高い金属音と共に、細剣が宙空に舞った。ややあって、ガシャン、という音を立てて剣が地面に転がる。あとには、空になった右腕を、もう一方の手で抑えている若者と、その若者に細剣を突きつけている、輝くような金色の髪の少女がいた。 「はい。これで勝負ありですね。では今後、私の周りに付きまとわないでもらいます」 男は悔しそうに少女を睨みつけていたが、誰がどう見ても軍配がどちらに上がったかは明らかである。 周りの多くの見物客は、男女半分ほどで、男性は半分が残念そうに、そして半分が安堵している。女性は、というとこちらはみんなで喜んでいた。 「ま、まて。もう一度チャンスを……」 「悪いけど、無駄ですよ。あなたじゃ、何回やっても私には勝てません。諦めてください」 少女はそう言うと、颯爽と踵をかえしてその場を立ち去る。あとには、うなだれて石畳の上に座り込んでいる男が一人、残されていた。 |
「へえ。また勝ったんだ」 空になった皿の乗ったトレイを戻してきた青い髪の若者は、元の席に座りなおして感心したように言った。 話題に上っているのは、つい先ほど、中庭で繰り広げられた、というセフィア公女の決闘のことだ。 「ええ。というより始めから勝負になっていなかったですけどね」 答えたほうもすでにトレイは片付けていて、食後のお茶を飲んでいる。 「ディオンなら勝てる?」 ディオンと呼ばれた若者は、母譲りの金色の髪の頭をひねりながら、しばらく考える素振りを見せたが、すぐ顔を上げて苦笑いをする。 「槍なら、勝てますね。剣では多分勝てませんよ。昔は遊びでやったこともありますが。セリオ様なら勝てるでしょうけど」 ディオンの母ナンナとセフィアの父デルムッドは兄妹であり、ゆえにディオンとセフィアは従兄妹同士になる。昔は結構一緒に遊ぶこともあったのだが、考えてみたらそのときから彼女の剣才はかなり抜きん出ていたような気がする。 「う〜ん。どうかなあ。それだけ強いって言われるとねえ」 「ご謙遜を」 ディオンは苦笑して答えた。 「いくらセフィア公女が強いと言っても、あなたほどじゃないですよ」 アグストリア王国ノディオン公デルムッドの娘セフィア公女は、その美貌において『大陸でもっとも麗しき姫君』と呼ばれていた。その美しく整った顔立ちと、光に透かすとまるでそれ自身が輝いているようにすら見える金色の髪は、見るもの全てを魅了する、とすらいわれている。 実際、彼女とすれ違って、一瞬振り返らずにいられる者は、まずいないだろう。 その美貌と、ノディオン公女という立場ゆえに、彼女に言い寄る貴公子は後を絶たない。しかし同時に、彼女は彼女の兄ベルディオも敵わないほどの剣腕を誇り、求愛者をことごとくその刃で退かせているのである。 それゆえにいつの間にか、セフィア公女の愛を獲得するには、彼女以上の剣の腕前を持ってしなければならない、などといわれるようになったのだ。もっともこれに関しては、彼女自身「私より弱い男なんて、興味ありません」と公言しているので、まんざらでたらめではないのかも知れないが、とにかくそういう事情で、彼女はしょっちゅう自分への求愛者と剣を交えることになっていた。 特に、この春からは、セフィア公女は士官学校に入学しており、その数は激増したらしい。噂では一日に十人以上と戦った、とかすでに学校の男子の半数は叩き伏せられた、とか無茶な噂が広まっている。とはいえ、実際にもすでに二十人以上は彼女の剣で断られているらしい。学校が始まってもう二ヶ月。これが多いか少ないかは、セリオにもディオンにも分からない。 「ああいう女性はちょっとね。ディオンはどうなの?槍なら勝てるんでしょう?」 「私もちょっと。我が従妹ながら。それに相手が剣で、こちらが槍で挑むのは反則でしょう」 ディオンはトラキア王リーフの息子であり、そして地槍ゲイボルグの継承者でもある。 先年あった『黒の処断』事件では一度は瀕死の重傷を負ったのだが、その後再び戦場に戻り、その力を存分に発揮した。