幸福の階 第一幕




 夜がかなり更けても、遥か遠くの人々の喧騒がここまで届いてくる。
 この城の奥の一室まで届くのだから、実際には相当の騒ぎだろう。けど、その気持ちは分かる。今日この日だけは、この遅い時間でも騒ぐことを、街の全てが許容しているだろうから。
 途中、城に来るまでの道で楽しく踊る男女や見事な大道芸を披露する芸人、様々な催し物や露店など、どれも活気に満ち、また笑いに溢れていた。それは、この国が平和であることを示していたし、またあちこちで聞こえる「国王陛下万歳」「新王妃殿下万歳」の声は王家がどれだけ慕われているかをあらわしている。
 それはこの国が、そしてこの大陸が再び手に入れた平和を、人々が謳歌していることの証明でもある。それは、少女には嬉しい認識だった。
 ふと、部屋の装飾に目をやっても、華美なものは見当たらない。けど、それが却って、少女には気持ちが良かった。あまり華美な装飾など、悪趣味なだけである。もっとも、この城の場合はそんな余裕がない、というのも理由の一つだろう。
 ただ元々、この城の主がそのようなものは好まないことを、少女は知っていた。
 品のいい落ち着いた調度品類は、見るものの心を適度に和ませ、また落ち着かせてくれる。
 暖炉の炎は時々薪の爆ぜる音を部屋に響かせて、適度に部屋を暖めてくれていた。春と言っても、まだ夜は冷えるのである。
 よく耳を澄ますと、暖炉の薪の爆ぜる音と街の喧騒の合間に、品のいい音楽が聞こえてきた。多分城内で開かれているパーティーのためのものだ。今ごろ、王宮の広間は来賓でいっぱいだろう。中には、少女が会いたいと思う人もたくさんいる。けど、ちょっと行く気にはなれなかった。
 思わずふう、とため息が出る。
 その時。
 コンコン、と扉をノックする音が響いてきた。少女は少し佇まいを正してから「どうぞ」と言う。
 その声からややあって、扉が小さな音と共に開かれた。最初に現れたのは、白を基調として、いくつかの装飾を施された服を着た、立派な青年。濃い茶色の髪は少し前までやや伸びていたらしいのだが、この日のためにきれいに切りそろえてある。
 そのすぐ後に続いたのは、白く美しい婚礼衣装を纏った、長い金髪の女性だ。
 その二人の姿を確認して、少女はニッコリと微笑むと優雅に会釈をする。
「ご結婚、おめでとうございます、リーフ様、ナンナ様」
「ありがとう、サラ。来てくれるとは思わなくて。どうせなら、宴にも出ればいいのに。そんなきれいなドレスを着ているのだから」
 青年はそう言ってにっこりと笑うと、サラに椅子を奨めて、自らもソファに腰掛けた。その横に、花嫁が座る。
 ドレスの膨らんだスカートが、まるでフワリ、と音をたてたような気がした。
「いえ、遅参してしまいましたから。せめて、式には出席させていただこうと思ったのですけど、ちょっと馬車が遅れてしまって。……それに、華やかな席は苦手です。このドレスは、なんか城の方が『城内に入るのなら』って着させられたんです」
 最後にちょっと舌を出す。その言葉に、翳りはない。
「マリータとかラナとか、みんな君に会いたいと思っていると思うけど」
「すみません………。本当は、手紙だけにしようかとも思いましたし、遅れてしまったので参上するのは止めようかとも思ったのですが……」
 サラはそこでナンナを見る。
「ナンナ様の幸せそうな姿を、直に見たかったので」
 その言葉で、ナンナは頬を赤らめた。その様子は、年下のサラから見ても可愛らしい、と思える。
「生活に、不自由はしていない?」
 照れるナンナを優しい目で見つめていたリーフは、そのしぐさに微笑みつつ、サラの方に向き直って話題を変えた。
「はい。おかげさまで」
 聖戦が終わってから、サラは人前から姿を消した。たとえ周りがどう思おうとも。本人がどうあろうとしても。彼女が暗黒教団の大司教マンフロイの孫娘である、という事実が変わる事だけはない。
 リーフやナンナはそんなことは全く気にしなかったとしても、普通の兵士や、市井の人々にとってはそれは恐怖の対象となる。
