夏に入ったばかりといっても、大陸の北に位置するイザーク王国はまだそれほどは暑くない。 元々、乾いた風と乾いた大地が特徴の地である。湿気なども少なく、ゆえに蒸し暑さとは無縁だ。そのためか、バーハラなどよりもずっと涼しく感じられる。 加えて、今バーハラからの客人がいる部屋は、適度の湿気と涼気をもたらしてくれる風がうまく吹き抜けるように設計された、おそらくイザークでも、もっとも過ごしやすい場所の一つである。これで不満を言おうものなら、それこそ罰が当たるだろう。 部屋の調度は、上品さと適度の高級感があり、王宮に相応しく、かつ嫌味も感じさせない。 扉は樫の木で作られたもので、扉の中央に彫りこまれているのは、神剣を意匠化したイザーク王国の紋章だ。 その扉が、数回ノックされた後、ゆっくりと開かれる。現れたのは、黒髪の、部屋の中の人物達とそう年齢の変わらない、青年――まだどことなく少年らしさを残してはいるが――だ。 「久しぶりだな、セリオ」 「久しぶり、フィオ。君が士官学校を卒業して以来だね」 その部屋にいた三人のうち、その中心にいた青い髪の、入ってきた黒髪の――フィオと呼ばれた人物――青年とほぼ同じ年の人物が応える。続いて、その横にいた二人の少女のうち、金色の髪の少女が弾かれたような勢いでフィオに抱きついた。 「久しぶりです、フィオ様!」 「シア、本当に久しぶり」 フィオは抱きついてきた少女を抱きしめた。その横で青髪の青年――セリオは苦笑いをしながらその二人を見る。 「あのさあ、せめて二人だけの時にしないか?そういうのは」 その言葉で、フィオと少女――シアは慌てて離れた。 「まあ半年振りに逢ったのだから、気持ちは分かるけどさ」 二人は顔を赤くして照れている。その仕種は、セリオにはとても微笑ましく思える。 義弟でもあるフィオと、実妹のシアの二人の婚約は、政治的な側面を多分に持つとはいえ、兄であるセリオにとっては喜ばしいことだった。もっとも、正直いつの間に、という感覚がなくはない。 フィオとは士官学校の同期で、共にシャナン王に剣をを習っていたこともあって非常に仲が良かった。妹のシアとフィオが結婚するまでもなく、義兄弟の契りを交わしているほどだ。 士官学校に入るまではセリオは何度もイザーク王国を訪れていた。 父セリスが兄とも慕うシャナン王に会うためでもあり、また叔母ユリアもこの国に嫁いでいたからだ。 セリオはナーガの聖痕を継承していたため、同じナーガの継承者である叔母ユリアから魔法の手ほどきを受けていたのだ。 イザークはセリオにとっても、いわば第二の故郷のような場所である。 その後、フィオが十五歳になってから、二人は同時に士官学校に入学した。フィオとシアが出会ったのはこの頃である。 二人の間にどういういきさつがあったのか、セリオは全く知らない。もっともこれは、セリオ自身が鈍すぎるがゆえに気付いていなかっただけだ、と母には言われてしまっている。これには反論が出来ない。実際、フィオの妹のフェイアは、遠く離れてイザークにいたというのに、『兄に誰か好きな人はいるらしい』とは気付いていたらしい。たまの帰郷だけでそれを見抜いていたという。 今回のセリオとシアのイザーク訪問は、シアとフィオの結婚の段取りのためである。 もっとも、長距離の≪転移≫を使えばイザーク王国といえど、そう遠いわけではない。ただそれでも、長距離の≪転移≫はあまり使わないようにする――術者に対する負担が大きい――ので、そうそう移動できなくなったため、フィオとシアは実に半年振りの再会となるのだ。 今回、セリオとシア、それにもう一人、バーハラ王家で預かっている娘ティアは、グランベル王妃ラナと、宮廷司祭サイアスの力でイザークに送ってもらったのだ。また、ティアが魔法の『波動』を辿る才に長けていたため、術者の負担を格段に減らすことができたのである。 「ま、とにかく元気そうでよかった。フェイア王女も元気?」 セリオは『イザークの黒真珠』とまで称される美貌の妹姫のことを聞いた。フィオの妹のフェイアと、つい先だって士官学校で騒ぎを起こしていた――今もいわゆる『決闘』はよくやっているらしいが――セフィア公女は、果たしてどちらが美しいのか、と社交界では噂されているのである。 「ああ。今はシレジア王国に行ってるよ。父上とともにな。セティ王と北海航路のことで話し合いがあるとかで、付き合ってる」 「そうか。シャナン王も大変そうだね。で、あれから一回くらい勝てた?」 するとフィオは少し不機嫌そうな表情になって、セリオを睨んだ。 「分かっていて訊いているだろう。勝てないよ、父上には」 「まあねえ。あの方は強すぎるよ」 セリオとフィオは、同時にため息をついた。 大陸で最強と謳われているセリオが、剣で勝てないのはユグドラル大陸でも二人だけである。一人は今目の前にいるフィオ。彼とは、幼い頃から何度となく手合わせを――時には本気で――しているが一度として決着がついたことはない。見事なまでに引き分けばかりである。 そしてもう一人が、現イザーク国王シャナンである。元々、セリオもフィオもシャナン王に剣を習っていたのだから、そうそう勝てるはずはない。だが自分達も格段に強くなってきているにも関わらず、それでも未だにシャナン王には全く勝てる気がしない。もちろんセリオの場合、魔法を全開で使っていいのであれば話は別だが、それはもはや剣の勝負ではない。 「それに父上は細かい取り決めは苦手だからな。母上がその辺は段取りをつけてくださっている」 「あ、私まだパティ様にご挨拶してないわ」 「後から来るって。母上もなんか色々と動いていて、今は忙しそうなんだ。それよりセリオ、あとで一回手合わせしよう。半年振りだからな。まさか腕は鈍っちゃいないだろうな?」 「どうだろうね」 「フィオ様、今度こそ勝って下さいね。お兄様は一度負けないと真面目になりませんもの」 その恋人の言葉に、フィオは苦笑いをしただけで特に答えなかった。 実際には、セリオがその実力を身につけるまでにどれだけの努力をしたか、フィオはよく知っている。だが、セリオはその性格や風貌から、とてもそんな風には見えない。 その後、フィオはふとセリオとシア以外に、もう一人来ていた少女に目を向けた。 光の加減で、金色にも銀色にも見える不思議な光彩の髪と、深い、それでいて澄んだ蒼紫色の瞳。