こと槍術に関する限り、大陸でもほぼ最強の実力を持っている。 「それで、今回負けたのは誰?」 「確かドズル公国の……ランベルク子爵家の次男だったかと。はっきりいって、私でも剣で勝てるかと思える程度の腕前でしたよ」 「それはあまり参考にならないよ」 セリオは苦笑する。 実際、ディオンは槍がずば抜けて優れている、というだけで剣が水準以下、と言うわけではない。というより、水準より遥かに高い技量を持っている。少なくとも、一騎士としては十分すぎるほどの。彼があるいは王子と言う立場でなかったら、セリオは彼をその剣の技量だけでもヴァイスリッターの指揮官に誘いたいほどである。 ただ、逆にいうとそのディオンに「多分勝てない」と言わしめるセフィア公女の実力には、セリオは少なからず興味を覚えた。 その時、大きな鐘の音が聞こえてきた。午後の講義の開始を報せる鐘である。 「あ、時間ですね。それではセリオ様、私はこれで」 「うん。がんばって」 セリオはディオンを見送ると、大きく伸びをした。 セリオは士官学校に入ってすでに四年になる。もう受けるべき講義は大体受けてしまっているため、かなり時間が余っているのだ。本来、王族の学生は出来るだけ早く必要な教科のみを修得し、国に戻り王の助けとなるのだが、セリオはバーハラが自分の国であるため、無理に卒業する必要がないのだ。そのため、未だに在学しているのである。無論、必要な時は王宮に赴き父セリスを助けるのだが、正直まだあまりそういう必要はない。時々、父と共に他国の王との会議の席に参加したりする程度である。 「さて……と。ヒマだから散歩でも行こうかな」 セリオは食堂を後にすると、外に出た。 バーハラの士官学校の敷地面積は非常に広い。 グランベル王国の首都でもあるバーハラは、そのあまりの広さでも知られている。馬を全力で駆けさせても、外周を廻りきるのには朝から始めても夕方までかかる、といわれるほどである。 当然、士官学校も相当な面積をとることが出来るのだ。 実は、国王府たるバーハラの宮殿より広い。 敷地内には、校舎、寮はもちろんのこと、多くの娯楽施設、演武場、さらには広域模擬戦闘のための広場や、それほど大きくないが人口の湖まである。そのあまりの広さゆえに、一時帰郷する以外、卒業するまで士官学校を出なかった、という生徒がいるという噂が出るほどである。 ただ、この士官学校も、そしてバーハラの街もほんの二十数年前はほとんど廃墟であったらしい。 かつての聖戦。その激しさは、去年あった『黒の処断』事件の比ではないという。セリオからしてみたら、そんな戦乱なんてあること事体が信じられない気もするけど、事実としてあったのだ。そして、そこからわずか二十年程度でここまで復興させてきた多くの人々の力、と言うものには、本当に感心する。同時に、自分はその彼らに報いなければ、と思うのだ。自分達が今、幸せに暮らせるのはそういう人たちのたゆまぬ努力があったからなのだから。 校舎を出て、広い森林地帯の方へ続く道に入ると、まぶしい陽射しがセリオを照りつけた。 初夏にさしかかっている季節の陽射しは、少し暑さを感じさせ、汗がにじんでくる。白い雲がいくつか流れている空は、美しい青を見せていて、それだけでなんとなく気持ちがいい。 今日はすでにもう講義はないため、寮に戻ってもいいのだが、なんとなく天気が良かったので、学内を歩き回ることにした。鳥たちのさえずりや木々が風に揺らされる葉ずれの音などが心地よい。去年のこの時期は、そんなことを考える余裕がなかっただけに、余計にセリオには今が気持ちよく思えた。 今は講義の時間のため、大抵の人は講義に出ていて、今はどこにも人影はない。湖――というよりは泉――の近くの森まできたセリオは、そこで適当な場所を見つけて座った。目を閉じて耳を澄ますと、かすかな水の音や、木々の間を抜ける風の音も聞こえてきそうである。 横になっていると、それらの音がまるで子守唄のように思えてきて、セリオはうとうとと眠くなってきていた。 