明け方まで降っていたらしい雨が、大気を適度に湿らせていた。その湿り気を帯びた風が心地よい。シレジアの夏ほどではないだろうが、ここシアルフィの早春も、気持ちのいいものだな、と若者は思った。少し、心が踊っている。ただ、その理由は気候や天気のせいでないことは、彼自身もよく知っていた。 「キュアン。もう行くのか?」 呼ばれて、振り返る。キュアンと呼ばれた若者と同じ位の背の高さの若者が立っていた。 「それは私ではなくて、君の妹に聞いてくれ、シグルド」 応えられた方は「それもそうか」と苦笑すると、今まさに、屋敷の正門から馬を駆ってくる自分の妹を見た。 「お待たせっキュアン様っ」 「すまないな。こんなじゃじゃ馬の面倒を見てもらって」 間髪いれないシグルドの言葉に、その少女の顔が膨れていく。だが、そんな所作も、キュアンには愛しく見える。 「かまわないさ、シグルド。それに、私も帰る道すがらだし」 照れ隠しではある。もう今更隠すようなことではないのだが、そう言ってしまうのはキュアン自身の性格によるものだろう。 レンスターの王子キュアンは、この春バーハラの士官学校を卒業した。卒業する、というほど明確な修了規定があるわけではないのだが、それでもめでたくはある。その士官学校で、キュアンが出会ったのがシグルドであった。グランベル王国七公国の一つ、シアルフィの公子。第一公位継承権者であり、聖剣ティルフィングの継承者でもある。地槍ゲイボルグを受け継ぐ立場にあるキュアンにとって、初めての、完全に対等な友人であった。 もう一人、士官学校で友といえる人物に、キュアンは出会っている。アグストリア諸公連合の一つ、ノディオン王国の王子エルトシャン。いや、すでに王子ではない。士官学校卒業と同時に、彼はノディオンの王位を継ぎ、正式に国王となっているのである。 本当は、三人で卒業後しばらくは気ままな旅でもしないか、とか話していたのだが、彼らの卒業寸前に、エルトシャンの父王が病に倒れ、そのまま重態となってしまったため、急遽エルトシャンが王位を継ぐことになり、帰国してしまった。キュアンとシグルドとしては、せっかく三人で、と思っていたのに一人欠けてしまい、結局旅に行くのは止めたのである。 ただそれでも、キュアン自身はまだ父カルフも健在であり、もうしばらく気ままな生活をしても許される身分であったため、シグルドのいるシアルフィに長期滞在していたのである。途中、エルトシャンのいるノディオンにも行ったりした。 たださすがに、一月以上もいると、そろそろ帰らなければならなくなる。そろそろ帰ろうか、という時になったとき、シグルドの妹エスリンがミレトスに行く、という話を持ちかけたのである。 ミレトスはシアルフィからは近い。馬で行けばせいぜい四、五日というところだ。はじめ、シグルドも賛成し、一緒に行くはずだったのだが、行けなくなってしまったのである。間が悪く、公子を対象としたフリージ家主催の式典の招待状が届いたのだ。ただ、本来ならエスリンも出席しなければならない。ところがエスリンは、意地でもミレトスに行く、と言って聞かず、結局シグルド一人が行くことになったのである。エスリンは体調がすぐれない、ということにすることにして。 「私だって、あまりあのフリージ公主催のパーティーなんて行きたくないんだがな、エスリン」 シグルドはちょっと恨めしそうな目でエスリンを見た。するとエスリンはシグルドの前で手を合わせる。 「ごめんなさい、兄上。でもこの時期、ミレトスで催されているっていう、あの大橋の落成記念祭、今年ちょうど百年目ですっごい立派だって聞いているの。私、半年も前から楽しみにしていたの。お願い」 ここまで話を運んでお願いもなにもないだろう、とは思ったがシグルドはそれは口に出さなかった。代わりに出てきたのは悪態である。 「私も出来ればそれに行きたいんだけどな。……まあいいさ。とりあえず、キュアンは護衛役としては申し分ないしな」 そう言ってからキュアンのそばに言って声をすぼめる。 「エスリンをよろしく頼むな。それじゃ」 そう言うとシグルドは屋敷に戻っていった。彼も、今日には発たないと式典には間に合わない。 