その命を越えて



「あの時に渡すと沈んじまいそうだったからな。だが、明日どうなるかも分からない

から、今のうちに返しておくぜ」

 ビクトールはそういうと一振りの斧を置いて部屋を後にした。手渡された斧は、ず

しりと重い。すこし刃こぼれしているのは、その斧がどれだけ使われてきたかを表し

ている。だが、この斧を振るう者は、もういない。

 無論これは戦争であり、戦いの中で命を散らす者は多い。だが彼らは、一人として

絶望して死んだわけではないだろう。たとえ無念ではあっても。帝国の打倒を、国土

の解放を信じて戦った戦士たち。それは、この斧の持ち主とて同じだ。けど、その中

にあっても、彼だけは生きていて欲しかった。

 マクドール家に仕えたグレミオ。いや、グレミオは少なくとも自分にとってはそれ

以上の存在だった。

 物心ついたときにはすでに彼がいた。母がいなくて、寂しくて泣いていた時に彼が

子守唄を歌ってくれて泣き止んだ記憶がある。お世辞にも上手いとはいえなかったが、

それでも安心できた。いつの頃からか、食事はみんなグレミオが作ってくれていた。

思えば、完全に母親代わりだったようにも思える。

 だが、自分を取り巻く運命は、ある時から急激に変化した。そしてそれは、いつも

そばにいたグレミオも容赦なく巻き込んだ。はじめこそ、本来の主である父テオに刃

向うことに反対していたグレミオだが、結局最初に自分に賛同してくれた。

「私はぼっちゃんのやることについていきますよ。たとえ、テオ様と戦うことになっ

たとしてもね」

 ずっと仕えてきたマクドール家を裏切ることになったとしても、グレミオは自分に

ついてくる道を選んでくれた。それがどれだけの覚悟を必要としたのか、想像もつか

ない。

 よく家を空けてしまう父に代わり、兄のように、そして時には父のように感じてい

たいた。近衛隊にはいっても一緒についてきてくれて、戦うのは得意じゃないんです

よ、と言いながらも愛用の斧を使って戦ってくれた。文字通り、全てをなげうってま

で、自分のために戦ってくれていた。いつか報いたい、そう思いつづけてきたけど。

 彼はもういない。この世にいない存在を思っても仕方ない、とこれまで駆け足のよ

うに戦ってきた。

 明日はシャラザードを攻める。帝国の、いわば本陣と戦うことになる。その前夜の、

ほんの小休止。このときに、グレミオの斧を返してきたビクトールの意図は、わから

なくはない。明日は、生き残れるかすら分からない戦いなのだ。下手をすれば、ここ

まで戦ってきた全てが、無に帰す可能性すらある。

「おかえりなさい、ぼっちゃん。今日はぼっちゃんの好きなシチューですよ」

 目を閉じると、まるで昨日のことのように思い出される。グレッグミンスターでの

何も知らなかった、ただ平和だった時の記憶。なぜか帰ってくるといつもシチューだ

ったような気がする。実際にはそんなはずはないのだが、グレミオはいつも一番食べ

たいと思っているときにシチューを作ってくれていた。

「ぼっちゃんは私が守ります!!」

 確かに、もう自分はグレミオに守られるだけの存在ではなくなっていたと思う。棒

術の技量では、師たるカイにも引けを取らない。戦士としての力ならば、解放軍全体

でも決して劣る方ではないだろう。でも、グレミオにとってはいつまでも「マクドー

ル家のぼっちゃん」だったんだろう。実際、自分は未熟だ。だから、グレミオは死ん

だのだ。それは、自分が背負うべき咎の痕。

 グレミオはいつも自分自身の身より大事に考えてくれていた。それは、とても頼り

がいがあったと思う。けれど。命すら投げ出さなくても良かったのに。

「申し訳ありません。私は初めて、ぼっちゃんのいうことにそむきます」

 なら、もっと別のところでそむいて欲しかった。グレミオの命を犠牲にしてまで、

この戦いを続ける必要があるのか。扉を蹴破ってでも彼を助けたかった。けど、それ

をしなかった冷徹な自分もまた、あの時にいたのだ。戦いを止めるわけにはいかない

ということ。そして、そのためには自分が倒れてはいけないということ。それをどこ

かで分かっていた。けど、それでも。

 失った者の大きさは、失ってみて初めて分かるというけれど。それは紛れもない事

実だろう。常に隣にいた者が突如として消えてしまった喪失感を、一体どうやって埋

め合わせればいいのか。

 だが、嘆いたところで死者は黄泉返りはしない。ただ、今は前に進むだけ。それこ

そが、彼の最後の、そして初めて彼が自分に望んだこと。彼だけではない。

 非業のうちに倒れたオデッサ。そして父。

 多くの人々の想いが、この戦いをここまで推し進めてきた。だが、その中心に自分

がいてもいいのか。108の宿命星を束ねる運命にある、という自分。けど、まだ未

熟な自分にそんな資格があるのか。運命だけに流されてもいいというのか。その結論

は、未だに出ない。

 迷いのあるまま、解放運動の全ての命運を決する戦いに望んでいいものか、ひどく

不安になる。けど、すでに止められるものではない。

 手にある斧は、黙して語らない。当たり前のことだが、改めてグレミオの死を実感

する。いま一番欲しい言葉は、もう永遠に聞く事は出来ないのだろう。それは、自分

の宿命ゆえか。あるいは自分の選択ゆえか。

「ぼくは正しいのか・・・?父親をこの手にかけ、大切な人を失って、そしてぼくを

信じる人たちを死地へと送って」

 答えてくれる者はいない。無意味に広い部屋に一人だけ。急に孤独感が押し寄せて

くる。

 暗い部屋の中、寝台のわきにある灯火が鈍い光を放ち、それがかすかに斧の刃で反

射されている。陽炎のようにゆれる炎が、斧についた無数の傷の形に陰影を作り、奇

妙な明かりで部屋を照らしていた。

 炎の揺らぐかすかな音すら聞こえてきそうな気がする。まだ新月から数日ほどしか

経っていない月の、頼りなげな光は、灯火の明かりに負けて部屋には入ってこない。

ふと、昔グレミオとテッドと、夜通し怪談話で盛り上がったことが思い出された。窓

の隙間から吹き込む風が、炎を揺らして一瞬影が奇妙に躍る。

「ぼっちゃんが正しいと思う道を進んでください。私は、いつだってぼっちゃんの味

方です」

 突然、何かが聞こえた気がした。驚いて振り返ったが、そこには誰もいない。ただ、

自分の形にくりぬかれた影がゆれているだけだ。

「幻聴・・・?」

 でも、確かに聞こえた気がした。

「・・・そうだね、ぼくは立ち止まるわけにはいかないものね。そして必ず、勝利し

てみせる。そのときはグレミオも一緒に喜んでくれるよね」

 答えるものは、誰もいない。けど、確かにグレミオが微笑んでくれたのを、彼は感

じることが出来た。

 

 湖上を吹き抜ける風は、静かに決意を固めた戦士たちに安らぎを与えてくれる。

 全ての命運を決する戦いの前夜は、ただ静かにふけていった。




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