天を塞いでいた雲から、白い輝きが地上に降り立ってきていた。 まるでそれは、天から舞い降りる精霊を思わせる。 雪は、嫌いではない。どのようなものでも、等しく覆い隠してくれるから。 悲しみも、痛みも、そして………。 「まるで、一人で置いていかれた子供みたいね」 聞き慣れた、けど何度聞いても安らぎと愛おしさを感じる声。 雪の中で佇んでいた騎士は、その声にゆっくりと振り返り、声の主の名を呼んだ。 「ラケシス」 彼が向けた視線の先には、美しい金色の髪の女性が立っている。白を基調とした服を纏っているため、風景に溶け込んでいるように見えるが、それだけに鮮やかな金色の髪と、胸元を飾る真紅のブローチが目を引く。 「そうかもしれない」 その声には皮肉も自嘲もこめられてはいない。ただ。 「でも、もう大丈夫だと思う」 そう言って、騎士は足元の雪を少し踏み固め、それからラケシス、と彼が呼んだ女性に手を伸ばす。 「やらなければならないことが、いっぱいあるからね。のんびり立ち止まってもいられない」 ラケシスはその手に、自分の両手をかぶせ、包み込むように引き寄せた。 「そうね。リーフ様やナンナもいるんだから。これからが、大変よ、フィン。二児の父なんだからね、あなたは」 その言葉に、フィンと呼ばれた騎士は苦笑いをし、それからラケシスを抱き寄せる。 「なんとかなるさ。いや、なんとかしてみせる。私と、君のためにもね」 |
レンスター王国がトラキア王国によって滅ぼされたのは、一月ほど前である。 そして、レンスターが誇る精鋭騎士団、ランスリッターの重鎮の一人であったフィンは、だが最後まで戦うことを許されなかった。 代わりにカルフ王から命じられたことは、生き残ること。そして未来へ希望をつなぐこと。託されたのは希望の名は、リーフ王子。レンスター王家最後の一人。 敗れると分かっている戦場で命を散らすほうが、何倍も楽であっただろう。だがその道を、フィンにとることをカルフ王は許さなかったのである。 フィンにとって幸いであったことは、妻ラケシスが生きて、レンスターまで来てくれていたことであった。カルフ王は「異国の姫君であるあなたにこのようなことを頼むのは申し訳ない」と言ったのだが、それに対してラケシスは「私はノディオンの姫であると同時に、レンスターの騎士、フィンの妻です。どうかそのようなことはお気遣いなきよう」と言って迷うことなくフィンと共に逃げる道を選んだのである。 レンスターを脱出したフィンとラケシスは、まだ二歳にしかならないリーフと、一歳にもならないナンナを連れ、アルスターに身を寄せることにした。アルスター王家は、レンスター王家とは関係も深く、先王の妃はレンスターの王女である。 また、アルスター王国は先のトラキアとの戦いでグランベルに援軍を求め、それゆえに今も領土は堅持している。反逆者とされたシグルド公子に手を貸したレンスターの王子を匿ってくれるかどうかは正直分からないが、今彼らには他に頼れるものはないのである。 ただ、フィンもラケシスもすぐにアルスターに出発することは避け、冬が来るのを、正しくは雪が降り出すのを待った。 無論、雪が降り出せば自分達の移動も困難になるのだが、だがトラキアの竜騎士に見つからないようにするには、最善の方法であったのだ。 竜騎士たちの駆る飛竜は、寒さに弱いのである。無論、厳しい環境の南トラキアに生息する飛竜であるから、多少の寒さはどうと言うことはないのだが、雪が降り出すと別なのである。南トラキアは、あまり雪が降ることのない土地なのだ。 だからフィン達は、雪が降り出すまではレンスターから東へ向かった山間の中にある山小屋のようなところに身を隠すことにしたのだ。 「もう少し、積もってからのほうがいいの?」 ラケシスは編物の手を止めて、窓からみえる雪化粧された光景を見遣って訊いた。小屋の外はかなり寒いのだろうが、中は暖炉の炎で十分に暖かい。時々、薪の爆ぜる音がパチッ、と響くのがかえって心地よい。 リーフはナンナが眠っているゆりかごを見ていたのだが、いつの間にか眠ってしまっている。その二人の並んで寝ている姿は、ともすれば兄妹に見えなくもない。 ほんの少し前からすると、考えられないほど穏やかな時間の流れの中にいるように感じられる。 「そのつもりだ。それにトラキア軍は、多分リーフ王子の存命を知っている。