「それではキュアン様、行きましょう♪」 キュアンはいいのかな、という気持ちがなくもなかったのだが、結局エスリンに引っ張られるかたちで馬を進めた。 供はいない。キュアンとエスリンだけである。確かに、グランベル王国内は平和であるし、特にシアルフィは治安がよい。護衛など必要ないとはいっても、公女を一人、ミレトスにまで送り出していいものなのだろうか。それに、大体護衛役のはずの、自分自身、護衛なのかどうか、怪しい。 シグルドだって、自分の気持ちは知っているはずなのに。そうは思うのだが、送り出してくれたときの、あのにこやかな顔は、キュアンをひとかけらも疑っているようには見えない。 「どう思いました? 父上。キュアンを」 当惑しながら馬を進めるキュアンを、執務室から見ていたシグルドは、椅子に座っている父親を振り返った。 「よい若者じゃないか」 ええもちろん、とシグルドは笑みを浮かべた。それは、妹と親友の両方を祝福するものであった。 |
ミレトスまでの道は、何事もなく経過した。元々、治安のいいシアルフィでしかも街道を通っているのだ。盗賊など、出ようはずもない。途中にいくつかある宿は利用したが、もちろんエスリンとは別の部屋だ。彼自身としては本当に本音を言えば、このままエスリンをレンスターまで連れて行きたかった。だが、実際まだエスリンに結婚を申し込んでもいないし、大体それ以前にシアルフィの公女をレンスターの王子が攫ったら外交問題になる。 こうもあっさりとエスリンと二人きりにするシグルドの考えがキュアンにはよく分からなかったのだが、だがとりあえずエスリンと一緒に旅を出来るだけでも幸せだと思えるので、それで満足していた。それに、ミレトスは非常に美しい街並みで有名であり、恋人達の憧れの場所でもあるのだ。そこを、エスリンと二人だけで行けるというのは、正直望外のことだった。 「疲れてはいないか、エスリン公女。もうすぐミレトスだから、そうしたら休めると思う。それまでがんばってくれ」 元々、ダンスより乗馬が得意だという公女に、こんな気遣いは無用である。キュアンもそれは承知しているのだが、そうでもしないと会話が続かなくなってしまうのだ。 「ええ、大丈夫です、キュアン様。それにしても、申し訳ありません。わざわざ、ミレトスまで……遠回りでしょう?」 確かに、シアルフィからレンスターに帰るのであれば、ミレトスは遠回りになる。普通に帰るのであれば、エッダからメルゲン谷を抜けてマンスター地方に入るのが普通だ。 「いや、私も一度ミレトスは行ってみたかった。正直、一度国に戻ってしまうとなかなか行ける場所ではないから、良い機会だ」 嘘ではない。だが、本心でもない。エスリンと一緒にミレトスを歩きたかった、というのが真実だ。いや、別にミレトスでなくてもかまいはしないのだが。 帰国してしまっては、そうそうシアルフィまでは来れなくなる。つまりそれは、エスリンとも逢えなくなるということだ。 また、国に戻ったら妃の問題も出てくるだろう。自分ももう二十一歳。正妃を立ててもおかしくない、というよりは然るべき年齢だ。 もちろんキュアンは、その時に父王にエスリンのことを言うつもりではある。レンスターの王子とシアルフィの公女。身分的にも釣り合うし、外交的にも意味がある。おそらくそれほど障害なく話を進めることが出来るだろう。 だがそれは、キュアンが求めている形ではない。その話の中では、エスリンの意志は無視されることになるだろう。 もし、自分のことを結婚相手としては見ていないとしたら。 だがそれでも、一度話が出てしまえば、エスリンの意志は無視されかねない。シグルドや、少ししか会わなかったが父であるバイロン卿などは、そのようなことをする人物ではないだろう、とは思っていても、それと国同士の関係、というのは別問題であることが多い。 国と言うのは一種の生き物だ。その中で住む人がどう考えても、思うように動かない。自分と、エスリンが結婚するとしたら、それは、その「国」という存在にとっても大きく意味のある行為なのだ。エスリンを正妃に迎えたい、とは思う。