こぼれる想いを抱きしめて 第三幕



「もう、行くのかい?」

 グレッグミンスターの街の出口で、レイはジョウイを呼び止めた。ジョウイは「は

い」といって振り返る。その表情は、昨日にはなかった強さがあった。

「そうか。道中気を付けて。それから、これを。グレミオからだ」

 レイはやや大きめの包みを渡す。

「お弁当。味は保証するよ」

「それは、楽しみです。グレミオさんにも、ありがとうございましたと言っておいて

ください」

 レイは分かった、と言うと右腕をだす。

「いつでも、きてくれていいよ。もっとも、ぼくもいつまでここにいるか分からない

けど」

 ジョウイは「ありがとうございます」と言ってレイと握手をし、そして歩き出した。

 途中、一度だけ振り返ったが、それを最後にあとはまっすぐ北へ向かって歩いてい

く。

 レイはジョウイの姿が地平に消えるまで見送っていた。

「行ってしまいましたね、ジョウイ君」

 いつからいたのか、グレミオがひょっこり出てきたが、別にレイは驚いた様子もな

く「そうだね」というとまだジョウイの消えた方向を見つづけていた。

「ほんの少し、テッド君に似てる感じのする子でしたね、彼」

「うん。だからかな。放っておけなかったよ。・・・さて、帰ろうか。うちに」

「はい、坊ちゃん」

 グレミオと二人、家へと戻る道で、レイは一度だけ街門の方を振り返った。

 ――ジョウイ君。人は全てを諦めない限り、常に可能性はあるものなんだよ――

 

「ピリカお嬢様〜。どちらにいらっしゃったのかしら。この大変な時に・・・」

 メイド長は困ったようにもう一度あたりに呼びかけるが、返事はない。初夏の暑い

陽射しが、彼女の額に玉の汗を浮き上がらせていた。しばらく呼んで探していたのだ

が、やがて彼女も諦めて屋敷に戻っていく。

 実際、彼女はかなり多忙な身であり、そういつまでも屋敷を空けるわけにはいかな

かったのである。屋敷に戻ると、メイドの一人にピリカお嬢様を探すように、と言い

含めてから、自分は他のメイドたちにてきぱきと指示を出して、自分は主人を安心さ

せるために二回へ上がっていった。

 

