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遠い過去の記憶の底に、故国の記憶はある。だが、それは何の感慨も、意味もない。守られているだけだった存在。幼い己が、それを認識することは、なかった。しかし故国というゆりかごを失い、長い放浪の果てに、私は自分の孤独を改めて感じることになる。そしてその時、手を差し伸べてくれた人。あの方が別の、そして懐かしいぬくもりをくれた。失われた記憶。失われた時間。それらを取り戻したと思ったのは、錯覚だったのか。 だが、それでもなお思い出される最後の約束は、いつしか誓いとなった。それだけが、自分の存在理由。己の戦う理由。永い、遥かな時の果てに。その誓いが果たされることを信じて。 |
グラン歴七五七年。本来なら歴史上には特筆すべき事項など、記されるはずもなかった年だった。 だが、後世の史書には必ずある事項が記されている。 『イザークのリボーの部族、グランベルの友好都市ダーナを攻撃、占領する』と。 それは、百年の長きに渡って潜伏していた、ロプト教団の野望が動き出した、その第一歩であったのだが、当時にその突然の暴挙の真相を知る者は、ほとんどいなかった。 そしてそれは、イザーク王国内の各部族を統率する、イザーク王家にしても同じであった。 |
「いずれにしても」 厳かに、そして重々しく言葉を切り出したのは、もう老齢、といってもいい年齢に達した人物だった。 その身に纏う衣服は、決して贅を尽くしたとはいいがたいが、それでも全体的に品があり、また、その人物自身の貫禄もあって、決して粗末な風体には見えない。 それもそのはず。 その人物は、かつての十二聖戦士の一人、剣聖オードが興した国、イザーク王国の国王、マナナンであった。 「まずリボー公に会って、話を聞かなければなるまい。このまま手をこまねいていれば、グランベル王国にあらぬ疑いをもたれてしまう」 数日前に発覚した、リボーの突然の暴走。それは、イザーク王国全体に衝撃を走らせた。 リボーが攻撃した、ダーナからの報復を恐れるわけではない。問題は、ダーナが、この大陸最大の国家、グランベル王国と極めて近い関係にあることだ。 「場合によっては、リボーの族長の首を差し出してでも、釈明することになるだろう。とにかく、軍の編成を整え、ただちにダーナへ向かう準備をせよ。それと、ダーナに使者を出せ。『汝、何の故あってかくのごとき暴挙に出たか、自らに恥じることがなければイザークまで来い』と」 マナナンは、そこで一度言葉を切った。言葉を書きとめていた書記官は、即座にそれを正式な文書とすべく退出していく。 「ふぅ……何ゆえこのようなことに……」 マナナンは、疲れたように呟いた。今年で五十五歳。剣聖オードの末裔であり、その力を象徴する神剣バルムンクは、今も腰にある。その髪はすでに白いものが多くなっているが、その眼光にはいささかの衰えも感じさせない。 「失礼します」 言葉と共に入ってきたのは、長い黒髪を持つ、精悍な若者だった。 今年で二十八歳になる、イザーク王マナナンの実子マリクル。そして、神剣バルムンクの継承者でもある。 「父上……」 「マリクルか。どうだ、軍の様子は」 「はい。いくらか動揺は広がっておりますが、それでもまだ落ち着いたものです。しかし……」 「分かっておる。大国グランベルトの戦いとなれば、無事ではすむまい。だが今回、わしらにすら分からぬことが多すぎる。リボーの族長――いや、公爵が、なぜこのようなことをしでかしたのか……賢明な人物であったと思っておったのだが……」 リボーの族長――今は公爵と呼ばれる――は、トレントという。マナナンと同じ世代の人間で、分別に富んだ為政者であり、また、勇敢な戦士でもある。マナナンも彼を信頼していた、自らの長女を、彼の長男に嫁がせているくらいだ。 「お前も出撃してもらう必要があるかもしれん……頼んだぞ」 「はい。覚悟しております、父上」 マリクルは一礼すると、部屋を出た。 城の廊下を歩きつつ、今後のことを考える。 まともに考えて、いくらイザークの兵が優秀――これは贔屓目ではないとマリクルは思っている――だとしても、グランベルと戦って、無事ですむはずはない。