剣聖・前



 風が勢いよく吹きぬけた。この時期、いつもであればイザーク各地で春を祝う祭りが開かれる。だが、今年はそんな気分になれる春ではなかった。
「毎年この時期は、楽しみにしていたのにな。すまない、シャナン」
 リボーの城のバルコニーに立つのは、先日イザーク王となったばかりのマリクルであった。その視線は、遠く西の方を見つめている。我が子、シャナンと妹アイラが逃げ延びたはずの方角だ。
 グラン暦七五七年。イザーク、リボーの部族のダーナ攻撃に始まった混乱は、ついにイザークとグランベルとの全面戦争へと発展してしまった。マナナン王はリボーの一件を謝罪しに行って殺されてしまい、王位はマリクルが継いだ。マリクルはグランベルとの、なかば絶望的ともいえる戦いに、これから挑まなければならない。
 ただでさえ、イザークとグランベルでは、勢力、戦力に差がありすぎる。単純に兵の数だけ比べてみても、五倍以上の差がある。まともに正面から戦っては、まず勝てない。ならば、どうするか。答えは、一つしかなかった。

「グランベル軍には、イザークの奥地まで来てもらう。そして、補給線の伸び切ったところを、その側背をつき、一撃離脱を繰り返し、消耗戦を誘う。我々は勝つ必要はない。負けない戦いをすればいいのだ。そのために、グランベルに消耗戦を仕掛ける。彼らは、遠く、イード砂漠を越えてまで遠征してきている。その疲れを、さらに増大させ、我々は彼らの消耗を誘えばいい。グランベルまで攻め入る必要はないのだからな」
 軍事会議の最初の発言で、マリクルはそう宣言した。周囲に少なからず動揺の声が漏れる。
 無理もない。イザークの民は誇り高い。戦わずに、敵を自国領内に誘い入れる策など、すんなり受け入れられるとは思えない。まして、この会議の参加者で、一番若いのは自分だった。
 しばらくのざわめきの後、最初に発言したのは、ソファラ公ラザンだった。マリクルとは親子ほどの年齢の開きがある。むしろ、父マナナンの世代の人物だ。剣士としても、高い名声を得ている。
「マリクル王。まずわれらはあなたに謝罪せねばならない。正直、我々は、あなたが正面決戦を挑まれるかと思っていた。我々はあなたを過小評価してしまっていた」
 ラザンはそう言って頭を下げた。
「我々に、グランベルと正面から戦って勝つ力は、残念ながら、ない。王よ。あなたの言われた策は、おそらく我らが、唯一グランベルに対抗できるであろうと思われる策です」
 ラザンはそう言って、再び席につく。他の諸侯からも次々に賛成の意が示された。
「ならば、我が領内を使うと良かろう。あの辺りは地形も複雑で、知らぬものであれば、まともな陣をしくことすら出来ぬであろう」
 ラザンのその意見に、多くの者が賛同した。確かに、ソファラの周辺は高山に囲まれていて、非常に複雑な地形である。知っているものならともかく、そうでなければ、行軍すら困難なところが多い。この場合、グランベル軍が大軍であることが、却ってマイナスに働いてくれる。
 ただ、唯一の問題は、どうやってグランベル軍をソファラの近くまで誘導するか、であった。マリクル自身に、そのアイデアはあった。だが、一つ間違えると、それだけでイザークが滅ぶ可能性があり、決断できないでいた。
「問題はどうやってグランベルを領内深くへ導くか、だ。これについては……」
「一度、敗れてやる必要があるでしょう」
 発言したのはガネーシャ公エルオンだった。ラザンと同世代の重厚な雰囲気の武人で、イザークには珍しく、馬上で剣を扱うことに長けている人物だ。
「グランベル軍に勢いづいてもらい、追撃をかけてもらう。罠だと悟らせないために、何度か反撃も必要でしょうな。それには我らも多少の犠牲はやむをえないと考えるべきでしょう。そしてそのためには……」
「私が囮になりましょう」
 エルオンの発言に割り込むように、マリクルは宣言した。その声には一切の迷いは感じられなかった。
「どうやら王も同じ考えだったようだな。ならば、話は早い」
 マリクルは無言で頷いた。
 方針は決した。あとは、細かい軍の編成作業だった。マリクルはそれを、戦士団の団長とエルオン卿に一任した。エルオン卿は、用兵家としても有名だったのだ。

