邂逅




 子守り歌は、木々のざわめきだった。世界は、この森の中が全てであった。鳥たちのやさしい歌声。外に世界があることを知ったのは、ほんの少し前。そして、あふれる好奇心は、押さえられるものではなかった。
 だが、すぐに後悔した。やはり、森を出るべきではなかったのか。森の外の世界が、森と同じように優しい、と思っていたのは、少女の勝手な思い込みでしかなかった。
 街を歩いていただけだというのに、気がついたら何人かの男に囲まれていた。何かを言っていたけれど、よく分からなかった。ただ、無理矢理手を引っ張られて、逃げようとしたら、とても恐ろしい目で睨まれ、抵抗する気すらなくしてしまった。
 連れてこられたのは、どこかのお城だった。子供のころ、母が教えてくれた『お城』とは、こんなものではないだろうか、と思ったが、そこにいる人達は、母が教えてくれていた人とは、全然違っていた。
 誰もどこか狂暴そうで、触ると食いつかれそうな、そんな印象。実際には、戦闘を前にして、城全体が殺気立っていたのだが、少女にそんな事が分かるはずもなかった。だから、彼女はいつも震えていた。
「あなたね?少し前に無理矢理城に連れてこられたっていう人は」
 城の庭のところで、恐くて隠れるようにうずくまっている時、急に声をかけられた。反射的に、ビクッと震えてしまう。しかし、かけられた声は、優しい、女性の声だった。
 恐る恐る顔を上げてみる。そこには、輝くような美しい金髪の女性が立っていた。
「あ……あなたは……?」
 少女の声には、まだ恐怖がある。
「私はエーディン。あなたと……同じようなものね。無理矢理この城に連れてこられたの。あなた、お名前は?」
 エーディンと名乗った女性は、そう言いながら手を差し伸べる。少女は、恐る恐るその手をとった。
「あ、私は……ディアドラ、といいます」
 それは、消え入りそうな、かすかな声だった。

 その日から、ディアドラはエーディンと行動を共にするようになった。エーディンが無理に頼み込んでくれた結果である。いまだに、時々恐い思いをすることはあるが、それでも、以前よりはずっと楽だった。
 エーディンは、隣のグランベル王国ユングヴィ公国の公女で、このヴェルダン王国の急襲を受け、攫われてしまったのだという。柔らかいウェーブのかかった金髪と、美しい顔立ち。同性のディアドラから見ても、美しいと思えた。だから、この国の兵士が攫ってきたのだろう。
「私達……これからどうなるんでしょうか……?」
 ディアドラは、不安そうに尋ねた。エーディンの方は、それほど悲観的ではなかった。
「大丈夫。きっとね。私の国の……ミデェールだってきっと生きているし、それに、きっと向こう見ずの彼もいるし」
「ミデェールさんってエーディンさんの恋人ですか?」
 年頃の好奇心から、ディアドラはエーディンに尋ねる。エーディンは驚いたような顔をして、それから一気に赤くなった。答えは、聞かなくても分かっていた。
「あ、あなたはどうなの?好きな人とか、いないの?」
 エーディンは、半ば無理矢理、ディアドラに話をふった。するとディアドラは、急に寂しそうに表情を曇らせた。
「私は……誰とも結ばれてはいけない、と定められているんです。私の生まれた時から……」
「そ、そんな馬鹿な話がある?!」
エーディンは半ば怒鳴っていた。
「それが……私の住む、精霊の森の掟なんです。それが破られた時、世界に大いなる災いが訪れる、私が生まれた時に、そう予言されたそうです。だから……」
 エーディンは呆然としていた。一体、この自分より少し年下の少女に、何があるのか。今のエーディンでは想像もつかない。でも、たとえどんなものであろうと、そんな運命など、あっていいわけがない。
「運命ってね、自分で切り開くものだ、っていうわよ」
「え……?」
「さっき言った向こう見ずな人の言葉だから、全部信じていいか、怪しいところだけど」
 そういってエーディンはくすくすと笑う。
「シアルフィ公国のシグルド公子。私の幼なじみなんだけど、昔っから一本気でね。多分今回この城が騒がしいのも、彼が来たからじゃないかしら。すぐなんでも自分でやろうとするから。勝ち目があるかどうかも考えもしないで、すぐ突撃するからね」
「どんな……方なんですか?」
 するとエーディンは何かを思い出したのか、また笑い始めた。
「あ、あの……?」
「ご、ごめんなさい。どうもあの人のことって、笑える思い出の方が多くって。でも、いい人よ。責任感強くって、優しくて。昔は本当の兄だと思っていたくらい。本人争いごと好きじゃないくせに、すぐ争いごとを仲裁しようとして、結局一番損したり」
「正義感の強い方なんですね」
「そう……ね。強すぎるくらい。士官学校にいた時も、教官とすぐ喧嘩して。妹のエスリンが、ボロボロになった服をいつも直させられていて、かわいそうだったわ」
 ディアドラは思わず吹き出していた。その笑顔は、エーディンですら見惚れてしまった。
「でも、彼の言うとおりだと思う。運命なんて、予め決まっていたら、面白くないじゃない。あなたが、たとえ誰かと結ばれることで、災厄が起こる、なんて言われているなら、それを避ける努力をすればいいのよ。そうでしょう?」
「エーディンさんは……強いんですね……」
 エーディンは静かに首を振る。
「そうでもないわ。私だって、今は恐い。でも、こんなことになっても自分から絶望しなければ、きっと何とかなる、と思うの。だから私は、最後の最後まで絶望なんてしない。絶望した時にこそ、避けられない災厄が来るのだと思うわ」
 エーディンの言葉は、ディアドラにはまだよく分からなかった。
 幼いころから、ずっと言われてきた言葉。子供の時は、よく意味は分からなかった。今も、よく分かっていない。諦めに似た感情が、自分を支配していた。『他人と結ばれてはならない』。それは、まるで呪縛のように、ディアドラの心を縛っているのだ。

