始まりの刻




 バーハラに吹く春を告げる風は、強いが、冬の風と違ってどこか優しさを感じさせてくれる。あるいは、人が、そう感じているだけなのかもしれない。いずれにしても、人を少なからず浮かれさせてくれる。そして、今バーハラ士官学校の門の前に立っている若者は、新たなる出会いに心を躍らせていた。
 バーハラの街自体は、別に若者にとって懐かしい場所というわけではない。実際、父は年のほとんどをこのバーハラで過ごしていて、彼自身もよくバーハラには来たことがあるが、長期間滞在したことはほとんどない。
 しかし、これから数年間は、バーハラで暮らすことになる。バーハラ士官学校。士官学校、といっても実際にはグランベル王国内の貴族、また各国から王族や貴族が入学する、格式の高い学校で、ここに入ることは、上流貴族の子弟の証ともされていた。また、各国は、グランベル王国に対し敵意がないことを証明するためにも、自国の王子や貴族の子弟を、この学校に入れているのだ。
 その様な性格を持つ学校ではあったが、同時にこれは色々な国々の王族や貴族と知り合うことのできる、貴重な場所でもあった。しかも、学内では基本的にどの生徒も対等である。これは、将来、各国を背負うことになる者たちにとっては、国というめがねを通すことなく相手を知ることのできる機会でもあり、非常に意味のあることだった。
 若者も、その様な期待に胸躍らせていた。これまで、ほとんどを自国で過ごしていたため、同年代の、対等の友人、というものを持つことができなかったが、ここではその様なことはないはずだ。
「さて、いくか」
 若者は、士官学校の門をくぐった。若者の名はシグルド。シアルフィ家の長子であり、やがては聖剣ティルフィングを受け継ぎ、シアルフィ家を継ぐべき若者は、このグラン暦七四八年、十五歳であった。

