「バ、バカな。これは本当のことか?」 ノディオン城の王の執務室で、その部屋の主であるノディオン王エルトシャンは、届けられたばかりの書状を持ったまま驚愕と怒りにその身を震わせていた。そのすぐ横では、書状を届けてきた使者が半ば恐怖に凍り付いている。それほどまでに、その書状を持っている人物から感じられる気配には、苛烈さが込められていたのだ。だがそれでもなんとか、使者としての役目を果たそうと口を開く。 「は、はい。シャガール新王陛下はグランベル王国のエバンス進駐に対して危機感を強め、これに対するにはアグストリアはグランベルと対決姿勢を明確にするしかないと……」 「そんなことは訊いていない!」 使者は「ひい」と小さな声で震えるとそのまま縮こまってしまう。そこでエルトシャンははっとなって表情を和らげた。 「すまん。おぬしにあたっても詮無いことであったな」 使者に当り散らしたところで、目の前にある書状の内容が変わるはずはない。となれば、ここにいつまでもいても仕方のないことだ。 「もうよい。下がれ。それから誰か、ラケシスを呼んできてくれ」 「はっ」 入り口に控えてきた騎士が使者を送り出し、そのまま部屋を出て行った。ややあって、部屋の主と同じ美しい金色の髪の少女が入ってきた。まるで、その少女の気性を表すかのような真紅のドレスをまとっている。 「お呼びでしょうか。エルト兄様」 「ああ。これを見てくれ」 そういって、妹に先ほどの書状を渡した。受け取ったラケシスは、見る見るうちに顔色が変わっていく。 「兄様、これは……」 「読んだままだ。このままではアグストリアとグランベルは全面戦争に突入してしまう。それは、なんとしても避けなければならない」 「はい……」 兄の言いたい事はラケシスにも分かった。 今、グランベル王国は主力軍が東方イザークに遠征に行っていて、未だに戻ってきていない。この隙を突けば、確かに西の方のユングヴィ、シアルフィ、ドズル、フリージなどは奪えるだろう。事実、蛮国と云われていたヴェルダンですら、ユングヴィを陥落せしめたのだから。 だが、グランベルの王都バーハラには未だに近衛騎士団ヴァイスリッターがあり、指揮官のアルヴィス卿の実力は、このアグストリアでもその勇名は轟いている。 それに何より、ユングヴィの途上にあるエバンス城にはシアルフィ公子シグルドの軍がある。親友であるシグルドと戦うことなど、エルトシャンには考えられない。 確かに、ここ十数年、賢王イムカの施政によって、アグストリアはグランベル王国にも劣らないほどの国力を手に入れている。だが、だからといって戦争をすれば、国力は疲弊する。勝っても負けても、その傷跡は大きなものになるだろう。そしてそれで一番苦しむのは何の力も持たない民たちなのだ。そんな無益な戦いは、断じてすべきではない。 「俺はアグスティに行く。陛下に愚かな挙兵はお止めになるように進言してくる」 「ま、待ってください、兄様」 ラケシスは驚いて顔を上げ、そしてエルトシャンの手を掴んだ。ラケシスの手にあった書状が、音もなく床に落ちる。 「シャガール陛下は自らのお父上を手にかけたのでは、とすら言われています。そんな方に、何を言っても無駄です。むしろ、兄様の身に……」 「ラケシス!」 突然のエルトシャンの鋭い声に、ラケシスはビクッとなって体を竦めてしまう。 「ラケシス。滅多なことを言うな。それは噂でしかない。それに俺とてノディオンの王だ。陛下とて俺の意見ならばそう無碍には出来ないはずだ。大丈夫だ。心配はない」 エルトシャンは妹を安心させるように微笑んだ。ラケシスの顔に、少しだけ安堵の色が戻る。 「ただ何があるか分からない。一応、クロスナイツの一部を残し、俺の信頼する部下に預けていく。ラケシス、お前がこの城を守ってくれ」 「兄様……」 「それからグラーニェとアレスのことを頼む。