陽射しに、ようやく春の暖かさが戻ってきた。 窓を開けたときに吹き込んでくる風に、昨日以上に暖かさと優しさを感じられる。 サラは朝食の後片付けをすると、いつものように数冊の本を持って家を出た。 動きやすい普通の街娘の服装ではあるが、ただ長い紫銀の髪は多少目立つ。もっとも、この髪が風に流れて光に透けるのがとてもきれいだ、と言って喜んでくれる子供がいるので、いつも括るだけにしてある。 リーフとナンナの結婚式が終わってから、もう一週間ほど経っていた。昨日までは、この街でもお祭り騒ぎが続いていたのだ。 朝陽に照らされている道を歩きながら、サラはレンスターでの仲間――いや、友人達との再会を思い出していた。 以前と変わらぬように接してくれるみんなの心遣いが嬉しかった。 また同時に、幸せそうにしているラナやナンナが、少しだけ羨ましくも思う。 もちろん、ラナもマリータもナンナも、みんな自分の幸せを願ってくれている。それはとても嬉しかった。だけど。 ナンナ達は優しく言ってくれるが、それでも自分にそんな権利があるとは思えない。自分と血の繋がる者が、子供達の幸せを奪い、人々を恐怖に陥れたのは事実なのだ。 今こうやって、普通に生活していても、どこかで誰かに告発されているのではないか、という恐怖が消えない。それはもはや、どうしようもない感覚だろう。 孤児、というだけでとりあえず今は疑われることはない。一応、サラはミレトスの山間にある小さな村に両親と一緒に住んでいたことになっている。嘘ではあるが、さすがに真実など言えるはずもない。 実際、サラのような年齢の女の子はともかく、似たような境遇の、もっと小さな子供達はこの街にも多い。別にサラの存在は、珍しいものではない。 この街は孤児院が一つだけあり、三十人近い子供達が生活している。孤児院の運営をしているのはブラギの司祭なのだが、彼はこの近隣の孤児院いくつかを一人で運営もしているため、かなり忙しくて子供達に読み書きを教えたりする時間が取れない。そこで、サラが教えることになっているのだ。 それは、サラにとっては罪滅ぼしの意味もあった。 暗黒教団によって、親や家を失った子供達に、せめて出来ることはないか、と思って始めたのである。 その程度では、一生かかってもあるいは赦されることはないかもしれない。ただ少しでも、親を失った子供達を助けたかったのだ。 それが、自分の生きていく道だと定めた時、これでもずいぶん楽になったものである。 「おはよう、サラ」 考え事をしながら歩いていたため、突然挨拶をされて、びっくりして立ち止まってしまった。 振り返ると、挨拶をしてくれた人物が立っていた。金色のやや長い髪が風になびいている。サラより一つ年上の。ラエルという青年だ。 「おはよう、ラエル。今日も狩り?」 ラエルはサラの住んでいる家からそう離れていないところに住んでいる。代々狩人であり、彼も稼業を継いでいた。聖戦の折には彼も解放軍に協力していたらしい。もっとも、臆病だったからあまり前線には立たなかった、と言っていた。孤児と言う共通点からか、よく会って話をすことが多い。 別に他に同世代の人がこの街にいないわけではないのだが、サラは元々この街の人間ではないし、孤児院に出入りしているためあまり付き合いはない。ラエルは数少ない例外だ。 時々、自分がセリス王やリーフ王と知り合いだといったら、どういう反応を示すだろう、と思うのだが、さすがに試す気にはなれない。 それに、彼の母親はフリージ兵に殺され、父親は暗黒教団に雇われた兵に殺されたらしい。直接は全く関係ないのだが、それでもサラにとってはそれも己の咎に思えてしまっていた。 ただ、ラエルにその翳を引きずるような様子はない。それが、サラには少しだけ救いであった。 「うん。サラは孤児院?」 「ええ。休んじゃったから」 レンスターに行っていた間の十日間、サラはすっかり休んでしまっていた。もっとも、話によると孤児院の子供達も祭り騒ぎで、勉強どころではなかったらしい。 