し る べ   
風の道標・第八話




 シレジアまでの船旅は、これまでの緊張とはうってかわって穏やかなものであった。
 アグストリアとシレジアは近い。とはいえ、それほど密接な交流があるわけでもなかった。それは、両国の間にある海峡に、海賊が出没したからである。しかし、海賊はシグルドの手によって一掃された。追手がかかる可能性を考慮したが、さすがのレプトールやランゴバルトも、まさかシレジアまで逃げるとは思っていなかったのか、船の用意がない。
 だが、いずれは船を準備できる。それは、望まぬ戦いをまた繰り広げてしまうのではないだろうか。シグルドはそんな思いに囚われていた。
「そう考え込むな。少なくとも、シレジアはすぐに冬に入る。とてもじゃないが、他国の連中が入ってこれるような場所じゃなくなるさ」
 シグルドの心中を察したように、レヴィンが陽気に言う。実際、数年ぶりの故国、というものはやはり少なからず心躍らせるものがあった。たとえ、夜逃げ同然で出てきた国、といっても、自分の国であるのだから、当然だろう。確かに、母に会ったら一体何を言われるのだろうか、という不安がなくもないが、それについては、レヴィン自身、反論は出来ない。だが、国を出たことが無駄ではなかった、とレヴィンは確信している。
 あのまま国にいたら決して見ることのなかったものを見、知り合うことのなかった人々と知り合った。実際、今共にあるシグルドとだって、シレジアの王宮で安穏と過ごしていたら、決して知り合うことはなかっただろう。もちろん、そのために下手をするとシレジアを争いに巻き込む可能性もあるが、どうせ、いつかは叔父達が暴発する。遅いか早いかの違いしかないに違いない。
 船の周囲には数十騎の天馬騎士が緩やかに宙を舞っていた。マーニャの指揮する部隊と、あとフュリーの部下達である。今回ついたマーニャの部下達の対応で、レヴィンは改めてフュリーが四天馬騎士の一人であったんだと再確認した。もともと、素質はあったと思う。しかし、歴代最強とすらいわれているマーニャをも追い越すほどの早さで四天馬騎士になるとは思いもしなかった。あるいは、フュリーの素質は、マーニャをも凌いでいるのかもしれない。
 船尾の方を見ると、もう陸地がはるか水平線に消えつつあった。逆に進行方向には別に大地が見えてきている。シレジアだ。実際には、陸続きではあるのだが、陸路でグランベルやアグストリアに行くものはまずいない。途中、イード砂漠を超えなくてはならないからだ。それに、船の方が圧倒的に早いのだ。
 ふとレヴィンはあることに気がついて周囲を見回す。ちょうど、マーニャが目に入った。
「マーニャ!!!ちょっと聞きたいことがあるんだ!!!」
 レヴィンは出来るだけ大声で言ったつもりだったが、彼女には聞こえなかったのか、二回目でやっと気付いてもらえた。
「なんでしょう?王子」
 鮮やかに船上に降りたつマーニャは一枚の絵のようにも見えた。まるで重さがないように天馬から降りる。しかし、こういう時のマーニャの態度はあくまで堅い。それが彼女の性格だと分かっていても、一瞬気後れしてしまいそうになる。
「いや、シグルド達、どこに行くのかと思ってな。いくら傭兵達がほとんど仕事を下りた、とはいっても決して少なくないだろう。全員、シレジア城に入るのか?」
 シグルドは、シレジアに向かう際にすべての傭兵達に最後の給金を渡して解雇した。実際、これ以上傭兵に払う給料の当てなどないし、また逃亡者となるわけだから傭兵達を抱えておく必要もない。それでも最後に給金を踏み倒さない辺りはシグルドの人柄を感じさせる。だが、それでもなお、シアルフィやユングヴィの騎士や兵士、それにラケシス王女に従う形でついてきたノディオンの兵などがいる。彼らもまた、帰る国を失った者たちであり、シグルドには見捨てることなど出来なかったのだが、マーニャはそういった者たちもみんな受け入れる準備がある、と言ったのだ。
「いえ。シレジア城ではありません。セイレーン城に入っていただきます」
「セイレーン?」
 レヴィンはもちろんその名前には聞き覚えがある。シレジアの北北西、山とシレジア河を越えたところにある城で、城というよりもとは砦であったという。海に近く、シレジア建国初期に北岸の漁師達を襲う盗賊達を取り締まるために作られた砦で、のちにトーヴェ城が作られてからはその中継点として拡大されたものである。トーヴェ城もまた、同じ目的で作られたのだが、あまりにも離れているため、基本的には船で移動する。もっとも、駐留軍はほとんどが天馬騎士団であるため、あのような離れた場所に作られたのだが、あまりにも交通の便が悪いため、現在ではほとんど使われていないはずである。セイレーン城もそのため少しずつ寂れている、という話を聞いた記憶がある。
