赤い雨が降ったかと思われるような大地に、静かな雨がまるでその大地を浄化するように降り続けていた。時折強く吹く風は、雨の匂いとは別の匂いを、少女に感じさせる。山間の村で育ってきた少女にとって、この海からの風、というものは、全く違う風に思えた。かすかに感じられる匂いが、海の匂いというものなんだろうか、と思う。どこか冷たくて、でもやさしい感じ。普段戦場を駆け抜けるときの風とは、まったく違う風。 でも。 『この風の下でも、人々は争ってしまうのね』 そう考えるとやるせないような、情けないような気持ちになった。自分も、その争いに加わっていた一人である。剣を振るい、敵の兵士の命を幾度となく絶ってきた。少し前も、この今自分がいるバルコニーのあるペルルーク城を攻め落とすために、多くの人の命を奪ったばかりだ。慣れてきた、といえば慣れてきた。人の命を奪う、という罪科に。だが、それでもこのように落ち着いたときには、自分が今まで殺してきた人々のことを考えてしまう。ただ、その属した陣営が異なるというだけで人は殺し合う。そこに、怨恨はない。ただ、敵である、という事実があるだけ。だが、それだけで殺し合いをしてしまうのだ。 戦争とはそういうものだ。父はいつもそう言う。だが、彼女は知っている。父もまた、いつも人の命を奪うということに対する罪の意識を感じていることを。だが、彼らは戦いつづけなければならない。本当の世界を取り戻すために。 風が、ひときわ強く吹いて、少女の雨に濡れた金色の髪を揺らした。 「風邪を引くよ、ナンナ」 突然かけられた声に、少女は驚いて振り向いた。立っていたのは、少女と同じ位の年齢の少年。だが、そのもつ雰囲気は、少年から青年のものへと変わりつつある。レンスターの王子リーフ。少女と、少女の父が仕える王子であり、レンスター王国の正当な継承者である。 「リーフ様、このような場所に。風邪を召されますよ」 屋根のないバルコニーでは、雨を避ける術はない。風邪をひく、というならナンナも同じなのだが。 「君の方が風邪をひくよ。早く屋内に入って」 そういってリーフはナンナの手を引いて、屋根の下まで行く。上階のバルコニーが張り出していて、壁際は雨が当たらない。 ちょっと寒気がしないではないが、雨が、戦いの惨禍を、そして自分が浴びてきた返り血や、あるいは戦いの業のようなものを、多少なりとも洗い流してくれたような気がした。無論、それは傲慢というものだろうけど。 雨に濡れた髪が、少し重かった。いつのまにか、肩までだった髪が腰まで伸びている。これまで、邪魔に感じた前髪以外、切っていなかったのだから当然だろう。父は、母に似ている、と言っているが、彼女は母をよく覚えてはいない。 「リーフ様、このようなところに、どうなさったのです?」 彼女のその態度を見ると、リーフはちょっと苦笑した。それをナンナが見咎めて、不審そうな表情になる。 「あの……なにか?」 「いや、そういう堅いところ、やっぱりナンナはフィンの子なんだなあって」 そう言ってまた笑う。ナンナはなんとなく不機嫌そうな表情になるが、それもすぐに崩れた。 「父はラケシス母さまに似てきたと言っていますけど……」 「ラケシス様か……」 リーフもまた、ナンナと並んで海の方向を見た。水平線の彼方は、雨のためか霞んでいて何も見えない。だが、そこはもう、グランベル本土のはずだ。挙兵して一年近く。ついに彼らはグランベルを臨めるこの地まで来たのである。 「小さいころは、あの方が私の母上だと思っていたよ。正直、違うと知ったときは子供心にショックだった」 ナンナの母であるラケシスは、リーフが5歳になるころまでレンスターにいた。だが、その後イザークにいるというナンナの兄デルムッドを迎えに行くためにレンスターを発って以来、行方不明になっている。父は何も言わないが、あるいは覚悟していたのだろう。なぜ母一人で行かせたのか。それは、未だにナンナには許せそうにない。 「まだフィンを許せない?」 いきなり尋ねられて、ナンナはポカンとした表情になってしまった。それを見て、リーフがくすくすと笑いつつ、乾いた布を放る。ナンナは反射的にそれを受け取った。ややあって、その意図に気付き、やや緩慢な動作で濡れた髪を拭く。 「気持ちはわからなくはないよ。私も、なぜフィンが一人で行かせたのか、完全には理解できない。けどね。フィンはラケシス様を愛しておられた。それだけは、間違いない」 驚いて振り返るナンナに、リーフは優しげな笑みを見せた。