と わ     
祈りを永遠に・第一話
The opening chapter of Disturbance


 雷は嫌いだった。子供の頃から嫌いだったわけではない。一人孤独に、死を感じたときの雷が何故かとても怖くて、それ以来嫌いになった。ただ、苦手というほどではない。
 夜明けだというのになお暗い空が、一瞬昼よりも遥かに眩しくなった。直後、大理石で作られた馬の胴ほどの太さの柱ですら振動するような轟音が、辺りを満たした。地上は、本来喜ぶべき水の恵みを受けているが、天の怒りも同時に受けるのでは、果たしてどちらを望むのだろうか。その凄まじい天の芸術的な輝きは、幾度となく天を焼き、地に降り注いだ。まるで、これからの運命を暗示するかのように。

 フィンが、突然主君に遠征の準備を言い渡されたのは三日前のことだ。行き先はシアルフィ。彼の仕える国の、王太子妃であるエスリンの母国でもある。また、王太子キュアンの親友、シグルド公子の国だ。別段、それ自体は驚くに値しない。キュアン王子とエスリン公女の結婚後、何回か行っているし、去年からは供としてついていくこともあった。
 ただ、今回は訪問ではない。出征なのだ。
「イザークのダーナ襲撃に合わせて、ヴェルダンが兵を起こす、という噂があるんだ。大部隊はもちろん連れて行けないが、一応行ってみようと思ってな。なに、普段シアルフィに行くときと、規模は変わらない。何もなければそのまま帰ってくることにする。父上の許可は頂いたしな」
 気楽な調子でシアルフィ訪問を決めた、キュアン王子の言葉である。好戦的な性格ではないのだが、武人であることには違いなく、そういう時は少し嬉しそうに見える。もっとも、それと普段、妃であるエスリン王女とともに、去年生まれたアルテナ王女をあやしている姿は、とても同一人物とは思えないのだが。ただ、今回嬉しかったのは、自分も連れていってもらえる、つまりある程度は一人前と認められたということであった。
「戦闘になる確率は高いからな。フィンもそろそろ、実戦を経験しておくのも悪くはないだろう」
 キュアンは簡単にそういって、従軍を許したのである。ただし、フィンはまだ15歳であり、騎士資格を持っていない。騎士の資格は、十六歳にならないと取得できないとされているのだ。最初にこの規約を含めた騎士典範を作ったのは、グランベル王国であったが、これは、他の国々でも採用されている。フィンの誕生日まではあと数ヶ月なのだが、生憎それを待っていると手遅れになる確率もある。そのため、フィンは騎士見習いの資格での、かなり異例の出征を行うことになった。
 キュアンがフィンの従軍を申し出たのには、理由がある。
 レンスター王国は、というよりは北トラキア地方は常に南のトラキア王国からの侵略の脅威に晒されている。正直言えば、ランスリッターの長である王太子が、この時期に国を空けるのは好ましくはない。ただ、トラキアとはここ数年間、大きな戦いは行われていない。そもそも6年前、ヴァインスター王国の滅亡で終了した戦いで、トラキアもまた小さくない被害を出している。その傷が、決して小さくなかったのだろう。また、あの戦いが元で、国王が病死したのも大きかったようだ。
 かくして奇妙な平和が、レンスターには訪れていたのだ。また、キュアンが連れて行く騎士もフィンを含め10騎もいない。戦力としては大きくはない。ランスリッターの指揮官は、王であるカルフが執り、副官であるラディンが補佐することになっていた。
 フィンにとっては、初めての実戦ということになる。無論、本来は戦わない方がよいのだが、それでもはやる心は抑えられなかった。そこへ、この雷雨である。
 まるで、神々がキュアンがここを離れることを思いとどまらせようとしているのではないだろうか、と感じるのは、多分考え過ぎだろう。とはいえ、実際わざわざこの雷雨の中を出撃する必要はない、ということで出征は遅らされた。

 出発して10日、旅路はまず順調といえるだろう。特に悪天候にも見舞われず――雨は降ったが――野盗の類に遭うこともなかった。季節も、この地方では一番過ごしやすい季節である。この旅路の先にあるシアルフィが、争いに巻き込まれる可能性など、まるでないようにも思える。しかし。