「詳しくはラーナ様にお聞き下さい。それでは」
 それだけ言うとマーニャは再びペガサスに、やはり降りたときと同じように跨ると、再び空中へ舞い上がった。
 シレジアは、もうすぐであった。

 シグルド達は、まだかろうじて凍り付いていないシレジアの北岸の港町に入り、そこからセイレーン城に入った。当然ではあるが、レヴィンやフュリー以外のシグルド軍にとって、シレジアの大地は初めてである。まだ、秋も半ばであり、雪はほとんど降っていない。だが、それでも温暖なアグストリアから突然このシレジアに来たため、全員冬になったのでないか、というような感覚に襲われた。
「まだまだこんなの、寒いうちに入らないぞ。これからもっともっと寒くなるんだからな」
 レヴィンのその言葉には、全員が震え上がってしまっていた。実際、レヴィンも久しぶりなので寒くないといえば嘘になるのだが、やはり20年近く住んでいた地の風は心地よかった。それは、フュリーも同じなのだろう。風になびくグリーンの髪が透けるように美しかった。
 セイレーン城は、ほぼ丸一日の行軍で到着した。道案内はフュリーが務めていた。マーニャは、先にシレジアに戻ったらしい。他国と異なり、白い石で積み上げられた城壁は、本来が砦であったとは思えないほどシグルド達には美しく見えた。それほど大きなものではない。まだこの周辺には漁業を営む村がおおいとはいえ、盗賊の方が減ってきているため、常駐の兵も削減されているため、使われていない部屋などもたくさんある。あらかじめ、多少は掃除しておいてくれたようだが、最初の仕事は、この城の大掃除になりそうだった。
 この掃除は思ったよりは早く終了した。それほど汚れていなかったというのもあるし、また城全部を掃除する必要がなかったというのもある。大人数とはいえ、シグルド軍全軍を収容するには十分すぎるほどセイレーンは広かったのだ。
 その翌日。セイレーン城に一人の来訪者があった。正確には一人ではない。シレジアのラーナ王妃、その人であった。当然、護衛の天馬騎士が多数随伴している。しかしレヴィンは城壁の上からその光景を見て妙だと感じた。フュリーはこの城にいる。随伴していなくて当然だ。マーニャの姿は見えた。多分、彼女はこのために先に戻ったのだろう。だが、残る二人の四天馬騎士、ディートバとパメラの姿が見えなかった。事実上の王であるラーナがここまで来るのに、四天馬騎士が随伴しないとはどういうことか。それとも、彼女らまでシレジアを離れることが出来ないほどに、叔父達との対立は深まっているのだろうか。
 ラーナはセイレーン城の執政室――といっても今まではほとんど使われていなかったが――でシグルドと対面した。
「ようこそシグルド公子。私はシレジアの前王フェゼオの妃、ラーナともうします」
 初めて見るラーナ王妃をシグルドは呆然としてみてしまっていた。年齢を考えれば、シグルドのなくなった母に近いはずである。そのためだろうか。非常に懐かしい感じすらした。そのため、一瞬挨拶が遅れてしまう。
「は、はじめまして、ラーナ王妃。私はグランベル王国シアルフィの公子、シグルドです。このたびは、国に追われることとなた我々を匿っていただき、感謝の念に耐えません」
 そういってシグルドは頭を下げる。するとラーナは、まあそう堅くなられずに、と言ってシグルドに椅子を勧めて、みずからも座った。シグルドもそれに倣う。扉が閉じられたところまでは、レヴィンは遠くから見ていたが、やがて、扉が閉じられると、ふぅ、と息を吐いてそのまま立ち去ろうとする。その時、突然後ろから声をかけられた。
「どこへ行かれるのですか?王子。せっかくラーナ様がいらしているのですから、ご挨拶ぐらいはなさったらどうです?」
 振り返らずとも、誰がいるのかはすぐ分かる。これがフュリーならレヴィンは「そんなのいいよ」といって立ち去るところだが、この時の相手は、フュリーではない。そしてまた、何故か逆らう気力を持てない相手なのだ。
「別に、会わないつもりはないぞ。ただ、シグルド公子との話を邪魔する必要はないだろう。大体、四天馬騎士の筆頭が母上の傍にいなくていいのか?確かにシグルドは信用できるが、もしこれが……」