驚くほど白い、雪白色の肌は病的な白さではなく、命ある者の生命力と艶やかさを感じさせる。 そのフィオの視線に気付いたのか、セリオがティアを少しだけ前に進ませた。 「それから……フィオは初めて会うのかな。この子はティア。事情は、多少は聞いてる?」 フィオは無言で頷いた。 あの『黒の処断』事件における最重要人物。一般にはその存在は全く知られてはいない。ただ、この娘こそが、暗黒教団の切り札であったのだ。だが結局、その彼女自身の意思と、セリオの力によって彼らの野望は完全に潰えている。 もはや、ロプトウスはユグドラル大陸には存在しない。 「はじめまして、フィオ殿下。ティアと申します」 ティアはスカートの裾を少し持ち上げて会釈した。否の打ち所のない、見事な礼法である。 「こちらこそ。イザークのフィオと申します。以後、お見知りおきを」 フィオは膝を屈めるとティアの手を取って口付けた。イザーク王国にはこういう風習は本来はないのだが、フィオは士官学校時代に学んだのである。 「フィオ様、浮気はダメですよ」 シアがやや冗談めかして言う。フィオは苦笑いをしながら、シアの手を取ると同じように口付けた。 「私の気持ちは常に貴女にありますよ、姫君」 その言葉と同時に、シアが吹きだした。つられて、セリオとティアも笑い、最後にフィオが笑い出す。 「似合わない、フィオ」 「うるさいな。たまにはいいだろう」 笑いながら毒づいたフィオはあらためてティアを見た。十五歳ということだがやや幼く見えなくもない。ただ、成長すればあるいはノディオンのセフィア公女や、『イザークの黒真珠』とまで評される妹のフェイアと同じか、それ以上に美しくなるかもしれない。 「さて。正直今回私達はおまけだからね。でもパティ様にはご挨拶しておかないとな」 「もうすぐ来るはずだ」 フィオの言葉と同時に、扉を叩く音が聞こえ、フィオがそれに答えると金色の髪の女性が入ってきた。 金色の髪はイザークでは珍しい。ましてこのイザーク王宮にいるのであれば、それは王妃パティ以外にはいない。 「いらっしゃい、シア王女。お久しぶりね。セリオ王子も、お元気そうで何より」 パティ王妃はにっこりと笑うとその明るい青色のドレスの裾を少しだけ持ち上げて優雅に会釈をした。 話によるとパティ王妃は、解放軍時代は盗賊であったというが、今の王妃を見ると本当にそうだったのだろうか、セリオなどは疑いたくなる。ただ、フィオなどに言わせると「間違いなくそうだったと思うよ」となる。ちなみにシアもそれには同意している。 「それから、あなたがティアね。話は聞いているわ。お母さんの若い頃によく似ているわね、本当」 「え?」 「うん。髪の色がちょっと違うし、髪形も違うけど、でもよく似てるわ。将来、美人になるわよ、あなたは」 「あ、そのありがとうございます……」 正面きってそういわれたことのないティアは、ひどく戸惑っていた。シアがその様子を見て、クスクスと笑っている。つられて、パティ、フィオ、セリオも笑い出した。そのうち、ティアもはにかみながら笑みを洩らす。 イザーク王宮の一室は、暖かい笑いに包まれていた。 |
「久しぶりだよな、やりあうのは」 フィオはそう言って、ヒュン、と剣を振った。その正面で、セリオも自分の剣を確かめている。 「そうだね。士官学校卒業以来だね」 剣を確認したセリオは、そのまま足回りも確認した。 元々結婚の段取りを相談する、というのは建前で、実際にはシアがどうしてもフィオに逢いたい、というから来たのである。相談というほど相談することもなく、四人は街を出て、馬で少し離れたフィオお気に入りの場所に来たのである。イザークの街を見下ろせる小高い丘は、小川や緑が溢れていて、また風の通り道でもあり、特に夏に入ったばかりの今はとても気持ちが良かった。 その丘の、ややせり出した岩舞台のようなところで、セリオとフィオは久しぶりに手合わせをしよう、ということになったのである。 「フィオ様、がんばってくださいね」 フィオはシアの言葉に笑顔で応えると、ゆっくりと剣を構えた。セリオも同じように構える。 元々、同じシャナンから剣を学んでいるわけで、二人の型は比較的よく似ている。加えてお互い手の内を知り尽くしているだけに、そう簡単に勝負はつかない。その結果が、これまでのゆうに百回を越える引き分けの山である。 「手加減は、しないぞ」 「そりゃあ、もちろん」 セリオはそう言うと、剣を軽く前に出す。フィオも同じようにして、その刃がカチン、と触れたとき、お互いが弾かれるように後ろに飛んだ。その時には、すでに二人とも完全に戦士の表情になっている。 周囲の空気が、ピリピリと張り詰め、緊張感が少し離れたところで見物しているシアとティアにもひしひしと伝わってきた。 「あの、あれ、刃を止めた剣じゃないですよね?お二人とも、もし怪我でもされたら……」 「大丈夫よ。フィオ様も兄様も、剣に関してはすごすぎるくらいすごいから。それにお互い手の内知り尽くしているから、万に一つも怪我することなんてないわ。安心して見ていていいわよ。少しは兄様のかっこいいところ、見ておきなさい、ティア」 その言葉に、ティアは顔を真っ赤にした。 「え、あの、その……」 「毎日顔合わせているんだもの。そのくらい分かるわよ。でも……兄様のどこが?」 兄セリオは、確かにただ立っているだけならば相当な美男子であるし、人気があるのは分かる。けど、セリオを近くで見ているティアがセリオに憧れるのは、シアにはどうも分からなかった。あるいは、これは妹だからなのだろうか。 「その、とても優しくて、それにとても安心できて、あの、とにかく、その……」 ティアの顔が見る見るうちに赤くなる。そういうティアは、同性のシアの目から見てもとても可愛らしいと思えた。 「けど……兄様、あれよ?」 シアはフィオと向き合って動かないセリオを示した。戦いは、まだ全く動いていないようだ。 「いいんです。セリオ様のことを想っていられるだけで。それに、身分も全然……」 ふう、とシアはため息をついた。 確かに、身分などを考えるのであればそうかもしれないが、セリオ自身はもちろん、父セリスも母ラナもあまりそういうことには頓着していない。婚姻政策で権勢を安定させなければならないほど、グランベル王国は脆弱ではないのだ。 