お前にしか頼めない」 そのときラケシスは、自分がひどく複雑そうな表情を浮かべていることを自覚した。 兄の妻であるグラーニェのことに関しては、ラケシスはひどく複雑な感情を抱いているのだ。大好きな兄を奪った女性。けど、グラーニェ自身はとても優しくて、ラケシスもとっても好きなのだ。 ラケシスは一度大きく頭を振ると、凛とした表情で兄と向き直った。今は、そんなことを考えているような事態ではないのだ。 「分かりました、兄様。いえ、陛下。ノディオンの留守は、確かに私が預かりました」 エルトシャンは安心したように頷くと、随伴の騎士を素早く選び出立の準備をするよう命じ、自分も準備のために部屋を出て行った。 素早いもので、その日の夕方前には準備も終わり、ラケシスはクロスナイツの指揮官イーヴ、エヴァ、アルヴァ、それにアレスを抱いているグラーニェと共にエルトシャンを見送った。 「兄様……どうかご無事で……」 これまでにもエルトシャンがアグスティに行くことは何度もあったというのに、ラケシスはなぜか今回、ひどく不安な気持ちでいっぱいだった。 「大丈夫ですよ。あの方は、きっと戻られますから」 ラケシスの心情を察したのか、グラーニェが優しく囁いく。 「お義姉様……」 「ホラホラ。いくら夏でも陽が落ちると冷えますからね。風邪をひきますよ」 本当は、自分以上に辛いはずなのに、と思うとラケシスはその義姉の心遣いがとても嬉しく思えた。 「そうですよね。すぐ、戻られますよね」 ラケシスはそういって笑うと、城内へと戻っていった。 だが、エルトシャンが再びこのノディオンの城に戻る日が来ることは、二度となかったのである。 |
エルトシャンは本当にここは同じアグスティ城なのか、と一瞬疑ってしまった。 間取りは間違いなく同じであるし、よく見ると見た記憶のある装飾もある。だが、それ以上に見たことのない装飾が圧倒的に多かった。一言で言ってしまえば、趣味が悪い。金銀で城内をところ構わず飾るなど、まるで悪趣味というしかない。 以前アグスティ城に来たのは、先王イムカの葬儀のときであったから、それからわずか三ヶ月でこれほどに様変わりしたことになる。 「国王陛下が参られました」 謁見の間で片膝をついた姿勢で内装を見ていたエルトシャンは、その声ではっとなって姿勢を正した。本来クロスナイツを束ねる立場であるノディオン王は、アグスティ王に次ぐ立場とされていて、謁見の間でも平伏は不要、とされていたのだが、シャガール王の意向でそれは変更されたらしい。 それは構わない。元々そのノディオンの特別扱いゆえに、ノディオンは他のアグストリアの国々と、何かと折り合いのつかないこともあったからだ。 「エルトシャンか。よく参ったな」 一瞬、エルトシャンは声を発した人物がシャガール王ではないという錯覚に襲われた。 エルトシャンの記憶しているシャガールという人物は、ある種卑屈で、どこか卑小な印象すら感じさせる小人物であったはずだ。 だが、今発せられた声には、アグストリアの盟主としての自信と自負に溢れていた。だがそれが、あまりにも深い邪悪さを感じさせる声に聞こえてしまうのは、父王を暗殺した、という噂ゆえであろうか。 「シャガール陛下。謁見を許可いただき、ありがたく存じます。つきましては、先日書状にて回ってきたグランベル王国への侵攻について、意見を具申したく参りました」 「無用だ」 「は?」 「グランベル侵攻はすでに決まったこと。おぬしの言わんとするところは分かっておる。だが、わしはそんな意見など聞くつもりはない」 エルトシャンは驚いて顔を上げた。 シャガール王の視線は、エルトシャンをまるで蔑むように見下ろしている。その目には、あまりにも冷淡なものが感じられてしまう。 「へ、陛下。お待ちください。先王イムカ陛下はグランベルとの共存を望んでおられました。むやみに争わぬこと。それが国力を増加させるのです。戦争は国力を疲弊させ、民を傷つけます。