「ご子息のことをお考えか」
 マリクルは急に声をかけられ、驚いて振り返った。振り向くとソファラ公ラザンが立っていた。彼は、軍略には疎く、会議には参加していない。マリクルと立場は同じようなものだ。
「ええ。それと妹のことも。今ごろ、どうしているか。我々よりは安全な地へ行ったはずなのに、どうしても心配してしまう。情けないものです」
「それが親というものですよ。まして、あんな幼子では、なおさら心配でしょう」
 その時、ラザンの後ろから一人の剣士が駆けてきた。まだ若い。二〇歳にもなっていないだろう。
「父上。ソファラより、軍が出立したとの報が入りました。十日後には、イザークへ到着するとのことです」
 ラザンは、分かった、といってから、思い出したようにマリクルの方を振り返った。
「紹介しておきましょう。私の息子のアーディルと申します。アーディル、こちらがマリクル王だ」
 するとアーディルはびっくりしたように硬直した。慌てて膝をおって平伏しようとする。マリクルは笑って、それを制した。
「王といっても王位を継承したのは、ほんの数日前だ。そう硬くなることはない。そういえばラザン殿、あなたのご子息は、確かもう一人……」
「はい、もう一人おります。もっとも……今はどこにいるかさえ分かりません」
 ラザンの表情が少し翳る。やや間があったあと、ラザンはアーディルに下がるように言って、マリクルの方に向き直った。
「確か、ホリンといったか。私と同じ年くらいのご子息がおられたが、今はイザークにはいないのですか?」
「ええ。どうやらあれは、自分がいると後継者争いが起きると思ったようです」
 マリクルはそれで大体の事情を察した。
 イザークでは正妻は一人だが、側室を持つ習慣がある。むしろ、マリクルのように正妻一人だけの方が珍しい。ラザンも例に漏れず、何人かの側室がいる。しかし、側室の子は、基本的には家督の継承権は、正妻の子より下位に位置するものである。
 ソファラ公ラザンの最初の子は、側室の一人との間に生まれた子だった。ホリンと名づけられたその子は、イザークには珍しい、母親と同じ金色の髪をしていた。正妻との間にアーディルが生まれたのはホリンが八歳のときである。
 ラザンはその後は子を授からなかったので、その二人の子を溺愛し、また一方で、イザークの戦士として、二人に剣術を教えていた。
 ホリンは、父をも凌ぐほどの剣才の持ち主で、イザークに伝わる秘剣の一つを習得したとすらいわれている。アーディルも剣才は確かに優れていたが、兄ホリンには及ばないだろう、と言われていた。それゆえ、人々はホリンこそがソファラを継ぐのに相応しいのではないか、と噂するようにる。ホリンがいなくなったのは、そんな時だった。当時、ホリンはまだ十六歳だった。
 そして、ホリンがイザークを出奔するのを見逃しているのは、他ならぬマリクルである。
「皮肉なことに、今となっては私の血を継ぐ者も、ホリン一人になるかもしれないわけです。っと、こんな弱気な発言はするべきではないですな」
 ラザンは苦笑いを浮かべる。
「それでは、私はこれで。そろそろ編成会議も一段落したころでしょう」
 立ち去っていくラザンの後ろ姿を見ながら、マリクルは、ラザンが生き残る気はないことを悟った。敗北をするつもりのあるわけではない。だが、自分が生き残れるとは思っていない、そんな覚悟をマリクルは感じた。
 自分も覚悟を決めなければならない。マリクルはそう思いながら、腰にさしてある神剣バルムンクの柄に触れた。オード以来、初めてこの剣で人を斬ることになるのか。マリクルは何か、妙な感じがした。
 本来、人を斬ることを目的にしているのが剣である。だが、この神剣バルムンクは、かつての聖戦以来、鞘より引き抜かれたことはあっても、人を斬ったことはない。必要がなかったのだ。イザークにおいて、神剣バルムンクは、その存在だけで他を圧倒してこれたのだから。
 しかし、今回はそうはいかないだろう。同じ神器が、少なくともすでに四つ確認されている。聖剣ティルフィング、聖斧スワンチカ、雷の神魔法トールハンマー、そして、光の神魔法ナーガ。報告によれば、聖弓イチイバルの後継者、ユングヴィ公リングも来てはいるが、イチイバルは持ってきてはいないらしい。だがそれでも、数の上で4対1。彼我の兵力差と、同じようなものである。だが、まだマリクルには勝算があった。

