この地域には珍しい、身を切るような冷たい風が、回廊を吹き抜けた。 一人、その回廊を歩いていた少女は、思わず身を震わせる。 その少女――そろそろ少女という年齢は終わりつつあるが――は、体の線がはっきり分かる、ぴったりとした服を着ている。知らぬ者が見れば、そんな格好をしていては震えるのは無理もない、というだろう。だが、実際にはこの服は普通の服よりもはるかに保温性に優れ、暖かい、彼女の故国独特の服なのだ。もっとも、その服を揶揄して彼女に対して讒言を行う者が少なくないのも事実だ。 「別に、気にしてはいないけど……」 そうつぶやきながら、それが嘘であることは誰よりも自分が分かっていた。『蛮国の娘』などといわれて気にしないはずがない。 しかし、この壮麗な城を見ると、そういわれても仕方のないことなのだろうか、とも思ってもしまう。 磨きこまれた大理石の床に、毛足の長い絨毯。そしてどの部屋にある調度品も、そのどれもが彼女の目から見ても、洗練された芸術品であることが分かる。それらは確かに美しい、と思う。しかし、それらを毎日見ていると、乾いた大地と、質素だが素朴で暖かみのある人々がいる故郷が懐かしく思えてしまうものだ。 「別に帰れなくなるわけじゃないのに……」 思わず、北東の空を見上げる。その向こうにあるのは、バーハラ、そして、広大なイード砂漠。彼女の故郷は、それらを越え、その向こう側にある。乾いた大地とともに、細々と農業を、そして牧畜を営む北国。イザーク王国。 ほんの数ヶ月前まで続いていた戦いの日々。それは、今ではかつての伝説と同じ『聖戦』の名で呼ばれるようになっている。 二回目の聖戦。その立役者の一人が彼女――ラクチェであり、そしてまもなく彼女の夫となるヨハルヴァであった。 戦っている間は、正直戦いの後のことなど、ラクチェは考えていなかった。ただなんとなく、ヨハルヴァと共にあるのだろう、というくらいだ。これは、彼女が無責任であるというより、彼女が選択した道によるものである。ラクチェが、ヨハルヴァを支えることを選んだからだ。しかし彼女の身分は、いまだに浮いていた。 正確にはほぼ定まっている。かつての『グランベル王国』の枠組みに戻されることが決定し、ドズル公家の直系唯一の生き残りであるヨハルヴァは公爵位を継承する。その、新たなるドズル公爵家の主、ヨハルヴァの妻。それがラクチェに与えられる身分である。公式には妻の権利は全て夫に帰属するが、実質的にはその影響力は極めて大きい。グランベル六公家は、立場こそバーハラ王家に臣従しているが、ほぼ同格として位置づけられている。つまり、グランベル王国という巨大な支配体制の、ほぼ頂点に近いところに位置することになるのが、六公爵の妻というものだ。その地位には、政治的な思惑が強く絡んでくる。戦後、セリス達によって早くに解放された各国の中で、グランベルだけは旧体制の支配者たちが未だに強い権限を持って残っている。その彼らからすれば、新たな公爵とはそのつながりを強くし、それぞれの公国で権勢を振るいたい、という狙いがあるのだろう。そのためには、己の一族から公爵の妃を出すのが一番の近道である。ドズルの新たな公爵であるヨハルヴァは、まだ未婚でしかも若い。これ以上ないほどの好条件が揃っているのだ。 しかし、そのヨハルヴァは、廷臣たちがなんやかやと話を持ってくるより先に、いきなり戦勝祝賀会でラクチェを妻とすることを発表してしまった。無論、少なからず抵抗がなくはなかったが、公式の場でグランベルの新王セリスにすら報告済みで、セリスもこれを承認している。さすがに、ドズルの旧来からの貴族たちも、これに異を唱えることはできない。彼らからすれば、聖戦においてさしたる武勲もなければ援助もしてなかった、という引け目もあるのだ。 こうしてラクチェは正式にドズル公爵(正確にはまだ継承式を終えていないが)の婚約者としてドズルに入ったわけだが、そこで彼女を待っていたのは、想像以上の無形の嫌がらせとも呼べないような暗澹たる歓迎だった。 ラクチェはイザーク王国の王女アイラの娘であり、父親は同じくイザークの貴族の子弟であるホリンだ。本来であれば、イザーク王宮で育っているはずの人物であり、身分的にも、また、血筋的にもなんら問題はない。