悠久たるガンジスの流れは、目に映らずとも、その存在の大きさを否応なく感じさせるに十分なものだった。 ここにくると、自分がいかに矮小な存在であり、所詮は大いなる大地の一部である、ということを強く感じることができる。この、数千、数万、あるいは数十万年にもわたって続いてきたであろう大いなる流れに比べたら、数十年しか生きられない自分など、いかほどのものだというのか。 彼はその流れを見下ろす高台の寺院に座しながら、そんなことを考えていた。 彼の名はシャカ。 仏教の開祖であるゴーダマ・シッダールタの呼び名と同じ名を持つ彼は、一見してはこの地に住むものには見えなかった。 透けるように白い肌と、薄い金色の髪。整った顔立ちは、そのずば抜けて長い髪も手伝って、むしろ女性的ですらある。 この地で育ったシャカであるが、彼のことを知るものは非常に少ない。幼いころから仏道に帰依し、寺院――それもほとんど人が出入りしなくなったような険しい場所にある――でほとんどを過ごしていたためだ。そして、幼いころからのその仏道への帰依が、シャカに新たなる力を与え、そして、シャカは仏とは違う神に仕える立場となった。 すなわち、ギリシャにおける戦いの女神、アテナを守護する聖闘士、それもその中でも最高位である黄金の聖衣をまとう、乙女座を守護星座とする黄金聖闘士の一人。それが今のシャカの立場である。 しかし今、シャカは強い迷いを感じ、故郷であるこの地に戻ってきていた。 |
ほんの一月前。 シャカをはじめとする黄金聖闘士が守護するギリシャ・聖域の中枢である十二宮に、襲撃者があった。襲撃者は、同じアテナに仕えるはずの青銅聖闘士。聖闘士は、その力で青銅、白銀、黄金の三段階に区別される。そして、その階級が違うことによる戦闘能力の差は、絶大といっても余りある。特に、黄金聖闘士の力は、青銅ごときでは及びもつかないほどの開きがある。そのはずだった。 だが、シャカは敗れた。 青銅聖闘士の一人、不死鳥座の聖闘士によって。 そして、それだけではない。 間違いなく善なる存在である、と信じていた教皇が、実は邪悪の化身であったことまで、明らかになったのだ。 シャカは『神に最も近きもの』と云われていた。 それは、自分でも自負している。 強力な力を持ち、そして何より、人の身では絶対に越えることの叶わぬ存在、『死』すらも、彼は克服していたのだ。 阿頼耶識。八識とも呼ばれるこの力――いや、感覚というべきか――は、死すらも乗り越える力となる。 ゆえに彼は、『神に最も近きもの』と呼ばれていたのだ。 だが、現実はどうか。 真実の神と邪悪の区別すら、自分には判別がついていなかったのだ。 これでよく神に近い、などと思えたものだ。 そしてその戦いが終わったあと、彼はもう一度自分を見つめなおすために、故郷を訪れた。だが、分かったのは、ただただ自分の矮小さだけであった。 御仏の声も、まるで聞こえない。 完全な静寂のみがある。 高台にあるこの寺院は、そもそも人が訪れるのすら困難な道しかない。わざわざ好んで、こんな崩れかけた寺院に参拝に来るものなどいるはずもない。 しかし、その静寂を、突然小さな足音が打ち破った。 ぺたぺた、と裸足で石畳を歩く音。歩幅、足音などから、シャカはそれが年端もいかぬ少女であることに気がついた。 それが何者かを誰何するより前に、少女の足音が止まった。 ここに人がいるとは思っていなかったのだろう。当惑した感情がありありと伝わってくる。 実際、聖闘士となってからは、シャカはこの寺院には滅多に来なくなったため、ここが無人であると思われていても不思議ではない。 「あ、あの、すみません。その、すみませんっ」 どうやら地元に住む少女のようだ。この辺りではごく普通の――つまり貧しい――少女だろう。 「構うことはない。御仏のおわすこの場は、誰のものでもないのだから」 その言葉に、少女は最初驚き、それから少しずつ緊張を解いていった。 