 仕掛ける側からすると、別に季節など、行軍に支障がなければいいものなのだ。
 明日にはシアルフィ、という距離まで来たキュアン達は、近くの村で宿を取ることにした。今回、ついてきているのは全部で10人。キュアン、エスリン、フィン。あとランスリッターが7人。全員、かなり若い。年齢が十六歳から十九歳と、若手ばかりだ。主力であるベテランを、さすがに連れてくるわけにはいかなかったのと、もし実戦になったときに実戦経験を積ませよう、という目的も実はある。
 フィンに関しても実は同じ目的もあった。
 キュアンの見る限り、フィンの才能はランスリッターの全騎士の中でも相当高い。長じればレンスター随一の槍の使い手となる可能性も秘めている、とキュアンは思っている。ただ、そのためには型どおりの稽古だけでは力はつかない。実戦に勝る修練はない、というが実際にそうだ。
 レンスターのランスリッターが、大陸でも有数の強さを誇る理由の一つが、常にトラキアとの戦争状態にあることにある。実戦は、兵士達に生き残ろうという強い意志と、そしてあらゆる状況に対応する力を身につけさせる。無論、生き残れればだ。
 もっとも、同じように、あるいはそれ以上に大陸中で傭兵として戦ってるトラキアの竜騎士団もまた、練度は非常に高い。この、危ういバランスの上に、トラキア半島の現状が成り立っているのである。
 いきなり10騎もの騎兵で村に入ったら、驚かれるだろう、と考えたキュアンは、エスリンとフィンだけを伴って村へ入った。しかし、入ったとたん、村の光景に奇妙なものを感じた。村人に声をかけようとしたのが、村人はみな忙しそうにしている。収穫の時期でもない。大体、もう陽はほぼ落ちている。一日の仕事も終えて、これから休もう、という時間のはずだ。
「あの、何かあったのですか?」
 フィンが声をかけて、村人はやっと彼らの存在に気がついたようだ。驚いたように目を見開き、持っていた荷物を落としそうになる。
「あ、あんたらグランベルの騎士さんかい? 援軍かい?」
 3人は、その言葉ですでにただならぬ事態になっていることが、容易に想像がついた。『援軍』ということはかなり大規模な戦闘が行われているということでもある。
「何かあったのだな? 私は、残念ながら、グランベルの騎士ではないが、力になれるかもしれない。状況を教えて頂きたい」
 村人は、そのキュアンの剣幕に一瞬圧倒されたが、やがて落ち着きを取り戻して状況を整理しながら語ってくれた。

「くっ。本当に最悪に近い事態になっていたとは……」
 キュアンが歯軋りする。こんなことならば、多少の悪天候くらいで出発を遅らせるのではなかった、と思うが、今それを言っていても仕方ない。また、今日もすでに時間は遅く、道すら満足に見えないほど暗くなっている。タイミングも悪いもので、月もまだ、新月から三日から四日といったところだ。
 村人も、それは分かっているのか、今日はここに滞在することを勧めてくれた。
「キュアン、夜に動くのは危険よ。それに、兄上だって夜に行軍はしないわ。明朝、シアルフィに急行しましょう。大丈夫、兄は強いのですから」
 その言葉には、兄に対するエスリンの全幅の信頼が感じられた。キュアンは、一瞬義兄に嫉妬に似た感情を感じてしまう。
「フィン」
 キュアンは頭を振って、それから考えを整理した。今できることなど、ほとんどありはしないのだ。
「ランスリッター全騎を呼んできてくれ。村長、御好意に甘えさせていただきます。かたじけない」
 レンスターの王子に頭を下げられた村長は、かなりうろたえてしまっていた。いかに、遠い異国の王子とはいえ、彼らにとっては雲の上の存在である。その人物に頭を下げられたのだから、当惑するのは無理もない。
「それでは、私は」
 フィンはそういうと手綱を引き馬首を返すと、馬の腹を蹴った。半瞬遅れて、馬が嘶きと共に馬蹄の音を響かせて地を駆ける。離れたところにいる、といっても馬ではほんのわずかな距離である。
