「本当に大丈夫なんだね、セティ」 青い髪の青年は、なおもまだ心配そうに緑色の髪の青年――というよりはまだ少年というのが正しいか――に尋ねた。問われた少年は、無言でうなずく。すると、青い髪の青年――セリスは、分かった、とだけ言うと立ち上がり、そして彼の後ろに待機していた騎馬隊をかえりみた。 「セティ。ロートリッターの前衛部隊は、君に任せる」 セティ、と呼ばれた少年は、静かにうなずき、翡翠色の宝玉の埋め込まれた魔道書を持つ手に力を込めた。 |
グラン暦七七八年初春、かつての英雄シグルドの遺児、セリスの率いる解放軍は、ついにグランベル帝国領内へと侵攻を開始した。 そして、その最初の目標は、父の故国でもある、シアルフィ。そしてそこにいるのは、グランベル帝国の皇帝であり、そしてセリスにとっては父の仇でもある、アルヴィスであった。 本来、皇帝であるアルヴィスは、その居城であるバーハラにいるはずである。それが、この前線であるシアルフィにいる。 セリス達には、現在帝国がどのような状態にあるのか、この一事をもってして、如実に物語っているように思えた。あるいは、先のミレトスでの戦いでみせられた、魔皇子ユリウスの力が、それを感じさせたのかもしれない。 だがいずれにせよ、アルヴィスは間違いなく聖戦士ファラの末裔であり、かのファラにも匹敵する炎の使い手として、名高い。また、そのアルヴィスに従うのは、ヴェルトマー家の騎士団であるロートリッター。かつて、まだグランベル王国であったころのバーハラ王家の親衛隊長を任されていた、アルヴィスが直々に鍛え上げた騎士団である。数に劣る解放軍にとって、これまでで最大の強敵である。 セティは、その前衛部隊を一人で食い止める、と言ってきたのだ。 確かに、セティはおそらく解放軍の中でも最強の力を持つ一人だ。マンスターにおいてはトラキアの竜騎士部隊を立った一人で撃退し、また、『三頭の竜作戦』を取られたときも、ただ一人でカパトギアを守備してみせた。 風の神魔法フォルセティ。ユグドラル最強の風の魔法であり、風の聖戦士セティの末裔にしか扱えぬ神の魔法。しかし、いくらなんでも、たった一人で数百にも及ぶような、それも炎の魔法の使い手の多いロートリッターを食い止めるのは無茶だ、とセリスは止めたのである。 魔法の根元にあるのは精霊である。そして、精霊には相性、というものがある。これは神の魔法である神器とて例外ではない。風の精霊は、炎の精霊に対して相性が悪いのだ。よくしたのもので、炎の精霊が相性の悪い雷の精霊は、風の精霊と相性が悪い。それらの上位にある精霊達――光や闇の精霊――を使役する魔法もあるが、相性の善し悪しを考慮しても、この場合フォルセティの方が強力なのだ。 「大丈夫です、セリス様。それに、時間を稼がれるとエッダやドズルからの援軍とてありえます。我々は数において、圧倒的に劣るのです。今は一刻も早く、シアルフィを奪還する必要があるのです」 反論を許さない、強い決意。しかしどこか突き放したようなものも、セリスには感じられた。だが、セティの言うことはまた真実でもある。だからセリスは、セティにロートリッターの迎撃を任せたのだ。 |
「地を渡る風よ。自由なるその身、疾く来たりて、今一時我が意志に従え。我は風神フォルセティの名において、汝を求めん」 セティの呪文――というより呼びかけ――に応えるように、セティの周りの風が渦巻いた。それはやがて、暴風と呼ぶに相応しい強さへと変わって行く。風の神魔法フォルセティの力。最強の風の鎧を顕現させる、神の力である。圧倒的な圧力を感じさせる風は、真に自然のものか、疑いたくなる。根元にあるものは同じ――風の精霊であるというのに。 しかしまた、ロートリッターもそれで戦意が挫けるような者はいなかった。 彼らには、皇帝アルヴィスが皇帝となる前からアルヴィスに忠誠を誓っていたという誇りと、それに相応しい実力と自信があるのだ。彼らもまた、神魔法がいかに強力であるか、他ならぬ皇帝アルヴィスのもつ炎の神魔法ファラフレイムの力をもって、よく知っている。 だが、同時に万能でないことも知っているのだ。 最前列にあった、複数の騎士が炎の魔法を紡ぎ出した。一つ一つは、決して強力とは言い難い。だが、それが集まると、それらは炎の最上級魔法、ボルガノンの吹き上げる炎をも凌ぐ力となる。 「風よ」 セティはただ、それだけを発した。途端、風が荒れ狂う。圧倒的な力を受けた風の精霊達は、炎の魔法――正しくはそれを構成する炎の精霊達を――迎え撃つ。相性が悪いとはいえ、精霊達の与えられた力の差は圧倒的である。魔法の威力は、その精霊を使役する術者の力量によるのだ。