「ですから、シグルド公子は信用できます。それに、私の信頼する部下がラーナ様の傍についておられますし、シグルド様も武器はお預けになりました」
 マーニャはさらりと言ってレヴィンの言葉を流すと、王子を正面から見据えた。レヴィンは何故かそれを見返すことが出来ずに、目をそらしてしまう。
「王子。ラーナ様はとても王子を心配なさっておられたのです。それに、今は王妃としての立場としても、レヴィン王子がいなくてはだめなんです」
 その言葉に、レヴィンは何か引っかかるものを感じ、それが先ほどの疑問と重なった。
「あと二人の四天馬騎士はどうした?ディートバとパメラ。まさか死んだというわけではないだろう」
 するとマーニャは初めて顔を曇らせた。一瞬、レヴィンは本当に死んだのかと思ったが、それは違った。
「ディートバもパメラも健在です。ですが、彼女らはシレジアにはいません」
 一瞬、シレジア、というのが国としてのシレジアを表すものなのか、と驚いたが、そうではなかった。
「ディートバはマイオス公の元へ、パメラはダッカー公の元へと行きました。天馬騎士団は、事実上分裂しています」
「おい、それじゃあ!!!」
 ダッカー、マイオスはともに父王の弟である。聖痕こそないとはいえ、紛れもない風使いセティの末裔だ。また、シレジアの王位を狙っていたことは、レヴィン自身がよく知っている。だが、シレジアの王位は聖痕を持つものが継ぐ。これは、シレジアに限らず、ユグドラルの、聖戦士達の起こした国の共通の認識であった。ただ一つの例外が、アグストリアであるが、かの国もまた、ノディオンは「王」を名乗ることを許されていた。
 そして、聖痕はレヴィンが持つ。レヴィンの左腕に刻まれた聖痕は、2年前よりむしろはっきりと見えるようになっている。それが、何を意味するのかはレヴィンには分からない。ただ、聖痕は一代に一人しか持つことはない。同じ代に、二人の継承者が現れたという話は存在しない。話では、近い血族が結ばれたときには、継承者に匹敵するほどの力の持ち主が生まれることがある、というが、それでも聖痕は現れないという。ただ、それは禁忌とされていた。なぜなら、過去に一度だけ生まれたというのその継承者に匹敵する力の持ち主――どこの血族だかも知られていないが――至尊の位を求めて反乱を起こしたと云われているのだ。
「王子?」
 マーニャの呼びかけで、レヴィンは現実に立ち戻った。
「あ、すまん。だが、それじゃあ天馬騎士団は完全に二分されていることになるじゃないか」
 四天馬騎士は、実際に統制する騎士の数は同じである。各自150騎ずつ、計600騎。そして、そのうちの二人がシレジア王家を、というよりはラーナから離反した、というのか。しかも、ダッカー、マイオスはもともと魔法に長けていたため、魔法師団の指揮を任されていた。反乱を起こすとなったら、事実上、彼らはすべて敵に回ると考えて良い。そうなると、いくら天馬騎士団がフュリー、マーニャの部隊が残っていても、戦力不足は否めない。
「そうは言っても、まだ何が起きたわけでもありません。確かに、王子が出奔しようがしなかろうが、いつかはこの事態になったと思います。けれど、ラーナ様は誰よりも王子のことを案じておられたのです。王子だってお分かりでしょう」
 レヴィンには返す言葉はない。実際、ここまで事態が深刻化しているとは思わなかった。自分がいたら、万事上手くいっていたとは思えない。だが、自分が王子として、王族としての使命を果たしていれば。あるいは、今日の状況はなかったかもしれない。
 風の神魔法フォルセティ。ユグドラル最強の風の魔法。その力は、天候すら支配するとすら云われている。しかし、そんな強大な力を、一人の人間が操る事が出来るのか。よしんば操れたとしても、そもそもそれほど強大な力を一個人が所有しても良いのか。確かに、同等の力はある。エルトシャンの持っていた魔剣ミストルティン。あの時、レヴィンが使った風の最上級魔法をあっさりと無効化した魔剣。しかし、あれは魔剣の持つわずかな力に過ぎないという。魔剣ミストルティンは、神器の中でも最大の破壊力を秘めている、といわれているのだ。本来、防御ではなく攻撃に重点が置かれた神器だという。だが、それでもあれほどの力を見せたのだ。
 そして、おそらくマーニャも知らない事実であるが、フォルセティは、神器の中で最強の一つ、と謳われている。あまりもてはやされない、かすかな伝承としてのみ残っているのだ。最強の力を持ち、ヘイムを助くるはセティと……。レヴィンは偶然その伝承を知る機会を得たのだ。それは、恐怖も伴った。史上最強の力が、自分の手に委ねられているのである。自分にそんな強大な力を持つことが許されるのか。あるいは許されたとして、もし自分が暴走したとき誰が止めてくれるのか。
