約束の刻




 峡谷の底にあるこの地に吹く春風は、決して優しいだけではない。まだ春を迎えられない高地の風も運んできて、朝などは酷く気温が下がる。ただ、この風が暖かくなり始めると、ようやくトラキアにも春が来た、と人々は喜ぶのだ。
 グラン暦七八三年。かつて、暗黒神ロプトウスが甦り、大陸を恐怖に陥れ、そして再び十二神器を継承せし聖戦士に敗れた、あの聖戦より既に五年。
 大陸はかつての穏やかさと豊かさを少しずつ回復させ、各地に見られる傷痕も、それを見て心を痛める者はいたとしてもそれで塞ぐことなく、明日への希望を持って生きていけるようになっていた。それは、かつて帝国軍と暗黒教団の猛攻にさらされたこのターラも同じである。
 ターラの現在の主は公主リノアン。まだ二十一歳という若き女公主だ。
 ただ、若い、といってもこの年齢まで貴族の令嬢が未婚であることは珍しい。実際には、幾度か結婚の話も出ているのだが、彼女が全て固持しているのである。本来なら、トラキア王たるリーフが彼女に強く婚姻するよう言えば、それでことが終わるのだが、なぜかリーフはただの一度もリノアンにそのような話をしたことはないという。
 そのリーフが久しぶりにターラを訪れたのは、まだ春風の冷たい季節だった。
 リーフにとっても、ターラは思い出深い土地である。
 かつて、まだ大陸が帝国に支配されていたとき、リーフはフィン、ナンナらと共にターラに匿われていたことがある。もっともそれが帝国に発覚し、結果としてターラに迷惑をかけてしまった。
 その後、聖戦においてターラは開放され、本来の領主であるリノアンの手に返された。以後、ターラはトラキア王国の一都市国家ではあるが、内政における完全な自治権と、限定的な外交権を持つ事実上の独立国家となった。
 しかし、その権限も、実質意味のないところが多く、現在ターラが独自に展開している外交関係はない。
 元々、ターラも北トラキアの一国家であり、ターラの中にも完全にトラキア王国に帰属すべきではないか、という考えが芽生えつつある。その一方で、公主リノアンの人気は相当高く、逆にいえばそれゆえにターラは未だに独立した都市国家という立場をとっているという風もある。
 この考えはトラキア王国のほうでも強く、実際交通の要衝にあるターラを完全にトラキア王国に組み入れるべきだ、という考えは根強い。
 王妃ナンナがいなければ、あるいはリーフの妃にリノアンを、と言い出す家臣もいただろう。実際、一度リーフに側妾としてはどうか、などと言った者もいた。ちなみにその男は翌日には左遷させられていたのだが。
「久しぶりだね、リノアン。ターラの春風も相変わらずだし」
 今回のリーフの訪問は、一応国王視察という名目である。もっとも、この名目は便利なもので、しばしばリーフの息抜き旅行の名目に使われる。今回もそれだった。もっとも今回は、まだ非公開にしている重大な目的があった。
「リーフ様もお変わりなく。ナンナ様もお元気そうで何よりです」
 リノアンの挨拶に、リーフのすぐ後ろに控えていたナンナが、小さく微笑んだ。その腕の中には、まだ一歳になるかならないか、という柔らかな金色の髪の赤ん坊が静かな寝息を立てて眠っている。
「途中何度も泣き出してね。正直、城内でも泣き続けるんじゃないかとひやひやしてたよ」
 リーフはそう言いながら、愛しそうにナンナと、その赤ん坊を見やった。
「もう一歳になられたのでしたっけ?」
「いや。あと一月くらいだ。リノアンはディオンを見るのは初めてだっけ?」
「はい。生誕祭の折に参上しようとは思ったのですが、どうも都合がつかず」
「……でもその甲斐あって、かな。よく、今までがんばったね」
 リーフの言葉に、リノアンは嬉しそうな笑みをもらした。
「去年、姉上と義兄上の結婚が決まると同時に竜騎士団の団長に彼が就任したと聞いた時、多分あと一年もないかとは思ったから、私も色々忙しかったよ、正直」