そうなっては、陛下の御名をも貶めることとなりましょう。どうかご再考を……」 だがシャガールは、まるで興味もなさそうにサイドボードからワインを取り、飲み干すと傍らの騎士に何事か指示していた。そして、今度は半ば怒りすら込められているような瞳で、エルトシャンを睨む。 「エルトシャン。貴様は父王に厚遇されていたのをいいことに、わしの施政にまで口出ししようというのか。だがな。もはや父王は亡く、わしが全アグストリアの支配者なのだ。そのわしが、グランベルを欲しておるのだ。ならば、民はそのためにその身を差し出すものであろう!」 狂っている。 エルトシャンはそう直感した。もしこのままアグストリアが暴走しては、多くの民が不幸になる。そんなことは絶対にあってはならない。アグストリアを愛していてた、イムカ王のためにも。そして、ノディオンのためにも。 「陛下!今一度お考え直しください!」 しかしシャガールの目に宿った狂気は、その色をなお強くしてエルトシャンを睨んでいた。あるいは、そこには憎悪すら宿っているようにすら見える。 「エルトシャン……父王が厚遇したからといって、わしがお主を厚遇するとは限らんのだぞ。そもそもお主は、父王が健在であったときから、わしをいつもコケにしてくれていたな」 「そ、そんなことは……」 確かにエルトシャンはシャガールに何かと意見することは多かった。だがそれは、国王としてよき王になってもらいたくて意見していたのである。恨まれるようなことではないはずだ。だが、シャガールはどうやら別の捉え方をしていたらしい。 「こやつを地下牢に放り込んでおけ!あとでどちらが主か、思い知らせてくれるわ!」 エルトシャンはその時になって、自分のすぐそばに近衛騎士が近付いていたのに気が付いた。そして、シャガールの言葉と同時に、両腕を押さえられてしまう。いかにエルトシャンとはいえ、左右の腕を屈強の騎士に押さえつけられては、そう容易に振り解けない。 「くっ、陛下、お考え直しを!」 だが、シャガールはもう聞く耳など持たない、というように謁見の間を出て行く。 「エルトシャン陛下。獅子王とまで呼ばれるあなたにこのようなことをするのは気が引けますが、これもシャガール陛下のご命令です。どうか、抵抗などなさらぬように。あなたを反逆罪で処刑などしたくありませんので」 全力で騎士を振り切ろう、と考えかけていたエルトシャンであったが「反逆罪」の言葉で、抵抗を止めた。たとえ何があろうと、騎士としての道は貫く。それが、ノディオン王としての自分の使命であると決めていたエルトシャンにとって、反逆は決してあってはならないことだったのである。 「……ラケシス、グラーニェ……。すまない……」 |
その日の朝アグスティから届いた報せは、やや寝惚けていたラケシスを一気に覚醒させるのに十分なものであった。 すなわち、兄エルトシャンが投獄された、というものである。 「兄様……だからお止めしたのに……」 「姫様……」 クロスナイツの指揮官として残ったうちの一人、イーヴが心配そうにラケシスを見やる。実際、この兄妹の仲の良さは、周囲の者が見ても微笑ましく、体が弱いため表にはあまり出ないグラーニェの代理をラケシスが務めることもあるため、事情を良く知らないものから見れば、無用な心配を覚えてしまうほどである。 実際、ラケシスは兄エルトシャンを誰よりも慕っている。それだけに、今回の事件はラケシスにはショックだった。 「それで、一体これからどうなるのです?」 それでもどうにか平常心を保ちきったラケシスは、もっともな疑問を口にした。 仮にもアグストリアの一国の王である。今回の罪状は、国家指針に対する強硬な反対姿勢をとり、反逆意思の可能性があるため、となっているが、それならばそう長期間投獄されるとは考えにくい。無論、実際にはあのシャガール王がエルトシャンのことを気に食わないから、というのが事実なのだろうが、形式をそう無視できるはずはないのだ。 