無論、今回の自分の結婚にしたところで、政略的な思惑が絡んでいないわけではない。ただ、それは後からくっついてきたものであり、シアは誰よりも望んでフィオと結婚するのだ。 けれど、ティアから見れば、やはりセリオは次期グランベル国王となるべき人物であり、雲の上の存在なのだろう。 そのシアのため息を吹き飛ばすように、金属のぶつかり合う音が辺りに響いた。振り返ってみると、ようやくセリオとフィオが動いたらしい。 ただ一度始まると、ティアはもちろん、シアも二人を目で追うことすら困難になっている。それほどまでに、二人の動きは速かった。 「こういうときの兄様は確かに素敵だとは思うんだけどね……」 目で追うのをあっさり諦めたシアは、ふとティアの方をみやった。ティアはセリオとフィオの手合わせを、文字通り手に汗握るようにして見入っている。 「す、すごいですね……」 途中、シアの視線に気が付いたのか、ティアが視線の方向は変えずに口を開いた。 「うん。こと剣の実力はフィオ様も兄様もすごいわ。兄様は魔法の方がさらにすごいけど。でも兄様、強すぎるのはあんまりいいことじゃないって。まあ強い人にはそれなりの、悩みもあるみたいよ」 「そう……なのですか……」 その間も二人の斬撃の応酬は続いている。おそらく、常人ならば最初の数撃で終わっているであろう速さの斬撃を、二人はほぼ間断なく繰り出しつづけていた。時折、お互い示し合わせているように離れて呼吸を整えている。 「腕は落ちてないようだな、セリオ」 「フィオもね。いや、前よりも速いくらいだ」 「だてに父上に毎日稽古をつけてもらっていたわけじゃないさ。そろそろ、本気で行くぞ」 フィオが剣を水平に構え、その切っ先をセリオに向けた。 「そうだね。それじゃあ……」 セリオは逆に剣を下げ、力を抜いている。いかなる攻撃にも対応できるような、自然体を取っているのだ。 「はあっ!!」 フィオの声と同時に、フィオの全身から光が放たれた。翡翠と、蒼月と、橙光。イザークに伝わる、三星剣。フィオはそれを同時に操ることが出来るのだ。その放たれた光の全てが刃となって、セリオに襲い掛かる。 「セリオ様!!」 ティアが思わず声を上げていたが、そのティアの目の前でセリオはその全てを紙一重でかわし、フィオに斬りつけた。そしてフィオも、そのセリオの回避行動を分かりきっていたかのように、それを受け止め、さらに反撃をする。 だがセリオは、そのさらに隙を付いて、鋭く剣を繰り出す。たまらずフィオが一度後退をしようとしたところに、セリオはティアやシアには全く見えないほどの速さで踏み込み、突きを繰り出した。だがその瞬間、フィオは自ら体勢を崩して体そ沈ませ、下から剣を突き上げた。セリオはそれを半身をずらしてかろうじて避け、そのままお互いがすれ違う。直後、セリオは踏み出した左足をふんばって体を反転させ、その勢いのまま剣を横に薙いだ。対してフィオは、それを受け止めることはせず、完全に体を沈み込ませて避け、そのまま後ろに転がって距離をとり、セリオが体勢を立て直す間に立ち上がっていた。 思わず、シアやティアが呼吸をするのも忘れるほどの攻防は、だがお互いにかすりもしていなかった。 「流星剣の隙をつけると思ったんだけど」 「お前に通じないのは分かっているからな。撹乱のつもりだったんだが、それも無駄だったか」 おそらく並の、いや、一流といわれている剣士や騎士でも、今の攻防の間に何が行われていたのか、完全に判る者はいないだろう。しかも、これほどの打ち合いをしていてなお、本人達はほとんど呼吸を乱していない。 「すごい……セリオ様って本当に……」 「すごいとかそういうレベルじゃ……ないんでしょうね、多分。だって兄様、父上にだって負けたことないもの。……まあ子供のときは知らないけど、私の記憶する限りは」 セリオが剣を学び始めたのは、まだ五、六歳の頃だったという。当時は、セリオはよくイザーク王国に滞在して、叔母ユリアから魔法の手ほどきを受ける一方で、フィオと共にシャナン王から剣を教えてもらっていたらしい。父セリスに聞いた限りでは、初めて手合わせをしたのは、セリオが十三歳のとき。そのときですら、セリオは父に完勝したという。 セリオとフィオは、今度はお互い身じろぎ一つせず、ただずっと睨みあっていた。そこに満ちている緊張感は、剣士ではないシアやティアも圧倒し、息苦しくさえある。 だがその張り詰めた空気は、その根源である二人が同時に表情を崩し、剣を下げたことで霧散した。シアもティアも何がどうなったのか判らない。 「これ以上は、無駄だな。また、引き分けか」 「そうだね。もう何回目?」 「数えていると思うか?」 「思わない」 二人は剣を納めると、お互い笑いながらシアとティアのほうに戻ってきた。 「あ、あの、もう終わりですか?フィオ様」 「ああ。これ以上続けても、まず勝負はつかない。お互い、手を封じ合って終わりだからな」 恋人の言葉に、フィオはニッコリと笑って答えた。シアにはどういうことかさっぱり解らない。 「要するに、チェスの勝負みたいなものだよ。お互い、次の相手の一手が分かる。けど、それに対応した手を打っても、そのさらに先の手も分かる。結局、お互い読み合って、勝負がつかないって分かったから」 フィオはさらにそう説明すると、セリオのほうに向き直った。 「次は、勝ってみせるからな」 するとセリオは苦笑いを浮かべつつ口を開いた。 「う〜ん、どうかなあ。私としてもいきなり妹の恋人を負かして、妹に恨まれたくないしなあ」 「こいつ……」 「大丈夫です、フィオ様。フィオ様は負けませんからっ!」 シアが強く言い切った。それに対して、セリオはなおも苦笑いをしている。 いつの間にか陽が傾いていて、空は少しずつ朱を帯びた色に変わりつつあった。 「さて、と。そろそろ戻らないと、母上も心配されるな」 「そうですね。戻りましょう、もう」 シアが立ち上がって、荷物を取ろうとする。 その瞬間。 周囲が、唐突に闇に包まれた。すぐ近くにいるはずのお互いすらまったく見えないほどの、深い闇に。 即座に危険だと感じたセリオとフィオは、すぐに周囲の全ての動きを察するように身構える。だが。 「きゃああああ!!」 「ティア?!」 