短い夏が、シレジアに訪れた。雪の大地であるシレジアだが、この季節は、ユグドラル大陸でも最も美しい場所となる、といわれている。どこまでも広がる草原。頂きにまだ雪を残した、蒼い山々。そして、シレジアの中央を流れるシレジア河の美しい流れ。冬は雪によって灰色の世界となるこのシレジアも、この季節は命の輝きにあふれている。いや、むしろ大陸でももっとも命が輝いているのではないか、と少女は思う。 その中にあって、中心に白亜の城を持つこのシレジアの街は、まるで宝石のようにも見えた。以前来た時は、まだ春になったばかりで、雪化粧の中にあったが、今は草原の中に美しい街並みが広がっている。 シレジアの街々は、他の地域の街同様、高い城壁で囲まれている。だが、その色が、他の地域と違い、白い。組み上げる石材が違うという話を聞いたことがあるが、彼女は、この色の城壁しか見たことがない。だから、城壁とは白いものだ、と思っている。 その城壁をくぐったところまで来たのは、これで2回目。前は4年前。まだ、自分は9歳だった。姉が騎士団に入団した時に、母と一緒に来た。しかし、今は一人である。 騎士団に入団した姉は、滅多に家に帰ってこれなくなった。寂しいが、姉が騎士になったのは誇らしく思う。だが、この春に母が病で死に、彼女はついに独りぼっちになってしまった。皮肉なことに、ほぼ同時期に姉は、シレジア天馬騎士団の団長に就任した。母はついに、姉のその姿を見ることはなかった。 身寄りを姉以外失った少女は、彼女自身の希望で、姉が引き取ることになった。彼女は、ペガサスを駆ることが出来るため、町の人々は残留を望んだが、彼女の意志は固かったのだ。 ただ、そうは言うものの、自分自身、果たして何になりたいのか、分かっていなかった。まだ13歳であるというのもある。ペガサスを駆れるとはいえ、別に全てが天馬騎士団に入るわけではない。むしろ、天馬騎士にはなれないものの方が、多い。多くのものは、伝令使や、軍に入って、偵察任務に就く。姉には憧れている。綺麗だし、強いし、なによりなにか、人を惹きつけるものがあると思う。だけど、自分は分からない。 姉は『護りたいものがあるから』といって騎士になった。それがなんなのか、いまだに教えてはもらえない。けれど、自分には目標はない。気が弱いのも、騎士には向いていないと思っている。姉は、きっと自分以上の騎士になれる、と言ってくれたことがあるが、あまり自分が騎士に向いているとは思った事はない。 「フュリー!!」 急に名前を呼ばれて、顔を上げる。姉が、息を切らせて走ってきた。 「お姉様!」 少女は嬉しそうに駆け出した。母の葬式の時以来、半月ぶりの再会である。 そのまま姉に飛びついた。姉は一瞬バランスを崩しそうになって、かろうじて堪える。 「こら、いつからそんなに甘えん坊になったの?」 そう言いながらも、姉の表情は優しかった。実際、寂しかったのだ。母が病死して、シレジアに車での間、彼女は家の整理を一人でやったのだ。自分から言い出した事だった。姉マーニャは、シレジア天馬騎士団の団長に就任したばかりで、とても多忙であった。だから、彼女は姉が戻ってくる、といった時に、それをつっぱねたのだ。 「だって、久しぶりなんだもの!」 実際には、母が生きている時は、マーニャは多くても二月に一度しか帰郷していない。だが、それでもまだ十三歳のフュリーには、一人は辛すぎたのだろう。そう思うと、これから言わなければならない事に、ちょっと心が痛む。 「お姉様?」 マーニャのちょっとした変化を、フュリーは見落とさなかった。 「ん……ごめんなさい。実はちょっと急な用事が出来てしまったの。すぐに片付くと思うんだけど……それまで、もう少し待っていてくれる?フュリー」 マーニャは本当にすまなそうに言う。また、フュリーも、そんな姉を困らせたくはなかった。 