 はじめリーフは、サラをレンスターで引き取り、幸せに暮らしてもらおうと思っていた。だがそれは、サラが辞退したのである。
 そういう特別扱いを、身元の定かでない――サラの身分はとても明らかに出来るものではないのだから――者にしていては、あらぬ噂を呼ぶ可能性がある。あるいは、サラの身元を調べようとする者も現れるだろう。そうなれば、そうかからず『マンフロイの孫娘』という事実が露見する。いくらサラが振り切ったつもりになっていても、それは他の人々にとっては関係がない。中にはサラの存在を脅威と感じる人も現れるだろう。リーフやセリスが庇ってくれるだろうが、そうなると彼らに迷惑がかかる。大陸はまだ、彼らによって完全に掌握されたわけではないのだ。
 だからサラは、人々の前から姿を消し、今は新トラキア王国の小さな街で暮らしている。無論、リーフは毎年少なからず生活を援助していて、一方で密かに彼女を害する者が現れないように、警戒させてもいた。
 ただ、戦争が終わってもう二年。暗黒教団に対する恐怖心は残っていても、その存在に怯える人々は減ってきている。
 過去の恐怖に怯えるより、光ある未来を見つめる時代になってきているのだ。
 サラは表向き、戦争で両親を失った――あながち嘘でもないのだが――孤児、ということで暮らしている。そのような孤児は、実際相当な人数がいるので、誰もそれを疑うことはない。
 サラは孤児院には入らず、街の片隅に小さな家を持ち、孤児院で読み書きなどを教えて暮らしている。それだけで、ある程度暮らしていくための糧は得られるようになっていたことから、最近はリーフが送ってくれる援助は必要なくなっていた。
 一度はそれを断ったのだが、リーフは「あっても困らないから、使わないなら貯めておけばいいよ」といって今も援助を続けている。その気持ちだけで、サラは嬉しかった。
「街の人たちとも、すっかり仲良くなれました」
 サラは笑って言った。その表情は、あの戦いの直後にはあまり見られなかった表情である。
「そうか。とにかく、元気そうで安心したよ。ナンナも私も、サラにはとても助けられたからね。あ、そうだ。せめてマリータには会ってきたらどうだい? 彼女、君にとても会いたがっていたから」
「もうお礼なんて、言われ過ぎるくらい言ってもらっているのに」
 サラは思わず、吹きだすように笑う。
 かつての聖戦において、マリータの義母エーヴェルは、トラキア地方の暗黒教団を束ねていた司教ベルドによって、石化魔法を受け、石にされていた。その、石化を解くことができたのが、サラだったのだ。結果、エーヴェルは甦り、今はトラキア半島の東方にあるフィアナ村で暮らしているはずだ。
 一方マリータは、解放軍に最後まで従軍した後、剣士として未熟な自分を恥じ――どこが未熟なのか、サラには良く分からなかったが――旅を続けている。たださすがに、このリーフとナンナの結婚式には参列しているようだ。
「……そうですね。じゃあ後で」
 サラが宴に出ないのは、何もかつての仲間達に会いたくないわけではない。むしろ、とても会いたいと思う。
 ただ、パーティーに参列しているのは、かつての仲間達以外にも、多くの、サラのことを良く知らない貴族や将軍達もいるのだ。そういう人達に、自分のことを知られるのはなんとなく嫌だった。
「分かった。後でこの部屋にくるように言っておく。もしかしたら、何人か来るかもしれないけど」
 サラの気持ちを察したリーフはそう言うと、テーブルの上のお茶を口に運んだ。
「はい。それはかまいません」
 サラは嬉しそうに答える。
 その後しばらく、三人は他愛もない話に花を咲かせた。
 ふと気がつくと、遠くで聞こえていた音楽が途切れていた。一巡りしたらしい。
「さて。そろそろお暇しよう。あまり留守にしてると、そろそろ不信がられる。もっとも、私は飾りだけどね。主役はナンナだ」
 リーフはそう言うと、立ち上がって部屋を出ようとする。だが、扉に手をかけたところで、ナンナがまだソファに座ったままであることに気が付いた。
「ナンナ?」