 その頃、そのメイド長が探していたピリカは、屋敷の前にいたのである。あまりに

も近くて盲点だった、というわけだ。無論、彼女が返事をしなかったからそんなとこ

ろにいるわけもない、と思ったのだが、ピリカはずっと考え事をしていて、呼ばれて

いるのに気付かなかったのだ。

「なんでだろう・・・なんかとってもドキドキする」

 ピリカ自身、なぜかは分からなかった。無論、屋敷は今色々大変な騒ぎになってい

て、ピリカも本当は手伝いたいのだが、自分ではかえって迷惑になることくらい分か

っている。だから今日は、せめて迷惑にならないように部屋の中にいよう、と思って

いたのだが、なぜか外で誰かを待っていたくなったのだ。

「誰か・・・来るの・・・?」

 だが、初夏の陽射しが所々に降り注ぐ木のトンネルには、人はおろか動物の影も見

えない。日陰にいるのだが、それでも周囲の気温は暑く、だんだん汗ばんでくる。

 ただそれでも、ピリカはじっと待ちつづけていた。そのとき。

 一瞬、ピリカは幻だと思った。だが、それは確かに、間違いなく。

「ジョウイお兄ちゃん!!!」

 ピリカはわっと泣きながらジョウイに飛びつき、そのまましがみついて泣いた。ジ

ョウイはそれを、優しく抱きとめる。

「ただいま、ピリカ。いい子にしていたかい?」

 ピリカは涙声でうん、うん、と何度も繰り返す。その頭を、ジョウイは何度も撫で

てあげていた。

 やがて落ち着いたのか、ピリカは泣き止み、ジョウイはそれを確認するとゆっくり

とピリカを地面に下ろす。

「元気そうで何よりだよ、ピリカ。ジルは?」

「え・・・あ、ジルお姉ちゃんは、今部屋でお医者様が・・・」

「なんだって?!」

 ジョウイは驚いて走り出した。その後ろで、ピリカが何か言っているようだけど、

それはジョウイには届いていない。

 門扉を半ば蹴破るように開けると、そのまま屋敷の中に飛び込む。幾人かのメイド

が、何事かと驚く中、ジョウイは二階に駆け上がり、ジルの部屋の扉を開けようとし

たところで、人に止められた。メイド長である。

「何者ですか!!・・・って、え?ジョ、ジョウイ様?!一体何事ですか」

「離せ、ジルが、ジルに一体・・・」

 ジョウイは無理矢理その手を振り解こうとするが、メイド長も意外に力が強く振り

ほどけない。

「ジョウイ様、落ち着いてください!!」

 その、メイド長の声と同時に。

 けたたましい泣き声が、扉の向こう側から聞こえた。

 ジョウイも、遥か昔聴いたことがある声。あれは、弟が生まれた時。

 途端、ジョウイの全身から力が抜けた。ぺたり、と床に座り込む。そこへ、ピリカ

がやっと追いついてきた。

「はあ、はあ。ジョウイお兄ちゃん、いきなり走り出すんだもの。あのね、ジルお姉

ちゃんはね」

 ピリカのその声も、ジョウイには聞こえていなかった。ただ呆然と。部屋の向こう

側から聞こえてくる泣き声だけが、彼の全ての感覚を満たしている。

「ぼくの・・・」

「そうですよ」

 メイド長がジョウイの前にかがみこむ。

「あなたの子です、ジョウイ様」

 ジョウイはなぜか涙が流れ出していることに気が付いた。人の命を奪い、自らも血

を流し。人して、咎を背負う身であるというのに。なのに、今ジョウイは表現しがた

い喜びに満たされていた。

 その時、扉が開き、ゆったりとした服装の女性が現れた。雰囲気から察するに、彼

女が医者だろう。いつのまにか、赤ん坊の泣き声は静まっている。

「お生まれになりました。母子ともに健康です。男の子ですよ・・・。あら?この方

は?」

 女医はそこで怪訝そうな表情でジョウイを見た。確かに、この屋敷にはいなかった

はずの人間だし、第一旅装のままである。不審に思われるのも無理はない。

「父親ですよ、子供の」

 まだ呆然として答えられないジョウイに代わり、メイド長が答えた。すると女医は

かがみこんでジョウイの手をとり、にっこりと微笑む。

「おめでとうございます。すぐ、会われますか?」

 静かに導かれるように、ジョウイは立ち上がるとややおぼつかない足取りで部屋へ

と入っていった。

 考えてみたら、屋敷の間取りは聞いていても、実際に入るのは初めてである。質素

な、だが上品な調度品は、ジルの好みによるものなのか。確かルルノイエの宮殿の彼

女の部屋もこんな感じだったと思い出していた。

 その、部屋の中心に。大きな白いシーツのベッドがあり、そこに見覚えのある藍色

の髪の頭が見えた。医者達は、すでに部屋にはいない。

「誰・・・ですか?」

 ベッドの上の人物は、顔だけをこちらに向けようと体をひねった。多分奥の方に赤

ん坊がいるのだろう。

 その顔は、多少やつれた印象はあるものの、間違いなくジルだ。だが、この場合驚

きはジルのほうが遥かに大きかった。

「ジョ、ジョウイ・・・」

 慌てて上体を起こそうとするが、出産直後にそんなことが出来るはずもない。ジョ

ウイは慌ててベッドに駆け寄り、優しくジルの体を支えて上体を起こしてあげた。

「久しぶり・・・ジル」

 ジルは、その目にいっぱいの涙を浮かべていた。かつてともにあったときは、一度

として見ることのなかった、彼女の泣き顔。けど、それがたまらなくジョウイには愛

しく思えた。

「ジョウイ・・・本当に・・・ジョウイなのですね・・・」

「ああ、そうだよ」

 ジルはそのままジョウイに倒れこむ。ジョウイはそれを優しく抱きしめた。

「逢いたかった。正直、あなたは亡くなったと思っていた。けど、どこかで奇跡を信

じたかったから。あなたが生きていると思いたかったから・・・」

「奇跡を起こしたのは、ぼくの親友だ。ぼくは結局、セリオに敵わなかったよ。けれ

ど、ぼくはあの戦い、後悔はしていない。・・・何より、ぼくはぼくの未来を手に入

れた・・・」

 ジョウイはジルを抱きしめる腕に力をこめる。

「・・・長い間、すまなかった。ぼくのわがままに付き合せて。けど、もう・・・」

「それでは、一つお願いをしてよろしいですか?」

 流れる涙はそのままではあるが、その表情には微笑が浮かんでいる。その、涙が陽

の光を受けて輝いているのが、驚くほど美しく見えて、ジョウイはどきりとした。

「この子の・・・名を考えてください。あなたの、父親としての最初の仕事です」

 その後ジョウイは、実に丸一日以上、頭を悩ませることになる。

 

 ――人は生きている限り、多くのものを得て、そして失う。でも、両手ですくった

水の、ほんのわずかな雫でも、大切だと思えるものがあるのなら、零れ落ちる前に守

れるなら、守ることで人は強くなれる――。

 あの戦いで、ぼくは多くのものを得て、失った。けど、ここにその雫は残ってくれ

ている。これを、守り抜こう。零れ落ちる、その前に。確かな想いとともに、抱きし

めて。




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