だが、もし彼女が望まないのであれば、それを強いるつもりは、キュアンにはまったくなかった。 そのためにも、今回のミレトス行は絶好の機会である。いや、機会のはずだ。しかし…… 「これほど、自分が情けないとは思わなかったなあ……」 「はい?」 「あ、いや。なんでもないです。その」 「ふふっ。おかしなキュアン様」 聞かれてから、キュアンは心の内の言葉が口から出ていたことに気がついた。慌てて取り繕う。かなり不自然だが、エスリンは気付いた様子はなかった。 「あ、もう海が見えてきましたよ、キュアン様。もうすぐですね」 エスリンは馬を早めた。慌てて、キュアンが追いかける。見えてきたのは、深い青。そして、その青と、空の青との二色の境目に、細く白い線が走っていた。ミレトスの大橋である。エスリンも見えたのか、嬉しそうに、さらに馬の速度を上げている。 「キュアン様!! あれですよね、ミレトスの大橋!!」 その白亜の長大な橋を指差して、エスリンは嬉しそうに叫んだ。 |
「これはまた、すごい盛況だなあ」 多分、今の自分は文字通り、田舎から来た観光客状態だろう、というのは分かっていたが、それでも回りをきょろきょろ見まわさずにはいられなかった。噂には聞いていたが、これほど美しい街だとは思わなかった。 かつて、まだロプト帝国が存在した時代に、この地方はもっとも凄惨な儀式が最も多く行われた場所だといわれている。 すなわち、生贄の儀式。 しかも、その暗黒神に奉げられたというのは、そのほとんどが子供であったらしい。その後、かの聖戦を経て、ミレトス地方は生まれ変わった。大陸で最も美しい場所へと。 それは、あるいはかつてこの地域であった悲惨な出来事を覆い隠すためだったのかもしれないが、それでもこれだけの復興を果たすまでには、並々ならぬ努力があったのだろう。 まして、今ちょうど祭りの時期だという。元々、エスリンがこの時期に来たい、と言い出したのがもとなので、賑わっているのが当たり前なのだが、こうなると宿を確保できるのだろうか、ということが不安になってくる。 「あ、そういえば兄上から手紙もらっていたっけ」 エスリンが突然そういいだしたのは、ちょうど大通りが大広場へとはいる、その場所であった。エスリンはややあって、シアルフィの紋で封印された封筒を取り出す。 「ミレトスに着いたら開けてみろですって。何でしょうね」 エスリンはナイフを取り出して封をとく。中に入っていた手紙を読み……ちょっと怪訝そうな表情になった。そのまま、キュアンにその手紙を渡す。それは、間違いなくシグルドの筆跡だった。 『キュアン、エスリン。多分君達のことだから、宿を予め取っておく、なんてことまで気は回らないだろう。とりあえず同封した地図の宿まで行ってごらん。私の方で手配しておいたから』 「……シグルド……」 出発前は何も言っていなかったはずである。それ以前に、キュアンとエスリンがこの時期にこのミレトスに来るなど、誰にも分からなかったはずだと言うのに。まさか、出発した後に早馬を飛ばしたわけでもないだろう。それならば、この手紙はありえない。 「つまり、読まれていたわけだ。エスリンがミレトスに行くのも、そして多分私が一緒に行くのも」 キュアンの独り言は、街の喧騒にまぎれてエスリンの耳にまでは届かなかった。無論、続くキュアンの口篭もった声も届きはしない。 「気を回し過ぎだ、お前は。俺のことより、自分はどうなんだか」 |
シグルドの指示してくれた宿に向かったとき、キュアンは半ば凍りついた。エスリンも同じだっただろう。 「フィン?!」 二人同時の声。 「どうして、ここに?」 これも同時。そして、同時に問われたフィンの方は、聞かれることを予測していたのか、それほど驚いた様子も見せずに――実は結構驚いていたのだが――その質問に答えた。 「いえ、シアルフィのシグルド様に頼まれて、ここの宿をお取りしていました」 取った宿も一流なら、取ってある部屋も広かった。というよりは、本来は王族などが使う部屋である……とまで考えて、キュアンは自分が王族であることを思い出した。さすがに数年間バーハラの士官学校の寮で暮らしていたので、感覚を忘れかけている。