「俺は……まだフォルセティを継承することは出来ない。俺には、その資格はない」
 絞り出すように、だが確かにレヴィンは言った。それを聞くとマーニャはあっさりと、「そうですか」とだけ言うと、レヴィンの腕を掴む。
「王子がフォルセティを継承したくない、というのであればそれを私達が強要は出来ません。ですが、子として、そして王子としてラーナ様にお会いになることは、なんの問題もないでしょう?」
 尋ねるような言い方だが、実際にはすでに引きずっている。抵抗しようとするが、マーニャの歩く速度が速く、なかなかふんばれない。
「ちょ、ちょっと待て。母上はまだシグルドと話しているだろう。それを……」
「ご心配なく。レヴィン王子をお連れするように申し付かっておりますから」
 マーニャは歩みを緩めぬまま、さらりと言って流すと、さらに歩みを速くする。
「お、おい。ちょっと……」
 抵抗もままならぬまま、あっという間に扉の前まで連れてこられていた。さすがにこうなると、レヴィンも観念している。
 それでもなお、レヴィンには扉を開ける決心がつかなかった。別に、シグルドとの会話を邪魔するのに気が引けるわけではない。ただ、2年前に黙って国を出たことが後ろめたいのだ。今更どの面下げて……という気がしてしまう。さすがのマーニャも、レヴィンを部屋までは入れてくれなかったのだ。扉の前まで来ると、あとは「仕事がありますから」と言って、行ってしまった。いっそ、部屋に叩き込んでくれた方が、楽である。部屋の前で凍り付いているようでは、ただ間抜けなだけではないか。
「は……」
 意を決して「母上」と言って部屋に入ろうとしたら、いきなりその扉が開いた。立っていたのは天馬騎士だ。確か、フィシアという名の騎士だったことをレヴィンは思い出した。
 いきなり扉が開いて、レヴィンは驚いたが、驚いたのは扉を開けたフィシアも同じだったようだ。しばらく呆然としたまま立ちすくんでいる。そこへ、ラーナの声が重なった。
「それではシグルド公子。この城はお好きなようにお使い下さい」
 それが、退出を意味することだと気がつくのに、レヴィンはすこし時間がかかった。そして、その間に、ラーナはレヴィンを無視してその前を立ち去ろうとしている。レヴィンは慌てて母親を呼び止めた。
「は、母上。息子が目の前にいるというのに、それはないではありませんか。私はこうして……」
 するとラーナは立ち止まり、振り返ると、キッとレヴィンを睨んだ。怒られる。直感的にレヴィンはそう感じたが、怒られること自体久しぶりである。それすらも懐かしく思えたのだ。
「どこへ行っていたのです、レヴィン。あなたは……」
 きつい口調で叱り付けようとする。いつもの、2年前と変わらぬ母上だ。レヴィンがそう思った瞬間、母親の声が涙声に変わっていた。
「私が、どんな想いでいたか、分かっているのですか。私がこの2年間、どれだけ心配したか……」
 あとは言葉にすらなっていない。あるいは、ずっと泣くのを堪えていたのだろうか、とすら思えた。
 怒られた方がずっと楽だった。怒られて、2年前と同じ場所に帰ってきて、また以前のように暮らせると思えるから。だが、レヴィンが2年間放浪して変わっていないはずはない。そして、母には、その2年はとてつもなく孤独であったのだ。当然だろう。義弟は叛意を隠そうとせず、あまつさえ天馬騎士団を分裂させた。民は不安になりながらも、ラーナを頼る。ラーナには、誰も味方がいなかったのだ。それは、マーニャですら勤まらないのだろう。自分でなければ。レヴィンは初めて、シレジアを出奔したことを後悔した。無論、だからといって出奔したことが無駄だったとは思わない。だが、少なくとも母を悲しませてしまったことは、間違いなくレヴィンの本意ではなかったのだ。
「母上……申し訳ありません。ですが……」
「いいのです。あなたは無事帰ってきた。色々なものを見てきたのでしょう。今度、機会があればシレジアにも来なさい。あなたを束縛することは、風を捕らえるのと一緒だと、よく分かりました。けど、あなたはシレジアの王子です。そのことだけは忘れないようになさい」
 そういった母の表情は、少しだけ笑っているように見えた。今更、自分のことを分かってくれ、などとは言えはしない。ただ、この2年旅したことは無駄ではなかった、と伝えたかったのだが、それは分かってもらえたような気がした。