 リーフはそう言ってから、窓の外を見た。
 元トラキア王国の王子であり、天槍グングニルの継承者であるアリオーンは、去年、新トラキア王国の大公として、公職に復帰した。そして今、前大公であるアルテナ王女と共に、南トラキアを統治している。そしてまもなく、アリオーンとアルテナの婚儀も行なわれる予定だ。
「さすがに、アリオーン様とアルテナ様の結婚式に、ターラ公主としては参列できそうにもありませんが」
 そういって、リノアンは微笑む。
 その笑みは、今のターラを象徴しているように、リーフには思われた。
 かつて帝国軍、暗黒教団の猛攻にさらされたターラは、五年の月日を経てかつての美しい街並みを取り戻している。そして何より、そこにはかつてリーフがターラにいたときにはなかった明るさがある。明日に怯えるのではなく、明日に希望を抱ける明るさが。
「では、今回はそのつもりでよろしいのですね、リーフ様」
「まあね。そのためにここに来たわけだから。発表はいつ?」
「リーフ様がよろしければ、明日にでも」
「他の準備はできているのですか?」
 それまで黙っていたナンナが、少し心配したように口を開いた。その言葉に、リノアンは力強くうなずく。
「はい。もうずっと、この日のことを考えていましたから」
 そう言ったリノアンの表情は、リーフとナンナが知るどのリノアンよりも、輝いて見えた。

 翌日。
 リノアン、リーフ、ナンナはターラの中央会議場にいた。もっとも、ナンナは会議が始まる前には自室に戻る。形式上、王妃には国王に次ぐ政治的な権限があるのだが、今回はディオンを連れているため、会議の席を辞すことにしたのだ。
 ターラは基本的には公主を頂点とした政治制度を持っているが、リノアンは自身がまだ若年であること、政治的指導力はともかく実務能力が低いということから、ターラのこの五年間、政治制度の整備にずっと腐心してきた。
 その甲斐あって、ターラの政治制度は、ユグドラルでも随一といえるほどの部類になっている。もっとも、それだけの政治制度を整える手腕があって、政治的な実務能力が不足してる、というのはいささか説得力はないが。
 いずれにせよリノアンは、この五年間でほぼ完全な政治機構を作り上げた。そう。仮に自分がいなくなっても、なんら問題がなくなるほどの。
 最終決定権はあくまで公主であるリノアンが持つが、既によほど重要な案件以外は政務官レベルで決済できるようになっている。有能な人材も揃っているし、後進を育てるための教育機関も新設している。
 こと政治制度に関する限り、ターラはかつてとは比較にならないほど発達していた。
「もっとも、リノアンがそれだけがんばってる理由を知ってる人間は、そうはいないだろうけどね」
 リーフの言葉にはやや苦々しいものも混ざっている。その理由は、ナンナにはよくわかっていたが、何もいえないのでただ微笑むだけだった。
「すみません、リーフ様。でも、私は……」
「いや、いいよ。元々無理を言ったのは私だ。これまで、よくやってくれた……と、このセリフはまだ早いね」
「はい」
 その頃になると、ターラの重臣達が議場に入ってきた。リーフとリノアン、ナンナを見つけると恭しく頭を下げ、それから自分の席につく。
「それではリーフ様、私はこれで……」
「うん。部屋で待っていて」
 ナンナは一度席に座る者に会釈をすると、ディオンを抱きかかえたまま議場を後にする。
「今日は紛糾しそうですね……」
 軽い笑みと共にナンナは控えの間へと向かう。
 議場では、やがて全ての議席が埋まり、初老の貴族が、厳かに会議の開始を宣言した。
「それでは、ただいまより会議を開始いたします。本日の議題は……」
「ちょっと待って下さい。その前に、重要な発表があります」