 イザーク軍は、二日後にリボーを放棄した。リボーはなだらかな平原にあり、多少森に囲まれてはいるが、守るには適していない。また、イザーク各地から軍が集結するのには、リボーでは遠すぎるということもある。マリクルはリボーにいた全市民を引き連れ、イザークまで撤退した。そして、イザークの街の南西に陣を敷き、そこでグランベル軍を待ち受けることにした。

 イザーク軍がリボーを放棄してから半月後、イザーク軍とグランベル軍は激突した。しかし、イザーク軍は、勝つことははじめから考えていなかった。とにかく被害を最小限にして、且つ敗走しているように見せる必要がある。グランベルに追撃をさせる隙を、見せなければならない。
 マリクル自身もまた、みずから剣を振るって戦場にあった。しかし、その剣は神剣バルムンクではない。マリクルもまた、まだ本気で戦うわけにはいかなかったのである。
 そうはいっても、マリクルはやはりもっとも狙われた。だが、マリクルを傷つけられる兵士は一人もいなかった。マリクルの圧倒的な剣技は、敵味方を問わず、そこにいる兵士全てを魅了していた。だが、それでも戦局全体の趨勢を変えることなど、出来るはずもない。
 イザーク軍は、敗走を開始し、王都イザークに立てこもった。
 しかし、これは擬態でる。イザーク市民はすでに、その全てが城外へ脱出済みで、イザーク城内へ逃げ込んだように見える軍も、実際にはイザーク城周辺で一度解散し、別の場所で集結していたのだ。
 その一方で、イザーク城には多くの軍旗を掲げ、あたかも軍が入ったように見せかけていた。そして、この作業をした部隊も、間道を通ってその日のうちにイザーク城を脱出していたのだ。
 グランベル軍も、この擬態にはすぐに気がついた。だが、その時すでに、イザーク軍ははるか奥地まで移動していた後だった。
 グランベル軍の中で、ここで撤退すべきだという意見が出始めた。主に主張したのは、遠征軍総大将のクルト王子の右腕とまで言われる、シアルフィのバイロン卿であった。バイロン卿はこれ以上の進軍は、地理に明るくない我々にとっても、大きな被害を出しかねない、と言って、撤退を訴えた。これに強硬に反対したのは、バイロン卿の政敵でもある、宰相レプトール卿である。結局、軍の全体の雰囲気を考え、クルト王子自らが追撃戦を開始することを決定した。イザーク軍はその時すでに、再集結を完了していた。結局、この論議がイザークに集結の時間を与えてしまったのだ。

 それでも、いったん攻勢に出ると決まったグランベル軍の攻撃は、苛烈を極めた。騎士団が突撃して、その後ろから魔法の援護。さらに圧倒的な兵力差。イザーク軍は、どんどん奥地へと追いやられていった。グランベルをイザーク奥地へと誘い込むのは、予定通りではある。ただ、そのための損害もまた、決して小さなものではなかった。
「無理に敗走してみせなくても、勝手に敗走する羽目になるのう。さすがはグランベル王国の軍隊、といったところか」
 そう評してたのは、ソファラ公たるラザンだった。目的のソファラの地は、あと少しである。戦勝気分に沸き返る今のグランベル軍なら、確実にこのまま追撃戦をかけてくるだろう。すでに、戦端が開かれて四ヶ月が過ぎている。これだけの長期戦になった理由の一つは、イザーク軍が一撃離脱戦法で、グランベルに思うように進軍させなかった事、そして、もう一つはグランベル側の事情だった。
 グランベル軍はこの戦争の補給物資を、すべて本国から輸送していた。イザークまでは、ダーナからの補給路を使う事が出来る。もともと、イード砂漠の南側、入り江に面した地域は、地盤が固く、天然の道となっている。しかし、イザーク国内に道は整理されていない。莫大な量の補給物資を運ぶためには、グランベルは自分達が侵攻した後に、そこへ通じる道を作らなければならないのだ。しかし、これは同時に補給路を確保していなければ、どんな戦争も勝てない、という、用兵上の鉄則をきちんと守った行動であった。
 グランベルがこのような手段をとっていたため、イザークは、焦土戦術を取る意味を失った。イザーク、リボーの市街から食料などはすべて引き上げたが、街そのものを焼く事はしなかった。あとで、自分達が帰る場所を燃やす事もない、と判断したのだ。