 士官学校は、特に在学期間が決まっているわけではない。入学が認められる年齢は決まっているが、卒業は特に決められていない。一応、最大で六年間在学ができる。入学者は、自分が必要と考える講義を選択し、修得していくのである。
 また、生徒は基本的に寮に入ることが義務づけられていた。これは、バーハラの王室とて例外ではない。もっとも、バーハラ王家以外の生徒は、家が遠いので、自宅から通うなど不可能であるというのもある。
 シグルドと同室になったのは、レンスター王国のキュアンという王子だった。レンスター王国は、北トラキア半島、マンスター地方の一王国で、国の規模としては、シアルフィ公国よりもむしろ小さい。しかし、この小国は、グランベル王国でも決して軽視されてはいない。十二聖戦士が授けられたという伝説の神器。そのうちの一つ、地槍ゲイボルグを伝えるのが、このレンスター王家なのだ。
 キュアンは、そのレンスター王家の第一王子であり、地槍ゲイボルグの継承者でもあった。その左腕には、継承を示す聖痕がはっきりと顕れている。しかし、キュアン自身はそのようなことを気にする性格ではなく、むしろ元気のいい、どこか子供染みた青年であった。
 シグルドとキュアンは同室であることもあり、また、同じ神器の継承者でもあるため、すぐに気が合った。もともと、二人とも選択していた講義もほとんど同じであった。これは、後にお互い王と公主という差こそあれ、人の上に立たなければならない、という認識があったため、自然、取る講義が同じになったのだ。唯一違ったのが、武技の講義で、シグルドは槍を第一武技に、キュアンは剣を第一武技に選択していた。
「なぜ剣じゃなかったんだ? シグルド。お前の家に伝わる聖剣ティルフィングは、お前がいずれ受け継ぐんじゃないのか?」
 キュアンは食堂で突然聞いてきた。貴族の子弟の多い士官学校だけあって、食堂、といってもかなり豪華な食事が出る。量も豊富だが、味もいい。
「ああ。別に第二武技では剣を選択しているしな。正直、剣で負けたことはないんだ。勝てたことがないのだって、父上だけだ。互角に戦える相手がいないのに、やっても仕方ないだろう?キュアンこそどうしてだ?」
 レンスター王家に伝わる神器は槍であり、当然槍を得意とする。しかし、キュアンは剣を学んでいる。
「う〜ん。やっぱり基本だろう。それに、槍はいつも携行するわけにはいかないじゃないか」
 シグルドは一瞬呆然としてから、「違いない」と言って笑い出した。町中で、剣を携行している者はいても、槍を持ち歩いている者はいない。
「シグルド、剣で負けたことがない、というならアグストリアのエルトシャンと一度、剣で勝負してみたらどうだ?」
「エルトシャン?」
 初めて聞く名前ではない。直接の面識はないが、噂は色々と聞いていた。そもそも、講義もほとんど重なっているのだ。
 アグストリア諸公連合、ノディオン王国のエルトシャン王子。自分達と同じ十五歳であり、魔剣ミストルティンの次期継承者。その点では自分達と立場は同じである。世代的に、この世代には継承者が多いが、同じ学年に三人揃うのは珍しいことであった。ただ、話す機会が今までなかったため、知り合いになれなかったのだ。しかし、噂は耳にする。
 シグルド自身ももちろん彼を見たことはあるが、まず第一に超然としている、という印象がある。
 容貌はまず美形と言っていいと、シグルド自身が思っていた。アグストリア人らしい金色の髪は、まさに獅子を思わせる。人を惹きつける何かを持っている人物だ。カリスマ、と言ってもいいかもしれない。実際、彼の周囲はいつも多くの生徒が集まっている。
 しかし、むしろエルトシャン自身は迷惑そうに、いつもそれを遠ざけようとしていた。時々、隠れるように学校の中庭で一人本を読んでいるのを、シグルドは見た記憶がある。しかし、その様な態度はまた、上級生には疎んじられるもので、あまり快く思われてもいないらしい、と聞いている。
「彼は剣の腕が立つのか?」
 これまではあまり興味がなかったが、剣の腕が立つ、となるとやはり自然、興味が湧く。
「もちろん。お前と同じ神器の、それも剣の継承者だからな。正直、俺じゃ、全く相手にもならなかったよ。気がついたら剣を弾き飛ばされていたからな」
 そうは言っても、こと剣に関しては、キュアンの腕はお世辞にもいいとは言えない。シグルドと、一度勝負した時も全く勝負にならなかったのだ。
「面白そうだな、今度、会って話してみよう」
 そう言ってシグルドは残ったステーキを口に放り込んだ。その横で、キュアンはもう食事を終えていて、食後のコーヒーを飲んでいる。確か自分の五割り増し以上の量があったはずだが、とシグルドは思ったが、キュアンの食事っぷりにはもう驚かないことにしていた。

「ふわあ〜。こんな日に退屈な授業には出たくないよな」
 入学してから二ヶ月、シグルドは学校の裏の広大な山の中にいた。季節は、まだ夏に移る前で、汗ばむほどの暑さはない。もともと、比較的北に位置するバーハラは夏もそれほどは暑くならない。そして、今は一番気持ちのいい季節なのだ。
 このころになると、退屈な授業、というものをサボる、ということもしてしまうようになる。シグルドは比較的真面目に授業に出る方ではあったが、それでも時にはこのようにサボりたくなるものだ。
 しばらく横になっていると、瞼が重くなってくる。柔らかい陽射しが、木々で適度に遮られて、ちょうどいい強さでシグルドに降り注いでいた。風に揺らされた葉が、気持ちのよい子守り歌になっている。いつしか、シグルドは眠りに落ちていた。

