と わ     
祈りを永遠に・第二話
Summer Party


 笑うような、泣くような、困ったような。そんな複雑そうな表情を浮かべて手紙を凝視している人物が、今ユグドラル大陸に何人いるかは分からないが、おそらく、今ノディオン城でそのような行動をとっている人物は、その中でも最強の存在だろう。ノディオン王エルトシャン。魔剣ミストルティンの継承者である彼は、親友シグルドから来た手紙を見詰めて、そんな複雑な表情を浮かべていたのだ。
「今から早馬を飛ばしても……間に合わないだろうなあ」
 何度目かの同じ言葉だ。言葉に、ため息が続く。その時、部屋の扉が開いて、美しいドレスを纏った女性が入ってくた。
「いつまでも悔やんでいても仕方のないことでしょう。確かに、あまりにもタイミングが悪かったですけど」
 そう言ってから、グラーニェはエルトシャンに外出用のマントを渡す。
「あなたが、行くことを強く勧めたのは確かですけどね」
 エルトシャンは、その言葉に、もう一度ため息を吐くと、何かを振り払うように立ち上がった。
「どうやらラケシスの前途は、多難のようだ」

 グラン暦七五七年初夏。ノディオン王エルトシャンの元に、エバンス城城主となったシアルフィ公子シグルドから、一通の招待状が届いた。それを見たとき、エルトシャンは最初ひどく驚いた。それは、シグルドの結婚式の招待状だったからである。
 ヴェルダンとの戦端が開く前まで、シグルドにはまったくそんな気配もなかったというのに、再会したとたんエーディン公女と結婚する気にでもなったのか、とも思ったのだが、それは違った。相手の女性は、エルトシャンの全く知らない女性だったのだ。なんでも、ヴェルダンとの戦いの中で逢った女性だという。
 極端な奴だ。正直なところそう思った。確かに、自分達の年齢で公子という立場にあるシグルドが結婚していないのは、あまり世間的に見てもよくはない。もっとも、シグルドの場合、あののほほんとした性格――正しくはそう見えるというだけなのだが最近は本人もそれに染まってきてる気がする――のため、領民は誰も気にしたことなどないだろう。
 それにしてもこうも急に決まるとは思ってもいなかった。大体、彼の父親であるシアルフィ公バイロンは留守にしてるのではないのか。色々な意味で性急な結婚だが、エルトシャンにとってはもう一つ、妹であるラケシスを伴うように、と招待状に明記してあることが果たせないことが悩みになっていたのだ。
 エルトシャンの妹ラケシス王女は、今ちょうどノディオンにはいなかった。10日ほど前に出かけたのである。
 アグストリア諸候連合の盟主であるアグスティ国王イムカの主催するダンスパーティーに呼ばれたのだ。もっとも、このパーティーの目的は、未婚の適齢期にある貴族の子女の出会いの場所としての色合いが強い。アグストリアではあちこちの貴族が似たようなことをいつもやっていて、ラケシスにも当然招待状はよく来る。
 ただ、ラケシスはそのほとんど――特に隣国ハイラインのは必ず――無視していたのだが、さすがに今回のイムカ王主催のまで無視することはできなかった。それで、仕方なくノディオンを出発したのが10日前。もうアグスティに着いた辺りだろう。
 シグルドの結婚式は四日後。明日には出ないと間に合わない。迎えの早馬を飛ばしたところで、ラケシスは絶対に間に合わないだろう。
 シグルドがラケシスをわざわざ名指しで呼んだ理由は分かっている。どちらかというと、今エバンスに来ているレンスターのキュアン王子か、エスリン王子妃が書かせたものだろう。フィンという騎士見習いにラケシスを会わせるために。
 エルトシャンはよく知らないのだが、3年ほど前、ラケシスがミレトスに赴いた際、そこでノディオンの王女であることはいわずに、フィンと会ったことがあるらしい。その時から、少なくともラケシスはずっとフィンのことを忘れていないようだ。前に、シグルドに会うためにエバンスに赴いたとき――その時はどちらかというと怒鳴り込みに行ったのだが――エルトシャンはフィンに会い、帰ってからそのことをラケシスに話した。その後、しばらくラケシスには恨み言を言われたものである。
