カウントダウン




 秋の空は気持ちよく晴れ渡っており、遠く葡萄畑の、かすかな芳香はこの王宮まで届いていた。
 グラン暦七八一年秋。
 ようやく聖戦の戦痕も癒え、秋の収穫を祝う収穫祭を行えるようになってきた。
 今も、レンスターの街は半月後に迫った収穫祭の準備で、街全体がどこか浮ついた雰囲気すらある。
 そんな季節に、トラキア王国――新トラキア王国とも呼称される――の国王リーフは、一人の客を王宮に迎えていた。
「え……?」
 その申し出に、リーフは文字通り目を丸くした。
 滅多な事では動揺することのない、と云われるリーフ王を動揺させることに成功したのは、トラキア王国内にあって、トラキア王国に従属する形は取りつつも、完全な自治と、限定的ではあるが独自の外交権すら認められている唯一の国、ターラ公国の公主、リノアンである。
 ターラからレンスターは近いとは言い難いが、遠くもない。ただそれでも、ターラ公主として多忙を極める――トラキア一国を預かるリーフと同じくらい――リノアンが、わざわざレンスターに来るのは、稀な事だ。
 そして、そのリノアンから申し出られたことが。
「ターラ公主の座を、降りる?」
「はい。今すぐ、というわけではありませんが」
 リーフは思わず、隣にいるグレイドと顔を見合わせた。
 ターラ公主リノアンの名声は、このトラキア王国のみならず、ユグドラル全土に広まっている。
 戦後、もっとも安定した治世を誇る都市として、各国からその政治・治安・教育制度を見習おうと訪れる人が後を絶たない、と評判だ。
 それらのすべて、とは言わないまでも、その大半が、まだ十代である公主の発案であることは、もはや周知の事実だ。
 ユグドラルで、もっとも有能な領主の一人――それが、ターラ公主リノアンの評価である。
 そのリノアンが、公主を退位する、と言い出したのである。
「もうまもなく、私が退位してもターラは問題がない、と言い切れますから」
 彼女が言うからには、おそらくはそうなのだろう。彼女は、自分に課せられた責任を途中で放棄するような女性ではない。
 確かに、完成されつつある――というかほぼ完成されている――ターラ公国の政治制度は、すでに多くの官吏、役人らによって運営、維持されるシステムである。最終決裁権は公主にあるとされているが、政治的決議の大半は議会を通して決裁され、公主の判断を仰ぐことは少ないという。
 だが。
「退位して……それから、どうするの?」
「野に下ります」
 さらりと、リノアンは言う。
 ヘイムの力を継承する、十二聖戦士の聖戦以来の名家の娘が、である。
「と、言うことにして下さい」
 リノアンは、小さく舌を出して、年相応の笑顔を浮かべた。
「……なるほど……そういうことか……」
「ええ」
 それ以上はリーフも聞かない。また、リノアンも言うことはない。
 だが、お互いにもう分かりきったことでもある。
 ターラ公主リノアンが、トラキアの復興に尽力する竜騎士ディーンと恋仲であることは、かつての仲間であれば誰もが知っていることだった。
 しかし、一介の騎士が、ターラの公主、そしてヘイムの血縁であるリノアンを娶ることは不可能に近い。
 ましてリノアンは、聖戦後の復興において、相当の名声を獲得している。現在十九歳。結婚か、少なくとも婚約はしていてもおかしくはない年齢であるのだが、彼女の周りにはそういう話は――少なくとも本人には――ない。
 実際にはトラキア国内はもちろん、他国の貴族などからも、リノアンとの縁談はひっきりなしに来ていた。
 ターラ公主という立場や、ヘイムの家系と親戚になれるという価値、さらにはリノアン個人の才覚。リノアンがターラ唯一の継承者である以上、婿入りの形になるとはいえ、どれをとっても彼女と結婚することで、その家にとって得られるものが非常に大きいのだ。
 だがリノアンは、その全てを断っていた。
 中には、ターラが形式上トラキア王国内の一公国という立場であることから、リーフ王を介して縁談を持ちかけようとしたところもあったが、リーフ王自身が、彼女が多忙であり、彼女自身に結婚するつもりがない、という理由で断っている。