しかし、この部屋は正直、レンスターの城の自分の部屋よりも立派だ。 「ここまで、お前だけで?」 確かにフィンはしっかりしているとは言え、まだ十二歳の少年だ。その少年一人で、こんな手配が出来るのだろうか。 「まさか。マイセン様もいらしています。私は、付き添いです」 フィンの言葉に続いて、老齢の騎士が現れた。レンスターの誇るランスリッターの長である。もっとも、キュアンが帰国し、正式に王太子となったら、引退することになっている。 「キュアン様。お久しぶりです。三年ぶりでしょうか」 マイセンは、堅苦しいと思えるほどきっちりとした礼を取る。フィンもそれに倣った。 「そうだな。ヴァインスターの騒乱以来……そうか。フィンがレンスターに来て以来か」 そういって、キュアンは初めて自分が騎士の宣誓を受諾した少年を見た。背は、当然だが伸びている。顔つきも、少しは変わったと思うが、まだまだ少年のそれだ。 「久しぶりだな、フィン。元気にしていたか?」 考えて見れば、最初に言うべき言葉であったのだが、つい忘れてしまった。実際、まさかレンスターにいると思っていたこの二人がここにいるとは思ってもいなかった。ということは、シグルドは少なくとも二十日以上前から今日の事態を推測していたことになる。 「はい。キュアン様も、エスリン様もお元気そうで、なによりです」 礼儀正しいところは相変わらずだ。あるいは、もっと堅くなったかもしれない。 三年前、フィンを引き取った後、キュアンはまたすぐ士官学校に戻らなければならなかった。そのため、キュアン自身の教育係でもあったマイセンにフィンの教育を頼んでいったのである。後で考えれば、更なる堅物を作ってしまったかもしれない、と思えても来ていたが、どうやらその通りになったらしい。苦笑するしかない。 「この宿は、祭りの期間中は確保してあります。どうぞ、ご自由にお使い下さい。我々は、別の宿におりますが、この宿のものに聞けば、すぐ伝言してくれます。それでは」 「お、おいちょっと……」 しかしマイセンもフィンも、キュアンが呼びとめるのが聞こえなかったのか、あるいは聞こえなかったフリをしたのか、そのまま階下に下りてしまった。 「兄上……なんかずいぶん準備が良いのね。でも、せっかくだから、お祭りを楽しみましょう、キュアン様」 「い、いやしかし……」 いくら部屋がいくつかに別れているとはいっても相部屋には違いない。いくらなんでも、それはまずい。 しかしエスリンは気にした様子もなく、さっさと荷物を部屋に置くと、また出かける準備をしている。 「キュアン様、行きましょう。祭りはあと三日ほど。時間がもったいないです」 当惑した表情のまま、キュアンはエスリンに引きずられる形で外に出ることになった。 |
実際、街に出てしまえば、キュアンもとりあえず考えを後に回す気になった。沈んだ気持ちで回るのは、あまりにももったいないと思えたからである。 ミレトスの街は、貿易でその富を獲得した街である。大陸中の色々なものが、この街では取引されている。中には、キュアンもエスリンも見たことのないような、どこの国のものかもよくわからない品物が多い。 貴族の婦女子などは、よくそういう品々の知識に詳しいものらしいが、エスリンが詳しいとは、キュアンも思っていない。ダンスより剣をより嗜んでいるような姫である。だが、その快活さに惹かれたのだ。 「ふふっ。どれも珍しい品ばかりですね。それに、賑やかで、とっても楽しいそうだし。あ、あれ、なんでしょう?」 まるで、子供のようにはしゃぎ回っている。その姿を見て、まさかその彼女がグランベル七公国のひとつの公女だと思う者はいないだろう。ただ、実際色々な催し物はキュアンの気も引いた。大道芸、吟遊、数人による演奏、寸劇。どれも、キュアンもほとんど見たことのないようなものばかりである。 祭りの間は、どうやらここに滞在することが許されたようだ。だとすればまだ時間はいくらかある。その間に、自分の目的を果たすチャンスもあるだろう、とキュアンは考えて、祭りを楽しむことにした。 |