「分かりません。ですが、しばらくは現状のままかと。ただそうなるど、ハイラインの動きが……」 そこでラケシスの表情が翳る。彼女にとって、ハイラインという国は個人的にもいい感情を持っていない国なのだ。 「ハイライン軍は先のシグルド公子のヴェルダン侵攻の際に、エバンスを攻撃しようとしてエルトシャン陛下に妨害されたことを、今も根に持っているはずです。また、その、あの国の王子は……」 「エリオット王子ね……。あの、キザな男!」 ラケシスは半ば吐き捨てるように言った。 「自分の妻になれっていつもうるさくて!あんな男は私は大嫌い。エルト兄様のような方でなければ、私は絶対にいや。だから、私は誰の妻にも……」 そうして兄のことを思い出そうとしたとき、唐突に数年前の、ミレトスでの記憶がよみがえった。あの、優しい騎士は、今ごろどんな男性になっているだろうか。 想像しかけて、ラケシスは首を振った。 もうきっと、彼は自分のことなど忘れているだろうし、それに今はそれどころではない。兄からこのノディオンを預かっている以上、なんとしても兄が戻るまでこのノディオンを守る義務があるのだ。 「イーヴ。あなたは今ある兵力をいつでも動かせるようにしておいて。それから国境で、ハイラインの動きを監視させて。もし何か動きがあったら、すぐ報せること。あと……」 何か他に出来ることはないのか。必死に考えてみるが、ラケシス自身この様に指揮を執るのは初めてである。 「分かりました。私も、弟二人と共にいつでも出撃できるようにいたします。正直、ほぼ間違いなくハイラインは動いてくると思いますので……」 「ごめんなさいね。イーヴ。あなた達兄弟には感謝してるわ。アルヴァにもエヴァにも、よろしく伝えておいて。それから、絶対に死んではダメ。いいわね」 死んでしまっては、何も出来ない。生きてこそ出来ることがある。 だから、兄もまだ望みはあるはずだ。それは、ラケシスの望みでもあるのだ。 「もったいないお言葉です。ですが、我らはエルトシャン陛下からこのノディオンと姫様、お妃様をお守りするように言い付かった、ノディオンの騎士。何があろうとも、必ず守り通して見せます!」 イーヴはそういうと部屋を出て行った。 誰もいなくなった部屋で、ラケシスは一人両腕を抱えるようにして震えていた。 「大丈夫。きっと、きっと」 小さな戦いはともかく、今回はおそらく国同士の戦い。それがどういうものか分からない恐怖に、ラケシスは震えていたのだ。 「大丈夫ですよ、ラケシス様」 突然かけられた声に、ラケシスは驚いて顔を上げた。いつ入ってきたのか、自分のすぐ横にグラーニェが立っている。 「お義姉様……」 「戦いは初めて?大丈夫。きっと大丈夫です」 いつもはどこかか弱く見えるグラーニェが、なぜかこのときはとても頼もしく思えた。考えてみたら、彼女はあの戦乱の絶えないレンスターの出身である。あるいは、こういう事態には慣れているのかもしれない。 「はい。ありがとうございます、お義姉様」 「あなたがそんな不安そうにしていると、その気持ちは兵士達にも伝わるわ。だから、もっと自信を持って、ね」 「はい」 義姉がいてくれてよかった。ラケシスは本当にそう思った。この人の前なら、ちょっとぐらい弱音を吐いても許される。それに、今は自分より遥かに頼りがいがある。 「がんばります、私……」 言いかけてから、ラケシスは急にあることに気が付いた。 レンスターから来ている義姉。そして、そのレンスターの王子がいる軍が今は……。 「……そうだ……シグルド様が今ならまだエバンスにいらっしゃる……」 |
グラン暦七七七年夏。ノディオン王女ラケシスは、エバンスのシアルフィ公子シグルドに急使を派遣し、援軍を要請した。これに対しシグルドは、直ちに軍を発し、ノディオンへ急行する。 後の世に言う、アグストリア動乱の、これが始まりであった。 |