 議事進行を勤める老貴族は、その言葉を受けて口を閉ざす。だが、他の廷臣は少し驚いたように公主を見た。というのも、会議においてリノアンが発言することは稀だからだ。
 ただ、廷臣たちの反応は、どちらかというと「やはり何かあるのか」という顔だった。
 視察、という名目とはいえ、宗主国であるトラキアの国王が会議に参列しているのである。内容はわからなくとも、何か重要な提案があるに違いない、とは誰もが思うところだったのだ。
 ただ同時に、何の提案があるかは皆目見当がつかなかった。今のターラは安定しており、またトラキア王国も南北の格差こそあれ、政治的には安定している。まさか戦争を起こすとかではないだろう。
「皆さんも多少想像していたようですが……私より、重大な発表があります」
 リノアンはゆっくりと立ち上がると静かな、しかしよく通る声で宣言し、それから一度言葉を切って議場を見渡した。廷臣たちは、静かにリノアンの次の言葉を待っている。
「今日、ただいまをもって私はターラ公国公主の座を降り、その権限の全てをトラキア王リーフ陛下に献上します」
 一瞬の沈黙。その後に起きたのは、予想通りのどよめきだった。
「こ、公主閣下。なぜですか。閣下がいらっしゃらなければ、このターラはどうなります」
「どうもなりませんよ、イルジェルド。あなた方がいるでしょう?」
 その言葉に、他の廷臣も思わず息を飲んだ。
 確かに、既にリノアンがいなくても政治制度に混乱は起きない。いつの間にか、リノアンは半ばターラの象徴としてのみ存在し、その権限はあれども実質全く使うことのない状態になっていたのだ。
「しかし、リノアン様がいらっしゃらなければ……」
「リーフ陛下では役不足ですか?」
「そ、それは……」
 確かに、リノアンと並んでリーフの人気はターラでも高い。現在でも、ターラを完全にトラキア王国に組み込もう、という動きがあるくらいだ。ただ、それを思いとどまらせているのは、リノアンの存在なのである。
「で、では閣下はどうなさるのですか。引退して隠居なさるとでも?」
「その通りです」
 他の者が言えば、タチの悪い冗談だろうと受け取っただろう。だが、リノアンはそういう冗談を言う人物でない。
「色々言いたいことはあるとは思いますが……これは決定事項です。そのために、リーフ陛下に来ていただいているのです」
 そこではじめてリーフは立ち上がり、それから議場を見渡した。その威に、思わず誰もが口をつぐむ。
「貴公らも色々言いたいこともあろう。だが、リノアン公主のこれまでの尽力を無にするような行いはするな。私はターラのきわめて優れた政治制度を担う貴公らなら、このような事態でも混乱することなく運営していけると信じている」
「しかし、それでも私達の主はリノアン様しかおりません。それは……」
 若い、まだ二十歳程度の公吏が戸惑ったように口を開いた。能力以上にその熱心さを買われた、という印象の青年だ。
「よせ。リノアン様にこれ以上何かを強いることはできぬ」
 リーフが反論しようとしたところに、先んじてその公吏の言葉を閉ざしたのは、議長を務めていた老貴族だった。
「ありがとう、グライスベルグ卿」
「いえ……リノアン様、どうか、ご自身のためにこれからを歩まれてください」
「レーディオン……」
 議長を務める老貴族――レーディオン・グライスベルグはリノアンの養育係でもあった人物であった。ゆえに、リノアンのことはよく知っている。そして、リノアンが聖戦後ずっと閉じ込めていた想いも。
「では、会議を続けます。以後、決定権はリーフ陛下にある。諸卿、よろしいか?」
 議場の沈黙を確認すると、レーディオンは小さくうなずき、再び厳かに会議の開始を宣言した。

 会議は、多少の動揺があったものの、ほぼ問題なく終了した。
 議題として、リノアンの引退に伴う諸手続き、及び公民への発表と祭礼に関することが追加されたため、会議が終わったときは既に陽は地平の下に落ちていた。