何より、グランベルには、強力な魔術を使う兵も数多くいると言う。対して、イザークは魔術に対して、呆れるほど無知であるといっていい。 「兄上」 そんな考え事をしているところに、後ろから声をかけられた。その声から、振り向かずとも誰なのかは、マリクルには分かる。 「どうした、アイラ」 アイラ、と呼ばれたその女性は深刻そうな表情で、そこに立っていた。マリクルと同じく、長い黒髪を揺らしながら。 「父上は……どのような決定を?」 リボーの暴挙は、すでにイザークの大半の者達の知るところである。大国グランベルと戦争になることは、ともすれば、イザークの破滅を招きかねないことは、アイラには良く分かっていた。 「大丈夫だ。アイラ。リボーの族長が何を考えて攻撃したかは分からないが、父上はグランベルと戦争をする気などないから。お前が心配しなくてもいいのだよ」 マリクルはそう言って、妹を安心させようとした。だが、アイラの不安感を消し去ることは出来なかった。無理もないだろう。マリクル自身も何か、得体の知れない不安感を抱えていたのだから。 「さぁ、もうこんなところにいないで、部屋に戻っておきなさい。明日から私達は忙しくなるからね」 「兄上はいつもそうやって私を子供扱いする。私はもう子供ではありません。立派に戦うことだって出来るのですよ」 そういってアイラはふくれっ面をしたが、結局部屋へと戻っていった。マリクルはその妹の気丈さに微笑ましいものを感じたが、ふとある不安を覚えて、思わず口に出した。 「あれでは……いつになったら結婚できるのやら……」 アイラは今年で二十一歳。間もなく二十二歳になる。マリクルが結婚したのは十七歳の時だから、すでにマリクルより遅い。父マナナンも、そのことは気にしてはいたが、いかんせん、相手がいなかった。 アイラは剣聖オードの血を引く王家の者らしく、剣を学んでいて、その才はイザーク王家の名に恥じないものだ。つまり、ずば抜けて優れている。 容姿は兄の目から見ても十分に美しい、と思える。しかし、イザークでもアイラより強いと思える者は、ほとんどいなかった。そのため、並み居る貴族の男子は、アイラに気後れを感じているフシもある。宮廷の侍女などは、アイラ王女は、マリクル王子がいるから結婚しないのでは、などと噂すらしている。 アイラの方は「釣り合う男がいれば結婚する。だが今は腰抜けしかいない」と言って、ますます他の男を後込みさせているのだ。 「まあ、この戦いが終われば、ゆっくり考えられるかも知れぬな……」 マリクルは戦士団の団長に会い、軍の編成等について打ち合わせると、それから部屋に戻った。 部屋の扉を開けると同時に、子供がマリクルに向かって飛びついてきた。 「父さん、お帰りっ」 飛び出してきた子供は、挨拶もそこそこにマリクルの足に抱きつく。 「ただいま。おとなしくしていたか? みんなを困らせていなかっただろうな?」 マリクルはそう言いつつ子供を抱き上げた。 「うん!」 子供は元気よく答えると、部屋の中を振り返る。そこには子供の世話をする侍女達が、二人の様子に顔をほころばせている。 マリクルは彼女たちに、ご苦労、と言って退室するように言うと、子供を下ろした。 「いい子にしていたみたいだな。シャナン」 マリクルはそう言ってシャナン、と呼んだ子供の頭をなでてやる。 シャナンは今年で六歳。マリクルと亡き妻ジーナの間に生まれた子供である。ジーナはシャナンを生んだあと、流行病にかかってしまい、もうこの世にはいない。シャナンに神剣を受け継ぐ資格をあらわす聖痕が顕れなかった場合、マリクルは再婚しなければならなかったが、シャナンには、生まれてすぐに、聖痕が顕われた。いずれはこの子が神剣を受け継ぎ、この国の王になるだろう。だがその時、神剣が鞘から引き抜かれるような事態にはすまい。 マリクルはそう決意した。 |