だが、そもそもイザーク王国はグランベルの、特に旧貴族たちにとっては、蛮族の住む国、という印象が強く、たとえイザーク王家の者であろうと、軽んじられている。加えて、ラクチェは生まれてこの方、王宮で過ごしたことなど皆無に等しく――進軍してる中で軍が留まった程度だ――宮廷作法などにはまるで精通していない。 ティルナノグにいた頃、セリスはオイフェに教えてもらっていたようだ――時々スカサハも興味を持ってたのか教えてもらっていた――が、ラクチェはまったく興味がなかったので、そういうものはまるで習得していない。 別にそのことを指摘されるのは仕方のないことだと思うが、それを陰でこそこそ言われるのが、とても嫌な感じがしていた。 ドズルに来てもう二ヶ月。自分でも努力はしているつもりなのだが、こう無言の非難が続くと、いくらラクチェでもかなり堪える。かといって、これはヨハルヴァに相談したくはなかった。彼は彼で、ドズル公爵となるために相当に多忙な日々を送っていて、こんなことで負担をかけたくなかったのだ。 もう一度風が吹いて、ラクチェの黒髪が風の中に舞う。 かつては、あまりにも母アイラに似ているといわれていたため、逆に区別してもらおうと髪を切っていた。それは、シャナンにちゃんと自分を見てもらいたい、という想いがあったのだが、今は長く伸ばしている。先日、久しぶりにオイフェに会った時、あまりに似ていてびっくりした、とすらいわれたほどだ。今は、それが心地よい。黒絹のようなこの髪は、ラクチェの密かな自慢ではあるのだが、これすら、他の貴族の子女からすると、嫌味の対象になるらしい。『黒いとインクをかぶっても平気ですね』などと言われ、本当にインクをかぶらされるのではないか、と思ったがさすがに公爵の婚約者にそれはやらなかったらしい。 しかし、そろそろ我慢が限界に来つつあるのもまた、事実だった。 いくらラクチェでも、限界はある。特に最近は、またイザークそのものへの侮蔑が――陰でこそこそとだが――聞こえてきて、それがラクチェの限界水位を、更に引き下げていたのだ。 「シャナン様やスカサハ、元気かな……」 ヨハルヴァには絶対に言わないが、実はイザークに帰りたい、と思ったことは一再ではない。ただ、生来の気質から、それが逃げるように思えてしまう――事実そうなのだが――ラクチェには、それは選択できなかった。 「ふぅ」 結果として、溜息が止まらない日々を送ってしまっている。 この外壁に面した通路は、夏は涼しいのだが、冬に向かうこの季節には冷たい風が容赦なく吹き抜けるため、滅多に人がいない。しかし、北国であるイザークの、その中でも特に環境の厳しかったティルナノグで育ったラクチェにとっては、この程度は寒さに入らない。そのため、一人になれる場所として、最近はよくここを歩いているのだ。 しかし、今日は別の人物がいた。 最初、ラクチェはその人物に気づかなかった。柱に半身を隠し、こちらを伺っているのだが、害意や敵意のある目ではない。最近、そういうものに晒され続けていたため、普通の視線に気付きにくくなっていたらしい。はっきり顔が見える距離にくるまで、気づかなかった。 よく見ると、城の侍女のようだ。年齢は、自分よりは三つ四つ若い、まだ勤め始めたくらいだろう。やや茶色がかった髪を綺麗に三つ編に結った少女で、とびきり大きな目が印象的な娘だ。 「何?」 近くまで来ても、まだ動かなかったため、ラクチェから声をかけた。 すると、少女はその大きな目をきらきらと輝かせ、ラクチェに近寄ってきた。一瞬、ある種の迫力を感じて、ラクチェのほうが後退りそうになる。 「あの、公妃様ですよね?」 いきなりそう来るとは思わなかったので、思わずラクチェは言葉につまり、一瞬頷いてしまいそうになるが、慌てて首を振った。 「ち、違うわよ、まだ、一応」 「でも、ヨハルヴァさまの婚約者ですよね? なら、いずれそうなられるわけですよね」 「ま、まあそうだけど……」 少女の勢いに、ラクチェは思わず引き気味になっていた。 「あ、スミマセン。私、最近このお城で働かせていただくことになりました、マリーチェ=ハーベルマインといいますっ」 マリーチェ、と名乗った少女は、勢い良くお辞儀をした。