振舞いや、言葉遣いは街娘のものではない。少なくとも、若者にはそう思えた。顔立ちも非常に美しい。肩の辺りまででまとめてある髪型が、よく似合っている。
「ちょっと付き合ってくれ、って言ってるだけだろう。いいじゃねえか。一人でこんなところに来てるんだ、てめえも……」
 男の言葉はそこで途切れた。その女性――というより少女と言った方が近いような気もするが――の手刀が、喉に叩き込まれたのだ。力がなくても、これは効果がある。呆気に取られた男に対して、女性はかがみ込むように力を貯めて、そのままもう一人の男のみぞおちを蹴りつけた。その時になって、残る二人は女性が抵抗してみせたのだということに気がついたようだ。しかし、あろう事か、男達は剣を抜いたのである。あまり手入れされているとは思えないような剣だが、それでも当たったときは怪我をする。このような場所で何を考えている、と若者は思ったが、思考より先に行動を起こしていた。
 突然入って来たもう一人の、しかも武器を持った若者に対して、男達は狼狽した。その間に、若者は一人の手から武器を弾き飛ばす。だが、驚いたのは女性も同じのようで、一瞬固まってしまっていた。そして、その後の対応は、無頼漢の方が早かった。つまり、女性を羽交い締めにして、剣を突き付けたのである。
「う、動くな。剣を捨てろ。さもないと、この女の首を斬るぞ」
 半ば正気を失っている。この程度で、と思わなくもないが、パニックに陥ったらこんなものだろう。どちらにせよ、このままではどうしようもない。若者は、剣を離した。すると、思わぬ方向から叱咤の声が聞こえた。
「なぜ剣を捨てるのです!!それでは何もならないでしょう!!この者たちの言いなりになって良いのですか!!」
 あきれたほどの気丈さだ、と若者は変なところで感心してしまった。だが、その直後に視界が暗転する。先ほど剣を弾き飛ばした男の蹴りが、みぞおちにめり込んだのだ。同時に、視界の端で女性が殴られるのが見えた。
「何言ってやがる、この女。ホントに殺す……」
 羽交い締めにしていた男の言葉は、そこまでだった。暗転した視界では、何が起きたのかは若者には分からなかった。しかし、その自分にも続く一撃は打ち込まれてこない。やがて視界が回復したとき、男達は凍り付いていた。
「指一本でも動かしたら、今度は眉間に当てる。ミディア、さっさと抜け出してこい。それからそこの兄ちゃん、大丈夫か?」
 聞こえてきたのは、若い男の声だった。蹴られた腹を抑えながら立ち上がると、金色の髪の若者が立っていた。年齢は、自分と同じくらいだろうか。長い、というよりは無造作に伸ばした髪の毛を後ろで束ねている。そして、その手には弓が握られていて、右手には複数の矢を持っていた。
 何とか立ち上がってから、男達の方を振り返り、そして彼らが凍り付いたわけを知った。文字どおり、紙一重で男達の服に矢が貫きとおされ、壁に縫い付けられたいたのだ。どの程度の距離から射たのか分からないが、とてつもない腕前だ。
 ミディアと呼ばれた女性は男から抜け出すと、若者が立ち上がるのを手伝った。
「おい、お前ら行け。後ろを振り返るな。さもなければ……」
 男達が、その言葉を最後まで聞いていたかは分からない。なぜなら、彼らはものすごい速度で走り去ってしまっていたのだ。