「お疲れ様、リノアン」
 疲れて部屋に戻る途中のリノアンを呼び止めたのは、ナンナだった。王子は部屋に置いてきたのか、今はいない。
「いえ。何年も待ち続けてたことです。疲れるよりも、今は……」
 ふと、窓の外の景色に目をやる。そこには、ターラの城下の灯火の光が地上に、天には星々の光がそれぞれ散りばめられていた。
「本当にすごいと思うわ、貴女は」
「…そうですか?だって、結局責任を放り出してしまおう、というのですから……」
「そんなことない。無責任なら、きっとあの戦いが終わったあとすぐに、国を出て行くでしょう。でも、貴女はそんなことはしなかった。ターラが復興するまで、そして自分がいなくなったあとのことを考えて、必死に努力してきたのだから」
「でも、まだ終わってません。父から受け継いだターラですが……リーフ様にあとは任せます。どうか、よろしくお願いします」
 そのとき、リノアンの目から一筋の雫が流れ落ちた。
 その涙の理由は、リノアンにもよく分かっていなかった。

 その一週間後。春祭りの初日である。
 春祭りは、本当の春の風が吹き始めた日の翌日から行われるため、街の人々は数日も前から準備を進めていて、いつ風が吹くかをひたすら待ち望んでいたのだ。
 ターラは気候的には北トラキアほど温暖ではない。無論、南ほどに苛酷な環境というわけでもないが、だがそれでも長い冬を越えてきた嬉しさというのは、誰でも同じ物であろう。
 祭りは、一番最初にターラの宮殿で、公主リノアンが春の訪れを宣言してから開始される。この時だけは、ターラの前庭まで街の人々に開放され、人々はそこで若き女公主の言葉を拝聴する、というわけだ。
「緊張なさっておるのですか?」
 レーディオンに声をかけられたリノアンは、ちょっとびっくりして体を強張らせた。実際、緊張している。というかしない方がおかしいだろう。
「落ち着いてください。我らはリノアン様を支持します。それに、リーフ陛下も今回はいらっしゃってくださっている。大丈夫です」
「ありがとう、レーディオン。それと……これまで、ありがとう」
「いえいえ。私も……不敬ながら孫娘が帰ってきたような気がして、大変嬉しゅうございました」
 レーディオンの家族は、彼を除いて聖戦で全て犠牲になっているのだ。また、祖父の顔すら知らないリノアンにとっても、レーディオンは実の祖父のような感覚すらあった。
「さ、公民がお待ちです。リーフ陛下もお待ちですよ」
「はい」
 リノアンは静かにうなずくと、前庭に面したバルコニーへと歩き出した。
 バルコニーに立つと、室内から急に屋外へ出たため、一瞬目がくらむ。そして目が慣れると、前庭には数千人のターラの市民達が、歓声をもってリノアンを迎えてくれた。その様に、一瞬リノアンは本当に自分の決断が間違ってないのか――正しいといえないまでも――思い返しそうになる。
 そのとき。
「リノアン」
 リーフの声がして、リノアンははっと顔を上げた。リーフはリノアンの表情を確認すると、静かにうなずいた。それを見て、リノアンも小さく頷くと、さらに数歩進み出て、静かに手を上げる。それと同時に、人々のざわめきが静まり、リノアンの言葉を待った。
「……春の訪れを告げる前に、私から重要な発表があります――」
 その、それほど大きくない、だが後ろのほうにいる人々にもよく通る声で、リノアンはゆっくりと、そして一つ一つの言葉をかみ締めるように宣言した。
 直後、広がったどよめきは、前庭はもちろん、ターラ中をを覆い尽くしていた。

 春祭りの宣言は、実際には統治権を引き継ぐことになったリーフが行った。だが、公民の混乱は収まらず、宮殿へ詰め寄る者も数多くいた。