 そして今回。もちろん、フィンはまだエバンスにいる。というより、彼の仕えるレンスターの王子キュアンがまだ帰るつもりはないらしい。レンスターは、常にトラキア王国の脅威に晒されている国だというのに、と思うのだが、さすがは常に戦いの中にあるレンスターのランスリッターというべきか。キュアンがいなくてもさほど問題がないらしい。むしろ、キュアンが連れている若い――フィンを含めた――騎士を鍛えて戻る、というつもりのようだ。
 エルトシャンとしても、ラケシスとフィンを会わせてみたい、という気持ちはあるのだが、見事に空振りが続いている。実は、ラケシスは三年前のミレトスでしか会っていないのに、エルトシャンはもう、これで3回、フィンと会うことになる。実は、エルトシャンが恐れているのはノディオンに帰ってきたときのラケシスの怒りだ。今回のパーティーに行くように勧めたのは、他ならぬエルトシャンなのだから。
 結局、あとで愚痴を言われる覚悟を決めて、エルトシャンは妻グラーニェを伴ってエバンスへと出発したのであった。

 その翌日の夜。ラケシスは、およそ最悪に近い心境だった。やはり来るべきではなかった、と強く思う。ノディオンは、アグストリアの中でも特に強い権限を持っている。かつて、この地方を統一した十二聖戦士の一人黒騎士ヘズルは、このアグストリアを盟主とする連合国家を作りあげた。そして、互いに婚姻によって各国との結びつきを強くしたのだ。ところが、ヘズルの力を受け継ぐ魔剣ミストルティンの継承者は、なんとノディオン家に嫁いだ末妹であった。さすがに、呼び戻すことはできない。そこでヘズルはノディオン家にミストルティンを下賜した。代わりに求められたことは、アグスティ家に対する絶対の忠誠。
 以来100年。ノディオン家はアグストリア最強の騎士団クロスナイツを指揮するアグストリアの中でも大変重要な国となったのである。
 その姫であるラケシスともなれば、当然求婚者が群れを成すのは当たり前だ。もうあと一月も経たずに16歳。立派に適齢期といえる。アグスティの次に力のあるノディオン家と結びつくことができれば、その家の権力も、当然増す。そのために、ラケシスに言い寄る男は、尽きることがなかった。特にしつこいのは隣国ハイラインの王子エリオット。ラケシスは、あの気障な振るまいがだいっ嫌いであった。
 もう一人、アグスティ家王子シャガールも実はまだ独身である。実は、とつくのは、この王子は素行が悪く、すでに公にはいないことになっている子供が何人もいる、という噂すらあるのだ。そしてそれが噂だけではすまないことも、よく知られている。
 それでもなお、自分の姫をシャガール王子――未来のアグストリア王――の正妃に、と思うものは少ないわけではない。むしろ多かった。その他のにも、もちろんあちこちで誘い、誘われる男女がある。
「はあ……エルト兄様みたいな人なんて、いないわよね……」
 何十度目かの誘いを断ったラケシスは、一人パーティーホールのバルコニーに出た。初夏とはいえ、高台にあるアグスティ城は、風がまだ涼気を含んでいて気持ちがいい。あまりお酒を飲まないラケシスだが、それでも今日は普段より多めに飲んでしまっている。やや上気した頬の熱を、冷ましてくれるような気がした。だが同時に、今夜の最悪のパーティーを思い出す羽目になる。
「来るんじゃなかった」
 これでさらに、兄がエバンスにシグルド達の結婚式に行っていると知ったら、多分ラケシスはヒステリーを起こすところだろう。もっとも、知ったときにはどちらにしても同じだ。
「やはりラケシス姫はエルトシャン王が一番かね?」
 突然背後からかけられた声に、ラケシスはびっくりしたが、同時に警戒することはなかった。警戒心を喚起することを全く必要に思えないほど、その声は優しく感じられたのだ。
「お招き頂き、ありがとうございます。イムカ陛下」