 それはもちろん、リノアンがディーン一人を心の中に住まわせていることを知っているからの配慮でもあったが、そのリーフをしても、一介の騎士であるディーンとリノアンを結婚させてる方法は、思いついていなかった。
 さらに、ディーンもまた、トラキア王国にはなくてはならない人材となっている。
 ようやく再創設の目処がたったトラキア竜騎士団の団長は、彼以外考えられない。その彼が、ターラ公主の婿として、ターラに赴くことは、リーフにとって、トラキア国王にとって許可できないことであった。
 その、リーフでも思いつかなかった抜け道。
「まさかそんな手を考えていたなんてね……」
 確かに、リノアンが退位すれば、リノアンの政治的価値は格段に下がる。それでもなお、ヘイムの血縁という価値は残るが、リノアン自身が自由な身になることは間違いない。その状態で、各地を回る、ということにすれば、公職にない、一個人であるリノアンを追うのは困難だ。どこへ行ったか、などそう簡単には調べられない。まして実際には、調べたとおりの場所にいないとなれば、この広いユグドラル大陸で、一人の人間を探し当てることなど、不可能に近い。その本人が、隠れていたりするのなら、なおさらである。
「しかし……ターラを捨てることになるのはいいの?」
 リーフの言葉に、リノアンは首を横に振った。
「いえ、リーフ陛下。ターラを捨てるわけではありません。ターラは私のものでもありません。ターラは、ターラの市民のものです。私はその、ターラが元の輝きを取り戻すためにいたに過ぎません。そしてその輝きが取り戻されれば、そしてその輝きが維持されるだけの体制が出来上がれば……私はいなくても、ターラは大丈夫です」
「なるほど……」
 おそらくずっと考えていたのだろう。だからリノアンは、ターラを必死に復興させたのだ。
 ターラの復興は、すなわちそのまま、自分がディーンに近づくことになるのだから。
「もしかして、ずっと前から考えていた……んだよね、これは」
 一朝一夕、とはいかなくても、ここ数ヶ月の思い付きとは思えない。終戦からの、リノアンの努力を考えれば、おそらくは。
「はい。終戦の時から……いえ、戦いが終わる前から、考えていました。もっとも、ちょっと予想外でしたが」
「予想外?」
 はい、とリノアンは笑う。
「私がいなくても大丈夫な体制は作ったつもりなんですが……私自身に意味が生じることは考えていませんでした。聖戦士の血筋って大変なんですね」
「なるほど」
 リーフは思わず笑ってしまった。そして同時に、リノアンが自分と同じ聖戦士の末裔でありながら、まるで違う考えの持ち主であることを、改めて思い知らされた。
 リノアンのターラ公爵家が、ヘイムの傍流であることは、実はあまり知られていなかった。少なくとも、リノアンは聖戦の折、父の友人だったという司祭に聞くまでは知らなかった。
 あとで分かったことだが、これは元々あまり有名でなかった上に、リノアンの父が、暗黒教団からリノアンを守るために故意に隠蔽工作を行ったらしい。
 そのためか、リノアンは生まれながらに継承の義務を背負うリーフらに比べると、その自覚があまりない。
 無論ターラ公爵家としての自覚はあるが、血統の保全、という義務に関しては、リノアンとリーフではその意識の差が相当にあるのだ。
 リーフにとっては、名や地位を捨てることは、そのまま聖戦士の矜持を捨てることに他ならず、選択肢としてあり得ない、と言い切れるものであるのだが、リノアンにとっては違うのである。
 また、かつてはセリス、ユリア両兄妹だけになってしまったヘイムの家系だが、つい最近誕生したセリス王の第一子セリオが、ナーガの継承者であることが判明している。ヘイムの血筋の本流はバーハラ王家に還り、リノアンはますますもって、血統の保存、という義務からは自由になっていたのだ。
 いずれにせよ、リノアンの決意は固い。
 それはリーフにもよく分かった。
 彼女はおそらく、このためにずっと努力して来たのだろう。
 そしてこれは、彼女がディーンと結ばれうる、現在思いつきうる、唯一の手段に思えた。