「あの、神様ではないのですか……?」 思わず、シャカは苦笑した。 普段『神に最も近き者』と呼ばれているが、神そのものでないことを、少なくとも同じ聖闘士の仲間たちは知っている。また、シャカは幼いころからほとんど人と触れ合うことがなかったため、自分を神と勘違いする人もまた、ほとんどいなかったのだ。 「いや、違う。私は……ただの人間だよ」 「そうなんですか……」 少女は、とても残念そうになった。 実際、少女の足でこのようなところにくるのだから、よほど切羽詰った祈りを捧げにきたのだろう。 「大丈夫。御仏は必ず、平等に人々を見て下さっている。だから、真摯に願えば、きっと聞き届けてくださる」 「はいっ」 少女は元気よく頷くと、膝を折り、日が落ちる寸前まで祈りを捧げ、そして帰っていった。 |
その日から、少女は毎日来るようになった。 彼女の足では、ここまでたどり着くのすら容易ではないであろうが、それでも彼女は日が昇りきるころには現れ、一心に祈り、日が落ちるころに帰っていく。 シャカも当然その場で座禅を組んでいるので、最初はお互い話すことはあまりなかったが、それでも少女が少し休むときに、シャカも付き合って(別にまったく疲れてなどいないのだが)休んだときに、少しずつ話すようになった。 といっても、少女の話にシャカは相槌を打つ程度ではあるが。 その中で、少女――サーラというらしい――が、なぜここまで来て祈っているのかも、知ることができた。 彼女の家は(シャカが最初に想像したとおり)貧しく、サーラも十歳になったので、奉公に出ることになったのである。それで、自分がいなくなってからの家族のことを御仏に願っていたらしい。わざわざここを選んだのは、元々この寺院はこの周囲では御仏が来臨した、という言い伝えの残る場所であるため、きっとここで一所懸命に願ったら、自分がいなくなった後の家族は大丈夫だろう、と思ったかららしい。 とはいえ、それだけのためにここまで、しかも十歳の少女が来るのは並大抵のことではない。そのことからも、彼女の真剣さが分かる。 「大丈夫だ。きっと、サーラの祈りは、御仏にも届いている」 「シャカ様が言われると、本当にそういう気がしてきます……不思議ですね。お名前が同じだからでしょうか?」 もっとも、そのシャカ自身、未だに戻ってからは御仏の声は聞いていない。しかしそれは、自分に迷いがあるからだろう。 実際、シャカは未だに迷っていた。 正邪を見極められなかった自分が、果たして聖闘士としての資格があるのか、と。 「シャカ様?」 サーラの不思議そうな声に、シャカは振り返るとゆっくり首を振った。 「たいしたことではない。ただ、いろいろ考えていてね」 「シャカ様でも思い悩むことはあるのですか?」 「それはある。私も人間だ。色々な考えに囚われ、時として道を見失うことだってある……」 そういってから、シャカは押し黙る。 「シャカ様?」 「……そうか。そういうことか」 「??」 サーラが、よく分からない、というように首を傾げたらしい。 シャカは、自分でも気付かないくらい薄く笑っていたのである。 「いや、なぜこんな簡単なことに行き詰っていたのかと思ってね」 「何か、お分かりになられたのですか?」 シャカは小さく笑んだ。もしこの場に他の黄金聖闘士がいたら、おそらく全員自分の目を疑ったことだろう。 答えようとして、シャカは周囲の空気が冷え始めていることに気付いた。 「そろそろ日が落ちる。サーラは帰ったほうがいいな」 そういわれて、サーラは「あ」とあわてて立ち上がると、いそいそと周囲を簡単に清掃し、それから深々と礼をして帰っていった。それを見送ったあと、シャカは御仏を象った像の前で禅を組み、そしてゆっくりと目を開けた。久しぶりに感じる光は、夕暮れ時であるためかとても弱々しかったが、それでもシャカには眩しく思える。 