貴方のことを思うだけ。 それだけで呼吸が止まる。胸が高鳴る。 抱きしめられたそのぬくもりが、何よりも嬉しくて。 貴方の鼓動が、今もこの耳に残っている。 抱きしめてくれたその腕の感触は、今も身体が覚えている。 まるで、まだ貴方の腕の中にいるみたいに。 |
「フィン!」 セイレーン城の回廊で、大きな声でフィンを呼び止めたのは、彼の主君の妻君だった。 「エスリン様、その様に大きな声は……」 王子妃として……と続けるより先に、エスリンがずずいっと前に出てくる。 「ちゃ・ん・と、プロポーズしたんでしょうね?」 その言葉に、それまで平静――を装っていただけなのだが――に振舞っていたフィンの顔が、一瞬で紅潮した。 その様子を見て、エスリンは満足そうに頷く。 「うんうん。よろしいよろしい」 「エ、エスリン様……」 フィンはがっくりとうなだれた。 元々、フィンと、今は亡国の姫となったラケシスとの結婚を言い出したのは、このエスリンである。 しかし、フィンにとっては、ラケシスは確かに親しく言葉を交わす間柄だったが、本来は言葉を交わすことすら稀になるはずの身分の開きがあるのだ。ただ、そのことをエスリンに言ったら……やぶへびだったのは言うまでもない。 「そんな仮定の話は意味ないでしょう? 大体、貴方たちは戦争始まる前から知り合いだったんだから」 これには、返す言葉もない。 本当に偶然、フィンはラケシスと、この戦争が始まるよりもずっと以前に知り合っていた。 無論フィンは、それがアグストリアの姫だとは思っていなかったのだが、ラケシスは知っていたらしい。再会した時は、本当に驚いたものだ。 その縁あってか、また、年齢がほぼ同じであることもあってか、フィンは兄王とはぐれて寂しげにしていたラケシスの良き話し相手になっていたのだ。それは、彼女の兄が死に、そして彼女が生国を失っても変わらなかった。 ただ、騎士と王女という、身分の違いは決して変わるはずはなかったのだが……。 それに変化が生じたのは、フィンが先だった……というより、ラケシスは最初から気持ちが決まっていたのかもしれない。 そしてつい昨日、フィンはラケシスにプロポーズをした、というわけだ。 「ただ……本当に良かったんでしょうか……私は……」 それを見て、エスリンが半ばあきれ、はあ〜っというため息と共に額を押さえた。 「貴方の真面目さは、それは確かに美徳だけど、時と場合ってものがあるの。大体、一体何をまだ悩んでいるの?」 「私は……騎士ですらない、一介の騎士見習いです。ラケシス様は国を追われたとはいえ、由緒正しきヘズルの血を引く方で……」 「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜フィン!!!」 後にエスリンは、よくここでフィンを殴らなかったものだ、とキュアンに愚痴っている。 「は、はいっ」 突然怒鳴られたフィンは、反射的に直立不動の姿勢となっていた。 「今すぐ、ラケシス姫のところに行きなさい!! 今すぐ!!」 「え、え、あ、あの?!」 「口答えしない!!」 その言葉と同時に、フィンは弾かれる様にすっ飛んで行った。入れ替わりに、キュアンとシグルドが現れる。 「な……なんだ? 今すごい声が聞こえたけど……」 「は〜。真面目も礼儀正しいのも普通は美点になるはずなのに……」 「エスリン?」 「フィンが、いっそ兄様くらいずぼらでかつ無頓着だったらって、思っちゃうわ」 「……あの、エスリン?」 実の妹に『ずぼらで無頓着の典型』という烙印を押されたシアルフィ公子は、意味が分からず親友と首を傾げていた。 |