「うん、分かったわ。イルオスと一緒に待ってる。でも、早く帰ってきてね」 フュリーはそういうと、すぐに自分のペガサス、イルオスの元へと走っていく。マーニャは、急ぎ、城の方へ戻っていった。 少年、という年齢を脱しつつある男が、その少女を見つけたのは川のほとりだった。この時期、やや汗ばむような暑さになる事もあり、川で遊ぶ者は少なくない。しかし、城まで歩いて一刻はかかりそうなこんな場所で、しかも別に川に入って遊ぶわけでもなく、一人でいる少女は珍しい。それが、ふと興味をそそられた。 「こんなところで何をしているんだ?」 少女はビクリ、として振り向いた。その目は、少しだけ涙に濡れていた。 「ど、どうしたんだ。すまいない。驚かせてしまったか」 すると、少女の方がぶんぶんと首を横に振る。 「ち、違います。ご、ごめんなさい。その、別にあなたに驚いたとか、そういうわけじゃなくて、その……」 少女はやや気が動転しているのか、言葉も上手く回らない。そのうち、声が小さくなって、視線が下にずれていく。 「おいおい。なんか悲しい事でもあったのか?俺でよければ相談に乗るぞ」 少女はおそるおそる顔を上げる。目の前に立っている青年は、優しそうな瞳を向けていた。深い緑色の瞳。シレジア人でも、これほど深く、それでいて澄んだ瞳を持っているのは、他にはいないのではないだろうか、とすら思えた。 「どうした? 俺の顔に何かついているのか?」 ずっと顔を見ていたからだろう。青年は不思議そうに聞いてくる。 「あ、違うんです。その、ごめんなさい」 「いや、別に謝らなくてもいいんだが……」 そう言って頭をかく。その仕種がなぜか可笑しくて、少女は思わず吹き出していた。 「なんだかなあ。っと、失礼。名前を言っていなかったな。俺はレヴィン。君は?」 レヴィンと名乗った青年は、恭しく頭を下げる。 「あ、わ、私はフュリー……」 フュリーと名乗った少女は、レヴィンの礼に、どう対応したらいいのか分からない、といった感じで、やや戸惑っていた。 「で、お嬢さんは一人でこんなところまで来て、何をしていたんだい? 水遊びにも見えなかったけど?」 そういってから、レヴィンは少女がどうやってここまで来たかが分かった。ガサリと音がして茂みから出てきたのは、見事なペガサスだった。 「これは……お嬢ちゃん……いや、フュリーのペガサスかい?」 わざわざ言い直してくれるところが、自分を一人前と見てくれているような気がして、フュリーはなぜか嬉しかった。 「うん。私のペガサス。イルオスっていうの」 フュリーはそう言いながらイルオスの首の辺りを撫でてやる。ペガサスは頭をフュリーに寄せてきた。 「一人でこんなところまで?」 レヴィンは優しくそう尋ねた。深いグリーンの瞳が、自分と、背後の空を映している。その空の色が、なんともいえず綺麗に見えた。 「わ、私はペガサスがあるから……あなただって、ここは街からはかなり……」 フュリーはなぜか目をそらす。考えてみたら、男の人と、二人だけでいること事体、初めてかもしれない。そう考えると、萎縮してしまう。しかし、もう一度レヴィンの方を見ると、彼はまだ優しそうな瞳を自分に向けている。それは、なぜかフュリーを安心させてくれた。 「あまり城から……いや、街から近いとな。それに、もう少し行ったところに、いい場所があるんだ」 レヴィンはそういうと、さっさと歩き出した。一瞬、フュリーはどうすればいいのか、戸惑ってしまう。 「どうした?せっかくだから来ないか?」 そういって振り返ったレヴィンの表情は、彼女が今までに見た、どんなものよりも素敵に見えた。 「ここだ」 もう少し、と言ったのに実際にはかなり離れていた。ペガサスに乗れば良かったと、後悔しかけたが、レヴィンが見せてくれた光景は、その苦労を忘れさせてくれた。 