歴史とは時として悪いほうへばかり流れていく。それが人為的なものであるならともかく、偶然に見えると人は不安に襲われるものである。 この時、全ての事態を把握していた者はイザークにはいなかった。だから、偶然が重なって悪い方へ流れている、と思っていた。全ての事象を知る者であれば、イザークの混迷ぶりを嘲笑したことだろう。 ダーナを攻撃したリボーの部族は、わずか一月でリボーへ帰還した。 それは、グランベルの攻撃によって撤退してきたからではなく、ダーナで、暴虐の限りを尽くし、破壊し尽くしたからである。 マナナンは、リボーの部族がかくのごとき暴挙を行ったことに至り、少なくとも、リボーの族長の首だけでも差し出さねば釈明は出来ないだろう、との結論に達した。 そうなると行動は速かった。グランベルからの討伐の軍が来る前にリボーを押さえなければならない。イザーク国内への侵入を許せば、イザークの民も黙ってはいない。下手をすれば、本当に全面戦争にもなりかねない。その事態だけは避けなければならない。 マナナンは、直属の剣士団だけを連れてリボーへと向かった。マリクル、アイラも同行した。また、マリクルはシャナンを一緒に連れていった。何故か彼は、こうしなければならないような気がしていたのだ。 |
リボー城はイザークにある城の中でもかなり大きな方になる。イザークはたくさんの部族によって構成されている。中でも大きな部族はリボー、ガネーシャ、ソファラといった部族で、これらの部族は大きな城を持っていて、また、各地の中心となる。また、ソファラ、ガネーシャは最近になって公爵位を与えられている。これは、他国の制度を持ち込むことによって、イザーク全体の近代化を計ろうとするマナナン王の政策の一つだ。 それ以外の部族は城というほどのものはもたず、町の中で邸をかまえるのが一般的である。 そして、これらを束ねるのが剣聖オードの直系であるイザーク王家であった。各部族はイザーク王家を中心にして、部族間会議を設け、国内の政はすべてそれで決定されていた。マナナン王も当然何度もこの部族間会議を開いている。最後に会った時も、今回のような暴挙を行うようには到底見えなかった。 イザークを発して五日後、イザーク軍はリボーに到達した。 もしかしたら、リボー軍の抵抗があると思っていたのだが、そのようなものはまったくなく、イザーク軍はリボーの城壁へと到達した。 リボー城の城門は固く閉ざされていた。だが、内側の不安は容易に読みとれた。イザーク王家が各部族に対して優位にあるのは、オードの血を受け継ぎ、そして神剣バルムンクを使うということが最大の理由であった。他の各部族は、イザーク家を敵にすることなど、到底考えられなかったのである。 「わしはイザーク王マナナンである。わしは戦いに来たのではない。確かに汝らの罪は許し難い。だが、何の説明も釈明もなしに汝らを裁こうなどとは思っていない。族長トレント、わしの前に出て、言うことがあるのではないか」 マナナンはそう宣言すると神剣バルムンクを抜きはなった。中天にさしかかった太陽の光を受けて、白銀の刀身が光を放つ。イザークの軍からは、おお、というどよめきが起こった。 「罪にふさわしき罰を受けるのは神々の定めたもうた法であり、それを曲げることは出来ない。だがその範囲において、汝らの身命は我が剣にかけて保証しよう」 朗々たるマナナン王の声が響き渡り、そして静寂が訪れる。中天にさしかかった太陽の光が、白々しいほどにまぶしく感じられ、時間を、実際以上に長く感じさせているかのようである。 どのくらいの時が経ったか、リボーの城壁の上に一人の男の姿が現れた。やや飾りが多い以外は、他の者とそう変わらない服装。だが、その者がリボー族長トレントであった。 「マナナン王! 多くの者の命を預かる族長として、愚かな行いをしたことは承知している。だが、願わくば、我が命を持って、我が一族の罪を許してやってほしい」 トレントはそれだけ言うと、その城壁から身を投げた。止める間すらありはしない。 気味の悪い音を立てて、リボーの族長は地面に落ちた。イザークの大地が、その肉体から流れ出す赤い生命の源を吸い、どす黒く替わっていく。トレントは、ぴくりとも動かなかった。 結局、トレントの行動の理由は分からなかった。ダーナ襲撃をした者達の話もはっきりせず、まるで夢でも見させられていたような感覚だった、というのが、共通していた。 だが、いずれにせよグランベル王国からはもう大軍が派遣されており、ゆっくりと原因究明をしている時間もなく、事態が事態だけにもはや、王自身が釈明に向かうしかなくなっていた。