「しかし……明日、とか言わないよね? それは私も困るのだけど」
「まさか、言いませんよ。明後日です」
 え、とリーフは慌てて中腰に立ち上がりかけ、横で控えていたグレイドはがたがた、と崩れかけた。
 その様子を見て、リノアンは必死に口を押さえてうずくまっている。
 どうしたのかと思ったが、どうやら必死に笑いを堪えているらしい。
「リノアン……」
「じょ、冗談です。す、すみません……さ、さすがにそんなことは……」
 完全にからかわれた、と知り、グレイドは憮然とした表情になり、リーフは半ば諦めて、ふぅ、と深呼吸をした。
「とりあえず笑いをおさめてからでいいから」
「す、すみません……」
 しばらくして、ようやく笑いが止まったのか――それでも目に涙を浮かべていたが――リノアンは居住まいを正した。
「今日明日はもちろん、まだ一、二年はかかると思ってます。ターラも、安定し始めたといっても、まだ完全かどうかは、私が見届けないといけませんし、それに、トラキア王国に引き継いでもらうのであれば、その受け皿も必要です」
「そうだね……しかし、そんなに待てる……?」
 リーフの言葉に、リノアンははっきりと、迷わず頷いた。
「これまでも待ったんです。ディーンだって、まだ大変なのは分かってますから、あと一、二年くらいはどうってことありません」
 実際はそうではないのだろう、ということはリーフにもわかっていた。
 彼女がどれだけ、あの竜騎士を恋焦がれているか、リーフはよく知っている。
 だがそれでも、彼女は待てる、と断言した。
 本当に強くなった――と感じずにはいられない。
 かつて、リーフがターラに逃れていた時、彼女はまだごく普通の少女だったのだが。
「でも、逆に言えばあと一、二年です。もう、すぐですよ」
 そういうと、リノアンはまるで日付を指で数えるように、指を折ってみせる。
「ということは、私もそれまでによりトラキア王国をさらに安定させなければならない、というわけだ。責任重大だな」
「ふふ……私も出来るだけお手伝いします。それくらいは、しないとですから」
「それは、アテにしているよ」
 リーフとリノアンが、同時に笑う。
「グレイドも、ね」
「は、はい」
 突然話を振られたグレイドは、かろうじてそれだけを答えた。

 翌日。
 リノアンは「ターラの収穫祭の準備もありますから」と早々にレンスターを後にした。
 彼女の乗った馬車が、街道の彼方に消えるのを、リーフとグレイドは共に見送っていたが、その馬車が見えなくなると、グレイドは心配そうにリーフに声をかけた。
「その……確かに、ターラの施政は整っております。その意味では、リノアン公主がいらっしゃらずとも、何とかなるかもしれませんが……」
「言いたいことはわかるけどね、グレイド」
 リーフは一度言葉を切ると、自らの居城を振り返った。
 それは、父が、祖父が残した歴史の証。それを受け継ぐことは、リーフにとって義務であり自らの意思で選んだことでもある。
「彼女は確かにターラの人々に慕われている。彼女は、ターラの象徴といってもいいだろう。だが……」
 昨日同様晴れ渡った空を見上げた。そこは、彼女が愛して止まない場所でもあるのだろう。
「リーフ様?」
「だが同時に、彼女の幸せは、ターラの誰もが望むことだろう。そして私は、それを最大限後押ししてあげたい」
 実際、リノアンとディーンのことは、ターラではそこそこ知られてはいる。それだけに、ターラの市民はリノアンの行く末を心配してもいると、リーフは聞いていた。
 多分、リノアンが本当に退位するとなったら、ターラは混乱するだろう。だが、その本当の理由を、ターラの市民は分かってくれるに違いない。後は、自分がリノアンから、ターラを任されるだけの器量を持てばいいことだ。
「さて、戻ろうか、グレイド。やることはいっぱいあるぞ」
 リーフは踵を返すと、城内へと戻っていく。その後を、グレイドが慌てて追いかける。
 収穫祭は、もうすぐだった。


2005.02.16 written by Noran

戻る