結局その日も、そして次の日もキュアンとエスリンは遅くまで祭りを楽しんでいた。実際、これほど大きな祭りは二人とも初めてであったし、まだ、本来の立場を考えれば、そう軽々しくこのような催し物を楽しめる機会はあまりないのである。 そのためか、キュアンもエスリンもすっかり疲れ切って宿に戻ってっ来る日が続いていた。キュアンは、マイセンとフィンがどこで何をやっているのかが気になりはしたのだが、かといって探しに行くほどの必要を感じなかったのも事実で、結局連絡は取っていない。 予定では祭りは明日で終りである。キュアンはその翌日には帰国しなければいけないし、エスリンもシアルフィに戻るのだろう。エスリンが帰り道独りになるので不安を感じなくはなかったのだが、それは今日宿に帰ってきたときに杞憂であることも分かった。考えてみれば、これだけ手回しのよかったシグルドが、エスリンの帰路のことを失念しているわけもなく、シアルフィの騎士が二人、エスリンを迎えに来ていたのである。 明日。 気が付いたらあっという間に時間は過ぎてしまって、もうそうなってしまった。隣室――といってもかなり広いため、相当離れているのだが――にエスリンが眠っているはずだ。本音を言えば、やはりこのまま連れ帰りたい。だが、エスリンの気持ちを確認していない、という事実が彼をそこまでの行動には出させない。 だがせめて。ある言葉だけでも言わなければ。次にいつ逢えるかすら分からないのである。 正直、自分でもこれほど情けないとは思わなかった。たった一言をいうことができないのである。 「エルトはどうしたんだろうか……いくら親に決められた妻とはいっても……」 ふと親友のエルトシャンを思い出した。親に決められた妻といいながら、ノディオンに行ったときはしっかり仲睦まじさを見せつけられた気がする。エルトの妻であるグラーニェは、レンスターの貴族の娘であり、キュアンもよく知っていた。体がやや弱いのだが、それでも確か、二桁以上の求婚者がいたと記憶している。一時期は、キュアンの正妃に、という話もあったというが、これはよく知らない。結局彼女は、ノディオンに嫁いでいったのだが、その時、エルトとキュアンが知り合いである、ということが分かって、キュアンは同国の貴族の子弟達に、恨み言を言われてしまったのである。 「いっそエスリンが、許婚だったらいいのに……」 無茶な話なのは分かっているが、それだったらどれほど楽か。いや、だがそれは卑怯だろう。それにもし、エスリンがレンスターに行きたくない、などと思っていたらそれは彼女に悪い。 「……どっちにしても明日だ。明日言えなかったら……」 キュアンはレンスターへ、エスリンはシアルフィへ帰る。もうそう簡単に会うことはできなくなる。手紙ででも、正式に申し込めば話を進めることは不可能ではない。だがそうなると、エスリンの気持ちを無視して話が進みかねない。キュアンは、それだけは避けたかったのだ。 |
祭りの最終日は、当然だがこれまでで最大の盛り上がりを見せていた。道行く人々は、笑い、歌い、踊り、そして道々の色々なものを見入っている。大きな、滑車のついた台の上に、十二聖戦士を象った彫像――といっても木で彫られたものだが――が乗ったものが、大通りを次々と通りすぎていき、その周りで多くの人々が踊っている。そんな中を、キュアンとエスリンも歩いていた。 正直、もっと早くミレトスにくればよかった、とは思う。同時に、シグルドも来ればよかったのに、とも思うが、そうなるとエスリンと二人で祭りを見て回る、などできなかったのだから、そう考えると複雑な気持ちではある。 しかし、祭りが盛況なのは、今のキュアンにとっては都合の悪いことでもあった。とにかく、二人になれない。街中でいきなり言うのはあまりにも風情がなさ過ぎる。しかも、祭りの真ん中で。もっともその方が勢い、というものを利用できるから言いやすいのかもしれないが、それはずるい気もする。 その時、「きゃ!」というエスリンの声がして、一瞬キュアンは驚いて振り返った。が、すぐにその緊張を解く。エスリンに、十一、二歳くらいの女の子がぶつかっただけであった。 「あ、あのすみません。