 ふと空を見ると、月が頼りなげな光を地上に投げかけている。かすかな、銀色の光。嫌いではない。静寂に包まれた中に降り注ぐ神秘的な光が降り注ぐ光景は、神々が潜んでいるようにも思えるのだ。無論、それは幻想の見過ぎだろう。
 それに、フィンは銀色より金色の光が好きだった。太陽の金色が。昔から、ではない。昔はどちらでもなかったのだが、ある時からそうなっていた。その時がいつかも分かっている。あの、金色の光をもつ少女に会った時からだ。
 今、あの少女がどこで何をしているかなど、フィンは考えたことはない。多分もう、会うことはないと思っている。でも、あの輝きを持っているならば、きっと幸せになるだろう。フィンは漠然とそう感じていた。

 翌朝。キュアン達は朝日が昇り始めた頃、出発した。多少眠くないといえば嘘になるが、そうのんびりとしたことを言っていられるものでもない。
 昨日、村人から聞いた話の通りだとするならば、シアルフィにはほとんど戦力は残されていない。騎士に至っては数人だという。自分達10騎がどれほどのものかは分からないが、だとしてもないよりはマシだ。こんなことなら、熟練の騎士を連れて来るのだった、と後悔するがそれももう遅い。少なくとも、フィン以外は騎士叙勲を受けている者達なので、並の相手ならばまず問題はないだろう。
 ただ、ヴェルダンは蛮族の住む国、と忌まれていて、それが逆に正確な情報の伝達を阻害している。実際このような空き巣同然の暴挙に出るのだから、そう罵られても仕方ないかもしれないが、それでも軍として機能し、いくら手薄だったとはいえユングヴィを短時間で陥落させたのは事実だ。
 それに、ヴェルダン王国は元々森を開墾して作られて国であり、武器はそのまま斧がよく好まれるという。また、当然だが騎兵などほとんどいない。騎兵でも斧を使う兵士はいる。だが、それらは大抵長柄戦斧である。これであれば、槍を使う騎士ならばその柄を柄で受け止めれば防ぐ事ができるからそれほど問題ではない。だが、ヴェルダン兵はほとんどが歩兵であり、だとすれば当然長柄戦斧を使う兵などほとんどいないだろう。
 そうなると戦い方が必然的に変わってくる。短い柄の斧の刃をまともに受け止めては、細い槍の柄など容易に叩き折られる。斧の最大の利点は、その重さによる破壊力なのだ。一撃の重さであれば、剣や槍の比ではない。
「そう贅沢も言えないな。一応、斧に対する戦い方も学んでいるはずだし」
 キュアンはそう呟いてから、一人、未だに訓練の終了していないものがいるのを思い出した。フィンである。無論、フィンも基本的な槍術は学んでいるから、多分大丈夫だろう、と思うのだが、多分、なのである。ただそれでも、やはり心配していては仕方がない。すでにシグルドはわずかな手勢を率いて、周辺の村々への救援を行いつつ、ユングヴィ救出へと進軍しているのだ。
「とにかく急ごう、エスリン。全ては、シグルドの無事を確認してからだ」
 キュアンの言葉に、エスリンは頷くと馬の腹を蹴る。半瞬遅れて、九騎の騎兵がそれに続いた。

「シグルド!!」
 その呼びかけに反応したのは、濃い青みがかった髪の、呼びかけた人物と同じ年代の若者だった。ちょうど、天幕から出て出撃の準備をしようとしていたところなのだろう。まだ剣のベルトも固定されていない。
「え……、キュアン?なぜ君がここに?」
 シグルドと呼ばれた若者は、相当驚いているようだ。無理もないだろう。レンスター王国にいるはずの王子が、シアルフィ公国にいるのだ。しかも、キュアンも前もって連絡などしていない。
「ヴェルダン王国に妙な動きがある、と聞いていたからな。来てみたら案の定これだ。私も協力させてもらいたい」
 全部ではないが、シグルドはその説明である程度納得はしたようだ。しかし、レンスターにいるキュアンでも不穏だと思えるような動きがヴェルダンにあったというのに、それを無視して軍を動かしてしまったグランベルは迂闊というしかない。
 その時、シグルドはレンスターも常に侵略の危険に晒されていることを思い出した。それも、ヴェルダンなどより遥かに精強な兵を持つ国に。
