岩の砕ける音と共に、激痛が走った。すでに、全身の力が入らない。こりゃあまずいな、と思ったが、この状況を好転させる方法を、彼は思いつくことが出来なかった。
 周りを見回すと、同僚二人も状況はほとんど変わらない。一人は、足があらぬ方向に曲がっているところを見ると、どうやら折れているようだ。もう一人も、流血による傷が酷い。
「ちっ……俺達は地上最強じゃないのかよ……」
 しかし、いかなる力を誇ろうとも、この様である。もう、体はほとんど動かない。
「これまで、か……?」
 普段重さを感じることのない聖衣が、今はとても重い。
 授かった時には、地上最強の力を手にした、と思ったのだが、現実はこの有様だ。しかし、それでも聖衣にヒビひとつ入っていないのは、さすがは黄金聖衣、というところか。黄道十二星座の一つ、蟹座を守護星座とする黄金聖衣。しかし、その主はすでに立ち上がる力すら失いつつあった。
「死ぬよな。こりゃ……」
 彼は諦めて、目を閉じる。自分に死をもたらす存在が、なぜか遠く思えた。

「デスマスク、シュラ、アフロディーテ。汝ら三人に命ずる。クレタ島に赴き、かの地の妖魔を滅殺せよ」
 その命令を言われた時、言われた三人は一瞬意味が分からず、目を瞬かせた。
 聖域・教皇の間。八十八の聖闘士を束ねる教皇に謁見するための部屋であり、また、聖闘士が教皇から地上の平和を守るための命を受ける場所でもある。
 無論、現代においては聖闘士が出るまでもないこと、また、出るべきではない事変は多い。むしろ、過去よりは現代の聖闘士の方が時間は持て余しているかもしれない。しかし、現在、二百数十年ぶりに聖闘士達が忠誠を誓う存在、アテナが降臨している。それはすなわち、聖戦が起きることを示すものでもあり、その聖戦に備えて、聖闘士は切磋琢磨しなければならないのだ。
 しかしその一方で、現代の人間でもほとんど――核兵器などを使えばともかく――対処のしようのないようなことが、まだありうる。そういう事件や事変には、聖闘士が派遣され、秘密裏に処理するのだが、黄金聖闘士三人を同時に派遣する、というのは、少なくとも彼らの記憶する限り例がない。
 今この場で命を受けたのは、それぞれ蟹座、山羊座、魚座の、聖闘士の中でも最高の力を誇る黄金聖闘士だ。
 通常、黄金聖闘士は滅多なことでは派遣されない。それは、黄金聖闘士の力があまりにも強大だからだ。そのような力を必要とする事態など、まず起こるものではない。ただ、現在においては、黄金聖闘士が滅多に派遣されないのにはもう一つ理由があった。黄金聖闘士が、総じて若いのである。
 黄金聖闘士は本来全部で十二人。その守護星座は、黄道十二星座にそれぞれ対応している。しかし現在、少なくとも射手座の黄金聖闘士は、三年前にあろう事かアテナを殺害しようとする大逆を犯し、抹殺されて以来空位、それに前後して双子座の黄金聖闘士も行方不明となっている。それ以外の黄金聖闘士は存在するらしいが、一度顔合わせをしたことがあるだけで、あとはほとんど会ったことがない。そもそも、黄金聖闘士同士が顔を合わせること事体、極めて稀なことなのだ。
 だから今回、いきなり三人が顔を合わせた時には酷く驚いた。しかも、この命令である。
 彼ら三人は、年齢が同じ事もあり、任命された後にも数回、顔を合わせることはあった。各々今年で十三歳。非常に若いが、他の黄金聖闘士のうち、彼ら以外のほぼ同時に任命された黄金聖闘士六人はまだ十歳である。
「失礼ながら教皇。我らの力を頼み、妖魔を滅ぼせ、と仰せなのは分かります。しかし、我ら黄金聖闘士三人に、同時に赴け、とはいかなる意味でありましょう。我らの力を、お信じになられないのですか」
 控え目に、だが強い口調で異を唱えたのはシュラだ。山羊座の黄金聖闘士で、その手刀は『エクスカリバー』と呼ばれ、いかなるものも斬り裂くという。
「別にお前達を侮っているわけではない。本音を言えば、黄金全員を送り込みたいほどなのだ」