「生意気なんだよ、お前は!!」
 心地よい春の眠りを妨げた怒声の後、響いたのは剣戟の音だった。一瞬、夢の中の出来事かと思ったシグルドは、その音が現実のものであることに気づくと、跳ね起きた。それほど、遠くではない。ただの喧嘩であれば関わる必要を感じないが、真剣を使っているとすれば、放っておくわけにもいかないだろう。
 音を頼りに走ったシグルドは、すぐ現場に遭遇することができた。そこにいたのは、九人。いずれも士官学校の学生だ。
 一人はエルトシャンだった。何度か見たことがあるので、間違いない。残り八人のうち、七人まではシグルドはよく知らないが、一人は知っていた。確か、ドズル家のダナン公子だ。ドズル家の長子であり、聖斧スワンチカの継承者。確か今四年生だったはずだ。シグルド自身もあまりいい感情は持っていない。
 士官学校の学生は、必ずどこかしらの貴族や王族である以上、自然と『派閥』というものができる。本来なら、シグルドやキュアンといった、次期公主、国王などは、そういった派閥の中心になるのだが、彼ら自身がその様なものを好まず、またまだ入学したばかりでもあるため、その様なものはない。
 唯一、エルトシャンが本人が望んでいるわけではないだろうが、そのような集団が形成されつつあるが、中にはこれを積極的に構成する者もいる。ダナン公子はその例だった。
 おそらく、他の七人はその『手下』達なのだろう。大方同じドズル公国の貴族の子弟なのだろうが、このように数を従えて、自分が大物になったと思うような人物が自分と同じ継承者である、というのは情けなくはあったが、かといってそれを本人に止めろ、と言えるものではない。しかし、それでも集団で一人を私刑にしていいわけではない。
 おそらく、エルトシャンが単に「目立った」から、自分達の力を誇示しようとしたのだろう。だが、聞いている通りのエルトシャンの性格だと、その様な脅しに屈服するはずはない。自分だって嫌だ。しかし、それだけで真剣を使って斬りかかる、ダナン公子の『仲間』にもあきれてしまう。しかも、ダナン自身も止めた様子はない。
「いくらお前が剣に優れていても、この数相手にするのは賢くねぇな。まぁ毎年何人かはいるんだよ。大怪我して退学する羽目になる奴が」
 おそらく、父親の力も使って事実をもみ消すのだろう。たしかに、ランゴバルト公爵ならそのくらいはやりかねない。シグルドも、あの人物は好きになれなかった。
「お前達が勝手に突っかかってきただけだろう。俺が剣を抜いたのは、正当防衛だ。だが、これ以上やると言うならば、俺も容赦しないぞ」
 そう言うエルトシャンには、圧倒的な迫力があった。シグルド自身、一瞬寒気を覚えるほどだ。
「ほざけ!! 後悔しろ!!」
 ダナンの声と同時に、七人が斬りかかった。しかし、その剣はエルトシャンにはかすりもしない。逆に、次々と剣を叩き落とされていく。
「すごい……!!」
 シグルドは、エルトシャンの剣技に魅入っていた。圧倒的とすら思えるほどそれは美しく、そして力強い。気がつくと、七人は全員剣を叩き落とされていた。
「終わりか? 一対七でこの様とは情けないな」
 エルトシャンは、息も乱さずに平然と言いきった。そして、ダナンにその剣の切っ先を向ける。
「ふん。役に立たない奴等だ」
 ダナンは、吐き捨てるように言うと、木の影においてあったのだろう斧を取り出した。ドズル家が得意とする武器は斧である。普通、携帯するようなものはいないが、ダナンは常にこれを手下に持たせている、という噂をシグルドは聞いたことがあった。
「この俺を倒してからそのでかい口を叩くんだな」
 重そうな斧を、ダナンは軽々と構えると、エルトシャンを睨む。さすがに、次期継承者だけのことはある。それには、全く隙がなかった。
「ほざいてろ!!」
 先に動いたのはエルトシャンだった。重い斧相手に剣では、受けに回った方が不利である。そのため、エルトシャンは一気に斬りかかった。だが、ダナンはそれを完璧に防御し、反撃を繰り出す。それを体捌きで空を切らせると、体勢の崩れたダナンの手首を狙って一気に斬りかかった。だが、それは斧の柄で受けられてしまった。
「くっ!!」
 そのまま、睨み合いになる。だが、状況は一瞬で動いた。