「キュアン、その申し出はありがたいのだが、レンスター王国は大丈夫なのか?トラキア王国のことがあるだろう」
「それは大丈夫ですよ、兄上」
 割って入ったもう一人の声に、シグルドは更に驚いた。
「エスリン?!お前まで?」
 その言葉に、エスリンは明らかに機嫌を悪くしたような顔になる。
「あら、私がシアルフィに来てはいけないの?あらそう。じゃあレンスターに戻って、兄上や父上のこと、あることないこと吹聴してあげようかしら。シアルフィの公子様がどれだけ……・」
「わ〜、すまない、エスリン。だが、実際お前まで……」
 するとエスリンは腰にある剣を指した。
「私だって、聖戦士バルドの血を引く、武人の家の娘よ。それに、もし何もなかったらそれはそれで私の久々の里帰りの予定だったんだもの。それがちょっと変わるだけ。ついでに、兄上の生活が少しはマシになったかどうかも気になりますし」
 シグルドには返す言葉がない。確かに、エスリンはダンスより剣を、宮女達との噂話に興じるより、遠乗りを好む娘だった。こんな時にじっとしていろ、という方が無理なのかもしれない。
「相変わらずだな、エスリン。口うるさいところまで全部、母上似だな。結婚したら少しは治ると思ったが……」
 シグルドはキュアンの方を見る。キュアンは肩を竦めてみせた。
「変わっていないようだな」
「兄上……!!私が口うるさくなったのは、兄上や父上のせいです。二人ともだらしないから……」
 キュアンは横で、笑いを堪えていた。シグルドは笑うのを隠そうともしない。
「本当にありがとう、キュアン、エスリン。だけど、大丈夫なのか?」
 シグルドは、脱線しかけた――というよりは完全に脱線した話を無理矢理元に戻した。
「ああ、それは問題ない。ランスリッターは、父上に任せてきた。父上もまだまだ現役だ、と張り切っておられるよ。連れてきたのはここにいる8騎だけだ。それに、これは我々の約束だろう」
「え?」
 シグルドは一瞬、何のことか分からず呆けた顔をしてしまった。
「お前とエルトシャン、そして私の3人。バーハラの士官学校で誓ったあの誓い。どんな時でもお互いを助け合い、そして平和な世を築く、という夢」
「ああ……そうだ。もちろん忘れてはいない」
 一瞬、エスリンが疑わしい目をシグルドに向けていたが、特に何も言いはしなかった。
「エルトは今は国王となって色々身動きも取りにくいだろうがな。その分、私が動いているというわけさ。さあいこう、シグルド。我らの力ならば、ヴェルダンの蛮族ごとき、おそるるに足りない」
 キュアンはそういったところでいきなりあくびをしてしまった。無理もない。夜明けと同時に出発し、無理に追いついてきたのだから。
 シグルドは苦笑して、出発前のわずかな時間、彼らに天幕を貸して、休んでもらっていた。

 終わってみれば、事態はなんら好転しなかった。
 ヴェルダンの玄関、ともいうべきエバンス城を陥落させたシグルド達であったが、彼らはそこで戦いを止めるわけにはいかなくなっていた。ユングヴィの公女、エーディンがヴェルダン本国へと連れて行かれたのである。
 普通に考えるのであれば、ここで進軍は止めて、あとは外交に委ねるべきである。しかし、シグルドはほぼすぐに、ヴェルダンへの侵攻を決定した。理由はいくつかある。
 一つには、今回のエバンス占領によって、北の大国アグストリアを無用に刺激してしまっている、ということ。この占領が長期に渡れば、あるいはアグストリアからも外交的に圧力がかかる可能性がある。いくら温厚なことで知られるイムカ王でも、そういつまでも事態を静観していることはないだろう。
 もう一つは、無論攫われたエーディン自身の身を案じてのことである。蛮族といわれているヴェルダン王国の者が、たとえその王子であるとはいえ、いつまでもエーディンを紳士的に遇するとは限らない。とすれば、これは時間を置けばおくほど状況が悪くなるだけなのだ。
 さらに、シグルドは正式にグランベル国王アズムールから、エーディン救出の勅命を与えられた。これで一応、シグルドの戦いはグランベル王国としての戦い、ということになる。私戦ではない、という後ろ盾ができたのだ。