 その言葉に、三人は一様に驚愕の表情を浮かべた。黄金聖闘士全員、というのは、もはや冗談抜きにして大地における最大最強の威力に等しい。無論、現代では核兵器、という聖闘士の破壊力をも――破壊範囲においてのみ――凌ぐ力も存在するが、局所的には黄金聖闘士の力に勝る力など、まず存在し得ない。
「一体何が……」
「ティターン族だ」
 三人は、今度は緊張に固まる。
 ティターン族、とは神話の時代、アテナと戦い破れ、封印されたはずの巨人族だ。しかしその存在は、文字通り神話の中にのみ聞こえる存在であり、すでに伝説上の存在といってもいい。
「まさか、それが……?」
「そうだ。アテナの封印は、二面性がある。その封印は、基本的に永久不滅だ。そう。唯一つを除いてな」
 その一つが、ハーデスの封印。
 オリュンポスの神々の一人であり、アテナと幾度も戦いを繰り広げた冥界の神。
 死を司る、というその力により、魂のままでその力を自在に振るうことが出来るハーデスは、アテナの力を持ってしても一時的にしか封印できない存在だ。もっとも、それだけが原因ではないらしいが、そのあたりの事情まではさすがに知らない。ただいずれにせよ、ハーデスだけは幾度となく封印しなければならない存在らしい。
 ゆえに、地上を狙うハーデスとの戦いは、ここ数千年もの間、繰り返し起きている。ハーデスの封印は、アテナの再臨と共に毎回のように解けてしまっているのだ。再封できればいいのだが、なぜかできない、と定められているらしい。
 いずれにせよ、ハーデス以外の地上を狙う敵は、神話の時代からの数限りない聖戦で、すでにほとんど駆逐されている。だが、アテナの封印には奇妙な性質があった。それは、アテナが再臨し、その力に目覚めるまで――赤子の状態でも、その雄大な小宇宙を宿してはいるのだが――の間、永久不滅であるはずの封印が、非常に解けやすくなってしまうのだ。そのため、極稀にではあるが、何かの事故――主に人間が間違えて封をはがしてしまう――で神話の時代のアテナの封印が解けたり、あるいはわずかに封印の隙間からかつての魔物などが漏れ出でてきたりすることがある。
 今回もその例ということだろう。
「察しのとおりだ、デスマスク。幸いなことに、封印はまだ完全には解けていない。しかしそれでも、すでに人間の街が一つ、壊滅状態に陥った。幸い、まだ大きなニュースになってはいないが、このままでは看過できない事態になっていることは、間違いない」
 やはりか、とデスマスクは舌打ちした。
 時々、このようなことがある。
 人間が、迂闊にアテナの封印を解いてしまうことが。本来ならば、人間に解けるようなものではないのだが、アテナの封印が弱まっている間は人間でも解けてしまうことがある。なぜ弱まるのか、理由は良く分かっていない。ただ、再臨したアテナの小宇宙と、かつて封じたアテナの小宇宙がなにかしら関係しているのかもしれない。ただそれゆえ、アテナが再臨し、その力に目覚めるまでの間は、聖域としても特に気をつける必要があるのだ。まだアテナは降臨してから、三年しか経っていないのだ。
「ティターン族はかつてわれらアテナの聖闘士が全軍を挙げて封じたもの。出来れば黄金聖闘士を全員派遣したいのだが、黄金聖闘士の中で、現在ティターン族に対抗できそうな力を持つ者は、お前達しかいない。奴らは何よりも、その物理的破壊力が突出しているからな」
 現在、黄金聖闘士は十一人しかいない。本来十二人いるはずの黄金聖闘士だが、射手座と双子座の黄金聖闘士は行方不明、また、天秤座の黄金聖闘士も遠く中国五老峰にあって、聖域との連絡がまるでない。
 そしてそれ以外の聖闘士は、牡羊座がやはり聖域とは連絡を絶っているが、あとは連絡が取れる。ただ、いずれも聖闘士としては――黄金聖闘士としての、肉体的な強靭さにかけていた。だが、未だ十歳という身ではは無理なからぬことだろう。
 彼らが黄金聖闘士となったのは、七歳の時。正直、肉体的な力で言えば、当時現役の白銀聖闘士らの方が上だっただろう。ただ、彼らはその年齢ですでに、小宇宙の究極の発現であるセンブンセンシズに目覚めていたのだ。それゆえ、黄金聖闘士となったのである。