その勢いで、三つ編に纏め上げた髪がぴょん、とはねる。 「あ、よ、よろしく」 「それにしてもラクチェさまの髪、すっごい綺麗ですよね〜。私、憧れなんですっ!!」 そのあと、マリーチェは一方的にしゃべり続けた。どうやら本当に裏表なく、ラクチェに好意的な感情を持っているらしい。一応、本人もドズルの貴族の子女らしいが、爵位もない、というところから察するに、騎士位なのだろう。 そのうち、ラクチェも話に割り込めるようになり(慣れたのだろう)、気付いたら二人ともかなり話し込んでいた。 ラクチェとしては、ドズル城に来て実質、初めてヨハルヴァ以外と普通に話せたと言うのもある。ラクチェは、本当に久しぶりに心から楽しい、と思える時間だった。 |
マリーチェの存在のおかげで、ラクチェはだいぶドズルでの生活が楽になった。 あのあとすぐ、ラクチェはマリーチェを自分専属の侍女に配置換えしてもらったのである。ちなみに、それまでついていた侍女は、やはりドズルの下級貴族の娘であったのだが、あからさまにラクチェを『蛮族の娘』とみなしていて、ラクチェとしてはとても気の休まる相手ではなかったのである。 その点、マリーチェなら気が休まるかどうかはまた別問題だが、気を遣わなくていい、というのが大きかった。 マリーチェは今年で十六歳、というから、ラクチェより三つ年下である。父親はおらず、母一人に育てられたらしい。ラクチェは最初、父親は解放軍に殺されたのかと思ったが、そうではなく子供狩りに反対して殺された、ということだった。その辺りも、マリーチェが解放軍の戦士であったラクチェに好意的である理由だろう。 また、マリーチェはグランベルの貴族の娘ながら、イザークという土地に対してまったく偏見がなかった。それもそのはずで、彼女自身、一時期はイザークに住んでいたことがあると言う。かつて、イザークがドズル王国と呼ばれていた時代に、彼女は家族で移り住んでいたらしい。 「イザークのどこに住んでいたの?」 「ソファラです。ヨハルヴァさまが赴任されたときに一緒に」 「あら。私、ソファラ行ったことあるのよ。まあ……あの時はお尋ね者だったけど」 「へ〜そうなんですか。山間の街でしたけど、いいところだったと思います。なんでみんな、あそこを蛮土なんていうんでしょうね?」 この、マリーチェの素直な気持ちが、ラクチェには本当に嬉しかった。 正直、グランベルの人間はみんなイザークを蔑視してると思うようになりかけていたのだ。しかし、実際にはマリーチェのような人もいる。これならば、いつかグランベルの人々にイザークの本当の姿を分かってもらえる日も来るだろう。あるいは、自分がその橋渡しになればいい。 ラクチェが、最初にそう考え、しかし挫折しかけていた気持ちを、もう一度マリーチェが思い出させてくれていた。 だが、まだラクチェや、あるいは彼女に理解を示す者に対して敵意を抱く者が少なくないことを、ラクチェはこの時忘れていたのだった。 |
その日、なぜかラクチェは、非常に早く目が覚めた。元々、朝ゆっくりしている方ではなく、むしろ早い方であるが、それでもこの日は特に早く、また空が白み始めた程度である。 続き間になっているヨハルヴァの部屋は、誰もいない。数日前から、ヨハルヴァは領内の視察に出ていて、まだ戻ってないのだ。本当は昨夜戻るはずだったのだが、どうやら長引いているらしい。 かすかに白み始めただけで、まだ薄暗い時間だが、夜目の利くラクチェはあまり不自由はない。 さすがに早い、と思ってもう一度寝入ろうとしたのだが、横になっても寝付けないため、すぐに諦めて、ガウンを羽織って廊下に出た。 一瞬、剣を持っていこうと考えもしたのだが、この城内で危険などあろうはずもない。まだ、解放軍として戦っていた頃のクセが抜けてないことに、ラクチェは苦笑しつつ、まだ薄暗い廊下を歩き始めた。 そろそろ冬に入り始めるこの時期、さすがに明け方ともなるとこのドズルもかなり冷える。 冷気が、静寂を加速さえているようで、自身の心音と、靴底が廊下の大理石を叩く音だけが響き渡る。 夜に動く者達と、昼に動く者達の境界の時間。それはあるいは、一日のうちでもっとも静かな時間なのかもしれない。 