 そういった者達を説得したのは、主にリーフやレーディオンで、リノアンはすでに公民たちの前には姿を現さなかった。彼女自身、その公民たちの前に出る勇気がなかったというのもある。たとえどのような言い訳をしたところで、公民たちには裏切りと写ってしまうだろうと感じていたからだ。
 ただその一方で、公民たちの中にはリノアンが遠からず引退することを察している者もいたらしい。政治制度の整備とリーフ王の来訪、それにリノアンのかつてのことを知っていれば、ある程度は推測がつく者もいたようだ。
 しかし街全体の混乱はすぐには収まらず、夜になってもまだ続いていた。もっともこれは、祭りに伴う混乱でもある。
 ただそれらも、翌日までには平常を――祭りは行われているが――取り戻しつつあった。これは、予め事情を説明する体制を作っておいたターラの行政官達の努力の成果だろう。逆に、この一つをとってもターラの行政制度の安定度を知ることが出来る。
 そしてその翌日の昼頃。リノアンは自室のバルコニーから、春の風を感じていた。
「確か、初めてディーンに会ったのも、この部屋だったのよね……」
 まだターラが帝国の支配下にあるなか。ディーンと、妹のエダがターラに来たのは、リノアンが形ばかりの公主となっていた時。もう、それから八年以上経っている。だが、リノアンにはまるで昨日のことのように思い出せることである。
 それから、色々なことがあった。ターラの陥落、そしてリーフと共にトラキア、グランベルと戦いつづけたこと。そして、一時期をのぞいて、ほとんどそばにはディーンがいてくれていた。
 リノアンにとっては、あの聖戦の一年間の記憶が、そのあとの七年間の記憶以上に鮮明に、そして強く思い出される。
「もう、帰ってこないと思うと、それはそれで寂しいもの……ね」
 リノアンはそういってから振り返った。
「でも、行きたいのでしょう?」
 リノアンではない、もう一人の人物の問いかけに、リノアンは強く頷いた。そこに立っていたのは、ナンナである。
「……はい」
 五年間。
 言葉にするとわずかだが、それは決して短い時間ではない。
 すでに大陸は、かつての聖戦の傷も癒え、新たな時代へと歩き始めている。
 各国では次々に次代の後継者も誕生し始めているらしい。
 時代はすでに戦後ではない。そう、誰もが実感している。
 だが。
「ようやく、貴女にとっての戦後が終わるのですね」
「……はいっ」
 すでに政治的な手続きのすべては済んでいる。まだ若干、雑務が残されているが、それも春祭りが終わる頃には終わる。
 その日が、正真正銘、『ターラ公主リノアン』としての、最後の日だ。
 すでに、リノアンの新たなる名も決まっている。
 シルティール・リノアン・フェルスバーグ。
 元々は、グランベル帝国の貴族の家柄の名らしい。ただし、あの戦乱の最中、家は断絶に追い込まれたという。すでに継承者もいない、名前だけの貴族。
 その戸籍をリーフはセリスから譲り受け、そこにシルティール・リノアンという存在しない娘の名を書き加えた。これで、シルティールという、フェルスバーグ家の子女が存在したことになり、それがリノアン、ということになったのである。さすがに『リノアン』という名前はそのまま使うことは出来なかったが、名前に織り交ぜることは出来た。大抵の場合、名を呼ばれる時は、ファーストネームであるから、気付く者はまずいない。
 ただそれでも、彼と出会った時の名を残したい、という想いから、名前の中に『リノアン』という名を織り込んだのだ。
 こんな面倒くさい方法を取るのは、ひとえにリノアンの持つ影響力を考慮してだ。
 最初、リノアンは政治体制を十分に整え、その上で、と考えていた。ところが、この五年間の間に、リノアンの名声は本人の予想を遥かに超えて広まっていたのである。
 皮肉にも、それはリノアンが自分がいなくなった後のターラを維持するために作り上げた、政治制度に対する評価でもあった。さらに彼女は、グランベルのバーハラ王家の血を引く。ゆえに、仮にターラ公主としての立場がなくなっても、すでにリノアン個人に、絶大な影響力が生じてしまっていたのだ。
