無限闘争




「今日こそ勝たせてもらう」
 キュアンとシグルドが、二人揃ってエルトシャンのところにやってきたのは、春のけだるさ全開の昼下がりだった。
 学年が変わり、キュアンもシグルドもエルトシャンも郷里から戻ってきたばかりで、まだ講義も始まっていない。言ってしまえば、学校が始まるまで暇な時期なのだ。といってもあと三日ほどで講義は始まるのだが、それまではやることはない。
 なので、もう少し遅く戻って来ても良かったのだが、なんとなく戻ってきてしまったのだ。この辺り、三人ともやることがない、という点では似ているのかもしれないが、実はシグルドとキュアンには明確な目的があった。
 どん、とキュアンとシグルドがエルトシャンの前のテーブルの上においたのは、茶と象牙白色のチェック模様の板と、鮮やかな加工がされた、やはり茶と象牙白色の駒。
「……無駄だと思うんだがな」
 エルトシャンは、半ばげんなりして呟いた。
 テーブルの上に乗っているのは、もちろんチェスのボードと駒だ。
「確かに、一対一ならそうかもしれない。だから、ハンデをもらう」
「ハンデ?」
 エルトシャンが首をひねる。最初から駒落ちにしてくれ、とでも言うのだろうか。
「エルトは一人、私達は二人で考える。どうだ」
「……あのなあ」
 エルトシャンは思わずこめかみの辺りを抑えて下を向いてしまう。
「お前ら二人が考えたところで、結果は一緒だって」

 事の起こりは、休み前最後の日だった。
 三人とも国に帰る前日であることもあって、三人そろってバーハラの街に遊びに行ったのだ。
 その時、街の古物商で古い、だがかなりの良品のチェスボードが売っていたのをキュアンが見つけ、父の土産に、と買ったのである。それで、せっかく買ったのだから、とその日の夜に三人はチェスを打ち……シグルドとキュアンは何回やってもエルトシャンに全く勝てなかったのである。ちなみにひどいときは十手程度でチェックメイトされていた。
 そしてシグルドとキュアンは意地になってエルトシャンに挑み、結局徹夜で続けても一勝も出来ないまま帰郷となったわけである。
「だから二人一緒だって同じだ。……せめてもう少しハンデつけないと……いや、つけてもほとんど勝負にはならんだろうが……」
 その言葉に、シグルドがカチンと来たのか怒ったような口調になる。
「そんなことはない。私はこの休みの間に、オイフェに徹底的に指導してもらったんだ。オイフェはあのスサール卿の孫だ。チェスだって腕はいい」
「ほう。で、そのオイフェにどのくらい勝てるようになったんだ?」
「ふっふっふ。驚け。四回に三回だ」
「ほう」
 エルトシャンは軽く目を見張った……が、大体の事情を容易に察することが出来た。
 多分だが、オイフェはわざと負けている。一度だけ会ったことがあるが、利発そうな、だが主君を立てることを決して忘れないような少年だったと記憶している。多分オイフェも理由を聞けばちゃんと指導しただろうが、シグルドのことだから、そんな説明はしていないに違いない。
 あまり期待せずにキュアンの方を見たが……どうやら同じようだ。シグルドとほとんど異口同音な事を話している。ただ、こちらの固有名詞はオイフェじゃなくてフィンというキュアンの従卒らしい。ただ、こちらの方は初めて聞く名前だった。
「フィンは父親に色々習っていたらしくてな。筋はいい。父上に聞いたらチェスはかなりいい腕だ、と言っていたからな」
「ほう、カルフ王が」
 レンスターのカルフ王といえば、文武両道、チェスの腕もかなりのものだという噂である。その人物が言うのだから、そのフィンという従卒はかなり腕はいいのだろう。だが同時に、そのフィンとキュアンが互角であるとは考えにくい。
「……まあ、従卒だしな。主人を立てるのも大変だろうに……」
 エルトシャンは、まだ会ったことのないその従卒に、心底同情した。
「で、二人がかりなら俺に勝てると踏んだのか?」
 二人は自信ありげに頷く。それを見て、エルトシャンは心底ため息をついた。
「さあ、やるぞ、エルト。今度こそ勝たせてもらう」
 二人は手早く駒を並べていく。こういうところだけは上達してるのかもしれない。
「それとも不戦敗でいいのか?」
「……分かったよ。やればいいんだろう、やれば」
 もう一度述べるが、春のぽかぽかとした陽気が全開の、昼下がりである。気持ちよく昼寝をしたい、と思うのは、エルトシャンでも例外ではない。というか、もう完全に寝るつもりだったのだが。
「聞くが、何回やるつもりだ?」
 一回や二回で満足することはあまり期待していない。だが、とりあえず満足する回数付き合って、さっさとこちらは午睡といきたいのだ。
 だが、二人の返答はエルトシャンの希望を打ち砕く――だがどこかで予想できた――答えだった。
「もちろん、エルトに勝つまでだ」
 エルトシャンが、大きなため息をついたのは言うまでもない。

 陽が沈む。
 朱色に染まった西の空は、時として血の色を感じさせるというが、このとき、グランベル・バーハラの士官学校の寮の窓からそれを眺めていた、ノディオン王国の第一王位継承者が感じていたのは、虚しさと徒労感だった。
 すでに左手に持っている本は読み終わっていて、ただなんとなく視線を落しているだけだ。時折、本の向こう側から何事か聞こえてくると、これ以上ないほどけだるそうに右手でチェスの駒を持ち、やる気なく動かす。何回かその動作を繰り返し、そのうちぽつりと「チェックメイトだ」と言うと、その駒が乗っているボードの向こう側にいる二人が悔しそうにうめき、また駒を並べなおす。それの繰り返しだ。何回やったかはすでに記憶にない。
 ふと、故国にいる妹のことが思い出され、妹の方がこの二人よりまだマシだろうな、などとぼんやりと考えているうちに――またポツリと「チェックメイト」という言葉が部屋に響いた。
 ちなみにすでにその言葉は数十回発せられている。
「今日の夕食、何かな……」
 すでに感覚はここにはない。ただ今は、この不毛な勝負が早く中断されるのを待ちつつ、エルトシャンは寮の夕食の時間を待った。
 余談だが、よりによってその日の夕食が、諸々の不手際によって一時間遅かった。
 それが、誰にとって一番不幸であったかは、あえて語る必要はないだろう。



written by Noran

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