ラケシスの部屋の前まで来たものの、フィンはそこで立ち往生してしまった。 エスリンに『行け』と命じられて――というか怒鳴りつけられて来はしたものの、特に用があるわけではない。 というよりない。 それに、こんな中途半端な気持ちで会っては、また彼女を傷つけてしまうかもしれない。 そんなことを考えて扉の前で立ちすくんでいると、扉の方が突然開いた。出てきたのは、当然ラケシスである。 「あ、やっぱりフィン」 「あ、え、ええと、その……」 「どうしたの? とにかく、そんなところに立ってないで、入りなさい」 ここで入らない理由を咄嗟に思いつけなかったため、フィンは案内されるままにラケシスの部屋に入った。 数回入ったことがある部屋だが、内装は簡素で、特に変わったものは置いていない。 逃亡するようにシレジアに来たのだから当然だ。アグストリアで彼女が使っていたものなど、持ってきているはずもない。それでもいくらか、彼女らしい置物やお茶のセットなどがあるのは、多分シレジアに来てから購入したものだろう。枕元には、大きな白熊のぬいぐるみもある。あれは、先の冬に街に一緒に行った時にフィンがねだられて買ってあげたものだ。 「なんかフィンの気配がしたからもしかして、と思ったら。でも、どうしたの?」 ラケシスは作り付けのシンプルなソファに座ると、フィンにも座るように勧める。 その様子は、いつものラケシスと変わらない。 フィンが、昨日からずっと悩んでいたというのに、彼女にとってはそれほど重大事ではなかったというのだろうか。 「その……」 フィンは立ったまま口を開きかけたが、何を言えばいいのか分からなかった。 ただ、想いだけが空転する。 ぐるぐるぐるぐると無限回廊を回っていた思考は、突然フィンも思いもしなかった言葉を紡ぎだした。 「ラケシス様は、なぜ私を……私を選んでくださったのでしょう?」 きょとん、と。 目が点になる、という状態はこういうものだという典型のような顔を、ラケシスはしていた。 一方のフィンは、一度言葉に発したためか、急速に考えがまとまっていく。 「私は、一介の騎士見習いです。真面目である、という以外に取り柄もありません。ですが、ラケシス様は、ノディオンの姫君であるということを別にしても、聖戦士の末裔であることを別にしても、騎士としても、そして女性としても素晴らしい方だと思います。そんな貴女が……なぜ、私などを……」 言葉の最後は声にならない。ただ、何を言おうとしたかは、ラケシスにも分かる。 そして、その答えを、ラケシスは一つしか持っていなかった。彼女にとって十分な、そして不可欠な答えを。 「あのね、フィン」 ラケシスはソファから立ち上がると、フィンの前まで来て、その手をゆっくりとった。 柔らかく、それでいて繊細なその手は、とても剣を振るう姫将軍の手には思えない。 ラケシスはそのままフィンの手を、自分の胸に当てさせる。 「なっ、ちょっ……!!」 「分かる? 私が、すごく緊張しているのが」 「あ……」 その、胸に当てられた手に伝わってくる彼女の鼓動は、まるで早鐘のようだった。 「貴方がそばにいるってだけで……ううん。貴方のことを考えるだけで、こうなるの。もう、呼吸すら忘れるくらい」 「ラケシス……様……」 「私は貴方が好き。それは貴方が騎士見習いだからとか、真面目だからとか、そいうのじゃなくて、フィンが、フィンだから好きなの。それとも貴方は、私がノディオンの王女でなければ、好きになってくれなかった?」 フィンは、まるで首が取れるのではないかと思うような勢いで首を横に振った。 そんなことがあるわけがない。むしろ、そうでなければこれほどに悩んだりはしなかっただろう。 「そんなことはありません。私は……貴女が、どこの誰であろうと……必ず貴女を好きになっていたと……思います」 「うん」 ラケシスはフィンの手を離し、自分の腕を彼の背に回す。フィンのまた、ラケシスを包み込むように抱いた。 「私たち、お互い、同じようなことで悩むのね」 「え?」 「貴方が私を好きだって言ってくれたとき。私、私のどこをって思ったの。実はそれが、ずっと聞けなくて……怖かった。地位も国も失った私を、将来が約束されている騎士である貴方がって……」 同じだ。 結局お互い、つまらない『理由』がはっきりしなくて、不安に思っていたのかもしれない。 「でも私は、ただ貴方のことが好きだから……何も考えられないくらい、それだけは確かだったから……」 ラケシスが、その腕に力を込める。 もう二度と、大切なものを失うまい、とするように。 「私も、貴女のことが好きです。それだけは、もう、迷いません」 「うんっ」 その、フィンの腕の中で微笑んだ少女の笑顔は、全てを忘れさせるほどに美しかった。 |
written by Noran |