風は何者にも縛られない。かつて風そのものといわれていた勇者は、その自分の子孫達を見てどういう感想を抱くだろうか。愚かしさのあまり失望するだろうか。それとも、叱咤してくれるかもしれない。だが、死者は再び現世に現れることはない。それは、たとえ英雄と呼ばれたものでも、例外ではない。 人には等しく老いが訪れ、やがて、死ぬ。人の身で、その運命に抗うことなど出来はしない。だから人は、生きている間に出来るだけの栄光をつかもうとするのだろうか。伝説に謳われた古代竜族なら、あるいは、その運命から逃れる術を知っているかもしれないが、若者は知らなかった。また、知りたいとも思わない。 若者は、止め処もなくそのようなことを考えていた。季節は夏なのだが、南方に見られるような暑さは感じられない。むしろ、涼気を帯びた風が、陽の光を浴びて少し汗ばんだ体に心地よい。グリーンの髪が風に舞う。やや長い髪は、風がおさまると、若者の顔にかぶってきた。鮮やかなグリーンの髪の色は、この地の者特有の色である。若者は、小高い丘の上の巨木に背を預けて、笛を吹いていた。風体は吟遊詩人といった感じだが、着ているものは、良く見ると上質の絹である。一介の吟遊詩人があまり着れるものではない。年の頃は20歳くらい。ようやく大人の顔つきになってきた、いう感じの年齢だ。 「いい風だ。いつもこうだったらいいのにな」 若者は一曲終わると、気持ちよさそうに横になってつぶやいた。このように過ごしやすい季節は、短い夏の間だけである。雪の女神の祝福を受けた、といわれているこの地、シレジアは夏は過ごしやすいが、非常に短い。その逆に冬は、すべての生者を拒むような大地となる。だが、若者はこの地が好きだった。自分の生まれた地であるからでもあったが、生命の息吹を感じられる春と夏の美しさは、他の大地では見れないだろう、と思っていた。 ふと視線を空へ動かすと、澄み切った青い空にわずかな点が映った。若者はそれが何であるか、すぐに分かったが、気に止めずに再び視線を大地へとうつした。そのうち、その点は若者の方へと向かってきた。やがてそれは翼を持ったものだと判断がつくようになる。やがて翼が風を切る音が、聞こえるようになった。そして、それは若者から少し離れた場所に降りる。降りてきたのは白馬だった。ただし、普通の馬と違い、背に美しい翼がある。シレジア地方にしかいないとされている、ペガサスだった。 このペガサスはかつては山の多いシレジアの重要な移動手段であった。しかし、人はいつからか、それを戦争の道具として使うことを思いついた。天馬騎士。シレジア最大の戦力であり、高空から急降下によって繰り出される一撃は、トラキアの竜騎士団を除けば最強とされている。しかし、ペガサスはそれほど力がないため、男性を騎手とすることが、ほとんどできなかった。そのため、天馬騎士はそのほとんどが女性であった。そして、今天馬から降りたのもやはり女性だった。 「レヴィン王子!! やっと見つけましたよ。さぁ、ラーナ様がお待ちです。王宮にお戻り下さい」 そういった女性騎士は、まだ少女といってもいい年齢だった。16歳くらいでまだ騎士になりたて、という感じである。肩のあたりまで伸びたグリーンの髪は彼女が生粋のシレジア人であることを物語っていた。戦時でないためだろう。甲冑などは着けていないし、武器は細身の剣だけだった。 「フュリーか。いや、あまりにも気持ちよさそうだったので、城内に居るのが惜しく思えたんだ。それにしてもよくここが分かったな」 レヴィン、と呼ばれた若者はそう言って体を起こす。その後手を合わせて、フュリーと呼んだ女性騎士に向き直る。 「な、見逃してくれよ。どうせ城にいたところで、俺は厄介ものだしさ。叔父上と顔を合わせたくないんだよ。俺は」 一瞬、フュリーは困ったような顔になる。過去、幾度もこの方法で見逃してしまっている。 「あ……あの、やっぱりだめです。それに今回は……」 フュリーがそこまで言ったところで、もう一騎、天馬が降り立った。フュリーより遥かに熟練した手綱さばきで天馬を操り、レヴィンは、接近にすら気付かなかった。 「レヴィン王子。いつもそうやって、妹を言いくるめていたのですか?」 鮮やかに天馬から飛び降りた女性騎士はレヴィンよりも年上だった。腰まである長いグリーンの髪が風に揺れる。 「お姉様!!」 「あ……マーニャ……」 レヴィンは気まずそうな顔をする。 「レヴィン王子、今度こそ戻っていただきますよ。ラーナ様がお待ちです」 レヴィンは観念したようにため息をついた。 「やれやれ……分かったよ。戻るさ。