 数日後、エーディンは城を脱出した。手引きしてくれたのは、王子のジャムカであった。エーディンは、ディアドラにも一緒に逃げないか、と誘ってくれた。
「こんなところにいても、どうしようもないでしょう。私達と一緒に逃げましょう」
 しかし、ディアドラはそれを断った。
 何よりも、精霊の森を離れることへの、恐怖があった。幼いころから言われつづけてきた言葉。その戒めを破る勇気は、彼女にはなかった。
 結局エーディンだけが城を抜け出した。ディアドラはまた、一人になってしまった。

 それから更に数日経ち、本城の方で、戦いの音が聞こえた。戦いの音が収まってから数刻。グランベルの部隊が来て、突然解放してくれた。
 一瞬、エーディンの言葉が頭をかすめた。 『自分から絶望しなければ、きっと何とかなる』
 しかし、彼女はかぶりを振って、森への道をたどり始めた。

「よぉ姉ちゃん。俺達に付き合ってくれねぇか?」
 気がついたら、何人かの男に囲まれていた。前にもこうやって連れて行かれてしまった。また、同じことをしてしまうとは、なんて迂闊なんだろう、と自分を呪ったが、だからといって、どうなるものでもない。
「え、遠慮します。私は、家に帰らなくてはならないんです」
 ディアドラは、無理に男達の間を抜けて行こうとする。だが、すぐに塞がれてしまう。
「なんだぁ、無視することはないだろう?」
 男はいきなり、ディアドラの細い腕を掴み、引っ張った。転びそうになったが、かろうじてバランスは崩さなかった。
「いやっ、はなして下さい!」
 ディアドラの必至の訴えも、男達には聞こえていなかった。