 しかし、今回のエバンス占領も、対外的にはまだ何も表明していない以上、グランベルが自国に進入された報復以上のことを企んでいるように思われてしまうだろう。そして、その最初の抗議者は、ノディオン王国国王エルトシャンであった。ノディオンは、アグストリア諸公連合の最南端であり、エバンス城からは馬で飛ばせばわずか三日の距離にあるのだ。

「シグルド!!」
 エルトシャンがわずかな供を伴って来城した、と聞いたときシグルドとキュアンは即座にその意図を理解した。おそらく自分達の立場がエルトシャンと同じならば、やはり同じ行動をとるだろう。だが、今回はすでにグランベル国王アズムールから、正式に命令ももらっている。それに、エルトシャンならば、彼らの行動を理解してくれるだろう、と考えていた。
「エルトシャン、久しぶりだな。お互い忙しくなって会いにくくなったからな。キュアンの結婚式以来か?」
 和やかな調子で話しかけたシグルドだが、エルトシャンはそんなものは全く意に介さずにシグルドを睨み付けた。
「どういうつもりだ。武力を持ってエバンスを攻め落とすなど。お前とてこのエバンスがどういう場所かは分かっているだろう」
 しかしシグルドは、なおも柔和な態度を崩さない。ただ、エルトシャンの性格からして、もったいぶってみせるのはただ怒らせるだけだと分かっている。
「そう怒鳴るな。ちゃんと説明するさ」
「そうしてもらおう」
 エルトシャンはドカッと音でもたてそうな勢いでソファに身を沈めた。シグルドが対面のソファに座る。
「事の起こりは、ヴェルダンがグランベルに侵攻したことからだ……」

「……そういう訳か。エーディン公女が」
 すでにエルトシャンの顔に険しさはない。逆に、事情も全く知らずにいきなり怒鳴り込んだという羞恥があった。
「ああ。そしてエーディンはヴェルダン本国にいる。だが、外交交渉を待っていたら、あるいは手遅れになる可能性がある。そうなる前に、私としてはエーディンを取り戻さなければならないんだ。アズムール陛下からの勅命も頂いている」
 シグルドはそういうとアルヴィスが届けてくれた羊皮紙を広げてみせた。それには確かに、グランベル王アズムールからの勅命であることが記されている。
 無論、アグストリアに属するエルトシャンに、その命令を重んじなければならない義務はない。だが、この場合ヴェルダン側に非があるのは明らかである。エルトシャンはしばらくその命令書を見ていた後立ち上がった。
「分かった、シグルド。ならばお前は後背を気にせずに戦うといい」
 シグルドは一瞬、エルトシャンの言っている意味を掴み損ねた。
「分からんか?このエバンスはヴェルダン、グランベル、アグストリア三国の境にある。これはいわば、どの国に対しても橋頭堡となりうる場所なんだ。それを今、グランベルが力で抑えた。アグストリアの諸公はどう思う?」
 シグルドはしばらく無言だった。考えてみれば、グランベル王国と違って、アグストリアは各国が独立して軍を自在に動かすことが認められている。とすれば、イムカ王の意志でなくてもエバンスが攻撃される可能性はあるのだ。
「だからもしエバンスに手を出そうというアグストリアの国があったら、俺がクロスナイツで守っていやる。今のお前の軍に、ヴェルダンに侵攻しつつアグストリアに対しても警戒する余裕などあるまい?」
「……すまない、頼む、エルトシャン」
 エルトシャンは気にするな、という風に立ち上がると帰る準備を始めた。
「俺も身動き取りづらいからな。だが、心は共にある。俺達の誓いを守るために」
「エルト……」
 同じ時間を共有したものにしか分からない、確かな繋がり。シグルドもエルトシャンも、それを強く感じていた。そしてそこに、もう一人、その繋がりを共有できる者が現れた。
「エルト!!水臭いぞ。私には挨拶もなしか?」
「キュアン!!」
 ひどく驚いている。考えてみれば当たり前だろう。レンスターの王子がここにいるなど、神ならぬ身のエルトシャンに、分かるはずもない。