外回りの廊下から身を乗り出すと、冷たい冷気を含んだ風が、ラクチェの頬を切るように吹き抜けた。思わず、顔を引っ込め、それから恐る恐るまた外をのぞこうとしたとき、突然その風の音だけで満たされた静寂を、何かが割れる音が切り裂いた。 「なに!?」 一瞬襲撃、などと考えて腰の剣を確かめようとしてしまう。この反射動作は、多分一生抜けることはないだろう。 だが、すぐ剣を置いてきたことを思い出す。それに今の音が襲撃などではなく、皿か何かが割れた音だ。 「起きてる人……いるの?」 耳をすませてみると、かすかに言い争うような声も聞こえてくる。 「……あっち?」 何が起きているのか気になったラクチェは、音のした方へと歩いていった。 |
「何するのよっ!!」 「別に? ただ、あなたが邪魔だっただけ」 「そうそう。蛮族の娘に食わせる食事を用意してるのなんて邪魔なんだもん」 「そうそう」 言い争っているのは、マリーチェと彼女の同僚の侍女達だった。 ラクチェは知らなかったのだが、彼女達の一日はラクチェが普段目覚めるより早く始まるのである。城内の朝食の準備は、城の者が起きるより先に終わらせるものなのだ。そして、このところラクチェの食事の準備は、マリーチェが請け負っていた。それまでは、侍女長が用意していたのだが(さすがに分別があるため、ラクチェを蛮族の娘、とは差別しないだろう、というヨハルヴァの配慮である)、マリーチェが頼み込んで替わってもらっていたのである。しかし、この日マリーチェがラクチェの分の朝食を用意し始めようとしたところで、突然同僚に邪魔をされたのである。 元々、この城の侍女のほとんどはマリーチェ同様、ドズル公国内の貴族の娘である。無論、身分は高くはないのだが、それでも、いや、それゆえに『蛮族の娘』などに仕えられるわけがない、というプライドがあったのだ。 しかし、ラクチェはドズル公爵の婚約者。つまり、確実に彼女達の上に立つ存在となる。彼女らに、それが面白いはずはないが、かといってどうこうすることもできない。もちろん、ラクチェ本人に嫌がらせをするほどの度胸は(表立って出来るほどの身分でもないため)ない。そこで、スケープゴートとなったのが、ラクチェに好意的なマリーチェだったのだ。 「はんっ、そんなに蛮族の娘に取り入りたいの? ドズル公国の貴族の誇りまで捨てて? 情けないったらねえ。そんなのと一緒になんて、働きたくもない」 「わ、私はそんなつもりじゃ……っ!!」 「どうだか。貴女、家ももう断絶寸前なんでしょう? そりゃあ、未来の公爵妃さまに目をかけてもらえば、さぞご栄達なさるでしょうねえ」 「ち、ちが……」 マリーチェの言葉は、途中でざば、という水音に遮られた。桶の水が、彼女に振り掛けられたのである。 「あら、ごめんなさい。蛮族の汚れを落とそうと思ったんだけど」 その言葉に、嘲笑が続く。 井戸から汲み上げた水であるため、氷水、というほどではないが、だとしてもこの気温である。すぐ水は冷えて、体温を奪うだろう。 その頃、ラクチェはとっくに厨房のすぐそばまで来ていた。本当は、すぐ割り込もうとしたのだが、踏みとどまっていた。 この時間から彼女達が働いていたのは驚いたが、それよりも、侍女たちにまで自分が疎まれているとは思ってもいなかったので、それがショックではあった。ただ、ここで自分が出て行っても、事態をさらに悪化させるだけだろう。そう考えたラクチェは、出て行かないつもりだったが、マリーチェが水をかけられたところで我慢の限界に来た。 自分に当たるならまだしも、彼女達よりも年下の少女にあたるなど、ラクチェが見逃せるはずもない。 「あな……」 「ラクチェさまは蛮族なんかじゃないですっ!!」 ラクチェが怒鳴りつけようとしたとき、それよりさらに大きな声で叫んだ者がいた。もちろん、マリーチェである。その声量に、ラクチェはびっくりしてしまい、思わず立ち止まってしまった。侍女たちも、マリーチェの声に圧倒されて、入り口に立っているラクチェに気付く様子はない。 「ラクチェさまは、いえ、イザークの方々は蛮族なんかじゃありません。グランベルの騎士と同じ、誇り高く、そして勇敢な方々です。だからこそ、あの暗黒の時代を終わらせる力となったんです」 「は、何を……」 「じゃあ!!」 