 一方、グランベル軍では、バイロン卿が再び撤退案を提案していた。
「我々は、すでにこの未開のイザークの奥地まで侵攻しました。確かに侵攻した、という事は出来るでしょう。ですが、逆に言えば、誘い込まれた、という言い方も出来るのではないでしょうか。この先、どんな地形なのか、我々は全く知らない。これは、途方もなく危険な事かと思います。今は、リボー、イザークへと通じる交通路を確保し、それらを橋頭堡として、イザークの支配を確実に行うべきだと思います」
 バイロン卿は軍議の冒頭でそう発言すると、再び席につく。そして、レプトール卿の方を見た。しかし、続いて発言してきたのは、ドズル公国のランゴバルト卿であった。
「バイロン卿が何を恐れているのか分からぬが」
 ランゴバルト公爵は、わざとらしく大仰な仕種を見せる。
「彼我の兵力差はすでに五対一以上。この状況下で、一体イザークに何が出来るというのだ」
「かつての聖戦で、解放軍はロプト帝国に対し、圧倒的なまでの兵力差をつけられていた。そして、ダーナの砦では、自軍に百倍する兵に囲まれた。しかし、聖戦士達はそこから、奇跡を起こした事をお忘れか。」
 バイロンは席も立たずに、冷静に言い返した。ランゴバルトが憎々し気に睨み付ける。何か言おうとしたところに、レプトール卿が口を挟んだ。
「バイロン卿。貴卿の心配ももっともだが、あの時は聖戦士達の手に、神々の武器があった。だが、今神器は我らの手にある。おぬしのティルフィング、私のトールハンマー、ランゴバルト卿のスワンチカ、そしてクルト王子のナーガ。確かに相手にも、神剣バルムンクがあるだろう。だが、我らがそれでも負けるとお思いか?」
 それに関しては、バイロンも何も言えなかった。確かに、数の上では兵力差はすでに五対一。神器の数でも四対一である。勝負になるはずはない。だが、それでもバイロンは、何か言い知れぬ不安を、拭い去る事は出来なかったのだ。
「バイロン卿。あなたが不安に思うのは分からなくもない。だが、両公爵の言うとおり、我らの戦力的有利を、今のイザーク軍が覆せるとは思えない。それに、ここまで攻めてきて、引き返したのでは、民意に与える影響も考慮しなければならない。少なくとも、現国王であるマリクル王と、何らかの形で決着をつけなければならない。停戦であれ、あるいは……」
 クルト王子は、その先の言葉は続けなかった。続けなくても、分かっている。停戦か、さもなくば、滅亡か。実際、グランベル国内の世論は、イザークの蛮族を滅亡すべし、という傾向にある。正直、停戦は考えにくかった。すでに、「降伏か、死か」と考えられていたのだ。

 グランベル軍は、イザークの突発的な攻撃に気を付けつつ、進軍を続けた。イザーク軍は、もはや残存戦力などないような、百人程度の集団による夜襲などを仕掛けてきていたが、その程度で、数千に達するグランベル軍の足を止める事など、出来るはずもない。グランベル軍の内部には、イザークにはすでに、まともな軍隊を編成する戦力が残されていない、という考えが広まりつつあった。
 もっとも、それは兵士達の間だけで、バイロンやリングはもちろん、ランゴバルトやレプトールも、イザークの抵抗力の無さにはそろそろ疑問を感じ始めていた。
 しかし、だからといって進軍を止めるわけにもいかない。この段階まで来ると、イザークがどこかで決戦を仕掛けてくる、というのは指揮官達の共通認識になっていた。しかし、兵士達に緊張感を持て、といっても、一度感覚として染み付いた戦勝気分はそうそう抜けるものではない。余裕と油断は違う。だが、兵士達にその差はそう簡単に理解できるものではなかったのだ。