「こういう穏やかな時のためだと思うと、まだ救われるかなあ……」 ほんの半年前までの戦いは、セリオにとって非常に後味の悪いものであった。無論、彼ら暗黒教団の主張や理想は大陸の人々には受け入れられるものではなかった。だが彼らとて、争いを望んでいたわけではない。ごく一部の狂信者達が、彼らを焚き付け、そして死地に追いやったのである。 彼ら狂信者達を許すつもりはない。だが、利用された人々にまで憎しみがあったわけではない。 「考えても、仕方ないかなあ……」 自然の音に満たされた空間は、それ自体がゆりかごのようで。 そして木々の間から降り注ぐ陽光が、適度に光を、そして影を作ってくれていて、風が吹くたびにゆらゆらと揺れる。 そのかすかな音に誘われるように、セリオはいつしか眠りに就いていた。 |
「もう私の周りに現れないで下さい、って言いませんでした?」 突然聞こえてきた鋭い声に、セリオは夢から現実への扉をくぐらされた。眠そうに目をこすると、もう空は朱色に染まっていて、太陽は遥か遠くの山の稜線に、その姿の半分を隠している。 ようやく明るさに目が慣れると、森のはずれに、数人の人影が見えた。そのうち一人は、どうやら女性のようだ。 夕陽の朱色に照らされてなお、金色の輝きを放っているように見える長い金髪が、最初に目に入った。 「……もしかして、セフィア公女?」 なるほど、とセリオは納得した。 確かに、あれだけの美貌ならば人々の彼女への賞賛も納得がいく。形のいい顔、その美しい金髪や澄んだ泉のような瞳。そしてそれらが見事に調和のとれた美しさを作り出している。まさに天の奇跡、というべきか。 背もやや高く、そのまま立っていれば美しい一枚の絵のようにも見えるだろう。『美の女神』に喩える者がいるのも、納得はできる。 そのセフィアは、しかしその美しい顔を不機嫌さで曇らせていて、その形のいい唇から発せられる声も、その表情に合った感情を宿している。 「噂どおり……気が強そうだなあ。でも一体……?」 少し視線をずらしたところで、セリオはセフィアが不機嫌な理由について、察しがいった。 なるほど、いかにも貴族っぽい、というのもおかしいが、虚栄が服を着て歩いているような男と、どう見てもその取り巻きにしか見えない男達が、彼女を半包囲するように立っているのだ。とてもではないが、友好的な関係にあるとは思えない。 「う〜ん。でも大丈夫そうかな」 あまり無闇に、自分が他の貴族たちとの争いに参加すべきではない、とセリオは自分を自制していた。 というのも立場からして、グランベルの王太子である。いかにこの学校が身分などはあまり意識しないですむ、といわれていても限度はある。ましてセリオは『光皇』という二つ名をもって呼ばれている。大陸における最大最強の存在、と。そこに込められた感情は、尊敬と、そして畏怖。強力すぎる力を持つ者に対する畏れは、誰にでもあることだ。それは仕方がない。しかしそれ故に、セリオが加わってしまうと、本来あるべきではない決着のつき方をしてしまう可能性が高い。だから、無闇に争いごとに関わるべきではない、と思っているのだ。 それに、噂に聞くセフィア公女の性格だと、セリオが仲裁しても文句を言われそうだ。別にそれ自体は構わないが、『グランベルの王太子』にそういう態度を取ってしまった、と後で彼女が悩む羽目になる可能性がある。そんなことを気にする女性とは思えないが、だがとりあえず傍観していても問題はない、と思い、セリオは見物を決め込んだ。無論、本当に彼女の身が危なくなったら、出て行くつもりはある。 「ですから何か用なのですか?」 セフィアはもう一度、やはりひどく不機嫌そうな表情で問い掛けた。 確かに無理もない、とセリオも思う。自分だって、服などにはあまり気を使う方ではないが、それでもあの貴族たちの服はお世辞にも趣味がいいとはいえない。 以前妹のシアに「お兄様は顔はいいのですから、もうちょっと服装に気を配ってくださればいいのに」とたしなめられたこともある。