二人はそのまま並んで歩いていく。 孤児院は街のはずれにあるし、ラエルは街の外に用がある。二人とも街の逆側に向かうため、途中までは一緒なのだ。 「リーフ陛下のご結婚か。これで、トラキアも安泰だよな」 「そうね……」 「サラはレンスターまで行ったんだよね? リーフ陛下やナンナ様、見れたの?」 さすがにここで、その二人とゆっくり話してました、とはいえないのでサラは曖昧に答えておいた。 「いいなあ。僕も行ってみれば良かった。どうせ、仕事にならなかったしね」 「人が、多かったわ」 実際、遅れてしまったせいもあってレンスター城に入るまでは、かなり苦労した。一応リーフ直筆の招待状があったから、すんなり城内に通してもらえたが、そうでなければあるいは城には入れなかったかもしれない。 「いいなあ、今度、案内してもらえるかな。一度、レンスターは行ってみたいんだ」 そう言われるとは思っていなかったので、サラはどうしようかとしばらく考えていたが、ふとある考えにいたって口を開く。 「ねえ。それってデートに誘ってるの?」 とたん、ラエルは狼狽し、しどろもどろになった。 「え……、いや、その、あ、それじゃ、またね!」 ちょうど街の出口にきていたので、ラエルは走り出して街の外に行ってしまった。だが、走り出す直前のラエルの顔が真っ赤だったのをサラは見逃していない。 「別に、からかったつもりはないのだけど」 そういいながらも、クスクスと笑いが漏れてしまう。 その気持ちは嬉しかった。というより、彼が自分に好意をもってくれているのには少し前から気付いていた。 だが、それでもおそらく自分の正体を、出生を知ったら。 その時、ラエルにまで厭われたら。 でも、もしも。もしも受け入れてくれたら……。 「……さて、子供達が待ちくたびれちゃうわね」 サラは頭に浮かびかかった考えを振り払うように、やや駆け足で孤児院へと向かっていった。 |
その男は、暗い暗黒の中で蠢いていた。周囲に、同じような服装をした者達が、同様に蠢いている。 「見つけた………間違いない………」 おお、と小さな歓声が上がる。だが、それらもおよそ普通の人には喜んでいるようになど、感じられはしないだろう。 「再び我らの時代を。大陸を、あるべき姿に。我らの神の元で」 まるで呪文のように、中心にいた人物が呟いた。それに追従するように、周りの者達がそれを繰り返す。 「再び我らの時代を。大陸を、あるべき姿に。我らの神の元で」 |
ぱしゃ、と魚が勢い良く飛び跳ねた。すねの辺りまでしかない深さの川で、水が澄んでいることもあって川底もよく見える。 木々の間から降り注ぐ光には、春の暖かさかが前以上に感じられる。新緑の芳しい香が、少女の鼻をくすぐった。 本当は洗濯に来たのだが、水があまりにも気持ちよく、また今日は陽射しが強くて汗ばむような陽気だったので思わず川に入ってみたのだ。ちょっと冷たいが、だが気持ちがいい。 この辺りは、夏になれば水遊びをする子供達も多くいる。 もっとも、土手の向こう側に見えるトラキア大河のほとりで遊ぶ子供のほうが多い。あちらの方が深くてそれでいて流れが緩やかなので泳ぐことも出来るからだ。 サラは別にちょっと涼む程度なのでそこまではしない。あるいは、同じ年頃の女の子の友達がいればやったかもしれないが、残念ながらそれほど親しい友達はいなかった。孤児院の子供達には懐かれているが、どうも『友達』を作るのは苦手だ。あるいはそう肩肘を張るから悪いのかもしれない。ラエルは例外と言えた。 「そうしていると、まるで水の妖精みたいだね」 突然声をかけられて、サラは驚いて振り返った。予想通り、ラエルがいる。確か今日は狩りに行かずに、家で獲物をさばいている、と言っていたはずだが、あるいは彼も涼みに来たのか。 どうもいつもラエルの気配というのは感じにくい。あるいは、気配を殺さなければならない狩人だからかもしれないけど、彼が近くに来ても気付かないことが多い。