「レンスターの情勢がちょっと落ち着いていたし、今回の動きの予兆みたいなものの情報があったんだ。エスリンの里帰りを兼ねて、来てみたのさ。……そういえば、ラケシス王女は元気か?」
 いきなり現れたキュアンに、まだ呆然としていたエルトシャンは、その質問に対する返事がかなり遅くになってから返ってきた。
「あ、ああ。元気だ。ただ今はアレスのやんちゃさに振り回されている気もするけどな。だが、それがどうした?」
 アレスは、去年生まれたエルトシャンの子だ。父と同じ金色の髪の持ち主で、うっすらとだが聖痕があるらしい、ということだ。
 エルトシャンの返事を聞くと、キュアンは意味ありげな笑みを浮かべた。
「フィンが一緒に来ているんだ。ここにな」
 エルトシャンはたっぷりコップの水一杯を飲み干すだけの時間、止まっていた。それが、フィンのことを思い出すための時間であるのは、周りの人間には明らかだ。もっとも、忘れていたのはシグルドも同じようだ。
「あ、ああ。フィンか。キュアンの従卒の。来ているのか?ここに」
「思い出されました?エルトシャン様」
 キュアンの影からぴょこんと飛び出したエスリンがクスクスと笑いながら問いかける。エルトシャンはいかにもばつが悪そうに頭を掻きながら苦笑した。
「正直、完全に忘れていたよ。けど、多分ラケシスは覚えているんじゃないかな。それはぜひ、会いたいだろうな、ラケシスは」
「今会っていくか?エルト。すぐ呼べるが」
 キュアンの言葉に、エルトシャンは数瞬考える素振りを見せ、しばらくしてから「頼む」といって手に持ったマントを椅子にかけなおした。
 ややあって、フィンが別の騎士――ランスリッターだろう――に案内されて入って来た。
「フィン。覚えているか? ノディオンのエルトシャンだ。二年ほど前に会っているはずだが……」
 キュアンの言葉に、フィンは即座にかしこまった礼をする。その動作で、エルトシャンは完全にフィンを思い出した。完璧に近い礼法。その印象はよく覚えている。
「お久しぶりでございます、エルトシャン陛下」
 こうも完璧だと、却って気圧されてしまうものだが、エルトシャンはさすがにそのようなことはない。幾分表情を崩して、エルトシャンはフィンを観察した。漠然としか覚えていないが、それでも随分立派になったように思う。体つきなどはまだ小柄だが、それは年若いからだ。確かラケシスと同じ年だったはずだから、まだ十五歳。そう考えると別にそれは問題ではない。顔には、まだ幾分幼さが残るが、前以上に精悍な印象も感じた。
「前に……妹のラケシスの風邪を案じて茶をくれただろう。ラケシスが、ありがとうと言っていたよ」
 嘘ではない。実際、役に立ったのだ。もらった直後にラケシスが熱を出したときや、グラーニェが風邪をひいたときなど、実はかなり重宝した。
「今度、機会があったらノディオンに来て欲しい。あの礼がしたい」
「もったいないお言葉。ありがとうございます」
 それだけ聞くと、エルトシャンは今度こそマントをとって、部屋を出て行った。
「シグルド、キュアン。事が終わったらみんなでまたワインでも飲もう。その時は、ラケシスも連れてくる」
 最後の言葉が、誰よりもフィンに向けられていることは、その当人以外は分かっていたのだが、その当人は全く分かっていなかった。エスリンがくすくすと笑い、シグルドとキュアンも笑いを堪えている。フィンだけが、その意味が分からず、当惑した表情を浮かべていた。
「気にするな、フィン。それより今日から本格的にヴェルダンに侵攻する。気を抜くなよ」
「は、はい!!」
 フィンは急ぎ部屋を出て行くと、そのまま厩舎へ向かう。それを見ていた三人は、同時に吹き出した。
「……これは、意地でも勝たないとなあ。戦いが終わった後に、フィンがうろたえるのが見れるぞ」
「ラケシス姫の可愛い姿もね」
「なにはともあれ、まずは勝たないとな」
 だが無論、負けるとは思っていない。数ではややグランベル軍が劣る。しかしそれでも負けない、と思わせるものが彼らにはあった。それが、戦いが終わった後のものを見せているのだ。




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