潮騒が人に心地よく思えるのは、胎児の時に聞いていた音と同じだから、と云う。だが、真実であるかどうかなど、知る者はいないだろう。胎児の頃の記憶がある人間が、いるわけがない。 ただ彼は、胎児の頃、とは云わなくても、物心つく前から、常にある存在を感じていた。 本来一つであったはずの、その魂の片割れ。双子の兄――サガ。 しかし、その存在を感じることは、もうない。 数ヶ月前、サガは死んだ。 その、唐突な喪失感を、彼――カノンは笑うことで紛らわした。 いや、その時は確かに可笑しかった。心底笑うことが出来た――嬉しさで。 サガは常に自分の、一歩前にいた。いや、時には一歩ではすまないこともあったが、とにかく自分は、サガがいる限り、永久に表舞台に立つことはない――そう思っていた。その兄が死んだ。これでもう、自分の前に立ち塞がる者は、誰もいない。そう思えたのは無理もない。 だが――実際には。 神をも欺こうとしたカノンの計画は潰え、カノンは十三年間の全てを失った。兄が死に、アテナの勢力が減退したにも関わらず、そのアテナの聖闘士――それも最下級の青銅聖闘士――とアテナの前に、海皇ポセイドンは再びアテナの壷に封じられることになったのである。 もっとも、その結果には悔いはない。 アテナがいかなる存在であったか、そして、本来自分が何をすべきであったのか。それを知ることができただけで、あの戦いには意味があった。あの青銅聖闘士たちには感謝している。危うく自分は、取り返しのつかない過ちをしてしまうところだったのだから。 体の節々が、現状に悲鳴を上げていた。 生きているのが不思議なくらいだ。 いや、あの海底神殿の崩壊で、生きていたというだけでも奇跡といえるかもしれない。 だがカノンは、それが奇跡などではなく、アテナの力による必然である、とどこかで分かっていた。あの小娘――いや、アテナは、たとえ自分の命を狙う者にすら、慈愛を向けることができるのだ。 どのくらいの間こうしていたのか、カノンにはもう分からなかった。昼と夜が幾度巡ったか、数えてはいない。 ここで兄がまだ生きていたのなら、今度こそ双子座の黄金聖闘士として、アテナに仕えろ、とかいうだろう。それもいいだろう、と思う。だが、いまさら、世界をすべて水に沈めようとし、さらには神を欺こうとした男を、他の聖闘士が認めるとは思えない。ポセイドンは封じられ、地上には平和が戻った。ならばもう、自分の力も不必要なものだろう。 だからカノンは、ただ海岸の波間に、自分の体を横たえ、衰えていくに任せていた。自ら命を絶つことも考えたが、それは、アテナが救ってくれた命に対して、不敬であると思えたのだ。ならば、このまま死ぬのはいいのか、という疑問はなくはないが、運良くこの人里はなれた海岸に人が来て、助けてくれるならば、と考えていた。 無責任なようだが、生命そのもので、カノンは自らを裁こうとしていたのである。 |
だが、やはり運命というのはあるのだろうか。 カノンは、偶然――本当に偶然――通りがかった老夫婦に助けられた。 ポセイドンの力によって、世界中で洪水があり、彼らはカノンもそれに巻き込まれた人だと思ったのだろう。はじめは死体だと思ったらしい。 彼らは、カノンを助けると、自宅へ連れて行き、衰弱しきっていたカノンを看護してくれた。 カノンは体力の消耗がひどく、また、腹部にある傷が非常に深かった。だが、海皇ポセイドンの神器、三叉の鉾を受けた傷としては、むしろ奇跡的に浅い、といえる。 老夫婦の看護のかいあって、カノンは十日ほどで元通りの体力を回復した。それから、カノンはいくところもなかったので、そのままその家にとどまり、家を手伝っている。 若く、また体力がある(当然だが)カノンの助けは、漁師夫婦だけではなく、村の人々に非常に感謝された。 カノンもまた、すでに聖闘士としての――あるいは海闘士としての――生をまっとうするつもりはなくなっていた。この、名も知れぬ村でごく普通の村人として一生を終える。それで悪い道理もない。 当たり前の生活。それは、カノンにとってはある意味新鮮であり、また、同時に失っていた何かを取り戻させてくれる生活であった。 だが、村で生活して二ヶ月もした時、突然カノンは不吉な小宇宙を感じたのである。 聖闘士ではない。海闘士でもない。死の気配を漂わせた小宇宙。それが、この地球全体をも包みこもうとしているのを。 「これは……」 そのときになって、カノンは思い出していた。 アテナは、数百年に一度、その時代に蘇る地上に害なす存在から、地上の人々を守るために生れ落ちるのだ、と。 カノンはこれまで、それはポセイドンのことだと思っていた。実際、アテナ自身が出向かなければ、あの戦いはポセイドンが勝利していたはずだ。だが、その割には、黄金聖闘士が誰一人として動かなかった。いくらサガの反乱で数が減っていたとはいえ、まだ幾人も残っていたはずである。