だが今から歩いて帰ると、日が暮れるなぁ」 「ご心配なく。フュリーのペガサスは、私たち天馬騎士団のペガサスの中でも一番強靭なペガサスです。鎧を着けていないフュリーとレヴィン王子くらいなら2人乗せても飛べますよ」 マーニャはあっさりそう言うと、鮮やかに自分のペガサスに騎乗する。 「ちょ……まて、俺にペガサスで飛べっていうのか?!おい!!飛べないだろう!!」 レヴィンが慌ててマーニャに文句を言ったが、マーニャの方はあっさりと切り返した。 「フュリーはまだ16歳で、騎士になったばかりですが、ペガサスを操る力は十分です。レヴィン王子が寝ていても、無事王宮まで辿り着けますよ」 そう言うと手綱を引き、マーニャはペガサスの翼をはばたかせた。 「じょ、冗談だろ、そんなら走ってかえるさ!!」 言うが早いかレヴィンは丘を駆け下りていった。 「あ……」 フュリーは引き止めよとしたが遅かった。レヴィンの姿はすでに小さくなっていた。 「安心しろ〜、ちゃんと城には帰るから〜」 レヴィンは一度振り返るとそう叫んで再び走り出した。マーニャはふぅ、とため息をつくとわずかに浮いた状態のままフュリーの方に向き直った。 「フュリー、一応、王子が寄り道をしないようについて行きなさい。私はラーナ様にご報告してくるから」 「あ……はい。分かりました。」 マーニャはフュリーの返事を確認すると、一気に天空へと飛び立っていった。しばらくフュリーは、その姿を見つめていたが、やがて慌てて自分のペガサスにまたがり、レヴィンが走り去った方へ飛び立った。 |
「あなたはまったく……王子としての自覚はあるのですか?」 城に戻ったレヴィンを待っていたのは、母ラーナの説教だった。もっとも分かりきってはいたし、またレヴィンも聞き飽きていることで、まじめに聞いていなかった。そんなレヴィンの状態を見透かしたように、ラーナの叱責が飛ぶ。 「レヴィン、まじめに聞きなさい!!」 その様子を見て、壁ぎわに待機している天馬騎士の何人かが笑う。いつものなれた光景とはいえ、二人の立場を考えると笑いが漏れてしまう、と言ったところである。レヴィンは一度、何も騎士達の前で怒らなくても、と文句を言ったがラーナに、 「あなたは、このくらい晒されないと、懲りないでしょう」 といわれ、何も言い返せなかった。 実際、最初は堪えていたが、今ではそれにもなれてしまった。 しかし、実際ラーナが怒るのは無理もない。ラーナは、シレジアを興した風使いセティの子孫ではない。セティの血を引いていたのはラーナの夫、レヴィンの父であった。しかし、父はレヴィンが幼少のころ、雪崩に飲まれそうになる村を、風の神魔法フォルセティをもって救おうとした。村は助かったのだが、父はその時の怪我がもとで、熱病にかかり、ほどなく死去した。以後、ラーナが女王としてシレジアを収めていたのだ。レヴィンはいずれ、フォルセティを継いで、王位を継承すべき立場なのだ。だがレヴィンは、20歳になる今も、フォルセティを継承しようとはしない。 ラーナはシレジアの有力な貴族の娘であり、聖戦のときは風使いセティを助け、また、その後のシレジアの建国にも、大きな影響をもつ家系の出身だった。しかし最近、亡き父の兄や弟が、シレジアの王位を求め始めた。表立っては言わないが、彼らは次期王位継承者であるレヴィンを軽視していた。命を捨ててまで、村を救った王の息子でありながら、レヴィン王子はよく城を抜け出し、市井に混じって酒場で大騒ぎをして、官憲に捕まったことすらある。その時はラーナも大変怒り、レヴィンは一月も、城内の一室に閉じ込められた。そのような素行のものがシレジアの王に値するのか、というのである。 また、レヴィンの方でも王族、というものを嫌っていて、「治めたい者が治めればいいじゃないか」などと言って母を困らせていた。しかし、レヴィンにはシレジアの王位を象徴する神器、風の神魔法フォルセティの継承者たる証である聖痕が、生まれたときから現れていた。レヴィン以外に王位を継ぐべきものはいなかったのだ。 ラーナはやがてあきれたようなため息をつくと、 「とにかく部屋に戻っていなさい。明日からみっちり国王としての自覚、というものを説いてあげます」 やっと母の説教から開放された、と安堵して部屋へ戻ろうとしたレヴィンは「え?!」と慌てて振り返る。すでにラーナはその場にいなかった。 |