「す……ごい……です……」 「今が一番いい時間だからな。晴れていないと意味もないし。けど、これはペガサスからでもそうそう見れる景色じゃないと思うぞ」 眼下には、シレジアの緑の平野が広がっている。細い河が太陽の光をちょうど反射して、まるで光の糸のように見えた。その遥か向こうには、光の帯が見える。それが海だと分かるのに、すこし時間が必要だった。 「いいだろう? おれのとっておきの一つなんだ。この季節にだけ、見る事ができる景色」 レヴィンはそれだけ言うと、近くにある大木のところへ行って、いきなりゴロリと横になる。フュリーが不思議そうに見えていると、その視線に気がついたのか、レヴィンは上半身だけ起こしてくる。 「気持ちいいぞ。フュリーも横になってみろ」 そういうと、再び横になって、目を閉じる。フュリーはおそるおそる近くまで行き、レヴィンの横にちょこんと座る。 「目を閉じてみろ。風が、いろんな音を運んできてくれる。命の音をな」 寝ていたのかと思っていたので、フュリーは少しびっくりした。レヴィンの目は閉じたままである。フュリーは座ったまま目を閉じてみた。 しばらくすると、確かに、いろいろな音が聞こえてくる事に気がついた。木々の葉のずれる音、わずな小川の流れ、小鳥のさえずり。そして、風そのものの音。普段は気付きもしないような、小さな音が、はっきりと聞こえてくる。自然が、生きている事を主張するかのように。 「おい、起きろ。いいかげん、風邪引くぞ」 肩が揺り動かされたのと、背中をなにかにこずかれたので、フュリーは目を覚ました。肩を揺り動かしていたのはレヴィンで、背中からこずいていたのはイルオスだった。 「あ、私、その……」 羞恥で顔が赤くなる。しかし、レヴィンはそんな事は気にした様子はなかった。 「良く寝ていたな。どうだ? 少しは気も晴れたか?」 レヴィンの言葉に、フュリーは「あ」と思った。確か、初めこの人に会った時は、孤独感で涙まで出てきていたのに、今は全然そんな事はなかった。むしろ、帰ってからこの素晴らしい景色を、姉さんにも見せてやりたい、と思う気持ちの方が多かった。 「はい!! ありがとうございます」 何故か必要以上に大きな声になってしまった事に気付き、再び赤面する。 そのまま、シレジアの街の方へ二人で歩いていく。 「あの場所、人には秘密にしておいてくれ。ま、あんなところまでわざわざいくやつもいないだろうけどな」 「じゃあ何で私には……?」 フュリーが不思議そうに尋ねる。レヴィンはちょっと頭をひねってから、フュリーの頭にポンポンと手を置いた。 「女の子が泣いているんだったら、男としては元気が出るようにしてあげたくなるんだよ」 そういって、また微笑む。何故か、フュリーは風のようだ、という印象を受けた。 「さて、それじゃ、おれはこの辺で帰るとするか」 レヴィンがそう言い出した時、シレジアの街はもうすぐだった。そこでフュリーは急に、姉を待たせているのではないか、ということに気がついた。 「それじゃ、また機会があったら会えるといいな。フュリー」 レヴィンはそういうと街の雑踏に消える。フュリーは慌てて姉が待っているあろう場所へといった。しかし幸いにも、マーニャはまだ帰ってきていなかった。 マーニャは結局仕事を終える事が出来なかった。レヴィン王子を見つけて、直ちに連れ戻す事。しかし、これが目下マーニャと天馬騎士団にとって何よりも大変な事だったのだ。しかも、夕方になってから、レヴィン王子が自分で帰ってきた、とあって、思いっきり疲れてフュリーのところへ言った。すっかり待たせてしまった、と自己嫌悪に陥りながら行ったのだが、当のフュリーは、マーニャよりもむしろ楽しそうにしていた。 その日の夜、マーニャはフュリーから何があったのかを聞いて、呆然となった。 |
written by Noran |