だがそのセリオをして「趣味が悪い」と思わせるのだから、相当なものだ。 「君のその美しい顔を、そんな表情で曇らせなくてもいいじゃないか。ちょっと話をしたいだけなのだから」 字面だけならともかく、その言い方はひどく芝居がかっている。はっきり言って、嫌味な貴族を絵に描くとこうなる、という典型だ。 「私に剣で負けたら、もう私には近寄らない。そういう約束ではなかったですか?」 どうやら相手の男は剣ですでに一度、セフィアに負けたらしい。もっとも、再戦を受け付けない、と聞いたことはないから、あるいは再戦を申し込みにきたのだろうか。 そんなことを考えていると、相手の男のほうが腰に佩いた剣を抜き放った。やや過剰ともいえる装飾が目立つ剣だが、さすがに刃は鋼で作られている。 「もう一度勝負をお願いしようと思ってね。それは、いいんだろう?」 するとセフィアは、遠目のセリオから見てもはっきり分かるほど大きなため息をついた。 「それはいいですけど、何度やっても無駄ですよ。あなたの腕では」 セフィアはそう言うと、腰にある細剣を抜き放つ。セリオは小さく感歎の声をあげた。その動作一つとっても、彼女が抜きん出た剣の実力を持っていることは、容易に読み取れる。 「おお。私のことを覚えてくれていたのか。まさにこれは運命」 どこまでも自分の都合のいいように解釈する男である。正直、あれだけ印象――悪い印象だが――の強い男なら、忘れたくてもそう簡単には忘れられない気がする。 「勝手にそう思っていなさい。で、来ないのならこちらから行くわよ!」 セフィアはそう言うと一気に踏み込み、続けざまに突きを繰り出す。男はそれを、半ば逃げ腰でなんとか受け流していた。そのままセフィアは攻撃をし続け、相手に反撃の暇をまったく与えない。どう見ても実力が違う。 実際、セフィア公女の剣は正確さと鋭さにおいては、相当なものであった。ただ、やや動きに癖があり、わずかな癖から容易に次の攻撃を読むことができる。もっとも、それはセリオだから気がつくものであり、並の剣士ではそのパターンに気がつく暇すらなく、ただひたすら防御に徹しているしかないだろう。実際、今の相手はどうやらその癖になど欠片も気付いている様子はない。 そして、もう勝負がつくかな、と思ったときに、突然セフィアの体勢が崩れた。セリオにも一瞬、何が起きたのか分からない。その隙に、男はセフィアの剣をあっさりと弾き飛ばし、セフィアに剣を突きつける。 「ふふふ。勝ったな。私の勝ちだ。これで、文句はないだろう?」 「この、卑怯者!」 確かに今のは不自然すぎた。ただセリオの距離では、一体何があったのかすらまったくわからない。ただ、どう考えても正当なやり方であったとは思えなかった。 「何を言っているんだ。とにかく君は負けた。これで、私に従ってもらうよ」 男は勝ち誇ったようにセフィアを見下ろしている。そのセフィアは、その美しい瞳に怒りの色を宿して男を睨みつけたが、男はまるで気にした様子はない。 そこでセリオは、セフィアが剣が弾かれた右腕の上腕部を左腕で押さえているのに気がついた。記憶する限り、そこをうたれてはいないはずである。 「一体何が……って見物している場合じゃなかったっけ」 慌ててセリオが飛び出そうとしたとき。 「は、離せ!」 突然、別の方向の森からの声に、セリオもセフィアも驚いてその方向を見た。そしてセフィアに勝った男は、その一瞬に表情が焦燥感でいっぱいになっている。 「人がせっかく気持ちよく寝ていたのに、いきなり踏みつけやがって」 不満そうな声と共に森から誰かを引きずって現れたのは、セリオもよく知る人物であった。 アグストリア王国第一王子アルセイド。魔剣ミストルティンの後継者である。昨年の『黒の処断』事件では、父王アレスが呪いにとらわれて倒れたとき、父に代わり魔剣を振るって獅子奮迅の働きを見せた。ただ、普段の彼はいつもまるでやる気なく退屈そうにしてばかりいる印象がある。アルセイドに関してはこの普段の方が有名すぎて、『黒の処断』事件での活躍はアグストリア以外ではあまり知られていない。 