「キュアン、オイフェ、後の処理は任せる。アレク、ノイッシュ。街の方を巡回するぞ。戦いがあったことで混乱しているだろうし、まだ逃げ出した兵士がいるかもしれない。油断するな」
 マーファ城を陥落させたシグルドは、息をつく間もなく、城内の処理を任せると、街の方へ出ていった。本来なら、シグルドが城内の処理をやるべきなのだろうが、シグルドは何故かこの時は、自分が街に出ていった。後から考えてみれば、これが運命だったのかもしれない。
「いやっ、はなして下さい!」
 路地の脇からその声がしたのは、城からかなり離れた、街の西の出口に近いところだった。慌てて、声のした方へ走り出す。すると、一人の女性が3人ほどの男に囲まれていた。
「へっへー、いいじゃねえか。ちょっとくらい付き合ってくれてもよぉ」
 女性は必死にその手を振りほどこうとしているが、力が違いすぎる。振りほどけるはずもない。
「私は早く村へ帰りたいの。お願いです、私にかまわないで」
「うるせえな!ごちゃごちゃ言っていると……」
「どうするというのだ?」
 いきなり入って来た存在に、男達は明らかな敵意を示した。
「何をしている。その娘を放せ」
 男――シグルドは男達を睨み付けた。身長はそうは変わらない。むしろ、体格は男達の方がいい。だが、それでも男達はシグルド一人に、圧倒されていた。
「な、なんだ、貴様。……げ、その紋章は!?」
 男の一人が驚いたようにシグルドの胸にある紋章を指した。光の象徴、バーハラ家の聖十字の紋章に、剣をあしらった紋章。グランベル王国聖騎士位を示す紋章。大陸のものならば、誰でも知っている紋章である。
「も、もしかして、グランベルの聖騎士……?」
 男の態度は、明らかに脅えたものになっていた。
「分かったなら早く行け。私は貴様らのような連中が一番嫌いだ。その娘に謝って、早く私の前から失せろ!!」
 男はシグルドの恫喝に、震え上がっていた。
「は、はい。あ、す、すまねえな、ねえちゃん。ちょっとからかっただけなんだ。わ、悪かったな」
 それだけ言うと、我先にとばかりに一目散に逃げ出した。
 シグルドはため息をついて、それを見送った後、娘の方に振り返った。
「大丈夫?怪我はないか?」
 シグルドは手を差し出した。娘は、少し戸惑いながら、その手を取る。
「はい、ありがとうございます。シグルド……様……」
 娘はそういって顔を上げた。淡い薄紫色の髪が、柔らかく揺れて、彼女の顔にかかる。そこへ、吹き抜けた風が、彼女の顔にかかった髪をどけてくれた。
「あ……」
 一瞬、シグルドは言葉を失った。まるで、妖精のような美しさ。透き通るような肌と、紫紺の深い瞳。
「え……あ、あ?私のことを知っているのか?」
 ようやく、言葉が出せた。一方のディアドラの方も、呆然としていた。
 あまりにも想像どおりだったのだ。それで、思わず名前が出てしまった。まるで、御伽噺の登場人物を想像したら、それが、そのまま目の前にいる、そんな感覚だった。
「え、あの、エーディン様にお会いしたことがあって……その時に聞いて、想像した方と、全く同じだったので……」
 そういえば、エーディンが城で知り合った女性のことを、心配していた。それが、彼女だったのか。
「君は……名前は……」
「あ……」
 ディアドラは自分が、今どういう状態にあるのか、よく分かっていなかった。まるで天空へ舞い上がったような、そんな感覚。かつて、一度も感じたことのない、感覚。
「シグルド、どうした?」
 急に現れた第三者は、キュアンだった。
「わ……私、帰らなくては!」
 キュアンの出現で、ディアドラは急に我に返った。ここにいてはいけない。幼いころからの、呪縛のような言葉が、頭の中で警鐘を鳴らした。
「ま、まってくれ!もう少し、もう少し話を!!」
 シグルドが慌てて追いかけようとする。だが、ディアドラはそのまま走り出す。
「……ホントにごめんさない……お会いできて嬉しかった……」
 一瞬、シグルドはその意味を掴みかねた。そのため、動作が一瞬止まる。その間に、ディアドラは街の雑踏に消えてしまった。
「ま、待ってくれ。一体、どういう……」
「どうしたんだ?シグルド」
 シグルドは、その時になってキュアンの存在に気付いた。
「あ、キュアン、いや、今の女性……」
「今の娘がどうかなされましたか?」
 答えたのは、別の声だった。声の主は、キュアンの影から出てきて、怪訝そうにシグルドを見る。
「え?あなたは……。それに、今の娘を知っているのですか?」
「この方はこの街の長老だそうだ。指揮官に会いたい、ということなんで、連れてきたんだ」
 キュアンがシグルドの質問の一部に答えた。
「あ、そ、それはどうも失礼しました。私はシグルド。今回の侵攻は……」
「分かっておる。今のバトゥ王は、まるで何かにとり憑かれたかのごとく、お人が変わられた。あの優しかった王が、今回のようなことを、本気でなさるとは思えん。どうか、事の真相を、ぜひつきとめて下さい。お願いします」
「はい。我々としても、これ以上、本意でない争いを続けたくはありません。幸い、もう王都まではあとわずか。必ず、ヴェルダンの人々が安心して暮らせるようにしてみせますそれで……」
 シグルドの口調が急に弱くなる。
「あの娘のことか。ディアドラといってな、精霊の森の巫女じゃ」
「ディアドラ……美しい女性ですね……」
 シグルドはため息まじりに言った。
「ほっほ。貴方ほどの人物でも、美人には弱いと見える」
 長老は、その長いひげを揺らしながら笑い、まるで孫のような年齢のシグルドをからかう。
「からかわないで下さい。でも……本当に美しい人だった。出来れば……もう一度……」
 すると長老は、笑うのを止め、険しい顔つきになった。
「それは……ちと難しいのう。あの娘は精霊の森の娘だ。その中でも、あの娘は巫女という特殊な立場におる。精霊の森の巫女は、誰とも交わってはならぬ、とされている。もし、この戒めを破れば、遅かれ早かれ、世界に大いなる災いが降りかかるとされておるのじゃ」
「そんな……それではあの娘が哀れじゃないですか。私は、そんな迷信は信じない。私は……」
 シグルドは、まるで何かを決意するように、ディアドラの去った方を見据えていた。

 はあっ、はあっ。
 息が切れる。これだけ走ったのも、初めてではないだろうか。しかし、立ち止まってはいけない。まるで、何かに追われるように、ディアドラは走りつづけた。
 気がついた時、ディアドラはすでに森の入り口にまで来ていた。息が切れきっていて、そのまま座り込む。しかし、浮かんでくるのは、青みがかった髪の青年の、優しい瞳だった。
 なぜ、一体何が。ディアドラは自分でも自分の感情を整理できなかった。なにかが、警鐘を鳴らし続けている。しかし、それでもディアドラの頭からは、あの、シグルドという名の青年のことが、離れなかった。

 グラン暦七五七年。季節は、春から夏へと変わりつつあった。
 シグルドとディアドラ。彼らの運命は、いまだ定まってはいなかった。
 しかし今、運命の歯車が、小さな音を立てて回り始める。絶望と、そして希望を生み出すために。



written by Noran

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