 エルトシャンに剣を叩き落とされていた手下が、いきなりエルトシャンを攻撃し始めたのである。普段であれば意に介す必要のないような敵手でも、自分とほぼ互角の技量を持つ相手と戦っている時に来られると、非常に厄介である。その持っている剣は刃があり、かすった場合は大怪我をしてしまうのだ。
「貴様ら、……しまった!!」
 エルトシャンが一瞬、他に気を取られた瞬間に、ダナンの攻撃がエルトシャンを襲ってきた。一撃をかろうじて受け流したが、返す二撃目で、剣が音高く弾き飛ばされる。
「言っただろう? この数を相手にするのは、賢くないと」
「次期ドズル公爵は随分と卑怯だな」
 まだ手が痺れているのだろう。手を押さえながらエルトシャンは言う。しかし、この状況では、他に言いようもないのだろう。
 ここまで見ていて、シグルドは慌てて飛び出した。これ以上はさすがに傍観しているわけにはいかない。
「な、お前は……」
 飛び出したシグルドに反応した手下の一人のみぞおちに、剣の柄を叩き込んで、シグルドはその剣を奪った。そして、それをエルトシャンの方に放る。ダナンが一瞬シグルドに気を取られたうちに、エルトシャンは後ろに飛んでその剣を受け取った。
「加勢する!!」
「貴様、シアルフィのシグルド!!」
 ダナンは憎々しげにシグルドを睨んだ。
 ダナンの父ランゴバルトとシグルドの父バイロンは、グランベルの貴族であれば、誰でも知っている政敵である。当然、その息子であるダナンも、バイロンやシグルドにいい感情を持つ義理はない。むしろ、父親と同じ感情を持っているようだ。
「新入生である私を知ってもらっていて光栄ですね、先輩。ですが、この場合私は、同期の加勢に入らせてもらいます」
 言葉が終わるか終わらないかのうちに、手下の一人が斬りかかってきたが、シグルドはその剣を一撃で弾き飛ばした。
「私とエルトシャン。二人同時に相手しますか?」
 そう言いつつ剣の切っ先をダナンに向けた。ダナンはシグルドとエルトシャン、二人を睨んでいたが、悔しそうに引き下がった。シグルドが気絶させた手下の一人は、仲間にずるずると引きずられている。
「ふぅ。大丈夫か、とは聞くまでもないかな?」
 シグルドは剣を収める。エルトシャンは弾き飛ばされた自分の剣を鞘に収めると、シグルドに手を差し出してきた。
「感謝する。正直、助かった。えっと……シグルド……シアルフィのシグルド公子か!!」
「知っているとは光栄だな。よろしく、エルトシャン」
 シグルドはそう言ってその手を握り返した。
「キュアンから少し話を聞いていた。剣に自信があるらしいじゃないか」
「君ほどではないよ」
 それは、謙遜ではない。劣る、とは思わないが、エルトシャンの方が強いようにシグルドには思えた。
「謙遜を。……改めて自己紹介しておこう。俺はアグストリア諸公連合、ノディオン王国の王子、エルトシャンだ」
「私は、グランベル王国、シアルフィ公国の公子、シグルドだ」
 もう一度、握手をする。そのとき、講義の終了を告げる鐘が鳴り響いた。
「おや、結局サボリになってしまったか。くだらないことに付き合ったからな」
「ちょっと待った。初めからサボるつもりだったんじゃないのか?」
 エルトシャンの言葉に、シグルドは聞き返した。たしか、エルトシャンも同じ講義だったはずだ。
「まじめな俺がサボりなんてやるわけがなかろう。奴等に呼び出されたから、仕方なく講義を休んだんだ」
「……じゃあその背中に寝ていたあとがついているのはなんだ?」
 シグルドの言葉に、エルトシャンは慌てて背中を確認しようとする。シグルドは吹き出していた。
「ハメたな、シグルド」
 エルトシャンが睨む。
「ははは。気持ちは分かるさ。こんな気持ちのいい日に、あんな爺さんの退屈な講義はつまらないだろう」
「退屈とは言い過ぎだ。眠くなる、くらいにしておけ」
 シグルドは「全然変わらないぞ」といって笑い出した。つられてエルトシャンも笑う。だから、その話題の「爺さん」がシグルド達の近くに来ていることに気がつかなかった。彼らが寮に帰れたとき、陽はとっくに落ちていた。

 シグルド、キュアン、エルトシャン。彼らの運命はまだ、交わったばかりであった。そして、彼らの前にある未来は、まだ光と希望に溢れている。彼らの刻は、まだ始まったばかりだった。



written by Noran

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