「あ、リーフ様。すぐに行きます。ちょっと、サラと話したいので」
「……私はのけ者かい?」
 リーフは苦笑する。
「女同士の話ですから」
 なおも苦笑いを浮かべながら、リーフは扉の向こう側に消えた。かつかつ、と靴の音が遠ざかっていく。
「なんでしょうか、ナンナ様」
「昔みたいに、ナンナ、でいいわよ」
 ナンナは昔と変わらない、優しい笑みを浮かべた。
「ただ、少し気になったの。サラ、私達の前ではともかく、やっぱりまだ自分の生まれに拘ってるから」
「それは……」
 どうしようもないことだ。共に戦ったみんなはともかく、それ以外の人にとって『マンフロイの孫娘』というのは恐怖を感じずにはいられない存在だろう。かつては厭われることになれているつもりではあったが、今はそんな風に見られるのは、絶対に嫌だ。
 無論ナンナにも、そういうサラの気持ちはよく分かっていた。
「ううん。確かに、全ての人が、あなたのことを分かってあげられる、というのは難しいと思う。けど、あまり自分の出生に拘って、自分の幸せを逃がしたりはしないで欲しいの。きっと、あなたを受け入れてくれる人が、どこかにはいるから」
 本当に心配してくれているのが、良く分かる。ナンナの気持ちは、サラには涙が出るほど嬉しかった。
「うん。ありがとう、ナンナ」
 そういいながら、サラは本当にそんなことがあるのだろうか、と考えていた。
 かつて、数百年にわたり大陸を恐怖に陥れたロプト帝国と暗黒教団の名は、もはや禁忌に等しい。そして、その記憶が薄れ始めた矢先に、再び暗黒教団が、グランベル帝国の庇護の元でその凶暴な牙を剥いた。今、大陸に住む人々にとっては、暗黒教団の存在は嫌悪と憎悪の対象でしかないのだ。
 たとえ自分がそれに敵対する立場にあろうが、絶対に切り離すことができないのが自分の出生。望んでそんな立場に生まれたわけじゃない、といっても分かってくれる人はまずいないだろう。
 そんなサラの心情を察してか、ナンナもそれ以上は何も言わなかった。
 しばらくするとドレスの裾を持ってゆっくりと立ち上がる。
「それじゃあね、サラ。また後でくるから」
「うん。リーフ様にもよろしくね」
 ナンナは「またね」と言い残して扉の向こう側に消えた。
 ナンナが出て行った後、しばらくすると勢い良く扉が開けられて、黒髪の女性が半ば走りこんできた。一息つこうとお茶を淹れていたところだったので、危うくこぼしそうになる。
 飛び込んできた人物は、長い黒髪をきれいに結い上げて、赤い、胸元の大きく開いたドレスをまとっていた。
 踵の高い靴なんて、ほとんど履いたことがないだろうに、それで走れるのはあるいは運動神経の賜物なのだろうか。
「マリータ……。何もそんなに勢い良く入ってこなくても。お茶、飲む?」
「あ、う、うん。お願い」
 マリータはそう言うとやや乱れたドレスの裾を直した。それから、にっこりと笑う。
「久しぶりね、サラ。来てるって聞いて走ってきちゃったわ」
 マリータの顔がかなり紅いのは、走ってきたせいもあるだろうが、どうやらお酒も飲んでいるようだ。
 サラはマリータがお酒を飲むのを見たことはなかったから、強いか弱いかなど分からない。
 果たしてどっちなんだろう、とサラが思いかけたその目の前で、あっさりとその判定は出た。
 いきなり走ったりしたから、一気にまわったのだろうか。ふら、とバランスを崩したかと思うと、転ぶように先ほどまでナンナが座っていたソファに納まっている。
 もっとも、普段明らかに着慣れていないドレスに、バランスをとられたのかもしれない。
「ふふ。お酒なんて飲むから。慣れてないのに」
 そういいながら、サラは自分とマリータの分のお茶をカップに注ぎ、マリータの分をテーブルの上に置く。気持ちを安らげるような深い香りが、部屋を満たした。
「あ、ありがとう。でも、本当に久しぶりね。元気そうでよかったわ」
 マリータはフラフラと上体を起こしながら、なんとかカップを持つ。こぼしたりしないか、などと心配をしたが、さすがにそういうことはなかった。