突然響いた少女の悲鳴に、全員は一瞬気を取られてしまった。そしてそこに、凄まじい圧力の力が叩きつけられた。 「ぐああっ!」 「フィオ様!?きゃあ!!!」 「フィオ、シア?!……な、なに?!」 突然の状況の急転は、卓越した能力を持つ者達でもさすがに混乱せずにはいられなかった。そしてその直後、闇は出現した時と同じように、唐突に消え、元の朱の空が見えるようになる。 シアは周りを見て、最初に見えたのはフィオであった。そのフィオは苦しそうにうめいている。シアは慌てて駆け寄った。 「これは……魔毒……!!」 暗黒司祭たちが好んで使う闇の魔法の一つに、直撃した者を死毒に侵す、というものがあることをシアは思い出していた。急いで治癒の魔法をかける。シアのかざした手が輝き、その光がフィオを包み込む。フィオの表情が少しずつ和らぎ、毒が消えていくのが分かる。 シアはフィオが回復しつつあるのを見て安心すると、改めて周囲を見回し、そしてティアとセリオの姿がないことに気がついた。 「え?い、一体これは……」 「ありがとう、シア。もう大丈夫だ。セリオとティアは……」 完全ではないにせよ、ほぼ回復したフィオはゆっくりと立ち上がり、そしてその二人がいないことに気付き、シアと同様に驚いていた。 「セリオ!ティア!!」 フィオは大声で呼びかけたが、聞こえてくるのはやや遅れて遠くの山々で反響してくる自分の声だけである。 「こ、これは……?フィオ様!」 シアに呼ばれて、フィオはシアの示すところへ走った。そこはまるで、地面がまるで何かに抉られたようになっている。それは、たしか直前までセリオが立っていたはずの場所だ。 抉られた地面は、どうやらそのまま遥か崖の底まで落下してしまったらしい。ということは。そこに立っていたセリオはも、一緒に落ちてしまったということになる。 「う、嘘でしょう?兄様……兄様ーーーーーー!!!!」 シアが混乱しきったように身を乗り出し、下に向かって叫んだ。だが、響くのはやはり自分の声だけ。 「危ない、シア!」 抉られたばかりで脆くなっていたのだろう。シアの立っている場所も、今にも滑り落ちそうなほど不安定である。 フィオはシアを引き寄せたが、シアは混乱しきってがくがくと体を震わせている。 「あ……あ……。兄様が、兄様が……」 「シア!!」 フィオはいきなりシアを抱き寄せると、そのまま口付けた。その突然の行為に、シアも一瞬驚いてしまい、それで正気を取り戻す。 フィオは唇を離すと、そのままシアを強く抱き締めた。 「大丈夫だ。あいつがそう簡単にくたばるわけないだろう。『光皇』の名はだてじゃないんだ。シアが信じてやんなくて、どうする」 フィオの言葉で、シアの体の震えは、徐々に収まっていった。同時に、気持ちが落ち着いてくる。 「……はい。申し訳ありません、フィオ様。取り乱してしまって……」 フィオはその言葉を聞くと、ゆっくりとシアを抱き締めている腕の力を抜いた。 「もう、大丈夫だな?」 「はい」 フィオはにっこりと微笑んで、シアを解放すると、もう一度周囲を見渡した。だが、やはりセリオもティアも姿は見えない。 「一体誰が……」 「多分……暗黒教団だと思います」 「暗黒教団?」 フィオは訝しげに聞き返した。 現在、暗黒教団というと大きく二つに大別される。一つは、かつての暗黒教団の教義を大幅に変え、ロプトウスを一つの神としてのみ崇め、他の神々との共存している宗派。これは、現在でも少数ながら存在するし、人々から忌避の目で見られつつも認められている。 そしてもう一つは、『黒の処断』事件を引き起こしたような、かつての教義をそのまま継承している者達。『黒の処断』事件でその勢力を大きく減退させたとはいえ、まだまだ大陸のあちこちに潜伏しているのだ。 そしてもちろん、今シアの言った暗黒教団、とは後者のことである。 「暗黒教団が一体何を?……ティアか」 シアは無言で頷いた。 「だがあの娘に何があるんだ?確かに、あのマンフロイ大司教の曾孫にあたる、とは聞いているが、ロプトウスの力を継承しているわけじゃないだろう。魔法の力は確かに強いかもしれないが、それとて継承者達ほどではない」 シアは数瞬、何かを考えていたようだが、やがて意を決したように口を開いた。 「フィオ様。あの『黒の処断』において、ロプトウスを滅ぼしたのは兄様でした。なぜユリア様がやらなかったか、ご存知ですか?」 「……ユリア様より、セリオのほうが魔力が強いし、強靭であったから、と聞いているけど?」 実際、セリオの魔力は、現在大陸において並ぶものがない、といわれている。あのシレジアのセティ王ですら、セリオ王子は自分の遥か上をいっている、と言っているのだ。 「それは間違いではありません。ですが、実際にはユリア様ではあのときのロプトウスにはまったく対抗できなかったのです。だから、兄様がナーガを使ったのです」 「な、なんだそれは?」 かつての聖戦において、ユリア皇女はナーガの力をもって、ロプトウスの魔道書を操ったユリウスを圧倒したと伝えられている。まして、『黒の処断』の時のロプトウスは、魔道書だけの存在であったはずだ。力を実際に引き出すことが出来ず、周囲にあるものを魔力で操って力を振るっていただけだと聞いている。無論それだけでも普通の戦士に手におえる相手ではないが、ナーガをもつ継承者が敵わないとは考えられない。 「あのときのロプトウスは、本来の力を発揮できる状態ではありませんでした。そこで関わっていたのが、ティアの力です。あの子自身、もちろん魔力もかなり強いですが、ユリア様や他の継承者ほどではありません。ですが、特殊な力の持ち主だったのです。そしてそれを、暗黒教団に狙われた……」 「特殊な才能?」 シアは無言で頷く。 「それは、他者の魔力と同調し、その力を飛躍的に増大させることができる、というものです。二人の術者で、魔法を同調させて放つと、普通より強くなる、という話はご存知ですか?」 確かにそれは、聞いたことはある。だがそれは、二人の魔力がほぼ同一で、かつかなりの才能がないとできることではない。たまに、兄弟などでできる者がいる程度のはずだ。 「ティアの場合、その力があまりにも強力なのです。しかも、誰とでも同調できる。ティアと同調した場合、一介の魔術師の放つ下級魔法が、神魔法並みの力を放つことができるのです」 「な、なんだと?!」 