 ラケシスは桜色のドレスの裾を軽く持ち上げて会釈した。義姉上に教えて頂いた礼法だ。
 その会釈を受けた人物は、持っている杖をラケシスに手渡すと、自分は近くにある椅子に向かう。ラケシスはその椅子に手を添えて、イムカ王が座るときに少し押した。
「おお、すまんのう。しかし、やはりあまり楽しまれてはおらぬか。ラケシス姫」
 正直、ラケシスは返答に窮した。はっきり言ってしまえば、その通りである。だがそれを、主催者の前で言うほどに、ラケシスは無神経ではない。
「いえ、その様なことは……」
 言いよどんでしまうのは、嘘をつくという後ろめたさからである。また、老王もそれはよく承知していた。
「ほほ。気にせんでええ。実際、おぬしにつりあう男など、このアグストリアに幾人おるか。まして、エルトシャンのように立派な騎士が傍にいると、他の男なぞ色褪せてしまうじゃろうて」
 それは、王にとってはまた苦い認識でもある。自国の騎士に、すぐれた人材を見出すことができないということなのだから。
「エルトシャンは、本当に素晴らしい騎士になりおった。惜しむらくは、彼がノディオンに生を受けたことか。わしの子であれば、もうわしは楽をさせてもらっておったのに」
 それは、逆に言えば現在の王子シャガールよりエルトシャンの方が優れている、ということを言っているのだ。ラケシスは、自慢の兄を誉められたことの嬉しさと同時に、実の父王にすらこのように言われてしまうシャガール王子が、いずれは兄の主君になることにいささか不安を覚えた。
 イムカ王はすでに60歳を超す高齢であり、賢王として名高い。イムカ王が即位したのはまだ彼が18歳のときである。当時、アグストリアは政情的に不安定な状態にあり、また野盗や海賊が横行していた。人々は不安に襲われ、グランベルに逃げる者もいたという。
 即位したイムカ王は、当時のノディオン王――ラケシスの祖父に当たる――と協力し、道路を整備し、治安を安定させ、商業を奨励し、アグストリアを急速に復興させていった。実際、イムカ王の即位の間にアグストリアの人口は倍以上になったのである。現在でも、未開拓だったアグストリアの中央高地の森林地帯に、新たに開拓村を作ることを奨励している。
 また、かつては『魔人狩り』と呼ばれる暗黒教団に関係があると思われるものを無差別に殺戮する集団があり、密告などが奨励されていたが、現在ではそれらも息を潜めている。イムカ王の代で、アグストリアはグランベル、北トラキアと肩を並べる富強の国となったのだ。
 ラケシスも昔の記憶ではあるが、イムカ王に遊んでもらった記憶もある。祖父が亡くなったとき、真っ先にノディオンに来てくれていた。ラケシスにとっては、まさに祖父のような感覚がある。
 ただそれだけに、イムカ王の悩みは心が痛む。
 実際、ラケシスの目から見ても、シャガール王子に王としての才覚があるとは思えなかった。兄のような姿を望むのが間違いなのは分かる。さすがにラケシスでも、兄と比べることはしても、兄のような人物でなければ王は務まらない、とまでは思わない。だが、兄の主君となる人物である以上、ある程度以上のことは期待してもいいと思う。けれど。
 シャガール王子はイムカ王のかなり遅い頃の子供である。本当は兄がいたらしいのだが、内乱(ラケシスはまだ生れていなかったので知らないのだが)で戦死したという。1,2度会ったことのある兄の話だと、イムカ王に似た、穏やかで、だけど強い意志を秘められた方だったという。その後に生れたシャガール王子は、当然、夭折した兄王子と何かと比べられる。だが、生まれながらの素質なのか、あまりにも資質が違いすぎた。結局、ある種いじけてしまったのではないか、とすらラケシスには思える。それは、言い過ぎではないだろう。
「しかしラケシス姫も美しくなられた。どなたか、好きな殿方でもおるのかな?」
「い、いません。私、そんな方は……」