だが、マリクルは反対した。 「父上。釈明にいくな、とは申しませんが、わずかな随従の者だけ、とはどういうことですか。グランベル軍は、ダーナの報復で殺気立っています。みすみす殺されに行くようなものではありませんか」 だがマナナン王は落ち着いて、息子に諭すように首を振る。 「マリクル。わしは予感なぞ信じるつもりはないが、今回はそうも言ってられんような気がするのだ」 マナナン王はそう言うと神剣バルムンクを腰からはずし、マリクルに渡す。 「父上……これは……」 「お前が持っておけ。万に一つの用心のためだ。そうでなくてもそろそろ譲るつもりだったしな。だが、もしわしが戻らなかったときは、すぐさまイザークへ戻り戦争の準備をしろ。グランベルがイザークを滅ぼすつもりがあるのなら、わしを生かして帰すわけはないからな」 「父上……」 「そう不安そうな顔をするな。グランベル王国の総大将はクルト王子だ。あの王子は温厚な性格で知られている。確かに、安全とはいえぬかも知れないが、別の者を使者にたてて伺いをたてる、という時間もない。なに、無事に戻ってくるから心配するな」 マナナン王はそう言うと立ち上がり、出立の準備をするよう、随従の者に命じた。確かに、時間はなかった。 |
王がダーナへ出立してから半月後、王の従者が、血まみれになってリボーへと戻ってきた。 従者は、国王マナナンがグランベル軍によって処刑されたことを伝えると、息絶えた。 そしてその数日後、グランベル軍から正式の使者が来た。使者はグランベル王国宰相レプトール公爵の名で、イザークの今回の侵攻に対し、敵意ありとみなして、王を処刑した、と伝えてきた。また、今後の憂いを絶つためにイザークを侵攻する、という宣戦布告文も携えていた。ただし、王子マリクル以下、イザーク王家が投降し、無条件降伏するならば、無益な争いは避けられるであろう、とも記されていた。 これに対し、イザークの諸卿は激怒し、使者を殺して返答とせよ、といきりたったが、マリクルはそれを制し、礼節をもって使者を送り返した。今ここで使者を殺しては、また、イザークは礼節をわきまえぬ蛮族どもの土地だ、といわれるのが分かっていたからである。わざわざ使者を送ってきたのは、そういう悪評をたてるためかも知れないのだ。 いずれにせよ、これでグランベル王国との戦争は避けられなくなった。 グランベル王国の軍は今回、後顧の憂いもないことからほぼ全軍が来ている。各公国の騎士団だけでも、その総数はイザークの全軍に匹敵する。これに常備軍等が加わるわけだから、勝算は極めて薄い。というよりは、皆無に等しいだろう。 だが、ここで降伏することはマリクルの、聖戦士の末裔としての矜持が許さなかった。また、イザークの民もそれは許すまい。 自分の命が惜しいと思ったことはない。だが、ここで剣聖オードの血を絶やすことに、マリクルは抵抗があった。あるいはそれは、予感だったのかもしれない。 使者を送り返した翌日、マリクルは正式にイザークの国王となった。 その戴冠式で、マリクルは侵攻してくるグランベル王国軍に対して、これを戦って撃退することを宣言した。戴冠式は本来イザーク城で行うはずだったが、戦時ということもあり、そのままリボー城で行うこととなった。 本来の儀式等も、ほとんどが省略された簡素な戴冠式。それでも、神剣バルムンクを引き抜いたマリクルの姿は、民衆には剣聖オードの生まれ変わりのように映り、民は、マリクル王がいる限りイザークは負けない、と歓声を上げる。 マリクルはその歓声に応えたあと城内に戻り、アイラに、シャナンを連れてくるように、と伝言した。 しばらくしてやってきたアイラは、予想通りすっかり軍装に身を固めていた。 「兄上……」 「アイラ、お前に頼みたいことがある。お前にしかできないことだ。シャナンを連れて、国外へ脱出してくれ」 アイラが何か言うのを制して、マリクルは先に用件だけを伝えた。しかし、アイラは一瞬理解できなかったのか、呆然とし、それから怒気をはらんだ口調で兄に詰め寄った。 「兄上、いえ、陛下。私はイザークの戦士として、陛下と共に戦う所存であります。それを私一人逃げろ、とおっしゃるのですか?」 マリクルは妹の心境は理解していたので、その返事を予測していた。