 さらに一月。グランベル軍はイザークの奥地まで侵攻していた。
 すでに戦端が開かれてから五ヶ月が経過し、軍全体の士気もあまり高いとは言えなくなってきていた。イザーク軍の抵抗も、散発的で、糧食などを狙うものばかりだった。戦略的には正しい攻撃ではあるのだが、糧食を警備する兵より、攻撃側が少ないのでは、成功するはずもない。もはやイザークには抵抗する勢力は残っていない、というのが、兵士達の共通認識になっている。そして、それは油断へと繋がるものだった。

「どうにかここまでは誘導できたな。あとは、我らにかかっているわけだ」
 ラザンはそういって、横にいるマリクルを見やった。マリクルは無言でグランベルの陣営を見下ろしていた。
 高い山に囲まれたソファラ地方は、大軍を運用するのが、非常に困難な地形をしている。入り組んだ地形と高低差の激しさは、行軍の速度を一定させる事が出来ない。自然、軍のまとまりが小さくなり、宿営地も分散する。もともと宿営地に適した平地が少ないから、どちらにしてもそうならざるを得ない。
 だが、それでもなお、グランベル軍の布陣は、つけいる隙を感じさせなかった。
「見事な布陣だな。噂に名高き、シアルフィのスサール卿かな?」
 ラザンは、感心したようにそう洩らす。
「やりようはありますよ。ラザン殿。もともと、我らの狙いはただ一点なのですから」
 マリクルはそう言ってから、その場を立ち去った。ラザンも後に続く。
 そう。彼らの狙いはただ一点。指揮官であるクルト王子を含めた公爵たちを倒す事。神器の継承者に対する兵士達の信頼は、絶対的と言って良かった。その彼らを倒す事が出来れば、あるいは、この圧倒的な兵力差を覆す事も、不可能ではない。そして、それこそが、イザークが生き残る、ただ一つの手段だった。
 一点突破。それが可能になるほどに陣容が薄くなるには、この地まで誘導するしかなかったのだ。

「イザーク軍が起死回生の反撃を仕掛けてくるとしたら、この地をおいて、他にはないでしょう」
 軍議の席で、発言したのはスサール卿だった。
「我々の陣形は、小さな集団に別れ、最大のこの本陣ですら、ヴァイスリッター二百騎、グリューンリッター、グラオリッター、ゲルプリッターが各百騎ずつ。合計で五百。集団としては決して小さくありません。ですが、イザークは明らかに戦力を温存しています。おそらく、イザークは最後の勝機にかけるつもりなのでしょう」
 ランゴバルト卿が、いらついたように立ち上がる。
「最後の勝機だと? 一体奴等にどんな勝機がある!」
 スサール侯は、ランゴバルトの恫喝にも臆した様子も見せず、静かに言い放った。
「ドズル公。あなたを含めた、この地に赴いた聖戦士の末裔を倒すことですよ」
「なんだと! 我らを侮辱するのか?たかが一人の聖戦士の末裔に、我らが敗れるとでも言うのか!」
 ランゴバルト卿は、今にもスサールに襲いかからんばかりの剣幕で、怒鳴りつけた。
「スサール卿、少し外に出ておられよ」
 バイロンが静かに言う。スサールは、その言に従い、静かに会議の席を辞した。