 慌ててラケシスは否定する。気になる人なら、いますけど。そう言いそうになって口を止めた。青い髪と瞳の騎士見習い。でも、考えてみたら、三年間会っていないのだ。あれから彼がどうなったか、なんて分かるはずもない。それに第一、きっと自分のことなんて忘れてしまっている。彼にとって、あの時の自分は『騎士に預けられていたラケシス』であって、ノディオンの王女ラケシスとは別人だ。
 あの時、やっぱり名乗るべきだった。幾度もそう後悔したのだけど、結局名乗り出ることはしなかった。手紙も何度も考えたのだけど、やはり直接言いたかったのだ。
「ふむ。いまだにノディオンの薔薇姫を射止めるほどの男はおらぬか。不甲斐ないものよのう。これだけアグストリア中の騎士が揃っておりながら」
「薔薇……姫?」
 ラケシスが驚いたように口を開いた。そのような呼ばれ方は初めてだ。
「ふむ。ご存じないのか。ノディオンの、かのヘズルの力を継ぐラケシス姫の呼称じゃ。もっとも、誰だったかが最初に言い始めたのじゃが」
 ラケシスとしては赤面するしかなかった。なんとも派手な呼称ではあるし、また知らぬ、ということはどれだけ社交場に出ていないかを示すことでもあるのだ。
「まあ無理もないかな。これだけ美しく成長されたラケシス姫相手では、アグストリアの男どもでは相手が務まらぬよ。せいぜい、エルトシャンくらいか」
 老王の言葉はラケシスには少し耳が痛かった。今、兄王と並んで、最も似合うのは自分ではなくなっているのだ。
「でもまだ、私もアグストリアの殿方全てを見たわけではありませんから。きっと素敵な方もいるんじゃないかって思いますの。今夜は残念ながらいらっしゃらない気もしますけど……」
 すると老王はゆっくりと立ち上がり、ラケシスに手を差し伸べた。
「では、この年寄りと踊ってくださいますかな、姫君。このような老骨では不服でしょうが」
 ラケシスはちょっと呆気にとられた後、とんでもない、と言ってその手をとった。
「喜んでお受けしますわ。国王陛下」

 ノディオン王一行がエバンス城についたときには、すでにエバンスは大変な賑わいであった。元々、ヴェルダン王国の領地とはいえ、グランベルやアグストリアと境を接していて、その様相はむしろそれらに近い。また、城主となったシグルドも領民が不安な思いをすることのないように、細心の注意を払っていた。
 もっともそれでも、この時だけは街にも兵が多く見られる。グランベル国内からも数多くこの今回の式を祝うための来賓があるのだ。考えてみれば当然である。グランベル六公国の一つの次期継承者の結婚式だ。本来であれば、六公王、公子、さらに国王や王子が臨席していてもおかしくはない。
 だが、現在グランベルはイザークとの戦争中である。本来ならそのような祭事は、その戦争が終わってからゆっくりすべきなのだろうが、シグルドの強い希望で強行されたのだ。そのため、公子はおろか、六公王も出揃っていない。大体、花婿の父上もいないのだ。話そのものが急であったのもある。公王で来ているのはエッダ公国のクロード神父だけであった。彼には、結婚式自体を取りしきる、という役目もある。ヴェルトマー公アルヴィスは、今回親書で義弟のアゼルを正式に自分の名代とすることで欠席した。実際、グランベル軍のほとんどが出払っている以上、彼の領地であるヴェルトマー公国領と、彼の麾下にあるロートリッターが、イード砂漠の蛮族に対する唯一の防壁だ。その指揮官たるアルヴィスが今王都を空けるわけにはいかないのだ。
 ドズル公ランゴバルト、フリージ公レプトールは共に代理人すら派遣してこなかった。もともと、彼らはシグルドの父バイロンの政敵である。わざわざ代理人を派遣する気もないのだろう。ただ、ランゴバルトの息子のレックスは、勝手に父の名代を名乗っている。ユングヴィ公リングも、本来は来たかったのだろうが、彼はやはりイザークへの遠征で遥か東の彼方にいる。こちらもエーディンを名代とするという親書が届けられていた。
