ざく、と雪が潰されていく音が靴の下から聞こえた。 (イザークも雪深い国だったが、ここはそれ以上だな) もう十年以上も離れている故国のことを、ふと思い出した。思い出してから、やはりあそこが自分の故国なのだな、と改めて実感する。 実際、このシレジアの雪はすごかった。 幾日も降り続け、やっと晴れたと思ったらその翌日からまた降り出す。シレジアの国土がすべて雪に覆われるのではないか、と思ったほどだ。 これでも、もう暦の上では春だというのだから、恐ろしい。実際、雪が解けきってしまうのは夏に入るか入らないかの頃だという。確かに、最近少し気温が上がってきたとは思うが、それでも他の地域なら、これは確実に『冬』と呼ばれる季節としか思えない。だが、シレジアの者に言わせると、もう春なのだという。冬とどこがどう違うのか、少なくとも見た目ではほとんど分からない。 ただ、一面の雪原は太陽の光を受けてまるで宝石のように輝いていて、それが非常に美しい。水に反射した光も美しいが、これはこれで違った美しさがある。 「ホリン」 名を呼ばれて、振り返る。そこには、長い黒髪の女性が立っていた。 防寒具に身を包んでいるが、全体的にゆったりとした服を着ている。 よく見れば、その女性のお腹が膨らんでいることに気付くだろう。 イザーク王妹アイラ。祖国を失った亡国の姫である。そしてこの冬、ホリンとアイラは結婚した。その流れ自体は、思いっきりはめられた、というものだったが、お互いがそれを望んでいたのは、事実だ。 「そうしていると、あまり目立たないな」 「……結構これはこれで、重いんだが」 アイラが口を尖らせる。 別に、文句を言っているいるわけではないようだ。 「エスリンがいうには、もっともっと大きくなるそうだ。そうなったら動けないんじゃないか、というのが正直怖い」 「あとどのくらいなんだ?」 「夏に入って少しした頃だろう、ってエスリンが」 「……そうか。経験がある人間がいるのはありがたいな。アイラは、初めてなのだろう?」 「この場で斬られたいか?」 一瞬、本気なのではないか、と思えるような声で、彼女は抗議した。 「冗談だ。とにかく、不安でな」 無論ホリンにとっても、初めての子である。 ホリンはまだ二十歳にもならないうちに、イザークを出奔した。側室の子であったホリンは、自分がいることによってソファラの継承問題が発生するのを憂慮したのである。しかし、皮肉なことにソファラを始めとしてイザーク王国は滅び、いまやイザーク王家で生き残っているのはこのアイラと、継承者シャナンのみ。ソファラも、ホリン一人が生き残っているだけだ。あるいは他にもいるかもしれないが、それを確かめる術はない。 それから十年あまり。ホリンはひたすら傭兵として大陸を渡り歩いてきたのである。 「いつか戻れる日があるのか……」 「なんか言ったか?」 「いや。なんでもない。それより、安静にしてなくていいのか?」 「別に病んでいるわけじゃあない。エスリンに言わせると、適度な運動は赤ん坊のためにはいいそうだ。さすがに、剣を振り回そうとしたら止められたがな。危ないって。いまさら剣で怪我をするようなドジをするつもりはないんだが……」 アイラはぶつぶつと不満そうに呟いた。 確かに、ずっと剣と共に歩んできたアイラにとって、剣を握らせてもらえない、というのはひどく戸惑いを覚えるものらしい。しかし、この場合エスリンやシャナンの方に軍配があっているようだ。 「まあさしあたって、先輩の言うことは聞いておくべきだろう。こればっかりは、俺は何も分からん」 その言葉に、アイラは「まあそうなんだけど」とやや渋々承服したようだ。 「そういえば聞こうと思っていたんだが……」 アイラは思い出したように顔を上げる。 「なんだ?」 「ホリン、お前他に子供はいないのか?」 一瞬、ホリンは文字通り雪に突っ込みそうになるほど脱力した。 「な、な……」 「別に怒るつもりはない。ただ、ホリンは十年以上も旅を続けていたのだろう?結婚してないとしても、子供がいたりはしないのか?」 どうやら本当に怒っていないらしい。このあたりの、むしろさっぱりとしたところは実にアイラらしい、と思う。 「別に……まあ、そういう相手がいなかったわけじゃあない。ただ、俺はこの通り傭兵だったからな。戦乱があればそこに行く。だから、いつまでも一緒にいる、ってことは出来なかったんだ。それに……どっかで引っかかるものがあったしな」 「引っかかるもの?」 アイラが首をかしげる。 「今俺の目の前にいる女性(ひと)のこと、だ。まあ……正直、もう会うこともあるまい、と思ってはいたんだが」 一瞬、何のことか理解できなかったアイラだが、すぐその言葉の意味を理解し、顔が紅潮する。 「あ、あのな……」 「別に一生ただアイラを想って、と考えていたわけでは、正直ない。何より、アイラともう一度会えるなんて、夢にも思っていなかったからな。というよりは、イザークが陥落した、と聞いたとき、もう生きてはいないと思っていた。アイラの性格なら、意地でもイザークに残って最後まで戦い抜こうとするだろう、と思ってな」 「……そのつもりだった。けど、兄上にシャナンを頼まれた。そして私は……それを拒絶することが出来なかった。本当は……」 アイラは悔しそうに俯く。確かに、彼女の気性なら、最期まで戦い抜くことを強く望んだのだろう。 だが、そうなったら、アイラはもう生きてはいまい。 「そのマリクル様の指示には、感謝している」 「え?」 「そのおかげで、俺はアイラにもう一度会うことが出来た……そして……」 その言葉に、アイラの硬くなりかけた表情が和らぐ。 「そうだな……人生、決して悪いことばかりじゃない。私も、自分が子を授かるなんて思っていなかったから……」 それに、とアイラはさらに言葉を続ける。 「こんな穏やかな気持ちになれる自分がいるというのも、知ることが出来た。不思議なものだけど」 「子供が出来るから、か?」 「分からない」 アイラはそこで、少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべると、すっとホリンの傍に寄り、背伸びして耳に口を近づけた。 「貴方が、いるからかもしれない」 一瞬、ホリンは硬直し、アイラは横でくすくすと少女のように笑っている。その顔はホリン以上に紅潮していた。 しばらくそれを見ていたホリンは、視線を、遥かな雪原へと向ける。 「……やはり、感謝したいな」 「何に?」 「アイラと出会い、そして再会できた偶然に」 「……そうだな」 二人はどちらからともなく寄り添った。 耳を澄ますと微かに水の流れる音が聞こえる。シレジアでは、この音と雪の下から芽吹く芽が、春の象徴らしい。確かに、この極寒の地にも、春は確実に訪れている。そして、もうすぐ夏。その時には、彼らの間には新たな絆が誕生している。 その、生まれてくる子の生に幸多きことを、二人は言葉なく静かに祈っていた。 |
written by Noran |