部屋に戻る途中の廊下で、フュリーとすれ違った。レヴィンは王子であり、フュリーは王家に仕える騎士である。フュリーはすぐに横にどき、道を空ける。レヴィンは「お疲れさん」とだけ声をかけて通り過ぎようとして、ふとある事に気づき、戻ってきた。フュリーは声をかけられて、びっくりして振り返る。 「なぁ、なんで今日俺がいたところ分かったんだ? 木の下で空からは見えないし、城からだって十分離れていたのに」 フュリーは突然呼び止められて、半ば混乱していたが、慌てて取り繕ってから質問に答えた。 「あ……その、ずっと以前にレヴィン様……いえ、王子に教えていただいたのです。覚えていらっしゃいませんか?」 小さな、消え入りそうな声でフュリーは言った。レヴィンはしばらく考えていたが、やがて、ポン、と手を叩いた。 「あぁ、そうか。思い出した。確かに教えたことあったなぁ。でも良く覚えていたなぁ。あれって3年は前じゃないか? 確かおまえに初めて会ったときだったよな」 「は、はい」 「そっか〜。誰も知らない場所だって思っていたら前に教えていたんだな。でも他の連中には教えるなよ。俺のとっておきなんだからな」 レヴィンはそう言うと、立ち去ろうとする。フュリーは慌てて声をかけた。 「あ、あの、でも姉様に知られてしまったのですけど……」 フュリーは申し分けなさそうに言う。レヴィンは「あ」と言った後、 「まぁしょうがないさ。出来ればマーニャに、他に誰にも言わないように、言っておいてくれ。それじゃあな」 フュリーは立ち去るレヴィンが消えるまで見送っていた。 |
翌日から、ラーナの予告どおり、半ば缶詰状態で勉強させられた。しかし、レヴィンはあまりまじめに聞いていなかった。不真面目なつもりはない。だが、彼は誰が国王になっても民には関係ない、血筋で統治者を決める制度そのものに疑問を感じていた。 確かに民衆は由緒ある血筋を尊ぶ。それはレヴィンにも分かっている。だが、それならなにも風使いセティの子孫が王でなくてもいいはずだ。実際、ラーナは代王である、といってはいるが10年以上、女王としてシレジアを統治していた。だが、民の生活は父が治めていたときと変わらない。王などというものはいなくても民は生活できるのだ。ならば別に叔父のダッカーやマイオスが治めてのいいのではないか。彼らは聖痕こそないとはいえ、セティの血筋であり、ラーナより王の資格はあるのではないか。 レヴィンは、そんなことを考えながら、過ごしていた。そんなある日、やっと勉強から開放されて自室に戻るとき、叔父のダッカーとすれ違った。何をしに来ているかは、レヴィンの知るところではない。大方、またラーナに王位を譲るような働きかけでもしに来たのかもしれない。ダッカーは爵位として公爵位を持っているが、直系であり、フォルセティを受け継ぐ資格を持つレヴィンの方が、立場は上である。ダッカーは必要以上に恭しく、レヴィンに道を開ける。 「これは王子。お勉強ですか。精が出ますな。もっともあなたのような性格では国を治められるのですか?……っと、これは失言でしたね。風使いセティの、直系ともあろうお方に」 レヴィンはキッとダッカーを睨んだが、ダッカーは頭を垂れていて、その表情はうかがいしれなかった。しばしの沈黙の後、レヴィンはその場を立ち去った。 |
部屋に戻るとレヴィンはベッドに身を投げ、天井を見上げていた。が、しばらく考えた後、レヴィンは起き上がり荷物をまとめ始めた。 「そんなに俺が気に入らないなら、出ていってやるさ。もともと俺は、王になんかなりたくなかったんだ。俺には、自由な生き方があっているんだ」 |
レヴィンは夜寝静まるのを待って、城から抜け出した。いくらラーナや天馬騎士団が見張ろうが、この城はレヴィンが育った城である。抜け道はいくらでも知っている。レヴィンはあっさり城外で出た。この時期、シレジアは夜でもうっすらと明るいので、明かりなどは必要なかった。 「さてと。この時期なら港から船が出ているだろう。まずは麗しの都、バーハラにでも行ってみるか」 レヴィンはそう言うと歩き出した。城が見えなくなるところで一瞬ラーナやマーニャ、フュリーの顔が頭をよぎったが、気にしても仕方がない、と頭から振り払った。その後、せめて置き手紙をしておくべきだったか、と思ったがもう遅い、とあきらめた。 陽が上り切る頃にはレヴィンはシレジアのグランベル側の玄関、シレジア港に着いた。そこで、朝一番の船でレヴィンはグランベルへと旅立った。 レヴィン王子がいなくなったのが分かったのはその日の昼頃だった。そして、レヴィン王子がシレジアから出奔したことが分かったのはその二日後だった。愛用の銀製の横笛がなくなっていたこと、レヴィン王子に良く似た人物がグランベル方面の船に乗っていったことが分かったからだ。 しかし、その後の足取りは追うことが出来なかった。 |