 その他にも、グランベル国内から多くの貴族から参列者が来ている。中には、シグルドの妃に自分の娘を、と考えていた者もいるだろうが。ただ、アグストリアからはエルトシャン一人である。さすがに、現在の情勢を考えて、シグルドはエルトシャン以外には招待状を送らなかったのだ。
 シグルドがエバンスを制圧したことは、グランベルとアグストリアの関係を微妙に変質させ始めている。今年始めからの、グランベルのイザーク遠征や、またヴェルダン王国の事実上のグランベル併合のこともある。グランベルが、その巨大な野心の元にイザークを、そしてヴェルダンをその手中に収め、次にアグストリアを狙っているのではないか―――という憶測は、当然だがアグストリアの貴族たちの間でまことしやかに囁かれているのだ。
 無論、エルトシャンはシグルドがそのようなことを考えていないことを知っている。そもそも、あの男は自分の才覚に比して、あまりにも野心や欲が少ない。もっともこれは、エルトシャンにしても彼を知るほかの人物から同じ評価を受けるだろうが、彼自身それは自覚していない。
 いずれにしても、本来なら自分が式に参列することがいいことかどうかも判断しかねていたのだが、かといって、親友であるシグルドの結婚式に参列しない、というのは彼の選択肢になかったのだ。
 エバンス城内に入ったエルトシャンを迎えたのは、そのエバンス城城主であった。
「エルト!!」
 いつもの礼装に身を固めた青い髪の親友は、待っていましたとばかりに走ってきた。その走り出した親友がさっきまでいたところに、紫銀の髪の女性がいる。多分、彼女がシグルドの妻となる人だろう。
「よく来てくれた。正直、来ないんじゃないかと思ったよ」
 シグルドは嬉しそうにエルトシャンの手を取る。
「シグルド様。このたびはご結婚、おめでとうございます」
 グラーニェは馬車を降りると優雅に挨拶をする。
「ありがとう、グラーニェ殿。そちらの子がアレス王子?」
 シグルドはグラーニェが抱きかかえる金髪の男の子をみてとった。
「ああ。正直、やんちゃで困っている。これだけ元気だと、将来が楽しみだ」
 すると別の方向から、クスクスと笑う声が聞こえた。
「エルト、それは『親バカ』って言うんだぞ」
「キュアン、やはりまだいたのか」
 親友の最初の言葉に、キュアンは苦笑した。確かに、レンスターの彼がいつまでもここにいる理由はない。
「少なくとも、これが終わるまではいても良いだろう?」
「と、言うよりいろ。のろけさせろ」
 シグルドが素早く言う。三人は、同時に笑った。
「それで、ラケシス王女はどうしたんだ?」
 キュアンの言葉に、エルトシャンはばつが悪そうな表情になった。言いにくそうに、エルトシャンは妻に目配せしたが、グラーニェはクスクスと笑うだけで何も言ってくれない。観念したようにエルトシャンは事情を話した。
「本当にタイミングが悪いなあ」
 聞き終えたキュアンがぼやく。いつの間にか来たエスリンがそれに同意した。
「すまん。俺もまさか、こんなことになるとは思わなかったんだ」
「別にエルトのせいじゃあないだろうけど……」
「フィンとラケシス姫ってなんか巡り合わせ悪いわね」
 夫の言葉を、エスリンが引き継ぐ。確かにその通りだ、と事情を知らない花嫁以外がうなずく。ただ一人、さっぱり事情のわからないディアドラは、不服そうにシグルドの方を見た。
「ああ、ごめん。ディアドラ。あとでゆっくり説明してあげるよ。じゃあエルトシャン、また後で」
 シグルドはそう言うと、ディアドラを伴って城内へ戻っていく。
「……どういう女性なんだ?あのシグルドの花嫁は?」
 考えてみたらエルトシャンはその辺の説明を何も受けていない。そう思うのも無理はなかった。
「そうか。じゃあ酒飲みならが説明するよ。ま、とりあえずこのあいだはゆっくり出来なかったからな。今回は、ゆっくりしていけ」
 キュアンの言葉に、エルトシャンは「そうだな」と言うと、グラーニェを伴って、エバンス城へと入城した。

 結婚式が終わった後は、そのまま宴へと突入する。この時だけは、警備の兵以外も多少羽目を外すことが認められていた。また、城下の市民に対しては、1000樽の葡萄酒と麦酒が振舞われ、街中大騒ぎであった。