 だから彼女は、公的には立場を退いたあと、事実上行方をくらますことにした。
 記録の上では、グランベル、ヴェルダン、アグストリア、シレジア、トラキア、イザーク等、各国の客分として、諸国を巡ることになっている。
 ただ、いかに各国が近しい存在になったとはいえ、公的な立場にない者の来訪記録など、そうそう残るものではなく、また、問い合わせも普通は出来ない。一年もすれば、どこにいるかを追うことも、不可能に近くなる。そうしているうちに、ターラはリノアンのことを忘れることはなくても、指導者として彼女を追うようにはならなくなる。また他国も、いかに優れた人材であるとはいえ、公職を退いて一年以上表舞台に現れない人物を、いつまでも追いはしない。それが、狙いだった。
「まあでも、一年くらいは待ってもらう必要があるけどね」
「そうですね」
 リノアンは春祭りが終わってしばらくしたら、ターラを出る。その行き先は定まっていないとされているが――実際にはもう決まっている。
 行き先はトラキア。先だって、アリオーンが大公として就任した、南トラキアの中心地である。
 赴くのは、実に六年ぶり近い。
 そしてそこにいるのは、リノアンが誰よりも恋焦がれた人物。
 ごくまれに、新トラキア全体の祭事でレンスターに赴いたときくらいにしか逢えなかった人物である。
 現トラキア竜騎士団の団長、ディーン。
 本当は、すぐに彼と結婚したい、と思っている。だがさすがに、リノアンがいなくなってすぐに、再び公の場に現れるのは、さすがにまずい、という判断だ。
「そういえば、ディーンはこのことは知っているの?」
「……えっと……実は……」
 実は、ディーンにだけはこのことを話していない。
 かつて聖戦の折、いつか必ずトラキアに行く、とは約束した。そしてそれが、どんなに困難であろうとも、それを叶える、と。聖戦が終わって、別れる時にも約束したが、それがいつになるのか、など、当時の二人はまるで想像できていなかった。
 それがそう遠くない、とはディーンも感じているだろう。だがそれが今であることは、おそらく想像していない。
 無論、アリオーン、アルテナには話してある。だがあえて、ディーンには黙っているように頼んだのだ。
「……それは……驚くでしょうね……」
「それが、楽しみです」
 リノアンは小さく舌を出すと、くすくすと笑った。
 それは、リノアンが公の場では決して見せない、彼女本来の笑顔だった。

 その日、トラキア竜騎士団長のディーンは、奇妙な感覚を拭いきれないまま、大公アリオーンの呼び出しに応じて執務室に向かっていた。
 ここ数ヶ月、竜騎士団は、騎士団として再創設されたばかりであることもあり、アリオーン王子が大公として復帰されて以降、ディーンは竜騎士団の団長としての激務が続いていたのだ。
 山が多く、交通の便が悪いトラキアにおいて、竜騎士はやることが多い。街道で旅人や商人を襲う盗賊の討伐、春先のこの時期は、山頂付近に積もった雪が崩れ、雪崩になることもあるため――雪自体は少ないので途中から土砂崩れになるのだが――それを警戒しなければならない。
 特にこの春祭りの時期は、街々を襲う盗賊などの警戒で、竜騎士団は臨戦態勢に近い状態になる。春祭りが終わるとようやく一段落できるのだが、それでも警戒を怠るわけにはいかない。
 ところが、春祭りが終わった途端、ディーンはアルテナ王女から、四日間の強制休暇を言い渡されたのである。
「どう考えても無理してるから、休みなさい。これは、命令です」
 不必要なほど強圧的なアルテナの言葉は、だが逆らう余地を与えなかった。
 しかも休め、という命令であり、事実上城内に軟禁されているに近い状態である。