その、よそ見していて」 女の子がひどくおどおどしている。どうしたのかと思ったら、氷菓子を持っていたのだろう。それがエスリンの服に付いてしまったのだ。 「いいのよ、気にしないで。私もぼうっとしていたから。このぐらい、気にしないから」 エスリンはかがみこんで女の子と視線の高さを合わせて言う。その笑顔に安心したのか、女の子の方はまた笑顔を取り戻したようだ。ただ、キュアンが驚いたのは、その直後に現れた人影だった。 「フィン?!」 その声に、女の子が反応する。 「あの、お知り合いですか?」 知り合いもなにも、といいかけたがキュアンは黙っていることにした。だが、フィンの方は何があったのかを察したらしく、驚いてしまっている。だが、何か言い出そうとしたのをキュアンが制した。 「フィン、お前も友達見つけていたんだな。まあ出発は明日だ。それまでは気にせずに遊んでいていいぞ。それじゃ」 それだけ言うと、やや足早にその場を立ち去った。一つには、フィンの口から自分達の身分が漏洩する可能性を恐れたのもある。 「エスリン、服は平気?」 見たところ、スカートにかなりべったり付いてしまっている。エスリン自身も女の子の手前、大丈夫、と言ったがさすがにちょっと気になる。 「う〜ん。ちょっとさすがに。着替えてきた方がいいかしら……」 しかし、宿からはかなり離れてしまっている。今から戻ると、結構な時間の無駄だ。 「せっかくだから、買って行こう。ミレトスまで来たんだ。これまで大きな買い物もしていないし、ちょうどいい」 エスリンはちょっと迷ったようだが、結局キュアンの言う通りにした。実際、戻る時間が惜しかったのはエスリンも同じだったのである。 |
二人が入った店は、比較的高級な服を売る店であった。エスリンはもっと安くても、といったのだが実際グランベルの大貴族の姫にそう安い服を着せるわけにもいかない。かといって、あまりにも高級なところは、今の状態では入店を拒否される可能性もあったのだ。 「あの、いいんですか? キュアン様」 店を出たエスリンは、もうしわけなさそうにキュアンに聞いた。 実際、エスリンはそれほどたくさんお金を持ってきているわけではなかった。無論、ここでの支払いに困るようなことはないのだが、キュアンがプレゼントする、と言い出したのだ。自分の不注意だから、と言ったのだが、結局キュアンに押し切られる形になってしまっている。 「構わないさ。このくらいなら、父上も大目に見てくれる」 エスリンが選んだ服は、やや黄色がかった、いくらかの飾りの付いたワンピースであった。馬に乗るには合わない服だが、どうせ今日は馬に乗るわけではない。すでに日は暮れかけていて、赤みを増した陽光が、服を橙色に染め上げていて、それが余計に綺麗に見えた。 欲目かな、と思わなくもないが、エスリンは何を着ても似合うと思う。貴族の娘らしくドレスを着ても、あるいは活動的な服を着ても。 「そういえば……」 「な、何?」 エスリンの声に、キュアンはちょっと慌てて応対してしまった。やや呆然とエスリンに見とれていたのである。だが幸いにも、エスリンは気付かなかったようだ。 「さっきのフィンといた女の子、どっかで見たことないかしら?」 「どっかってどこで?」 「それが分からないのだけど」 いわれてキュアンは先ほどの女の子を思い出しみた。見事なほどの金色の、やや長い髪の毛だった。この辺りで金色の髪の持ち主、というとユングヴィかあるいはエッダに多い。だが、とりあえず思い付くのはいない。もともと、その辺りには詳しくないし、むしろエスリンの方が詳しいはずだ。 「私は、分からないけど」 「ま、いいわね。あとでフィンに聞いてみたら?」 キュアンは「そうだね」とだけ返事を返す。 いつのまにか陽は水平線にかかっていた。大橋には、その沈み行く太陽を見る多くの人が――大半は恋人達だが――西側に集まっている。 「明日でお別れですね、キュアン様」 橋に当たる波の音に混じって、エスリンのか細い声がキュアンの耳に届いた。 そう。明日まで。明日になれば、キュアンはレンスターに戻り、正式に王太子となる。エスリンもシアルフィに戻らなければならない。 