栗色の髪の毛に、いくつか葉がついているところを見ると、彼もセリオ同様、昼寝を楽しんでいたのだろう。ただ、彼はまだ講義がかなり残っているはずの身だから、そうなるとサボリかも知れない。 そしてそのアルセイドが引きずっていた人物は、セリオも知らない人物だった。ただ、その手にあるものを、セリオはみとがめた。 小型の投石用の弓を、さらに小さくしたもの。実戦で武器としては使い物にならず、主に子供達の玩具である。だがそれでも、小石程度ならそれなりの勢いで飛ばすことができる。 それで、セリオは全てに合点がいった。 おそらく、あれを使ってセフィアに小石を当て、それで隙を作らせたのだろう。あのセフィアの体勢の崩し方からすると、相当な勢いで小石を当てたのかもしれない。 「な、なんだね、君は」 男の方はまだ虚勢をはるのか、それともそ知らぬフリをするのか、男はアルセイドを睨むように見る。睨むように、というのはどうやってもその男では威圧感、というものが出せないのだ。 「アルセイド王子……」 セフィアが突然現れたアルセイドを驚きの表情で見ていた。考えてみればセフィアはアグストリア、ノディオンの公女。アグストリアの王子であるアルセイドのことは、当然知っているのだ。 「おや、セフィア公女か。どうしたんだ?」 ほんの一瞬、アルセイドの纏っている雰囲気が変わったようにセリオには思えた。ただ、それが何なのかは分からない。 「あ、いえ、その……」 「セフィア公女は私と剣の勝負をして、負けたのだ。だから、これから私達は……」 男が言葉を続けられたのはそこまでだった。アルセイドが、凄まじい目で男を睨んだからである。 「それは、こいつが……」 アルセイドは引きずっていた男を放り出す。男は無様にアルセイドの前に転がった。 「余計な横槍を入れたからではないか?そもそも、貴様の実力でアグストリア一の剣姫(つるぎひめ)を倒せるとは思えんぞ」 「わ、私を侮辱するのか」 どうやらどうあっても知らぬぞんぜぬを通すつもりなのか。男はわざと高慢に言い切った。ただその言葉には、明らかに同様の色が見える。 先ほどのセフィア公女の言葉で、彼がアグストリアの王子であることに気付かないはずはないのだが。 「いかにアグストリアの王子といえど、許せんぞ。私はそもそも、古くは聖戦の折り……」 「そんなことはどうでもいい」 アルセイドは腰に佩いた剣を抜き放った。セフィアの細剣と違い、こちらは実戦用の両刃の長剣である。 「こ、この私と戦うというのか。私はグランベル王国、フリージ公国のシュテンドルフ侯爵家の……」 「そんなことは聞いてない」 男の言葉は、アルセイドの一言で中断された。 そしてアルセイドは剣を男に向ける。 そのとき、セリオはこの男が何者かが分かった。 フリージ公国のシュテンドルフ侯爵家の者で、今この士官学校にいるのは一人だけである。確か、次男のクレギウス。はっきり言って、馬鹿といっていい存在だ。 己自身の力ではなく、先祖の功を持ち出して威張り散らす。確かに、シュテンドルフ家の始祖は、かつてのあの十二聖戦士の聖戦において、多大な尽力をし、それゆえにフリージ公国でもかなり大きな勢力を、今も持っている。 ただそれは、聖戦後もその子孫たちがたゆまぬ努力をしてきた成果なのだ。それを、クレギウスはあたかも己がその家に生まれたがゆえに優れているように思っているのだ。しかも、グランベル以外の国々を馬鹿にするような発言をしたことも、一度や二度ではないと聞く。 それにどうやら、彼はアルセイドの『黒の処断』での話は知らないようである。クレギウスの顔が、徐々にアルセイドを馬鹿にするような表情に変わる。 「ふん。『昼寝の王子』が。そんな男、無視していきましょう、セフィア殿。これから私達の未来について……」 クレギウスはいけしゃあしゃあとセフィアの手を掴んで、立たせようとした瞬間、セリオすら一瞬見失いかけるほどの速さで、アルセイドの剣が振るわれた。