それは、どういうことか。 そして、あのポセイドン復活のとき。 確かにポセイドンは言った。 『あやつのためにアテナは復活したのだ』と。 ポセイドンのためではない。他の何者かのために、アテナは現世に降り立ったのだ。そして、そのために黄金聖闘士は聖域を動けなかったのである。そう考えれば、すべてに合点がいく。無論、あの青銅聖闘士たちに対する信頼もあっただろう。だが、それ以上に黄金聖闘士たちは、その存在を警戒しなければならなかったのである。 そう。再び聖戦が始まろうとしているのだ。 「私は……」 捨て去ったはずの聖闘士としての使命感が、自分を突き動かそうとしている。だが、いまさらどのような顔をして、聖域に戻れというのか。 それから数日、カノンはただ思い悩む日々が続いた。村人の前では、前と変わらぬように振る舞いつつ、どうすべきかを考え続けていた。 今の聖域は、確かにサガの――兄の乱で黄金聖闘士を幾人も損なっている。不幸中の幸い、というべきか、ポセイドンの乱では一人も聖闘士を損ないはしなかったが、それでも万全とはとても言えない。少なくとも、双子座の聖闘士は、確実に空位である。 神話の時代より、鉄壁を誇ってきているアテナの防壁、十二宮。だが今、そこを守る黄金聖闘士は半数もいないはずだ。 新たな敵がどのような手段で来るかは分からない。だが、黄金聖闘士は、いや、聖闘士は一人でも多いほうがいいはずだ。 しかしそれでも、カノンは聖域に戻る決心はつかなかった。 そうして十日後、カノンは突然、ありうるはずのない小宇宙を――いや、存在を――感じ取った。 「バカな……これは、サガ!?」 この小宇宙を間違えることは、カノンにはありえない。だが同時に、この小宇宙を再び感じることも、ありえるはずはない。サガは死んだ。それは絶対に間違いない。 死んだ人間が蘇る。そんなことが――ある。それを、カノンは知っていた。 死を司り、死後の世界である冥界を統べる神、ハーデス。ハーデスならば、死者を蘇らせることなど、造作もないことだろう。 サガが、ハーデスの走狗に成り下がった、というのは考えにくかったが、現にサガは蘇っている。だがおそらく、まだ誰も気付いていないだろう。双子であるカノンだからこそ、気付いたのだ。 聖域に戻らなくてはならない。戻って、十二宮を守護しなければならない。サガが敵となったならば、必ず十二宮を突破しようとするだろう。 「なんか迷ってるときはね、今一番やりたいことをやるのが一番じゃ。どの道後悔するなら、ね」 突然後ろからかけられた声に、カノンは驚いて振り返った。そこには、自分を助けれてくれた老夫婦が立っている。 「あなたは最初から他人とは違った。だから、いつまでもこんなところにいる人間だなんて誰も思っちゃいない。やることがあるんだろう? 男なら、それをやrり通すんだ」 カノンは思わず胸が詰まった。この老夫婦は、カノンの素性などまるで知らないはずだ。 「出来るだけ他の人々には分からないように悩んでいたのですけどね」 そうすると、老夫はかかと笑った。 「若いの。年寄りをなめちゃいかんよ。おぬしの倍は生きている老人の意見じゃ。聞いておけ」 カノンは、ただ深く、そして心から頭を下げた。 「ありがとう……ございました」 思えば、心底人に感謝したのは、この時が初めてかもしれない。老夫婦はそれに対して、ただにっこりと笑った。 「お行きなさい。達者でな」 再会を約した別れの言葉ではない。あるいは、この老夫婦も、漠然と悟っているのだろう。カノンがこれから、何に向かおうとしているのかを。 「ご恩は決して忘れません。どうか、いつまでもご壮健で」 カノンはそれだけいうと、踵を返して走り去った。瞬く間に見えなくなったカノンを、老夫婦は少し驚きつつ見送った。 |
あの、ささやかな村の生活を、ひいては地上に住む人々の暮らしを守る。そのためになら、たとえいかなる恥辱にも耐えてみせる。たとえどのような贖罪を為さねばならぬとしても、地上を守る、黄金の十二人の聖闘士の一人として。 今のカノンに、もはや迷いはなかった。 |
一人一本企画の第六弾、カノンです。描く場所は決まっていたんですが、ストーリーはやや強引……ちょっと長くなってるし。難しかったなあ。とにかく決まってたのは、カノンは死を覚悟して無気力になっていたけど、サガの復活を感じ取って聖域に戻ってきた、という流れです。実際、あのポセイドン編のラストから、突然豹変してアテナの元に馳せ参じるのは、やはりサガがいるからかなあ、と。とりあえずそれが書きたいだけの話だったりするので、細かい演出はあまり気にしなかったです(爆) ちなみに私はカノン大好きです。特に冥界に入ってからのカノンはすごすぎ。かっこよすぎ。黄金聖闘士としてもトップクラスに好きな一人。だからギャグ編でもひどい目にあってません(笑)<実はこれが理由だったのか? |