 しかし、彼らにとって聖闘士としての修練はむしろそこからスタートしている。すでに、三年前とは比較にならないほどの力を身に付けているだろうが、人間である以上、年齢による限界、つまり、成長による制約がどうしてもあるのだ。これはどうしようもない。
 対してデスマスク、シュラ、アフロディーテの三人は、彼らより三年ほど年上だ。ゆえに、現在は肉体的には彼らより優れている。
「ゆえに、われら三人、ということですか」
「そうだ。報告によれば、暴れだしたティターン族は二人ということだ。一人二人なら、黄金聖闘士一人で十分なのだが、お前達にとっては初めての、実力を測れない相手に対する実戦でもある。用心を重ねさせてもらうことになった」
「了解いたしました」
 シュラが粛々と跪礼し、デスマスク、アフロディーテもそれに倣った。
「必ずや、我らが地上にアテナと聖闘士があることを知らしめ、そして地上の平和を守ってまいります」

 彼らを待っていたのは、たった二人のティターン族の戦士。そして目覚めたばかりの彼らは、世界のあまりの変容に混乱し、まだその場を動いていなかった。
 一人を倒すのは難しくなかった。それほど、強くない者だったのだろう。だが、もう一人は逆に、桁外れの力を持っていた。彼らは知らなかったが、それはティターン族の王の、側近の一人だったのだ。
 デスマスクらが、十分に成長した実力を持っていれば、そして実戦経験が豊富であれば、あるいは結果は逆だっただろう。だが、彼らはまともな実戦がまず初めてであり、そして、まだ十分に肉体的にも成長しきっていなかった。対するティターンの戦士は、かつて封印された時のままであり、その実力はティターン族でも随一の存在。まともに戦っても黄金聖闘士とほぼ互角の実力を誇っていたのだ。
 彼らの必殺技もまともには通じず、いくらかの傷を負わせたものの、ダメージは彼らのほうが遥かに大きかったのだ。
「おい、シュラ、アフロディーテ。生きてるか?」
 声をかけたのは、別に理由はない。
 彼らの小宇宙をまだ感じるのだから、彼らが死んだということはないだろう。だが、それも酷く弱く、そして頼りなく感じられた。対する相手は、まだ強大な力が、ひしひしと感じられる。
「ここまで、か……俺はここまでなのか!?」
 地上最強だと思っていた。いや、その自負に間違いはないはずだ。
「く……そっ」
 デスマスクは、それでも何とか立ち上がった。足がふら付いている。すでにマスクは飛び、聖衣は重く感じる。
『良く粘る。だが、終わりだ!!』
 声と同時に衝撃波がデスマスクを襲う。それを受け止める力も、避ける力ももう残されてはいなかった。
「ぐあっ……!!」
 崖に叩き付けられて、それでもまだ体が無事なのはこの黄金聖衣のおかげではある。だが、それゆえに本来ならもう死んで、これ以上感じなくてもいい苦痛を感じてしまっているのも事実だ。
「……く……ア、アテナよ……俺に、力を……」
 彼は初めて、アテナに祈った。
 これまで、自分の力を信じてたからそんな必要はなかった。だが、今、もはや寄る辺は他にない。
『ふん。無益なことを。アテナなど信じても無駄なこと。所詮、圧倒的な力の前には屈するしかないのだ。ここでお前達は、死ぬ』
 再び襲い来る衝撃。全身の骨がバラバラになったかのような衝撃を感じたが、まだ死ねないらしい。
「ぐっ……アテナ……」
『無駄だと言った』
 衝撃波が迫る。もはや、それに耐えられるだけの力は、デスマスクには残されていなかった。
(なぜだ……アテナ……なぜ……)
 力が抜ける。ここまで真摯に祈っても、神に祈りは届かないというのか。自分達は、ただアテナを守るためだけに存在するのか。
 死の瞬間、デスマスクはそんな考えが浮かびかけた自分に、驚いていた。といってもそれも刹那の間。一瞬にも満たない、ほんの僅かな時間。
 直後、凄まじい爆音が響き渡り、デスマスクは自分の体が四散したと思った。感覚が消え、全てが消滅する……はずだった。