シアルフィとレンスターは遠い、というほどの距離ではないが、だが近いといえるほどでもない。 キュアンの心が、ちくちく痛むのは、だが離れ離れになる、ということだけではない。 言おう言おうと思っていて、未だに口にできない言葉。言おう、と思ったのはもう一年以上前だ。だというのに、このギリギリの状況でも言うことができない。自分はこれほど情けなかったのか、と思うが言い出せないでいるのはやはり情けないからだろう。 「私、シアルフィに戻ってからも、キュアン様にお手紙書きますね。キュアン様も、お暇なときでいいですから、返事、下さいね」 「ああ。必ず、返事を出すよ……エスリン」 そう言いながら、キュアンは荷物から小さな箱を取り出した。荷物は、エスリンの汚れてしまった服を持っていたのである。エスリンはなんだろう、というように小箱を見つめた。 「これ、今回の記念にって思って。受け取って、くれるかな?」 開けた箱から出てきたのは、パールを散りばめたティアラであった。それほど大きくはない。かわいらしい、かつ上品な装飾が施されている。 「え……でも、こんな高価なもの……」 キュアンはそんなことは気にしなくていい、といいながらそれを小箱から取り出し、エスリンに付ける。 「あの、本当にいいんですか?」 「君に私があげたいから、あげるんだ。気にしなくていいよ」 エスリンが服を選んでいる時に、その隣の店で見つけたものだ。見た瞬間、エスリンに似合うと思って買ったのだが、渡す機会を逸していたのである。 「ありがとう……ございます。あの、着けてみてもいいですか?」 「もちろん」 エスリンは箱からティアラを取り出し、頭に着けた。思ったとおりそれは、エスリンに本当に似合っている。 「ふふ。似合いますか?」 「あ、ああ……似合ってるよ、エスリン」 言うべき時は、そして言う機会は今しかない、と分かっているのに、いざとなるとなかなか声にならない。あまりにももどかしいが、その要因が自分である以上、自力で何とかするしかないのだ。 「エスリン、その、あの……」 「はい?」 エスリンはきょとん、とした感じでキュアンを見上げていた。 「その、今、じゃないけど、その、いずれレンスターにも来てもらえないか?」 「え……あ、あの、それは……その……」 多分今の自分は、さぞ滑稽に見えるだろうけど、キュアン自身にそれを補正する余裕はなかった。 「その、つまり、私の妃になってほしいんだ、君に」 言った後で、どっと疲れが来た。士官学校で、どんな訓練をしたときより疲れている気がする。 そして二人の間に、沈黙が訪れた。 だが、エスリンからの反応が全くない。下を向いたまま、じっと動かなかった。 「エスリン……?」 半ば、絶望的な予感がキュアンの全身を支配しかけたとき、エスリンは顔を上げた。喜びと、あと少しの怒りが入り混じっているような表情が、浮かんでいる。 「やっと、言って下さいましたね、キュアン様」 半ば、泣いている様にも見える。いや、それは気のせいではなかった。エスリンの瞳は、涙に濡れている。そしてその涙が、夕陽を映じて朱色の雫になって次々に流れ落ちた。 「ずっと、ずっと言って下さるの待っていたのに。なのに、キュアン様、言ってくださらなくて」 「え……じゃあ……」 なんてことだ。自分一人で悩んで、結局空回りしていただけだというのか。しかも、ずっとエスリンを待たせていたとは。 「もちろん、喜んでお受けします。キュアン様……」 キュアンはエスリンを抱きしめた。エスリンもキュアンを強く抱く。 今この場所には、沢山の恋人達がいて、キュアンにはそれが羨ましかった。だけど。 自分はいま、そのどの恋人達よりも幸せだと思っていた。そしてそれが、エスリンも同じ気持ちであること。それは、彼女の顔が、心が教えてくれている。 グラン暦七五五年秋。グランベル王国シアルフィ公女エスリンは、レンスター王国王太子キュアンの元に嫁いだ。記録だけ見れば、あるいは政略結婚にも見えるこの結婚が、実は誰よりも本人達が望んで結ばれたことは、長く語り草になったという。 |
written by Noran |