一瞬、ナンナはドキリとして、言葉に詰まる。やや頬が紅潮しているのが分かった。リーフはそれに気がつかなかったのか、あるいは気がつかない振りをしているのか言葉を続ける。 「君や私の前では弱みを見せまいとしているけど、オイフェ殿や、レヴィン殿には、どうしても本音が出るのかな。彼らから聞いたんだけどね。未だにフィンは、ラケシス様を一人で行かせたことを後悔しているらしい」 「でもだったら……!!」 いきなり声を荒げてしまったことにナンナは気づいて、慌てて声を下げる。小さく深呼吸をして、気持ちを落ち着かせた。 「でも、ならばなぜ父は一人で行かせたのですか? イード砂漠が危険だというのは、分かっていたはずなのに。なのに……」 「それは、ナンナも答えが出ているんじゃないの?」 リーフは落ち着いて言った。ナンナは言葉に詰まる。 そう。分かっていた。父が、母を愛していたことも、そして、それなのになぜ母一人でイザークへ行くのを止めなかったのかも。そして、なぜついていかなかったのかも。だが、分かっていても、頭で分かっていても感情が納得できない。もう父を許している自分と、まだ許せない自分が、ずっと自分の中で渦巻いているのだ。 「フィンには本当に感謝している。フィンがいなかったら、私はとうに野垂れ死んでいたことだろう。フィンと、そしてラケシス様は、私にとって命の恩人であり、また家族も同然なんだ。もちろん、ナンナ。君もね」 「私は……父のことを、尊敬はしています。それに、実際私は恵まれているとも思います。解放軍には、両親の記憶すらない人達がいっぱいいるのに、私は父は今も生きて、私を守ってくれるのですから。でも……」 ナンナは唇をかみ締めて、下を向いていた。もし母を一人で行かせなければ、あるいは母も今ここにいたかもしれない。それは、あまりにも贅沢な望みであることは分かっている。だけど、望まずにはいられないのだ。 「分かっています。これは、私のわがままなんだ、ということは。父が、なぜ母を止めなかったのか。一緒に行かなかったのか。そして……」 一度、ナンナは父に問い詰めたことがある。「なぜ母を一人で行かせたのか」と。その時、父は「いつか分かるときがくる」と言って取り合ってくれなかった。いまならば、なんとなく分かる。母がなぜ一人で向かったのか。父はなぜ共に行かなかったのか。だが、それでもこだわってしまうのは、やはりまだ自分が子供なのだろうか。 「多分、結局私が意地をはっているだけなんだと思います。今はまだそれで納得できないのですが……」 そう言ってから、ナンナは顔を上げて、もう一度海を見た。風がまた強く吹いて、水気を拭き取られて軽くなった髪の毛を風に舞わせる。雨は、いつの間にか上がっていた。 多分許す許さない、とかそういう問題ではないのだろう。父は、自分に言われるまでもなく、あるいは自分以上にずっと苦しんでいたのだ。それは、見ていて痛ましいほどに。けれど、それに気付かない振りをして、父を責めるのは、結局子供の我が侭なのだろう。 「気持ちいいですね。リーフ様。海からの風って、こんなに気持ちのいいものだって知らなかったです」 いきなりナンナは話題を転じた。これ以上考えていても、だんだん自分が子供だと気付かされるだけのような気がしたのだ。 「ああ。そうだね」 一瞬、その風に流れる髪の毛に見とれてしまっていたリーフは、慌ててそれだけ答える。 「ミレトス地方って、自由貿易を行う都市郡があって、とても豊かで美しい場所だと聞いたいたのですけど……やはりここも荒れてしまっていて……」 この今いるペルルーク城も、美しい街並みと、白い砂浜、青い海で有名な街である。いや、美しい街であった。 だが、今はその面影を残すのは、砂浜と海だけ。街並みは、ボロボロになっている。戦争の爪跡。その一端を担ったのは自分達であるのだ。戦わなければ、そして勝たなければ意味がない戦いであるのだが、それでもやはり荒れた街並みを見ると、心が痛む。 「そうだね。帝国の支配がここまでひどいとはね。ナンナ。私達はただ勝つだけではだめなんだ。私達は、勝った後にレンスターはもちろん、大陸の全てを元に戻し……かつての平和な世界を取り戻さなければならないのだから。そのためにもナンナ、君も力を貸してくれ」 そういう時のリーフ王子の顔は、紛れもなく「王」の顔であった。自分や父が仕える、レンスターの王。そして、今のナンナにとって、主君であると言う以上に大切な方である。 