 無論実際にはそういうことはないのだろうが、鍛錬をしようとすると侍女ににらまれ、また、気晴らしに飛竜で出かけようとしても、飼育係が、飛竜だって休ませなけりゃなりません、と言って出さしてくれない。確かに春祭りの期間中、愛竜にはかなり無理をさせていたので、それは分からなくはないのだが、街に下りようとしても、それすらさせてくれないのは――侍女などが用事があるなら承ります、と言って聞かない――やはり軟禁状態といえるのではないだろうか。
 そういうわけで、ようやく休みを終えて公務に復帰するやいなや、アリオーンから呼び出されたのである。
 ここまで退屈だったことは、かつてなかったかもしれない。
 さすがに文句の一つも言おうか、と考え、ディーンは執務室の扉の前に立つ。
「アリオーン殿下。竜騎士団団長ディーンです」
 ややあって、アリオーンから「入れ」と声がして、ディーンはドアのノブをひねり、扉を開ける。
 それほど広くもない執務室――元トラキア国王の執務室であり現南トラキアの政府の中枢――には、アリオーンと、予想通りアルテナがいた。
 だが、もう一人。
 ディーンが予想もしなかった人物が、そこにいたのである。
 薄紅色の長い髪に、翡翠色の瞳。白いドレスを纏った、女性――ターラ公主リノアンが。
「なっ……」
 文字通り、ディーンは凍り付いていた。驚愕の表情のまま、完全に固まり、何を言っていいのかすら分からず、頭の中が完全に混乱しきっている。
「ディーン、よく来た。彼女はグランベルのフェルスバーグ子爵家の令嬢で、シルティールという。故あって、わが国で預かることになった。ディーンも見知りおいてくれ」
 アリオーンの紹介を受けて、シルティール、と紹介された女性は一歩前に進み出、そして優雅に――ディーンの記憶する『彼女』そのままに――会釈する。
「シルティール・リノアン・フェルスバーグと申します、ディーン様。よろしくお願いいたしますね」
 ぱくぱくぱく、と。
 滅多な事では動じない自信のあったディーンだが、この時、ディーンは文字通り何も言えないほどに混乱していた。
「ああ、そうそう。それから国内のニュースで、まだディーンに伝えていないことがあった。ターラ公主リノアン殿が、春祭りに合わせて公主の座を降り、ターラ公国は新トラキア王国の一公国となったそうだ」
 開いた口が塞がらない、とはこのことだろう、とディーンは頭のどこかで感じていた。
 このニュースを耳に入れないために、ディーンはここ数日、事実上の軟禁状態にされたわけだ。
「ふふ、それだけ驚いている貴方も、珍しいですね」
 アルテナが、してやったり、という顔で笑う。
「……こちらこそ、よろしく。シルティール殿」
 ディーンが言えたのは、かろうじてそれだけであった。

 一年後。
 新トラキア王国竜騎士団の団長であるディーンは、同国に客分として滞在していたフェルスバーグ家の令嬢を妻として迎えることになる。
 このニュースは、新トラキア王国の国内においてそれなりに祝われたが、新婦があまり体が強くない、との理由で、婚儀はトラキアで、慎ましやかに行なわれ、新婦の姿が王国の民の目に触れることは――婚礼衣装の絵姿が広まったくらいだ――ほとんどなかった。それはもちろん、ターラの民とて同じである。

 ターラ公国がまだ独立国であった時の、最後の公主リノアン。
 公式記録には、彼女が結婚したという記録は存在しない。
 そのため、生涯独身を通したとされ、後の人々の様々な憶測を呼んだという。
 だが同時に、不審な点が存在することに気付く者も少なくなかった。ターラ公国がその統治権を新トラキア王国に委譲した後のリノアンの記録は、一切存在しないのである。


2005.02.15 written by Noran

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