フィオは一瞬耳を疑った。 それが事実だとすれば、ある程度以上の魔法の使い手がティアを利用すれば、それは神器の継承者の力すら上回る、ということになる。 「じゃあ、あの時セリオは……」 あの『黒の処断』事件の最後、セリオはティルフィングとナーガの力をもって、ロプトウスを文字通り消滅させた。その時のロプトウスは、継承者もいなくて、ただ魔道書の魔力が暴走しただけだと云われている。その力の媒介となっていたのがティアであると。ただ、たかが魔道書の魔力だけで、あれだけの力が振るえるのか、とは魔法についての知識のあまりないフィオでも思っていたことだ。 だが、もしティアの力がそういうものであれば、ナーガをもったユリア現ソファラ公妃が敵わなかった理由もわかる。そもそも、勝てるはずがない。 おそらくはセリオ以外には。 だが逆に、セリオはその力に勝る力をもっていたのだ。 あらためて、フィオは義兄の力の恐ろしさを知った気がした。 「ならなおさらだ。そんな力をもつセリオが、そう簡単にやられるはずはない。俺達は、ティアを探そう。暗黒教団なら、なおさら放ってはおけない。終わったら、セリオを探しに行こう。ティアの居場所はつかめるか?」 シアはまだ少しだけ涙顔であったが、それを拭うと、凛としたいつもの表情に戻っていた。 「ええ、やってみます」 シアは目を閉じると、意識を静かに集中し始める。かすかな魔力の流れも見逃さぬように。ただ、妹のような少女のことだけを念じて。 |
「ここは……」 意識が戻ったとき、ティアは自分の手足が何かに束縛されていることに気付いた。暗い、光すら差さない部屋のため、周りに何があるかは分からなかったが、だがひどく嫌な感じのするものが近くにあることを察することが出来た。あの、闇の波動を持つものが。 「目が覚めたのか」 暗闇の中から聞こえてくる声は、ぞっとするほど冷たく、そして陰鬱な気配に満ちていた。瞬間、体を固くする。 「あなたは……誰ですか」 ガタガタと震えそうになりながらも、ティアはなんとか口を開いた。もっとも、何かを言わなければ恐怖に押しつぶされてしまいそうだったからでもある。また、どうせまともな返答など期待できるとは思っていない。 「名乗る必要などない。お前はこれから、我らが栄光のために、その身を奉げるのだ」 その言葉の直後に、もう一つ気配が増えた。それが、男に何かを渡す。男はそれを受け取ると、ティアに近付いてきた。その手にあるのは、一振りの剣であった。だが、普通の剣でないのは容易に想像がつく。そして、その剣の放つ魔力を、ティアは良く覚えていた。 「ロプトウスの魔力……なぜ?!」 「知れたこと。たとえ聖書が消滅しようとも、ロプト神の力は大陸各地に満ちている。お前の力なら、その断片からロプト神を復活させらるだろう。生贄としてな……」 男はゆっくりと剣を振り上げると、そのまま振り下ろした。 |
「ここね。まず間違いなく」 シアが立ち止まった場所は、昔の砦跡であった。四人が襲われた場所からそれほど離れてはいない。かなり崩れてしまっているが、それでもさすがに頑丈に作られているのか、残っている部分が崩れだすことはなさそうだ。 「俺でも分かるな。魔力というか圧迫感がひしひしと伝わってくる」 フィオはそういいながら、腰の剣を検めた。正直、神剣をもってくれば良かった、と思っている。並の相手であれば、というよりはほとんどの相手に対して、フィオは負けるとは思わない。だが、シアから聞いたティアの力が事実であるとするならば、そしてティアの意思によらずしてその力が発揮されるとするならば、それは神魔法か、それ以上を相手にするようなものである。 「……シア。ここで待って……」 フィオが全部言い終わらないうちに、シアの拳がぽす、とフィオのお腹にあたった。 「私も行きますよ。第一、ティアは私にとっても大切な人なんですから。お兄様がいない以上、私が助けてあげないと」 そのシアの決意の目に、フィオは改めて自分が愛する女性の真実に触れた気がした。数瞬シアの顔を見つめて、それからふっと笑う。 「そうだな。二人で、いこう」 フィオの言葉に、シアはにっこりと微笑んで、それからフィオに抱きついた。フィオはそれを、優しく抱きとめる。 「……さて、あまりゆっくりしていると、ティアが危ないな」 「はい。行きましょう、フィオ様」 |
砦の中は、思ったほど暗くはなかった。あちこち天井に穴が空いているため、自然の採光口となっているのである。あちこちに転がっている瓦礫から、ここが当分手入れも何もされていなかったことは容易に想像がつく。 「……歓迎かよ」 フィオの言葉に、シアははっと立ち止まって身構えた。どう見ても友好的とは思えない人影が三つ、行く手をふさぐように立っていた。手には剣を握っている。既に抜いてあることが、彼らの態度を示していた。 「そこをどけ……といっても無駄だろうな」 フィオはゆっくりと剣を抜いた。シアは半歩下がって小剣を構える。同時に、三人が動く。だがフィオは、まったく動かずに、ただその三人が近付いてくるのを見ているだけだった。 「悪いが、手加減はしない」 フィオはその言葉と同時に、気を解放した。直後、鮮やかな三色の光が煌き、そして一瞬後には三人はずたずたにされて倒れていた。シアの目には、一体何が起こったのかすら分からない。 「ほう……オードの後継者か……」 さらに奥から、もう一人の男が現れた。手に剣を持っているが、剣士には見えない。むしろ、魔術師という方が正しいだろう。ただ、その剣がただならぬ力を放っていることは、魔力のないフィオにも容易に感じ取れた。 「フィオ様、気をつけて。その剣、普通ではありません」 「分かっている、シア」 フィオは油断なく身構えた。どう見ても、相手は剣を能く使えるようには見えない。ただ、その剣から放たれている力は明らかに異常である。 「イザークの王子とグランベルの王女か。これはまた、良き贄が入ったものだ。これでさらに、ロプト神の復活は早まろう……」 「ティアをどうした」 フィオは剣を構えたまま訊ねた。だが、男はそれに答えるつもりはないらしい。 「光栄に思うがいい。復活せんとするロプト神の、その贄となることができるのだからな……」 「寝言言ってんじゃねえ!!」 フィオは声と同時に跳躍し、先ほどと同じ力を放った。少なくとも、たとえ男の持つ剣にどのような力があるとしても、これを防ぎきることは出来ない、という確信があった。だが。 「なっ?!」 まるで自分の体が自分のものでないかのように動かなくなった。力が抜け、剣が地面に落ちる。 「フィオ様!!」 慌ててシアが近寄ろうとして、突然シアも倒れ伏してしまった。 「シア!!」 フィオはなんとかシアのところへ行こうとするが、まるで体が鉄にでもなったかのように重い。 「くっくっく。あの娘の力は素晴らしい。見せてやろう、ロプト神の力を!!」 剣から放たれる魔力がさらに増大し、その波動が全てを包み込んだ。そしてそれは、巨大な黒い影を形作っていく。 「な、なんだこれは!?」 |