「はい。私も、弾き語りで聞いていた、このミレトス地方は、憧れでした。美しい街並みや、そこの珍しい品物……きっと素敵だろうなって」 ミレトスの美しさは、本や、詩人達の吟じる詩などでよく聞いていた。貧しい山間の中で暮らしていたナンナにとっては、ミレトスの美しさは、別世界のように思えていたのだ。 荒れ果てた街並みは、それでもかつての美しさをどこかに思わせるが、それゆえに今の荒れ果てた街は痛ましく思える。一日も早く、元の街並みを取り戻すためにも、平和を取り戻さなければ、と思うのだ。 「ナンナ……この戦いが終わって、世界が平和になってここも元に戻ったら、またここに来ようよ。二人だけで」 突然のリーフの申し出に、ナンナは言葉を失った。 「レンスターからここは近いとは言いがたいけど……でも、できればここを君と歩きたい。かつての、私の父上や母上のように」 ナンナの心は、戦場で強敵と相対したときより、ずっと動悸が激しくなっていた。その理由は分かっている。いつも想っていた。だが、それが現実になることはないと思っていたのに。 「父上はここで、母上にパールのティアラを贈ったって聞いた。父上の真似をするつもりはないけれど、でも、私も君とこの美しい、いや、美しく甦るであろうこの街を歩きたい。……だめだろうか?」 何も言わないナンナに、不安になったのかリーフはやや自信なさげに聞いてくる。ナンナは慌てて首を振った。 「そ、そんなことありません。あの、私……」 嬉しさのあまり、言葉が続かない。今まで、兄妹のように育ったきた。けれど、ナンナは常にリーフ王子を見続けていたのだ。父が、リーフ王子を守るのとは別の理由で、ナンナもまた、リーフ王子には絶対に死んで欲しくなかった。けれど、それだけでいい。そう思っていた。 「いえ、あの、その……」 口が回らない。というより上手く言葉が出ない。言いたいことは、決まっているのに、それを言葉にしようとすると、とたんにすべての言葉が無力になってしまうような気がする。どう言っても、何も伝わらないような気すらしてきてしまう。 「私、あの……私……も。私もリーフ様と一緒に歩きたいです。この街を……」 かろうじて、それだけを言う。けど、字面通りの意味と取られたらどうしよう、などと考えてしまうが、それだけを言うのが、今のナンナには精一杯だったのだ。 「ありがとう、ナンナ」 そういったリーフの表情は、とても晴れやかに見えた。その時、ナンナはリーフもまた、ひどく緊張していたことに気がついた。結局、お互いの想いに気付かないまま、ずっと来ていたのだ、ということに気がついたナンナは、何故か急におかしくなって、笑い出してしまった。つられて、リーフも笑う。その時、雲間から太陽の光が洩れてきた。陽の光は、海面のところどころを幻想的に照らしていた。雨が上がった直後にしか見えないであろう、澄んだ風と光の織り成す光景。そしてその時、光はもう一つの奇跡を、彼らの前に現出させてくれた。 「リーフ様、あれ……!!」 ナンナが指差した方角には、橋が架かっていた。天を、彼方から此方へ繋ぐ橋。美しい七色の光で織られた虹。彼らの育った場所では、虹は山から山にかかる橋だった。だが、ここでは。まさしく、遥か彼方から伸びる、天空を彩る橋。あるいは、光の門にも見える。あまりの雄大さに、二人はしばし言葉を失っていた。 「……ナンナ。あの橋の向こうが、グランベルだ。私達は、そこへ向かわなければならない。戦うために。けれど、必ず生きて戻ってこよう」 『虹のふもとには、希望がある』 数少ない、ナンナが持つ母ラケシスの思い出の一つ。確か、母はそう言っていた。母が、虹にどのような想いを持っていたのかは分からない。今は、虹のふもとにはおそらく彼らにとって多くの難関が待ちうけているのだろう。けれど、虹のふもとに辿り着いたとき、それは彼らの戦いの終着点のはずだ。そこに着いたとき――その戦いが終わったとき。その時はきっと、世界は希望を取り戻すはずだ。 「はい。リーフ様。必ず、またここへ来ましょう。その時は、私も一緒です」 リーフはナンナに最高の微笑みを見せると、小さくうなずいた。風が柔らかく、二人を祝福するかのように吹きぬける。 戦いはまだまだ続く。あるいは、もっと激しさを増していくだろう。だけど、その戦いは、確実に希望へと繋がっているはずなのだ。 虹はまるで、その希望の存在を教えているように、ナンナには感じられた。 |
written by Noran |