「マリータもね。お母さんは、元気?」
「うん。年に数回は、フィアナにも行ってるから」
 母親の記憶のほとんどないサラにとって、たとえ本当の母親ではないとしても、マリータとエーヴェルの関係は羨ましかった。無論、母が自分を愛してくれていたことは、良く分かっているし、父も生きていたらきっと愛してくれただろう。
 あるいは、両親が健在なら、自分はこんな風に世間の目に怯えながら暮らさなくてもいいのかもしれない。けど、それはもう願っても決して叶うことのない夢である。
「今度、フィアナにサラも来て欲しいって。命の恩人だからって」
「うん。そのうちにね」
 確かにあの村であれば、サラのことを良く知っている人たちが多い。多分サラもそう気兼ねなく行くことが出来るだろう。
 ただ実際今の生活もある。フィアナまではレンスターより距離的には近いのだが、定期馬車便などもなく、また山越えをしなければならないため、そうそう行けるものではない。
「前にも言ったけど……」
 お茶を飲み終わったマリータは、カップをテーブルの上に置いて、少し窮屈そうにドレスの胸周りを引き伸ばしながら口を開いた。あまり胸などは大きくないはずのマリータだが、この二年間で少し大きくなったのか、多分仕立て屋がサイズを小さく見積もってしまったのだろう。それはちょっと女性としては羨ましい。サラなどは、突然来訪したこともあって、サイズの合うドレスがなくて実はやや大きかったのだ。
「サラには、絶対幸せになって欲しいの。でないと、承知しないから」
 良く考えるとかなり理不尽な言葉であるが、言われた方はそれが本当に自分のことを想って言ってくれていることだから、その気持ちはとても嬉しかった。
「いい。でないとね……」
「はいはい」
 まだ酔いがまわっているのだろう。ややろれつのまわらなくなりつつある。その声を背に、サラはもう一杯お茶を注ぎ、マリータに出そうと振り返ったところで、ソファに上半身を倒して眠ってしまっているマリータを見つけた。
「……あの、マリータ?」
 返事はない。顔を近づけてみると、すーすーと規則正しい寝息が聞こえる。
「何もここで寝なくても……」
 半ば呆れたように肩を竦めると、とりあえずベッドの上から毛布を一枚とり、マリータにかけてあげた。春先とはいえ、まだ寒いのである。
 本当はベッドまで運んであげられるといいのだが、サラの力ではドレスを着たマリータを持ち上げるのは、さすがに無理である。
 どうしようかと途方にくれて、とりあえず暖炉に薪をくべた時に、扉をノックする音がした。
「はい? どうぞ」
「こんばんは、サラ。少しいい? マリータもいるんでしょう?」
 入ってきたのは、くすんだ金色の髪の女性だった。明かりの加減で、その流れる長い金髪が幾種もの色に彩られるのが、とても幻想的に見える。無論、サラの良く知る人物だ。
「ラナ。久しぶりね。あの、ちょうどいいから手伝ってくれない? グランベル王国の王妃様にこんなことを頼むのは、気が引けるのだけど」
 サラはそう言うと、ソファで完全に寝てしまっているマリータを見た。
 かつての聖戦での仲間の一人、ラナは聖戦後、去年にグランベル王セリスと結婚した。このときはサラは住んでいる場所から遠かったこともあり、手紙だけ出したのである。
「いいわよ、そのくらい」
 ラナはくすくす笑いながら、扉を閉じる。
「よかった。『ラナ様』なんていわれたらどうしようかと思ったのもの」
「あ」
 マリータと話していたときの調子で、かつての口調のまま話してしまったが、考えてみたら相手はグランベル王国の王妃だ。もう少し口調に気をつけるべきであった。
 その少しすまなそうにしているサラの額を、ラナは指で小突いた。
「いいのよ。その方が。だって友達でしょう、私達。もっとも……」
 ラナはすやすやと寝ているマリータを見る。
「こういう迷惑のかけ方は勘弁よね」
 思わず二人は、声を上げて笑った。





第二幕


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