「う……」 全身のひどい痛みで、セリオは意識を取り戻した。痛みはかなりひどいが、左足はもう感覚がない。どうやら、完全に折れているようだ。 あの瞬間、闇の中で突然何かの魔法を直撃したのは覚えている。もっとも、魔法自体はほとんど通用しなかったが、だが体勢を崩されるのまでは防げなかった。その直後、周辺の地面に炎の魔法が叩きつけられ、足場を崩された。とっさに魔法を使おうとしたが、さらに魔法の直撃を受け、使い損ねたあと意識を失った。全身が叩きつけられたような痛みを覚えているから、多分崖にでもぶつかったのだろう。 いくら全力の手合わせの後とはいえ、油断しすぎていた。 「どうもこうもないな……まったく」 目を閉じて魔力を活性化させる。セリオの全身が光に包まれ、同時にセリオの全身の傷が急速に癒されていく。しばらくして光が消えたとき、傷は完全に癒えていた。 「目的は……ティアだろうな。まだ諦めていないのか、やつらは……。だが、そんなことはさせはしない……彼女は私が……」 セリオの全身を再び光が包み込む。そしてその光でセリオ自身が見えなくなるほどになったとき、光と共に、セリオの姿は消えていた。 |
「くっ!」 暗黒のブレスを、フィオはかろうじて避けた。一瞬前までフィオが立っていた場所の床は表面が抉れてドロドロに溶けたようになっている箇所すらある。 「くそ、これじゃあ近付こうにも……」 剣から放たれた魔力は、そのまま剣を持っていた男をも飲み込み、黒き竜を出現させてフィオ達に襲い掛かってきたのだ。 実際、フィオはロプトウスと直接対したことはない。だが、少なくともこの目の前の存在から放たれる圧倒的な圧力と圧迫感は、それといわれても疑い様のないほどのものだった。 「フィオ様!!」 「シア、とにかく君は逃げろ。そして父上に報せてくれ、頼む!!」 あれが仮にロプトウスであろうとなかろうと、少なくとも現時点の自分では勝ち目がないことは分かっていた。せめて、手元に神剣があれば話は別だが、今手にあるのは普通の剣である。それに、今は竜との距離を取っているからいいが、近付いてしまうととたんに体が動かなくなる。距離を取っていればそうそう攻撃を受けることもないが、だがこちらから攻撃は出来ない。剣で勝てない相手がいる、というのは認めたくはないが、少なくともまともな相手ではない以上、仕方がないのかもしれない。 それに、先ほどシアの放った魔法――たいした威力ではないが――もまったく効いているようには見えなかった。おそらく、並大抵の威力ではどうしようもない相手なのだろう。神剣での三星剣なら別だろうが、普通の剣では、どうしようもなかった。 「シアっ、頼む!!」 「でも!!」 シアも、それが一番正しい方法なのはわかっていた。だが、今ここでフィオを一人置いて行ったら。もし、あの黒き竜の攻撃を直撃してしまったら。回復魔法の使える自分がいれば、その時に助けられる。でもフィオだけであれば、助からないかもしれない。 ここから、どう急いでもイザーク王宮までは走っても数刻はかかる。その間、フィオが持ちこたえるのは、体力的にも不可能に近い。≪転移≫の魔法が使えればいいのだが、シアは≪転移≫は儀式を併用しないと使いこなせないのだ。 『悩んでいるようだな。その悩み、止めてやろう!!』 突然響いた声は、まるで地の底から響いてきたような、無気味な声であった。一瞬、一体誰の言葉か二人は考えてしまった。その一瞬、動きが止まる。 その瞬間、竜は再びブレスを吐いた。フィオにではなく、シアの方に。 「シア!!!」 フィオの絶叫と共に、シアの体が黒い波動に包まれた。凄まじい爆発音と共に、シアの立っていた辺りが壁ごと破壊される。 フィオは慌ててシアの元に走った。 かろうじて防御したのか、シアはまだ生きていた。だが危険な状態には変わりない。 『ふははは。これで悩む必要はなくなったな』 その声が、黒き竜の声であることを、フィオはまったく疑っていなかった。だがそれが分かったところで、どうしようもない。 シアを置いて逃げるなど出来はしない。 だが、このままでは確実に二人とも殺される。 『そう悩むこともあるまい。ここで貴様が死ぬことに、なんら変わりはないのだ』 その言葉の最後に、再びブレスが続いた。フィオはなんとかシアを抱き上げてかわそうとしたが、人一人を抱えてそうすばやく動けるはずもない。かわしきれずに、足に激痛が走った。その直後から、もう足の感覚はない。 「ぐ……くそ……」 既に足は動かなくなっていた。次の攻撃は、もう避けることは出来そうもない。 「せめてシア、君だけでも……」 だが、それすらどうすれば良いのか分からない。自分に魔法が使えないことを、フィオは心底後悔した。せめて、ワープの魔法でも使えれば、シアだけでも助けられたかもしれないのに。 「シア、すまない。俺が……」 「そう簡単に諦めるようなやつを、義弟にするつもりはないんだけど」 その聞きなれた声を、フィオは一瞬幻聴だと思った。死んだとは思っていなくても、重傷を負ったのではないか、と思っていたのに。 「セ、セリオ……」 「幽霊じゃないよ。確かに、死にかけたけどね」 セリオはとぼけたように言うと、正面を見据えて黒き竜を直視した。その表情が、不機嫌さで曇る。 「まだロプトウスの力が残っていたのか……」 『お前が光皇か。だが、偉大なる神の力は、この地に多く残されている。そして……』 竜の腹の部分の闇が少し薄くなり、そこに人影が写り始めた。光の加減で金色にも銀色にも見える、美しい髪の少女が、そこにいた。 