そして、セティは今、最強の力を風の精霊に与えていた。 刹那、拮抗したかに見えた両者の――といっても片方は複数だが――力はあっという間にその均衡が崩れた。 炎の塊を粉砕したその風は、そのままその炎を放った術者達へと襲いかかる。風が見えざる刃となって襲う。実際には、音や地面の揺らぎ、それにわずかながら舞う塵などからその刃を見ることはできるのだが、見切るのは非常に困難である。吹き荒れた刃は、何人かの騎士達を切り裂いた。 さすがに致命傷ではない。炎との激突は、少なからず風の力を削いでいたのだ。 しかし、ほとんど間を置かず、セティは再び風を呼ぶ。風の術は、威力こそ雷、炎の魔法にやや劣るが、その圧倒的な発現の速さが最大の特徴である。一対一であれば、その速さで圧倒できる。だが、今セティが相手にしているのは一人ではない。百騎近い魔法騎士達である。 セティの二度目のフォルセティの詠唱とほぼ同時に、魔法騎士達の第二波が放たれた。激突。結果は変わらない。 第三波、第四波。立て続けに放たれる炎の魔法に、セティは風の刃を連発して対抗するしかなかった。そして、そのために近づいてくる騎兵達を攻撃することができないまま、その刃の距離までの接近を許してしまう。 だが、それでもセティはまだ余力を残していた。 長槍を構えて突進し来た騎士は、一瞬でずたずたにされた。おそらく、何が起きたかすら分かるまい。 セティを守る、最強の風の鎧。 フォルセティの真の力は、攻撃ではなく防御にある。圧倒的な力で守護された術者は、敵を倒すことに専念できるのだ。普通の兵であれば、勝ち目はない、と見て戦意は喪失する。というよりは、それが普通の反応だ。 だが、この時の相手は、決してただの兵ではなかった。 近づくことにより、風で斬られるのならば、と至近から弓を放つ。だが、それもまた、強烈な風の壁にはばまれ、ただの一つとしてセティには届かない。 しかし、当たらない、と分かっていても自分に向けて矢が射放されるのはいい気はしない。かといって、次々に放たれてくる炎の魔法を無視することもできるわけはない。敵は回復魔法の使い手もいるのか、あまり――というよりはほとんど数が減っていなかった。 おそらく、体力の消耗を狙っているのだろう。 神器の中でも最強の一つ、とすらいわれれているフォルセティと対するに、おそらくもっとも有効な手段だ。 確かに、無限に魔法を使うことなどできはしない。普通ならば。 しかし、神魔法は普通の魔法ではない。その力は術者にとっては、手を振り上げるかのように起こせる事象だ。精神力を使い切ってしまう、ということはない。神魔法を使っているときは、まさしく自分に何かが乗り移っているかのような、そんな感覚であり、無限の魔力を紡ぎ出せるのだ。 しかし、それは敵も承知のはずである。あるいは、ただ長期戦を続けるつもりなのか。確かに、戦い続けること自体で、体力は消費する。いつかは、手を挙げることすらできなくはなる。 だが、それより先に敵の力が尽きるはずだ。 ほとんど消耗しないセティと違い、彼らは少なからず傷を負い、またそれを癒すために回復の魔法を使い続けているのだ。 あるいは、ただここで自分を足止めすることだけが目的か、とも考えたがそれは考えにくい。ここに、セティが単独で迎撃に来ることなど予測できるものではない。 無論、いくつかありうる予想の選択肢の中にあったとしても、とても有効な手段とは思えなかった。 「いつまでも無駄な戦いを!!」 言ってからセティは少し驚いた。自分でも、これほど感情を顕わにすることなど、今までになかったことだ。 いつまでも無駄としか思えない抵抗をする敵に苛立ったのか、とも思えたが、どうも違う。だが、その正体を冷静に考えるほど余裕はない。 半ば機械的に、セティは何十度目かの風を繰り出した。激突。また、今まで通りに数瞬拮抗した後、風が炎を突破する。 もはやどれほどこの攻防が繰り返されたのか、セティには分からなくなっていた。時折、一瞬の隙を見つけて、接近してきた騎士達にも風を放つ。そして再び炎を迎撃する。負けることはない。もともと、前線の部隊を食い止めることが目的だったのだから、無理に撃破する必要はないのだ。 なまじ、己の手で剣をもって斬らないためか、ひどく無機質な、現実離れした感覚に囚われつつあった。目の前の出来事が、まるで幻のようにも思えてくる。 このまま同じ所作を繰り返していれば、そのうちセリス達が援軍を向けてくれるに違いない。自分はただ、それまでの時間稼ぎなのだ。 半ば、呆然とした状態のセティの意識が、急にはっきりしたのは、足に軽い痛みを覚えたときだった。 