「助かった。礼を言う。俺は……」
「別に俺はあんたを助けようと思ったわけじゃあない。ミディアを助けたら偶然、お前さんも助けただけだ」
 男はあっさりとそう言うと、ミディア、と呼んだ女性の方に振り返った。
「ミディア、お前もいい加減しろよ。毎回探しに行かされる俺の身にもなってくれ。大体、今回なんて俺やこの兄ちゃんがいなかったら危なかったじゃないか」
 ミディアはただうな垂れていた。反論できないのだろう。
「ごめんなさい……」
「それはむしろ、こっちの兄ちゃんに言ってくれ。お前のために蹴られたんだからな」
「おい、そこまで言うこともないだろう。手を出したのは、俺が勝手にやったことで、彼女には関係ない」
 すると弓を持った男は、驚いたような顔になった。いや、実際驚いているか。それともあきれているのかもしれない。
「お節介な奴もいたものだ。とりあえずミディア、さっさと屋敷に戻るぞ。外に出たいなら、親の許可ぐらい取ってからにしろ」
 その言葉で、やはりこのミディアという娘が、少なくとも貴族や、あるいは豪商の娘であることは想像がつく。だが、それにしてもあの無頼漢を相手にしたときの気丈さなどは、なかなか普通の娘にはあるものではないだろう。若者は、ふと、ミディアという娘に興味が出たが、しかしまた、お互いの道が重なり合うとは思えなかった。
「助けてくれて、ありがとう……私はミディア、この人は父の友人の息子で、ジョルジュといいます」
 ミディアは、そういうと頭を下げる。ジョルジュはさっさと歩き始めていて、すでに背中しか見えなかった。
「あ、俺は……俺は、アストリア。見ての通り、しがない傭兵だ。もう会うこともないかもしれないけど、元気で」
 実際、会うことはないだろう。彼女はおそらくは上流階級の娘であり、自分は、これからアカネイアの軍に士官しようと思っていても、せいぜいが兵士長あたりだろう。もしかしたら、いつかまた会うことが出来るかもしれないが、その時彼女は自分のことなど覚えていないに違いない。
「ありがとう、アストリアさん。あなたも、どうかお元気で」
 ミディアは、もう一度頭を下げると、さっさと歩いていってしまったジョルジュに追いつくために、走り去ってしまった。

「まさか、傭兵からアカネイアの騎士になった初めての男が、あの時俺が助けた男だとは思わなかったぜ。助け損だったな」
 ジョルジュはあっさりそういうと、友人を振り返った。
「あの時は助かったさ。それにまさか、ミディアがアカネイアの将軍の娘だなんて思いもしなかったし、ジョルジュが、まさか弓聖と当時から呼ばれてるような男だとも知らなかったしな」
「そのお前も、今やアカネイア第一の騎士だ。そのメリクルソードがその証だからな」
 ジョルジュは、アストリアの腰にある剣を示してそういった。
 アカネイアに伝わる三種の神器の一つ、メリクルソード。アリティアに伝わる神剣ファルシオンと並び賞される、大陸最強の剣の一つである。暗黒戦争終了後、アストリアはその功績を称えられ、この剣をニーナ王女より下賜されたのだ。
「お前の持つ弓もな。もっとも、お前には初めて会ったときからその弓を持つ資格があっただろうが」
 ジョルジュの持つ弓もまた、三種の神器の一つである。炎の弓パルティア。弓では、間違いなくアカネイア大陸最強のものである。しかしまた、扱うにも高い技量を必要とされ、使うことが出来るの自体がジョルジュだけだといわれているのだ。
「何を、話しているの?」
 急に割り込んできたのは、ミディアだった。彼女もまた、軍装に身を固めている。白を基本に装飾をあしらった彼女の鎧は、非常によく似合っていた。
「ミディアも出撃するのか?」
 するとミディアは首を横に振った。
「私は今回はパレスの守備。けど、指揮官が平服ってわけにもいかないでしょう?」
 するとジョルジュは、じゃあおれは先に行くから、と行って歩き始めてしまう。気を利かせてくれたのだろうが、ちょっと露骨すぎる。アストリアは苦笑した。
「ジョルジュと何を話していたの?」
 アストリアは、ふと自分の恋人を見た。出会ったときと変わらない。いや、もっと美しくなったと思う。正直、再会したときは、驚いた。どちらがより驚いたかは分からなかったが。
「いや、初めて君と、ジョルジュに会ったときのことを、ふと思い出してね。昔話に花を咲かせていただけさ」
 すると、ミディアが膨れたような顔になった。
「ずるい。それなら私も混ざる権利があるはずなのに」
「そうは言っても君はここにいなかったじゃないか」
 アストリアが笑った。つられるように、ミディアも笑い出した。
「じゃあ、行ってくるよ、ミディア。パレスの守備だって危険がないわけじゃない。気をつけてくれ」
 すると、ミディアは急に不安そうな顔になる。
「気をつけてね、アストリア。今回、何かがおかしいような気がするの。それが、何なのかは分からないのだけど……」
 アストリアは大丈夫だ、必ず帰ってくる、といってジョルジュの去った方へ歩き始めた。一度、振り返ってみたが、ミディアはまだ見送ってくれていた。

 帝国歴二年。皇帝ハーディンの率いるアカネイア軍は、反乱を起こしたアリティア王太子マルスの軍を撃滅すべく、進軍を開始した。目指すはソウルフルブリッジ。そこで、アリティア軍を挟撃し、撃滅するのである。
 かつての英雄であるマルスを倒す。その違和感を誰もが拭い切れないまま、運命は進み始めていた。



written by Noran

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