『この娘の力があれば、我は最強の力となる!!貴様ごとき、我が敵ではない!!』 「……ティアは生きているのか」 明らかに強い怒りを込めた声。フィオは、セリオが話したということに気付くのに半拍ほどの時間を必要とした。これほどはっきりと、セリオが負の感情を声に込めるなど、今まで聞いたことがなかったのだ。 『生きてはおるわ。でなければ、ロプト神の魔力を増幅させることが出来ぬからな。だが、この娘は一生わが魔力の糧となる運命なのだ』 「セ……リオ……さ……ま……」 その時、少女の唇がかすかに動いた。言葉ははっきりとは聞き取れなかったが、だがまだ意識はあることは確かなようだ。 「ティア。今助けるからね」 セリオは、今がどういう状況であるかを忘れたかのような、優しい笑みを浮かべた。だが、すぐにもとの厳しい表情に戻る。 『ふん。まだ意識があったか。だが、もはやこの娘の意識など、あってもなくても同じことだ』 「それを聞いて安心したよ。ティアは返してもらう」 セリオはまっすぐに黒き竜のほうへ歩き出した。だが、手には魔道書はおろか剣もない。 「セリオっ、無茶だ。そいつは……」 セリオは一瞬フィオの方に振り返り、にっこりと笑うと「すぐに手当てしてあげるから、ちょっと待ってて」とだけ言って、歩みを止めずに進んでいく。 『ほうほう。進んで我が贄となるか。お前さえ殺せば、もはや我に恐るる者なし。今一人残るナーガの継承者といえど、我が敵ではない。そして今お主は、ナーガの魔道書どころか、普通の魔道書すら持っておらぬ』 竜は、その顎を開き、セリオに向ける。だがセリオは、まったく避ける素振りすら見せない。 『死ぬがいい!ナーガの継承者よ!!』 「セリオっ!!」 フィオの叫びと、ブレスが放たれたのは同時だった。だが。 「私が、ナーガの魔道書がなければナーガの力が使えない、なんていつ言った?」 フィオの目の前で、セリオはその手に光を集め、ブレスを完全に遮断していた。 『ば、バカな。魔道書なしで、神の力を行使するなど……』 「ティアに増幅されたロプトウスの魔道書本体ならともかく、たかが魔力の欠片ごときに、ナーガの魔道書など必要ない」 いつの間にかセリオの全身は、黄金色の光に包まれている。そして、セリオのかざした手にさらに強い光が集まっていく。 「ティアは、返してもらう」 『お、おのれぇ!』 セリオの放った光と、竜の放ったブレスが激突する。フィオの視界が閃光でつつまれ、世界が白くなった。 凄まじい地響きと共に、砦が崩れていく音が聞こえた気がする。フィオは、何とかシアを庇おうとして、背中に強烈な痛みを感じた直後、その意識は闇に落ちた。 |
フィオが目を覚ましたとき、そこは見慣れたイザークの城の中だった。一瞬、それまでが夢であったのかと思ったが、記憶に残っている痛みの鮮明さは、それが夢などではなかったと教えてくれる。 「シ、シアは?!」 「私はここです、フィオ様」 すぐに返事があるとは思わなくて、フィオは驚いて振り返った。そこには確かに、シアがいる。傷もまったくない。あるいはあれは、夢だったのではないか、と思えてしまう。 「兄様が治してくださいました。フィオ様、あれから二日間、ずっと眠っておられて。心配したんですよ」 よく見ると、シアの目が少なからず赤い。また、目じりに涙の後も見て取れる。 「すまない。心配かけてしまったみたいだね。……そういえば、セリオは?」 自分が生きてここにいる、ということはあの戦いはセリオが勝利したのだろうが、だがあの後どうなったのかはまったく覚えていない。それに、ティアのことも気にかかる。 「兄様は別室でティアを看ています。怪我はないのですが、まだ目が覚めなくて」 「そうか」 フィオは力を抜くと、ベッドの背もたれに上半身を委ねた。安心感が全身を満たしていく。 「結局あれは、なんだったんだ?」 今思い出しても、黒い竜にしか見えなかった。トラキアの飛竜とも違う、伝説にある暗黒竜を顕在化させると、まさにあのようなものではないか、と思える。 「あの男の持っていた剣は、『ロプトの剣』と呼ばれる魔剣だったそうです。かつて、レンスターのリーフ王がまだトラキア半島を取り戻す前、マンスターを支配していた男が持っていたものだとか。もっとも、ああいう剣や、似たようなロプトウスの魔力を宿した品々、というのはまだ多く残されているらしいです。それで、今回はあの魔剣の力が……」 「ティアによって増幅された結果が、あれか」 シアは無言で頷いた。 剣に宿った力をあそこまで完全に解放し、しかも増幅することができる、というのは考えてみれば恐るべき能力だ。もしまた、同じような魔剣を持った者がティアの力を手に入れてしまえば、あるいは今回よりもっと強力な魔具があったとしたら。 あの『黒の処断』事件が終わった時、その渦中にいた娘――すなわちティア――を処分する、というのが問題になったと聞いていたが、今ならわからない話ではない。それほどに、ティアの力は危険すぎるのだ。 「だから、兄様が引き取ったんです」 フィオの心中を察したように、シアが言葉を続けた。 「兄様があの時、『ならば彼女が暴走したら、私が必ず止めてみせる。それならば問題はないだろう』って。あの時、多くの人々が兄様の力を見ていたから、誰も異論を挟めなかったんです」 「だろうな」 あの力を見れば、誰だって逆らう気はなくすだろう。『光皇』の名の意味を、フィオは改めて知った気がした。 「確かに、セリオなら抑えられるだろうからな」 フィオは苦笑しつつシアを抱き寄せた。シアは抵抗せずにフィオの胸に収まった。 「シア、心配かけて、すまなかった。とんでもないことになって」 シアはゆっくりと首を振ると、フィオを抱きしめた。 「いえ。フィオ様がご無事であっただけで、それだけで私は十分です」 フィオとシアの距離が近くなっていく。目を閉じると、お互いの吐息すら感じられる。だがやがて、その吐息はお互いに吸い込まれていった。 |