「生き……てる?」
 相変わらず全身を襲うのは凄まじいほどの激痛。だがそれは、自分が生きていることの証でもある。
「い、一体……」
 そのデスマスクの視界に映ったのは、黒いマントだった。だがそれが、良く見るとマントではなく、法衣の一部であることに気付く。
「……教皇!?」
 そこにいたのは、確かに聖域で自分達の今回の任務を命じたはずの教皇だった。
 その教皇が、強大なティターン族の一撃を、完全に受け止めている。
「無事か、デスマスク」
 デスマスクは、それに返事が出来なかった。
 教皇は、前聖戦で生き残った黄金聖闘士の一人だと聞いている。つまり、もう二百五十歳を越える老齢――というよりは本来普通の人間ならば死んでいてもおかしくはないはずの年齢だ。ただ、アテナの加護か、聖域をさほど離れないならば常人とは比較にならないほど生きることが出来る、と聞いている。実際に行き続けているはずなのだから、そうなのだろう。だが、それでも老いと無縁ではない。さすがに元黄金聖闘士であるがゆえに、並の聖闘士などとは比較にならないほどに強大な力を誇るはずだが、それでもその肉体は著しく衰え、少なくとも現役の黄金聖闘士であるデスマスクらが苦戦するほどの相手の一撃を受け止めるほどの力など、あろうはずがない。
「い、一体……」
「下がっていろ!!」
 突如、教皇の小宇宙が膨れ上がる。それは、二百年以上を生きた人間のものなどではなく、強く、生命力に満ち溢れた力を感じさせた。
「ギャラクシアンエクスプロージョン!!!」
 声と共に、星が砕けた。そう、錯覚するほどの衝撃だった。
 そして、目の前にはぼろぼろになったティターン族が倒れている。
「い、一撃で……」
「お前達も、まだまだだな」
 教皇は呼吸一つ乱さず平然としている。デスマスクは――いや、シュラとアフロディーテもただただ呆然と教皇を見上げていた。
 この男は教皇ではない。
 デスマスクもシュラもアフロディーテも、一瞬でそれを悟った。
 かつて、黄金聖闘士となって初めて教皇に拝謁した時に感じた小宇宙。それと、目の前に今いる教皇の小宇宙はまるで別物だ。誰かは分からない。ただ、明らかに教皇は別人としか思えない。
 だが。
 目の前で見せられた『力』。これは本物だ。少なくとも、アテナは救いの手を差し伸べてはくれなかった。彼らを助けてくれたのは、目の前の、教皇に扮する謎の人物。
「……どうした?」
 その声に込められたのは、微かな警戒感と。
 だがもう、デスマスクに迷いはなかった。
「いえ、教皇。ご足労させてしまい、申し訳ありません。我らが力不足なゆえに」
 力がないから、デスマスクらは殺されるところだった。助けてくれたのは、地上の正義を預かるアテナではない。目の前の、この教皇に扮した何者かである。
 本来の教皇はどうしたのか。何があったのか。
 疑問に思えるところは多々ある。だがそれでも、力があるのは確実だ。それは、疑う余地がない。
「以後、更なる鍛練に励み、聖域の、教皇のお力となりましょう」
 デスマスクと同時に、シュラ、アフロディーテもまた、深々と頭を垂れた。

 そう、力だ。
 力がなければ何も出来ない。正義を標榜したところで、力なき正義はただ蹂躪されるだけなのだ。
 力こそが正義。
 何者にも屈しない、絶対的な力の存在。それが、この世において絶対者となるべき存在なのだ。


 笑う小宇宙の館にて開催された蟹=デスマスク誕生日記念イベント『蟹バル(カーニバル)』にあわせて書いた作品……なんだけどどこが誕生日だったんだろう。と思ったら主催者の江戸女さまに『デスマスクのデスマスクたる信念の「誕生日」だったと思います』というありがたいお言葉(^^)
 とりあえずシリアスモノを書いてみたかったので。しかしさすがに蟹のシリアスはそろそろネタ尽きてます……(爆)



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