目を開くと同時に、第七感である小宇宙が自分の中で増大していくのが分かる。 「私は……自分でも気付かぬうちに、思い上がっていたのだろうな」 『神に最も近き者』などと云われ、また、地上を守る聖闘士の最高位の一人である、という自分が、だが所詮は人間である、ということを。 悩むことはあるし、判断を間違えることもある。自分も、ごく普通の人間なのだ。そして、その人間を、アテナは自分とともに戦う聖闘士として選んだのだ。 そう思ったら、急に心が軽くなった気がした。 同時に、自分のすぐ近くで強力な、だがもっともなじみのある小宇宙を感じ、振り返る。そこには、思ったとおりのものがあった。 「乙女座の聖衣……久しぶりだな」 シャカのその声に応えるように、聖衣が分解し、シャカの身を包んだ。そこには、不思議なくらいの充実感すらある。 そして、すぐ戻ろうと思ったが、シャカは確かサーラがここにくるのが明日まで、と言っていたのを思い出した。明後日には都市に行くらしい。 結局シャカは、せっかくだし、とあと二日、ここに滞在することにした。 |
サーラは、その翌日もやはりいつものように来て、御仏に祈り続けた。そして、日が暮れ始めると、祈りを終え、シャカの方に向き直り、深々とお辞儀をした。 「シャカ様、お世話になりました」 「私は何もしていないが」 するとサーラは「う〜ん」と首を傾げてしまう。 「そういえば、そうですね。でも、なんとなくそう言いたくなったんです。今日が最後ですし」 「……そうか」 そのサーラの気持ちは、なんとなく今のシャカには理解できた。 「今日で、最後ですし……それではシャカ様、お元気で」 サーラはそういうと、もう一度深々とお辞儀をすると寺院をあとにした。そしてそのあとは、不思議なくらいの静寂に満ちていた。 サーラがいるときでも、別に音などはしていなかったはずだし、サーラがいないときもあったはずだ。にもかかわらず、シャカは、寺院がこれまで以上に静まり返った気がしていた。 今思えば、あるいはサーラの心が、この場を賑わしていたのかもしれない。それは、決して雑音などではなく、澄み切った風のような心地よさを伴ったもののように思われる。何より、彼女がシャカに、普通に人として接してくれていたことが、シャカ自身の心を和ませていたようにも思える。 「人であること、私はそれを忌んでいたのかも知れぬな……」 そして人を軽んじていたのかもしれない。心のどこかで。だが、自分は神ではない。あくまで人である。だからこそ、間違いも犯すし、また、時として敗れることもある。 しばらく瞑想していたシャカは、やがてゆっくりと立ち上がると、寺院の外に出た。 空は満天の星空であり、その中に、シャカの守護星座である乙女座が、はっきりと見える。 「迷いは……もうない」 乙女座の星々が、それに応えるかのように、ひときわ強く輝いていた。 |
しかし、後にシャカは知ることになる。 近隣の村にサーラなる少女などいなかったことを。あるいは彼女は、神仏がシャカの迷いを断ち切るために遣わしたのか。 それは、シャカにも、アテナにも分からぬことだった。 |
一人一本企画の第七弾、シャカです。 いやはや、ひっさしぶりに書いた星矢創作です。どのくらいぶりだろう……(遠い目) シャカになったのはなんとなくです。いや、残ってるキャラも減ってきてるし(笑) シャカは、いつも超然としてましたが、やっぱ人間のはずだから、迷うこともあるよなーということでこんな感じに。 ちなみに、サーラは最初普通の人間のはずでしたが……というか、都市に行くときに野盗に襲われてそれをシャカが助けようとして、しかし時すでに遅く、彼女はシャカの手の中で……というのアイデアもあったりしたのですが。長くなりそうだったのでさくっとやめました(爆) なお、実際にインドに奉公に行く、という慣習が今あるか(というか過去にもあったのか)なんてのは知りません(爆) |