それだけに、多少なら無理をしてでも探すだろう」 フィンはそういいながら、カップにお茶を注いでいる。芳醇な香りが、部屋の中に広がっていく。 「ここは大丈夫なの?」 ラケシスは少し心配になる。暖炉などの煙だって、遠くから見えるかもしれないのに。 「大丈夫だ。ここはレンスターでも、知っているのは私だけだから。煙とかは、この時期に吹く山風で拡散してしまうから、まず発見されない」 フィンはラケシスの不安を和らげるに十分な微笑――しかし、確かに以前とは違う――を浮かべて答えた。 彼がもう一度、本当に笑える日は来るのだろうか――。 一瞬、そんな考えにとらわれたラケシスだが、口から出た言葉はそれとは別のことであった。 「あなただけ………? なぜ?」 「キュアン様の秘密の場所なんだ。よく、エスリン様と来られていたらしいよ」 ああ、とラケシスは納得した。 確かにあの少しいたずら好きな王子なら、このような山小屋をこっそり用意するくらいはしそうだ。 「それであなたも、来たことが?」 するとフィンは苦笑いをして表情を崩す。 「さすがに、聞いたことがあっただけだよ」 「そうなんだ。それで、か」 ラケシスは部屋のあちこちに置かれている置物に目をやった。あちこちに、誰の趣味によるものだろう、と思わなくはない可愛らしい動物を象った小物などが目に入る。多分、エスリン妃の趣味だったのだろう。もっとも、ラケシスもこういうものは嫌いではない。 納得したように頷いたラケシスは、再び編み棒を動かし始めた。その横に、フィンがハーブティーの入ったカップを置く。 それは、どこにでもありそうな、平和な光景である。 ありえない、と分かっていてもどこかで望んでいる日常。 現実には、今だって追われている訳なのだから、決して『日常』と言えるわけではない。 ただそれでも、この平和な一瞬が続いてくれることを、フィンは望まずにいられなかった。 かつては、それが当たり前だった。しかし、それはもう失われている。 失いたい、と思ったことは一度もない。取り戻せるなら、取り戻したい。 ただ、それでも。 「ねえ、フィン」 再びラケシスは手を止めて、フィンの方に向き直るとゆっくりと立ち上がって、フィンの手を取った。 「この時代、私達は多くのものを失ったけど、でも一つだけ感謝してる。あなたに、出会えたことに」 フィンは驚いてラケシスを見た。今、自分が考えたことと、全く同じことを、彼女は言ってくれているのだ。 今と、そして昔。 それを両天秤にかけることなど、出来はしないのだ、ということ。 あの戦乱の中で、かけがえのないものを失ったが、同時にかけがえのないものを手に入れた。 どちらかを取れ、といわれても、選ぶことなど出来はしない。 「この先、何があるか分からない。けど、これだけは言える。私は、あなたをずっと愛している、って」 それは、幾度も、しかし何度聞いても心地よい、まるで魔法のような言葉。そして、その言葉は、お互いに。 「ラケシス………私もだ。ずっと………」 二人は強く抱きあった。 明日も分からない、先の見えない時代。 未来に希望を見出せない恐怖が、あるいは自分達をも蝕んでいるのかもしれない。 けれど、それでも。 この想いだけは真実だから。 いま感じている、お互いの温もりだけは、決して裏切ることはないから。 そのまま二人はただお互いを感じている。 やがて、ラケシスが意を決したような表情と共に、その唇を開いた。 「いつかまた、平和になったらここに来ましょう、フィン。私達二人で」 「ラケシス………」 叶わないかも知れない約束。でも、約束することによって、あるいは果たされるかもしれない、という希望が出てくることもある。たとえ今、ほんのわずかな未来も見えないとしても。その遥か向こうに、目指すべき場所があるなら。人はきっと、それを信じて歩いてゆける。 「……分かった。『約束』だ。必ず、いつか………」 お互いの吐息すら感じられるほどの距離で。 お互いの温もりを感じつつ。 そして。 いつかまた、同じ場所にある自分達を思って。 |
静かに雪の降り積もる中。 交わされた言葉は、聖なる約定。 雪は全てを覆い尽くしつつ。 されどその下に眠る大地に、その存在の一欠けを刻む。 優しい思いに包まれた冬の雫の、一つ一つ。 その全てに、その想いを刻むように。 |
written by Noran |