マリーチェは反論しかけた侍女をきっと睨み付けた。 「貴女のお父上は、帝国が暗黒教団の言いなりになって、子供狩りを行い、非道の限りを尽くしている時、何をなさっていました? ドズルの誇りを守るため、帝国と戦ったのですか?」 「……な、なによ、それが……」 「ラクチェさまは、いえ、イザークの方々は、セリス皇子と共に戦われました。絶望的な状況の中で、何より人々を守るために。そんな彼らと、暗黒教団に協力した騎士と、どちらが蛮族なのですっ!!」 「その辺にしてやれや」 突然聞こえた声は、ラクチェのすぐ斜め後ろからのものだった。 マリーチェも侍女たちも、そしてラクチェもが驚いて振り返ったその先にいたのは、次期ドズル公たるヨハルヴァだった。 「ヨ、ヨハルヴァさま、ラクチェさま……」 「ヨハルヴァ、いつ帰ったの……?」 「おう、ついさっきだ。ホントは昼頃の予定だったんだが……ラクチェの顔が早く見たくてな」 「ばかっ」 いきなりそういうことを言われたラクチェは、とっさに言い返すことが出来ず、頬を紅潮させてしまい、それを隠そうと下を向いてしまう。 「……ま、おかげで大惨事、なんてのはさけられたけどな。それと……マリーチェ、だっけ?」 ヨハルヴァは、ずぶ濡れになって座り込んでいるマリーチェに振り返った。 「俺の言いたいことを全部言ってくれて、ありがとな。その通りだ。俺や兄貴も、どっかおかしいってのは分かってた。でも、立ち上がるだけの気概をもてなかった……持てたのは……イザークの人々が、そしてラクチェが俺達の背中を押してくれたからだ」 「ヨハルヴァさま……」 「ヨハルヴァ……」 「お前らも」 今度は他の侍女たちを振り返って、ヨハルヴァは言葉を続ける。 「蛮族だとか蛮国だとか。そんな二十年近く前の歪んだ目で物事を見ててどうする? お前達は自分達の目でイザークを見たことがあるわけじゃないだろうが」 侍女たちは一様に下を向いて、うなだれてしまっている。 「俺は、イザークにいた。だから知っている。あの国の人々は、確かにグランベルのこの絢爛豪華な城に比べたら、質素で、素朴な暮らしを営んでいるが、だが、その心は、決してグランベルの人々と……」 ヨハルヴァの言葉に、どさ、という何か――マリーチェ――が倒れる音が続いた。 「マリーチェ?!」 ラクチェが慌てて駆け寄ると、マリーチェの顔色は真っ青である。 冬の夜明け前の、もっとも寒い時間に洋服を着たまま水を浴び、そのままにしていたのだ。凍えて当然である。 「ちょ、ちょっとマリーチェ、しっかりしてっ」 |
「大丈夫? マリーチェ」 その日の午後。マリーチェはすぐ湯を浴び、暖かくして休まされた。風邪から肺炎を引き起こすことが心配されたが、大事には至らなかったらしい。午後には目を覚ましていた。 「はい、申し訳ありません。ご心配をおかけしました」 「ううん。いいの。無理はしないでね」 顔色はもうすっかり良くなっていた。ラクチェはさっき来たのだが、目覚めてすぐ食事をしたらしく、もう心配はないらしい。 「けど、なんだったあんなことに……そりゃ、私を弁護してくれたのは嬉しいけど、でも一緒に仕事する人と衝突してまで……」 するとマリーチェは、これ以上ないほど強い瞳で、ラクチェを見据えた。 「嫌だったんです」 「え?」 「私、イザークの人たちが悪く言われるの、凄く嫌だったんです。だって、イザークの人たちがいたから、私たちは今、恐怖に怯えることなく暮らすことが出来るのに、誰もそれをわかっていない……」 「べ、別にそれはイザークの……いや、私はそう言ってもらえるのは嬉しいけど、でも……」 「それに……」 マリーチェはそこで一息ついた。まださすがに体調が戻ってないのか、少し息が荒い。 「それに、私もイザークの人たちに助けられたんです。私、ソファラにいたって、言いましたよね」 それは覚えている。ヨハルヴァの赴任と同時に家族で赴いた、と言っていたから、まだ帝国が磐石だった頃だ。 「私の家、騎士とはいっても名ばかりで、父も騎士というより、人の良い商人のような人でしたし……。そして、ソファラになれた頃に、子供狩りが始まって……私の弟も、いなくなりました」 「そんなっ、だって貴方達の家、ドズルの……」 「はい。