みると、わずかに血がにじんでいる。矢の一本が、風の壁を貫いてセティの足にかすったのだ。 弩とはいえ、フォルセティの風の鎧を突き抜けてきた、ということはありえない、と考えたが、その直後、セティから大きくそれたとはいえ、また突破してきた矢があった。一瞬、それに気を取られたところへ炎の魔法が再び襲い掛かってくる。セティは慌てて風を繰り出してそれを迎撃した。しかし、その拮抗している時間がかなり長い。突破した風には、もはや威力など残ってはいなかった。 力が落ちている。 セティはそう直感した。だが、何故。そう考えてからセティは、自分が立っているのも辛いほどに消耗していることに気がついた。しかし、まだそれほどの時間は経っていないはずだ。いくら呆けていたとはいえ、まだそれほど時間が過ぎていないことは分かる。 その時、セティは自分の周囲――というよりはこの戦場そのものが、異常なほどの高温になっていることに気がついた。 考えてみたら当然である。ずっと炎の魔法が一ヶ所に向けて放たれ続けたのだ。いかに風が涼気をもたらすもの、とはいえ、その風事体がすでに高温であっては意味がない。 セティはシレジアの生まれであり、寒さには慣れているが、反面、暑さに弱い。そこにこの高温状態である。いつの間にか、著しく体力を消耗してしまっていたのだ。 それでもなお、セティは風を繰り出す。しかし、その力はすでに弱い。精神を集中できない。まるで、体から力が抜けていくような感覚である。いや、実際に暑さによって失われているのだろう。 そこへ、炎の魔法が襲いかかってきた。風を繰り出す。だが、数瞬の拮抗の後、ついに炎が風を打ち破ってきた。威力を削がれたとはいえ、炎の魔法の威力は、魔法の中でも最大である。直撃すればただでは済まない。 セティはかろうじて避けた。体勢が崩れて膝が地面に着く。再び立ち上がろうとしたところに、また炎が襲ってきた。今度は避けられない。 セティは、風を起こして炎の方角をわずかにそらした。地面に直撃した炎は、そのままその地面を焦がし、爆発する。その爆風がまた、セティを煽った。 皮膚が焼けるような痛みが、セティを襲う。 そこへ、さらに騎兵が突っ込んでくる。セティは、その騎兵を迎撃する力すら残っていない自分を自覚した。 自惚れていた。刹那、セティはそう思った。最強の風の魔法、フォルセティを使える自分が、ただの兵士に負けるなどとは思っていなかった。だから、単独で迎撃を申し出たのだ。セリス達と合流してからも、セティは基本的に単独で行動した。その方がフォルセティの力を使いやすい、というのもある。だが。 結局自分だけでなんでも出来ると思い込んでいたのだ。今ごろになって、母が諭していた意味が分かったような気がする。 『セティは一人でなんでもできるかもしれないけど、でも自分だけで何でもしよう、と考えちゃだめよ』 その報いがこれか。奇妙なことに、それほど死が恐ろしい、とは思わなかった。おそらく、セリス達はシアルフィを奪還してくれるだろうし、フィーは一人になっても生きていけるだろう。一瞬、薄い紫がかった銀髪の少女のことも思い出したが、それもまた、今気にしても仕方ない。 『フォルセティは応えない』 そういった父の言葉の意味が、今更に分かったような気がした。多分、父ならばこのような状況でも負けなかったのだろう。 結局自分は、過信しすぎていたのだ。自分の力を。 それは反面、仲間達を信用していなかったのだ。単独行動の多さが、それを証明している。しかも、それはすべて自分から申し出たものだ。セリスが、何人か仲間を連れていった方が良い、というのを跳ね除けたのは、どこかにそういう感情があったのだろう。その、報いか。 |
セティは目を閉じた。直前に見えたのは、槍を突き出して突進してくる騎士である。 (これで、終わりか――) かつて父に、そしてシャナン王子に言われたこと。 『フォルセティは応えない』 未だに、この意味は分からない。だが、この結果がその応えのように思えた。 おそらく父ならば、この様なことにはならなかったのだろう。 (フィー、ティニー、すまない……) しかし、その騎士の突進は、セティの元に届かなかった。代わりに響いたのは、凄まじいほどの爆音。 「勝手に死のうとしてるんじゃねえ!!」 それは、聞きなれた声だった。突進してきていた騎士は、全身を炎に包まれ、すでに絶命している。更にその後ろに続こうとしていた騎士達には、凄まじい雷が降り注いだ。同時に、セティの横にペガサスが舞い下りる。 「お兄ちゃん、無事?!」 見るまでもない。声を聞くだけで誰かは分かった。しかし、何故ここに。 「セリス様が心配なさっていたんです。