直後、クレギウスの頬に、かすかに赤い筋が走る。血管すら切れていない。かすかにあざがつく程度に、アルセイドは剣を振るったのだ。その瞬間、クレギウスはセフィアの手を離して、腰を抜かす。 「な、何をするのだ。アグストリアごときの王子が、この私に剣を振るうなど!お、お前達……」 クレギウスは周りにいた者たちにアルセイドを攻撃するよう命じた。それに応えて、それぞれが剣を抜く。 多分、見ていても問題はないだろう。アルセイドの実力は、セリオはよく知っている。だが、このままでは無用な争いになり、下手をすると国際問題にもなりかねない。それを見逃すのはさすがにまずい、と判断したセリオは、出て行くことにした。 「それ以上は続けない方がいいよ、クレギウス」 全員が振り返った先には、青い髪の青年が立っていた。その姿を知らないものは、少なくともユグドラル大陸の貴族・王族には存在しない。『光皇』の二つ名を持つ、グランベルの王太子。 「セ、セリオ王子……」 クレギウスが慌てて立ち上がり、頭を下げる。アルセイドもセフィアも、ここにセリオが現れることなど想像もしていなかったらしく、驚いたように見つめている。 「セリオ王子、この、アグストリアの王子が、私に、私に剣を……」 クレギウスが必死に訴えるのを、セリオは完全に無視して、アルセイドに向き直った。その間に、セフィアはアルセイドに助け起こされている。 「アルセイド王子、わが国の者が無礼な真似をしてすまなかった。申し訳ない」 「……別に、謝られることではない。第一、ここは士官学校だ。身分などに、それほど意味のある場所ではないだろう。セフィア公女が無事であったなら、それでいい」 「アルセイド王子……」 セフィアは腕をまだ押さえていて、その肩をアルセイドに抱かれていたが、それに不快感はなかった。元々、アルセイド王子はセフィアにとっては忠誠を尽くすべき王子であり、また、風評で言われるほど怠け者でないことも知っている。セフィアにとっては、数少ない尊敬すべき男性なのだ。 「そうか。それでは、セフィア公女もお大事に。本当、申し訳ない。でも少しあなたも気をつけたほうがいいですよ」 「はい、セリオ様。ありがとうございます。アルセイド様とセリオ様がおられなければ、どうなっていたか。以後気をつけます」 セフィアはその美しい顔に相応しい笑みを浮かべると、アルセイドと連れだって立ち去っていった。あとには、セリオとクレギウス、それに三人の取り巻き――多分シュテンドルフ家に使える騎士の子弟辺りだろうが――が残された。 「セ、セリオ様。なぜ咎めずに。あの男は、私の……」 「クレギウス」 その声は、普段ののほほんとしたセリオとはまったく違う声であり、クレギウスは一瞬言葉を失った。 セリオは立ち去った二人の方を見たまま、言葉を続ける。 「私が何も知らないと思っているのか。今回は見逃す。けど、次は承知しない。お前達もだ。いいな」 「わ、私が……」 「いいな」 クレギウスは恐怖のあまり、何もいえなくなっていた。未来の国王を完全に怒らせていることに、今ごろ気がついたからである。そしてセリオはそのまま振り向かずに、その場を立ち去った。後ろでクレギウスが、何事か言っていたようだが、それは全て無視していた。 正直言えば、この場で彼の貴族資格を全て剥奪した上、放逐してやりたかったほど腹が立っていたのだ。ただ、後々禍根が残るし、それにクレギウスの兄であるリークイーヴァは有能な政治家で、フリージ公国の宰相補佐の地位にある。それほどの家の問題を、個人の感情で処理すべきではないのだ。 |