「おぬしらしくもないな。何故あそこまでランゴバルト卿を怒らせた。彼の気が短いのはおぬしも知っていよう」
 会議が終わった後、自分の天幕に戻ってきたバイロンは、スサール卿を呼び、まずそう言った。
「確かに、少々言い過ぎたかもしれません。ですが決して、あり得ない話だと思って、言ったのではありません」
 バイロンは、驚いたようにスサール卿を見た。冗談を言っている顔ではなかった。もう六〇歳という高齢ではあったが、グランベルにスサールあり、とまでいわれたほどの才覚の持ち主である。その彼が本気で言っているとしたら、決して軽視できない。
「すると、おぬしは我らが揃ってイザークの戦士に敗れる、と考えているのか?」
 バイロンの声にも、少しの怒気がこもる。それは、聖戦士としての誇りが、バイロンを怒らせていたのだ。スサールは少し考えた後、首を横に振った。
「いえ。イザークの戦士は、確かに優秀です。一対一ならば、我らグリューンリッターをも圧倒する実力を持っているかもしれません。ですが、それでもバイロン様や、ランゴバルト卿、クルト王子を倒すことは不可能でしょう。可能なのは……」
「マリクル王か。だが、いくらなんでも一人で我らを倒すのは不可能だろう」
 スサールは、静かに首を横に振った後、突然話を変えてきた。
「バイロン様。グランベル王国と正式に国交のない国を、ご存知ですか?」
 バイロンはちょっと不意をつかれ、一瞬考える。しかし、いくら武人とはいえ、そのくらいはすぐに分かる。
「このイザーク、それからシレジア。トラキアの三国だろう。ヴェルダンとは数年前から国交があるからな。それがどうかしたのか?」
「そうですね。このうち、トラキア王国とは、かの聖戦の後、トラキア王国分裂の際に、グランベルが北トラキアに援助して以後、国交が断絶したわけです。つまり、元々は国交がありました。しかし、イザーク、シレジアとは一度も国交を結んだことはありません。同じ聖戦士が興した国だというのに、不思議に思いませんか?」
 いわれてみて、バイロンは初めて気がついた。確かに、奇妙な話ではある。
「国境を接していないからではないのか?」
 確かに、シレジアもイザークもグランベル王国とは直接国境を接してはいない。
「それならば、マンスター地方の東方や、トラキアも同じでしょう。別の理由があったのですよ。実は」
 スサールは、そう言って、一度言葉を切り、カップのお茶を口に運んだ。
「グランベルを興したヘイムは、いや、他の聖戦士達も恐れたのです。剣聖オードと、風使いセティの実力を。そして、それがゆえに、彼らは大陸の中心から遠く離れた地を治めることになったのです」
「馬鹿な……」
 バイロンは否定しようとした。だが、すぐに言い出せなかった。確かに、不思議だったのである。吟遊詩人たちの歌う、聖戦のサーガなどでは、オードとセティの活躍は、誇大ではないか、というくらい大きく取り上げられている。しかし、公式記録での扱いは不思議なほど小さい。また、聖戦後の彼らはどうか。北方の、環境の厳しい地域の統治にあたっている。確かに、その地域が彼らの出身だった。だが、功績を考えれば、シレジアがフィノーラやリューベックを、イザークはダーナを統治する権利があってもおかしくはない。だが、ダーナはかの奇跡があった場所であるから、という理由でどの国にも属さない都市となり、リューベックやフィノーラはグランベルがイード砂漠に逃げ込んだとされるロプト教団の監視のため、ということでいずれもグランベル王国が統治している。確かにフィノーラ城はイード砂漠の監視のために利用しているが、リューベック城は明らかに、シレジアへの牽制に使われている。
「するとおぬしは、我らが揃ってマリクル王に敗れる、と思っておるのか?」
 スサールは即答しなかった。重苦しい沈黙が、その場を支配する。耐え切れなくなったか、バイロンが先に口を開いた。
「どうにせよ、イザークの最大の狙いは、我らだというのは変わらんか。ふふ。どうしようもないな。この戦士としての感覚は。おぬしにその話を聞くと、ますますな。聖剣をもって、全力で戦えることなど、まずあるまいからな」
 バイロンの声には、高揚感がる。スサールは、それを聞いて、安心したように言った。
「私も、こうは言いましたが、正直、バイロン様より優れた戦士がいるとは思えません。確かに、剣聖オードは最強の剣士だったのかもしれませんが、マリクル王が、オードと同等の剣士である、とも限りませんからね」
 そうは言ったが、二人ともそれほど楽観はしていなかった。マリクルの剣才の噂は、遠くイード砂漠を超えて、グランベルでも知れ渡っている。油断できる相手ではないことは、十分に分かっていた。
 そして、その二日後。雲一つなく、空には月がその姿を半分だけ見せていた。わずかな月明かりが地上を幻想的に照らす、そんな夜。戦端は開かれた。


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