 まだ明るいうちから、もう酒を飲んで大騒ぎをしている。街も似たようなものだろう。中庭では、何やら大声で騒ぎ立てているものがいる。
 そんな騒ぎの中、レンスターの見習い騎士フィンは、一人バルコニーにいた。建物の階層としては三階にあたるのだが、一つのフロアの高さが高いため、下の中庭で騒いでいる音もあまり聞こえない。
 ふと顔を上げると、初夏の太陽が眩しい光を地上に落としていた。その輝きは、フィンにある記憶を喚起させる。もう会うこともないであろう金色の少女のことを。
「どこかで、きっと元気にしているだろうな。彼女なら、どこでもあの輝きを失わないだろう」
 もう結婚しているかもしれない、という考えも浮かんだが、さすがに言葉にはしなかった。実際、彼女がどこかの貴族であることは疑いようもないし、だとすればもう結婚、あるいは婚約していてもおかしくはない。一抹の寂しさを覚えなくもないが、そもそも、自分はあの少女の小さな――多分もう忘れられている――思い出の中の人物に過ぎない。
「いつか、もう一回くらい会えるかな」
 それが間近であることなど、この時のフィンには知る由もなかった。

「ごめん、ちょっと止めて」
 アグスティからノディオンへ帰る路の途中、ラケシスは御者に頼んで馬車を止めてもらった。そして、すぐ戻るから、と供も付けずに走り出していく。慌てて、護衛の騎士三人が後を追った。この辺の、ラケシスの突拍子もないところには、もう慣れている。エルトシャンから直々にラケシスの護衛を頼まれるほどに。
「さて、と」
 ラケシスは小さな川のほとりにくると、いきなり靴を脱ぎ始めた。
「ひ、姫、何を?!」
 おいついた騎士が狼狽するのも無視して、ラケシスはそのまま足を水につけると、川べりに横になる。
「イーヴ達もやってみない?気持ち良いわよ」
 ラケシスは気持ち良さそうに伸びをした。イーヴと呼ばれた騎士は、頭を抱えたくなった。
「姫……なにもそのようなこと、ここで今なさらずとも、ノディオンに戻ってから……」
「だって来るときここ、すっごい気持ち良さそうだったんだもの。だから、ずっと狙っていたの」
 イーヴはもはや反論する気も起きなかった。だいたい、今回のパーティも「つまらない」と言い切って早めに切り上げているのだ。
「天気が良いわね。気持ち良いし。青空もきれい……」
 ラケシスはその青から同じ髪と瞳の持ち主を思い出す。レンスターのフィン。話によると、今エバンス城にいるらしい。帰る前に、必ず会える場所を用意する、とキュアンが約束してくれたことが、今のラケシスの最大の楽しみであった。果たして、フィンは自分の身分を知ったらどういう顔をするのだろうか。それを考えるだけで笑みが漏れてくる。
 会ったら何を話そうか。兄様の自慢話。隠していた自分のこと。そしてフィンのこともたくさん聞こう。ラケシスは、その想像で胸が一杯になる。
 もうすぐ会える。ラケシスはそう考えていた。だが、それがどういう状況か。それまでは今の彼女には想像も出来なかった。

 さらに数日後。先に帰ったラケシスは、城の者からエルトシャンが出かけていることを知る。そしてその日の夕方、帰ってきたエルトシャンは――まさかラケシスがもう帰って来てるとは思っていなかった――妹に散々文句を言われることになる。

 しかし、事態は平穏な時を求める者たちの望みを叶えるつもりはなかった。
 グラン暦七五七年夏。アグスティ王家の当主イムカ王が何者かに暗殺された。犯人は捕まる際に殺されてしまい、背後関係は分からなかったという。そして、父王の喪が明け、新たにアグストリア王として即位したシャガール新王は、グランベル王国への武力侵攻を宣言する。
 時代の歯車は狂ったまま、少しずつその動きを速めようとしていた。





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