「レヴィン様」
 母と別れて、部屋に戻る途中で、レヴィンは声をかけられて振り向いた。立っていたのはマーニャである。
「私達は明日、シレジアに戻ります。あまり、空けられないので」
 なぜそれほど急いで、と思ったが、考えてみれば当然だ。もう冬の入り口であり、もう数日もしたら下手をすると帰るのが困難になる。また、シレジア城の東にはザクソン城がある。ここには、叔父ダッカーと四天馬騎士パメラの率いる天馬騎士がいるのである。ラーナ不在が長引くのは明らかに無用な争乱の元となる。
「そうか。俺は……」
「まだしばらくここにいる、のでしょう?」
 レヴィンは続く言葉を先に言われて、言葉を続けそこなう。その表情がよほどおかしかったのか、マーニャは吹き出していた。
「レヴィン王子、よく戻られました。実際、ラーナ様は大変喜ばれているのですよ。正直、王子がいなくなられてから、ずっと沈んでおられたのですから」
 支えるもののいない孤独。本来それは父王が果たすべき役割であったはずだ。だが、父はいない。それでもなお、ラーナは代王として、シレジアをまとめ、そして母としての役割も決しておろそかにしなかった。それは、とても大変な事だっただろうに。
「そうだな。そのうちシレジアにも行くよ。それまではマーニャ、母上を頼む」
 そのレヴィンの言葉は、なにかにかられて出た言葉ではなく、自然に出た言葉であった。だから、マーニャは安心したように微笑んだ。
「はい。天馬騎士団の長として、この命に代えてもラーナ様はお守りします」
 そこでマーニャは一度言葉を切る。そして、何かを言いかけるが、ちょっと言いよどんだ。彼女にしては珍しい。
「どうした?マーニャ」
 さらに数瞬、マーニャは逡巡していたようだが、やがて言葉を続けた。
「フュリーなのですが……もうしばらくこの城に置いてやってはもらえないでしょうか?」
 その申し出は、レヴィンにはやや意外だった。四天馬騎士の一人であるフュリーがシレジアを離れていてもいいのか、と思わなくはない。フュリーも、天馬騎士150騎を統べる立場にあり、現在のシレジア王国の状況を考えると、シレジアにいるべき人材である。
「いいのか?四天馬騎士の一人がシレジアを空けていても」
 するとマーニャは構いません、と言い切った。
「実際、この城も現在トーヴェに移っているマイオス公に狙われています。シグルド公子の軍は歴戦の兵ばかりですが、相手はディートバ率いる天馬騎士と、風使い達です。対抗するのに、フュリーの天馬騎士は欠かせません。それに、フュリーの部隊の一部はわたしが預かりますし。レヴィン王子さえよろしければ、いさせてあげて下さい。あの子は……」
「お姉様!!」
 いきなり入って来た第三者の声に、マーニャは続く言葉を切られた。その声の主、フュリーがマーニャとレヴィンの間に入る。
「あ、フュリー、いたの?」
 するとフュリーはレヴィンも見た事がないような厳しい表情でマーニャを睨んでいる。
「レヴィン様に余計な事をいわないで下さい」
 マーニャはその気迫に押されたのか、一瞬すくんだようにレヴィンには見えた。
「ごめんなさい、そうね。とにかくレヴィン様、よろしいでしょうか?」
 レヴィンは一瞬場の雰囲気に呑まれてしまって、何の事か分かっていない。その反応を見たマーニャは、「それでは、お願いしますね」とだけ言うと、足早に立ち去る。まるで、妹から逃げているようにすら見えた。マーニャが見えなくなってから、レヴィンはマーニャがよろしいですね、と言った事を思い出していたが、その時にはフュリーもいなくなっていた。彼女もまた、決して暇な立場ではないのだ。

 翌朝、ラーナ王妃と天馬騎士団はシレジアへと出立した。幸い、天気はまだ良く、道に雪も積もっていない。セイレーンからシレジアへは険しい山道であるが、雪さえ積もっていなければ、それほどの道ではない。だが、雪が積もり始めると、ほとんど旅人などは通らなくなるのだ。
 もうすぐ冬。シレジアの冬は、そこに住むものには厳しい環境を強いる。だが、逆に軍を動かす事もありえない。また、盗賊達も冬はほとんど行動しない。旅人がいないし、なにより、移動できない。冬はまた、平穏の季節でもあるのだ。
 グラン暦758年。シレジアは、長い冬を迎えようとしていた。



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