それで、私達だけ、こちらに」 そういって、ペガサスから降りたのは、薄い紫がかった銀髪の少女だ。軟らかな髪を、赤いリボンで結わえている。 「フィー、ティニー……」 そこへ、再び騎士達の炎の魔法が襲いかかってきた。ティニーと、そしてその横にいた騎士が、同時に雷の魔法を放つ。 「天空に舞し光の竜よ。その力、我と共にありて、我が掌中より全てを撃ち崩せ!!」 きれいに唱和した呪文と共に放たれた雷撃が、圧倒的な力で炎を打ち破った。雷の最上級魔法トローン。雷の精霊達は、炎の精霊達より優位にある。その二条の雷光は、ロートリッターの軍列に炸裂した。 雷撃を受けた騎士達は、少なからず被害を受けた。思わぬ増援に――といってもごく数名だが――うろたえている様子もある。しかしそれでもなお、重甲冑騎士が突進を開始しようとしたが、その前列――というより前から後ろへ、光の筋が突き抜けた。 セティはその時になって、ティニーと共に雷撃を放った騎士――アーサーの馬に、一緒にファバルが乗っていたことに気がついた。放たれたのは聖弓イチイバルの一撃である。圧倒的な力を誇る光の矢を放つ十二神器の一つ。その前では、人の作った甲冑など、紙も同然であった。ファバルはそのまま立て続けに矢を放つ。そして、その度に騎士達の隊列が崩れていった。 「無事か? セティ。一人で無理しすぎなんだよ、あんたは」 そう言いつつ馬を下りると、再び弓を引き絞り、射放する。更にそこへ、アーサーの魔法が重なった。 「大地に眠りし炎の竜よ。その力、我が命により解き放て。地を穿ち、天を焼く力となれ!!」 炎の最上級魔法ボルガノン。大地から吹き上げられる炎は、文字どおり天をも焼き尽くすのではないか、というほどの威力を持つ。 イチイバルの矢とボルガノン。さらにトローン。これまで、疲弊していたのはセティだけではなく、敵も同じである。そこへ、これだけの攻撃を加えられたのでは、たまったものではない。 ロートリッターが壊乱状態となって敗走したのは、それからしばらくのことであった。 |
「フィー、ティニー、アーサー、ファバル……」 セティはまだ立てるほどには回復していない。フィーが一応、回復の杖で回復魔法を使ってくれたが、フィーはお世辞にも魔法が能く使えるとはいいがたい。 「セリス様が心配なされてな。仕方ないから来たんだよ。全く、世話焼かせやがって。初めから一人で立ち向かわなきゃ良いじゃねえか」 アーサーが苛立つような口調でセティを責める。セティは、それに対しては何も言うことは出来なかった。 「そういうなよ、アーサー。一番心配していたのはお前じゃないか」 「な、ファバル、勝手に解釈するな!! 俺がセリス様にこっちへ向かうことを進言したのは、フィーやティニーが心配そうにしていたからだ。俺は、全然、心配なんか……」 その様子を見て、フィーとティニーがクスクスと笑い出す。果たしてどれが真実なのか、セティは分からなかったが、だが、それは分からなくていいことだった。 「すまない、少し無理をしすぎたようだ。迷惑をかけた」 それは、本心である。フォルセティとて、万能ではない。その力は、あくまで人が振るうものであり、そして人が振るう以上、限界があるのだ。それを補うために、あるいは共に戦うために仲間がいるのではないか。セティは、今更ながらにそれに気がついた。 「だから、セティはフィーの兄さんだし、ティニーだって心配して……あ〜、くそ!!」 やり場のない怒りをぶつけるように、アーサーは地面の石を蹴飛ばした。かわってファバルがセティに向き直る。 「セティ。君は確かに強いけど、俺達の持つ神器だって決して万能じゃない。実際、俺は接近されたらほとんど何も出来ない。けど、そういう時のために仲間がいるんだと思う。まして、この戦いは俺達聖戦士だけで勝てる戦いじゃない。神器を使える人も、そうでない人も、それに多くの兵士達も戦っている。それでこそ勝利を掴める戦いであり、またそうでなくてはいけないんだ。もう少し、仲間を信用してみろよ。俺だって、アーサーだって、君ほどではないかもしれないが、力になれるんだ」 まるで、今のセティの心を見透かされたような、そんな気がした。あるいは、ファバルも同じことを思ったのかもしれない。それを今の彼からは窺い知ることは出来ないが。 「そうだな……ありがとう、ファバル、アーサー」 それから妹と、恋人未満の少女の方に振り返った。フィーは嬉しそうに微笑んで、ティニーは少し涙を流している。 「さ、お兄ちゃん、帰ろ」 セティはその差し出された妹の手を、迷うことなく握っていた。 |
written by Noran |