でも弟は、ソファラの孤児院の子達と仲良くなって、よく一緒に遊んでいたそうです。それで、そのときに……」 「な……」 なんと言うずさんさだろう、とラクチェは昔のことながら呆れてしまった。 「いなくなったとき、最初はその理由に分からなかったのです。でも、そのうち父の耳にも子供狩りの話が届くようになり……まさか、と思って調べたら」 「そう……だったの……」 多分、自分達が助けられなかった子供の一人に、彼女の弟が入っていたのだろう。ソファラ周辺で子供狩りが行われるようになったのは、かなりあとになってからだ。当時、すでにラクチェたちはあちこちで子供狩りの情報を得てはそれを妨害していたのだが、全て防ぎきっているはずもない。 わずかに俯いたマリーチェは、微かに憂いを帯びた声になりつつ、言葉を続けた。 「そして、父は帝国に刃向かい、殺されました。そして、私や母も殺されるところを、イザークの人たちが庇ってくださって……。私、それまでは帝国が本当に正しい、と。そう思っていたんです。父もそうでした。でも、あの事件でそれが違うと分かった……そして、良く見てみたらヨハルヴァさまの治めていたソファラですら、おかしなことはいくつもあった。ただ、私は……いえ、私たちはそれから目を逸らしていただけだったんだって。だから、あの人たちも同じなんです。いまだに、目の前にあるものを信じられない人たち。でも、それはとても悲しいことでもあると思います」 マリーチェはゆっくりと、だが途切れさせることなく話し、一息つくと「だから」と続けて顔を上げた。その目には、わずかに光るものがある。 「ヨハルヴァさまが、イザークの、ラクチェさまを選んでくれたことは、私には嬉しいんです。私自身のあの時感じたことは決して間違いじゃなかったって思えるから。そして何より、弟を救ってくださった方ですから」 「へ?」 一瞬、ラクチェは耳を疑った。しかし、マリーチェはその困惑をよそに、にっこりと微笑む。 「完全に諦めていたのですけど、ラクチェさま達に助けられて、弟、ティルナノグにいたんです。戦争が終わって、やっと再会できたんです」 良く思い返してみたら、彼女は弟がいなくなった、とは言ったが、殺された、とは言っていない。完全にラクチェの早とちりである。 「あ、あはは……そう、良かったわね」 半ば脱力しかけたラクチェだが、だが、これはこれで自分達のあの時の苦労が報われたことの証明であり、良かったことなのだろう。 「だから、ラクチェさまを自分の主とすることは、私にとっては何よりも嬉しいんですよ。弟の恩人で、しかも解放軍でも有数の戦士だったってお聞きしました。あの戦乱の中で、自分の屋敷に閉じこもって震えていて、そのくせプライドばかり高い貴族の令嬢なんか、尊敬できませんもの」 ラクチェは、マリーチェに対する評価を少し改めることにした。彼女は、自分で主を選ぶだけのしっかりとした考えを持っている女性なのだ。その気概の強さは、あるいはあの戦争の中で培われたものなのか、彼女の生来のものなのかは分からないが、いずれにせよラクチェはこのような少女に敬われるだけの公妃にならなくてはならない。そして、いずれはドズル全体に認められるように。それが、ひいてはイザークとグランベルの新たなる関係を築くことにもなるのだ。 「ありがとう、マリーチェ。私も、貴女に見捨てられないように、立派に振舞って見せるわ。大丈夫。イザークの女は強いんだから」 「はい。……それに……」 「何?」 「正直、あのヨハルヴァさまのお相手が、普通の貴族のご令嬢なんかに務まるとは、思えませんもの」 ラクチェが盛大に吹き出し、続いてマリーチェもつられて笑い出す。 ドズルの冬の昼下がり。ドズル城の一角で、二人の笑いはいつまでも続いていた。 |
グラン暦七七八年末。正式にドズル公を継承したヨハルヴァは、同時に妻として、イザーク王国王女ラクチェを娶った。この結婚は、聖戦が終わったあとの最初の慶事であり、また、これからの復興を象徴するように、人々には思われた。 この後、二代に渡って光に弓引いた反逆者の家、とまで云われたドズル公国は、グランベル王国の一翼として、なくてはならない存在となっていく。 |
written by Noran |