初夏とは思えないほど、穏やかな陽射しが部屋には注ぎ込まれていた。その部屋の寝台には、一人の少女が眠りに就いている。その横で、青い髪の若者――セリオが椅子に座って、少女を見下ろしていた。 「早く目を覚ましてほしいな、ティア。いつもの笑顔を見せて欲しい。でないと、なんかとても不安になってくる」 セリオは、ティアと呼んだ少女の手を握ると祈るように目を閉じた。その言葉に反応したのか、少女が軽く握り返してくる。それに気付いたセリオは、優しくその手を握り返した。 「ティア……」 「セリオ、様……」 少女が小さく寝返りを打ち、かすかに呟いた。それを聞いたセリオは、少し嬉しそうに微笑むと、少女の額に優しく口付けた。それに反応したのか、少女の目がゆっくりと開かれる。その時、セリオの顔が正面にあったため、少女はひどく驚いて、その大きな目をさらに大きく見開いてしまった。 「セ、セリオ様。あ、あの……」 そのうちに記憶が戻ってきて、ティアは自分がしてしまったことの責を感じ、消沈してしまう。 沈み込んでしまったティアに、セリオは優しく――シアに言わせると自然にそういう顔が出来るのはある種犯罪だ、と言われるような――微笑むと、握り合った手に、もう片方の手を重ねる。 「約束、しただろう?私が必ず、君を守るって」 あの、『黒の処断』で断罪されようとするティアを庇ったとき、セリオがただ一度だけ、自ら『光皇』と名乗って誓ったこと。それは、ティアにとってはどんなものよりも貴重で、そして神聖な言葉。 いつの間にか一雫の涙が零れ落ちていた。セリオはそれを優しく拭う。 ティアは、視界が涙でぼやけるのを自覚しながら、精一杯の笑顔を作った。 「……はい、セリオ様……」 ティアの返事を聞くと、セリオはその優しい笑みを浮かべたまま、口を開く。 「おはよう、ティア」 ティアは、なおも涙を流しながらも、笑顔でそれに応えた。 「おはようございます、セリオ様……」 |
数日後。 ティアの体調も回復し、セリオとシア、ティアは無事バーハラに帰ってきていた。 セリオはいつものように士官学校に戻り、シアとティアは王宮に戻っている。シアは、前よりもさらにフィオへの手紙の量が増えていて、嬉しそうにティアにそのことを話している。 夏の陽射しはますます強くなり、それほど熱くはならない、といわれているバーハラもいくらか暑熱を感じるようになってきていた。 そんなある日、セリオが久しぶりに王宮に寄ってきたのだが、その時ティアはちょうど両親のところに行っていたため、セリオとは見事にすれ違ってしまった。 「残念ですね、お兄様。ティアがいなくって」 シアは、地下水で冷やされた果物を切りつつ、少しにやにやしながら言った。シアは、イザークでティアが目覚めた時を、少しだけ見ていたのだ。 だがその言葉に、セリオは不思議そうな表情をシアに向ける。その瞬間、シアは強烈に嫌な予感がした。 「べつに、ティアに逢いに来たわけじゃないし。今ごろ、ご両親と楽しい時を過ごしているんじゃない?」 「あ、あの、イザークで、その、ティアの額に……」 半ば絶望感に包まれつつ、シアは言葉を続ける。だがセリオは、その妹の変化には気付かずに言葉を続けた。 「ああ、見ていたの?実際、本当に心配したよ、あの時は。でも、無事でよかった」 カシャン、という音を立てて果物ナイフが床に落ちる。ナイフはそのままくるくると回って、セリオの靴にぶつかって停止した。 「危ないじゃないか、シア。気をつけないと……シア?」 シアの顔に影が入り、肩がぶるぶると震えている。経験的に危険を感じて、セリオは少しずつシアとの距離を取っていった。 「これじゃあ私、安心してフィオ様のところにいけないじゃないのーーーーー!!!!!!」 シアの叫びが、初夏のバーハラの空にこだまする。 |
世界は、一人の少女の心の内を除いては、概ね平和であった。 |
後書きまあ予想できた長さではありますが。 ちなみに一番書きたかったのは最後の三行(爆) 見てのとおり、シアの恋人であり婚約者のフィオと、サラの娘ティアの登場です。フィオはなんか最後はやられていましたが、こと剣に関しては大陸でも最強の一人です。セリオは強すぎるので例外。実際、神剣があればあの程度の敵はたいしたことはなかったのですが、不意を突かれたのと、何よりシアがいましたから。 ティアの力に関しては見てのとおり。そして、セリオは……もう反則ですね。設定上、セティがフォルセティを使ってもセリオには全く歯が立ちません(オイ) ただこの強大すぎる力ゆえに、セリオは自分自身を常に制御するようになっています。もっとも一部分の感情は制御しなくてもアレですが(笑) 実際彼は、ナーガの魔道書に残っていたナーガの記憶や力の全てを吸収しているため、普通の魔術師に比べて桁違いの魔法の知識も持っているのです。魔法は元々はFEの世界では竜族の知識ですしね。すでに失われている飛翔魔法や瞬間移動といった力も全部持っています。アカネイアのガトーみたいなものですね(^^; それだけの力があってなお、彼が剣を鍛えたのは、一つにはもちろん聖剣ティルフィングの継承者である、ということもありますが、もう一つには魔法に頼らなくてもいいようになりたかったのです。自分のもつ力が、あまりにも強大すぎるのを彼は知っていたので。 もっとも剣に関しても並外れた才能があったわけですが……(^^; ちまちま書いてきている『黒の処断』はまあ今作中にちょっと書かれた通り。暗黒教団は、ティアの力で極限までロプトウスの魔道書の力を増大させ、世界を制そうとしたのですが、結局最後は魔道書ごとセリオに滅ぼされます。まあそのうち……書くかなあ。書きたいなあ。孫世代子世代総出演になりますが、書いてみたい……。 ちなみに前にも書きましたが、セリオはティアのことは好きです。無意識、というよりは気付いていないフリをしている。さらに言うならば、その気持ち事体を押さえ込んでいるだけです。もっとも、完璧に抑えていますけどね(^^; この先どうなるのやら(オイ) 書いていてティアはとっても可愛いなあ、とか思えてきてるので幸せになって欲しいなあ、とは思うのですが(^^; ちなみに気付いた人いるかもしれませんが、この孫世代シリーズ、少しずつ時間が進んでいます。最初はグラン歴八〇〇年の三月くらい、次は五月。今回は六月。意図したわけじゃないんですが、なんかそうなったのでこのまま続けてみようと思います。次をいつ書くかは分からないですけど(^^; とりあえずなんか頼まれたものを無視してこんなもの書いてました。いいのか、オイ(死) |