「そんなことがあったのですか?」 久しぶりに王宮のに来たセリオを、シアが美味しいお茶で迎えてくれていた。 どうしても感情が落ち着かなかったから、ティアの顔を見ようと思ってきたのだが、どうやら出かけてしまっているらしく、戻ろうとしたところをシアに捕まったのである。 「うん。でもとりあえずセフィア公女も大事に至らなくて良かったよ。しかしアルセイド王子にしては珍しく、なんかびしっとしていたね」 「それで、そのあとお二人は?」 シアが好奇心いっぱいの目で訊いてくる。セリオは、何をそんなに、と思うのだがとりあえずそのまま二人で立ち去っていったことだけを伝えた。 「う〜ん。でもその様子じゃあねえ……」 「何が?」 「……お兄様。セフィア様より剣が強い殿方って、どのくらいいると思います?」 突然問われて、セリオはしばらく考えていた。 確かに彼女は強かったが、だが実際それ以上は何人かいる。 「何人かはいると思うよ。多分私も勝てると思うし、フィオだって彼女よりは遥かに強い」 「お兄様は例外です。フィオ様とも比べる方が間違い」 シアはぴしゃりと言い切ると、意味ありげに笑った。 「アルセイド王子も、セフィア様より強いと思いません?」 「そりゃあ、強いよ。ミストルティンの継承者だもの。セフィア公女には悪いけど、彼の方が段違いに強い。私だってアルセイド王子と戦ったら、本気でやっても分からない」 実際に手合わせした事はないのだが、ミストルティンを持った彼の戦い振りは見たことはある。負ける、とは思わないが勝てる、という確たる自信はない。 「セフィア様、本当はアルセイド王子に振り向いてもらいたいんだと思いますよ。以前、少しだけお訊ねしたことがありますもの。『もし誰かに負けたらどうするのですか』って。そうしたらあの方、『私は負けません。……あ、でもあの方なら……』って。ちょっと言い淀んでいたんです。きっとあれは、アルセイド王子のことですよ」 セリオはとりあえず何も答えなかった。というか、どうやったらそういう結論が出るのか、さっぱり分からない。 「だってお二人で歩いていかれたんでしょう?」 「それは彼がアグストリアの王子で、彼女はノディオンの公女。王子が公女を心配するのは、おかしくはないよ」 「鈍すぎです」 シアはセリオをびしっと指差し、断言した。こういうときのシアは、反論する余地を与えてくれない。 「……いいよ、私は鈍くて」 反論しようとして、経験的に無駄であることを悟ったセリオは、やや冷めてしまったお茶に口をつけた。だがシアの追撃はまだ続く。 「良くありません。そんなのことでは、ティアにだってあきれられてしまいますよ」 そこでセリオは、訝しげに顔を上げた。 「なんでここでティアが出てくるの?」 「……お兄様……」 シアは思わず、天を仰いだ。 初夏の空は、それぞれの小さな想いを優しく包みこみ、静かに暮れていった。 |
後書きそしてやっぱり出てくるセリオ……というか本当はアルセイドとセフィアの話のはずだったのに、セリオのほうが目立ってるよ(汗) まあいいや。 アルセイドははっきりセフィアのことが気になっていますが、態度には欠片も出ません。さりげな〜く肩に手を置いたりはしてたけど(笑) 一方、セフィアはアルセイドのことは『黒の処断』の活躍を見て、意識し始めたので、今のとぼけた彼と、どちらが本当の彼か分からなくなっている状態ってところです。この先どうなるかなんて知〜らな〜い(爆) それにしてもセリオとシア、ボケとツッコミの漫才兄妹ですねえ。いつの間に(笑) とういか対比して書いたら……当然こうなるか(^^; ちらっと出てきているティア、というのはバーハラ王宮で預かっているサラの娘です。詳細はいつか書くだろう、うん(爆) セリオは無意識下で彼女のことを好きなのですが本人が気付いていません(笑) 一方、ティアははっきりセリオのことが好きなのですが……まあこの辺はいつか……書くのかな?(爆) 実は『黒の処断』については設定好きが災い(幸い?)してかなりいろいろ決まっています。けど書く予定なんてどこにあるのやら(死) 基本的には、暗黒教団による大反乱、だと思っていてください。 とりあえずいいかげんちゃんと再開の準備もしないとねえ。あと半年以上あるといっても間に合わないかもしれないし(汗) とりあえずおバカな孫世代話第二弾、適当に楽しんでもらえればいいかな、とか。 |