誰よりも誇り高い、イザークの戦士である妹の気持ちは、誰よりもよく知っているのだ。 おそらく、父を殺されて一番悔しいのは妹であろうことも。 だが、これだけは譲ることは出来なかった。この戦い、イザークにはまず勝ち目はない。だとすれば、王族である自分やアイラに待つのは死であり、また、女性であるアイラには、さらに酷い処遇もあり得る。マリクルは、妹をそんな目に遭わせたくはなかった。 「アイラ。お前の気持ちは嬉しく思う。だが、この戦い、我らの勝ち目は薄い。だが、シャナンさえ生きていれば、再起をはかることも可能だ。そして、シャナンを逃がすために多くの兵を割く余裕もないし、多くの兵では見つかってしまう可能性もある。だから、お前に頼むのだ。イザークの戦士として、私がもっとも信頼するお前に」 「兄上……」 アイラはしばらくうつむいていた。そして、顔を上げたとき、彼女の顔にはある決意が見えた。 「わかりました。兄上。必ず、我が命に代えても、シャナンは守り通してみせます。そして、必ずイザークへ帰ってきます。ですが……兄上も死に急ぐようなことはしないで下さい」 そう言ったアイラの最後の表情は、戦士ではなく、兄を思う妹のものであった。 「ああ、もちろんだ。私とて死にたいなどと思ってはいない。それに、これは万に一つの予防措置だ。グランベル軍を退かせることが出来れば、あるいはどうにか講和に持ち込むことが出来れば、すぐにでも迎えをよこすからな」 マリクルは、努めて明るく言った。 だが、アイラにも、今回の戦い、イザークに勝ち目がないことなどわかっていた。だから兄は自分とシャナンを逃がすのだということも。そして、兄がシャナンと自分の身を案じてこのように言うのだということも。 兄は自分に『生き残れ』と言っているのだ。何があっても。シャナンを守って。ならば、それは、どんなことをしても果たさなければならない。 一度顔を伏せ、しばらく俯いていたアイラは、再び顔を上げると、すでにイザークの戦士の表情になっていた。 「それで兄上、どの地域に行っていればいいのでしょう?」 「……そうだな、出来るだけ遠い方がいい。シレジアか、ヴェルダンか……グランベルと友好のある国は避けた方がいいだろう。あとの判断はお前に任せる。いずれにしても、目立たないようにした方がいい」 そのあと、マリクルはシャナンを呼び寄せた。シャナンはまだよくわかっていないのか、父に抱かれて笑っている。 「すまないな、シャナン。お前が大きくなるときには、平和な世の中にしておきたかったのだが。もしかしたらお前は、オード以来、もっとも苦労することになるかもしれん。だが、そんな運命なんか、はねのけるような強い子になってくれ」 シャナンはよくわからない、という顔をしていた。ただ、周囲の雰囲気から、何が起きているのか、少なくとも漠然と察することが出来るようには、なっていた。 「大丈夫だよ、父さんは誰よりも強いんだから。父さんが戦うんだったら絶対に負けないよ」 シャナンはにこにこ笑いながらそう言った。マリクルはその笑顔を見て、少し顔をほころばせた。 「そうだな、だが今回はちょっと大変だから、アイラと一緒に少し離れていてくれ。落ち着いたら、迎えに行くからな」 「うん。父さん。でも無理しないでね」 シャナンはそう言うとマリクルの手から下りて、部屋を出た。アイラがその後に続いた。マリクルはただそれを見送るしかなかった。おそらく、これがシャナンに会える最後の機会だろう。マリクルはそんな想いにとらわれていたが、もう一度諸卿の前に出たときには、一人の武人の顔となっていた。 |
その翌日。アイラは傭兵の格好をし、愛用の大剣とわずかな金貨をもってイザークを離れた。 途中立ち寄ろうとしたシレジアは、内乱の気配があり、また、イザークとは海を隔てているとはいえ、隣国でもあるため正体を隠すのには不適当と考え、ヴェルダンに向かうことにした。 シレジアから乗った船でアグストリアへ行き、そこからヴェルダン王国へと向かう。その道中、アグストリアの都で、グランベル軍がイザーク城を陥落させた、という噂を耳にした。 その時、シャナンはアイラの剣の鞘を、手の痕が付くほど強く握りしめていた。 |