その割に、一度近くにいる、と分かると今度は見てなくても何をしているか大体分かるから不思議だ。 ただこの場合、かなり子供っぽく水で遊んでいたのがなぜか恥ずかしく思えて、サラは顔を膨れさせた。 「いつも思うんだけど、急に話しかけるの、やめてほしいわ。びっくりするから」 別に本気で怒っているわけではない。なのに、ラエルはひどくすまなそうな顔になった。 「ご、ごめん。別に驚かすつもりがあったわけじゃないんだ。その、ごめん」 そうしおらしくされると、こちらの方が却ってすまなくなってしまう。サラはクスクスと笑って「別にそんなに怒ってないから」と言って川から上がる。 二人は並んで川縁に座り、冷たい水に足をつけた。 少し汗ばむような陽気になってきているが、それだけに水の冷たさが心地よい。 木々の間を抜ける風が、サラの髪とラエルの髪を少しだけなびかせる。 その髪が顔にかかるのを手で抑えながら、サラが口を開いた。 「でも、水の妖精なんて、ずいぶん詩的ね。ロマンチストとも言うけど」 「そうかな。本当にそう思えたんだけど。きれいで」 冷やかしたつもりなのに、こう返ってくるとは思っていなかった。思わずどきっとして、サラはラエルから目を逸らす。 真正面から、こんなことを言われるとひどく恥ずかしいし戸惑ってしまう。だが、言った方は平然としている。この間は、あれだけでも戸惑っていたくせに、こういうセリフは平気らしい。なんか、ちょっと悔しかったが、言い返せる言葉が咄嗟に出てこなかった。 サラが沈黙している間に、ラエルがさらに口を開く。 「この間の話……」 「え?」 「この間、レンスターを案内してって話。冗談じゃないよ。僕は、いろいろなところに行ってみたい。サラと一緒にね」 そしてラエルは、そっとサラの手に自分の手をかぶせた。その手の感触は優しく、暖かくて心地よい。彼の気持ちが、そのまま伝わってくるように。 もちろんその言葉の意味がわからないほど、サラも鈍くはない。 そのラエルの気持ちは、とても嬉しい。だけど、ラエルは自分の本当のところを知らない。あの暗黒教団の大司教、マンフロイの孫娘であること。もしかしたら、あるいは自分もその立場にあったかもしれないということ。 あるいは今ここで、そのことを告白すれば、彼ならば受け入れてくれるかもしれない。 そんな考えが一瞬浮かんだが、すぐに否定する。そんなことはありえない。まして、彼は暗黒教団によって両親を失っているのだ。 でも、彼にだけは嫌われるのは、嫌だった。だから。 「……ごめん……なさい……………」 サラは小さな声で、それだけを言うと洗濯途中だった衣類を集めて、半ば駆け足でその場を立ち去っていった。 「サラ!」 ラエルが呼び止めたが、もちろんサラは止まらなかった。 どこかで、期待していた幸福。だけど、それが叶わないものだと分かっていたのに。なのに、サラの目からは涙が溢れて止まらなかった。 とにかく泣きたくて、でも彼の前でだけは泣きたくなくて。ただ家に向かおうと走る。 その時。 突然目の前の空間が歪み、魔法陣が出現した。 サラはそれを良く知っている。≪転移≫の魔法のときに出現する魔法陣だ。そしてそれが、サラの持つ記憶の、もっとも嫌なものと、本能的に結びついた。 「誰?」 光が消えたその視界の中に、サラは久しぶりに見る、だが懐かしいなどとはとても表現できないものが現れた。 濃紫色の、禍々しいローブ。あの、暗黒教団の暗黒魔道士の部隊、ベルクローゼンであることを示すローブ。 「あ、あなた達一体……」 「サラ様。お迎えに上がりました。どうか、我らをお導き下さい」 ローブの数は四人。いずれも、かなりの力の持ち主であることは、容易に想像がついた。 同時に、何が狙いかは分からないが、自分を連れに来たようだということも分かった。だけど。 「一体何の用? 私には、あなた達と行動をともにする理由はないわ」 ここで気圧されたら、負けだ。 サラは自分に言い聞かせた。 だが、その時。 「サラ!」 そのときサラは、自分の迂闊さを呪った。振り返るまでもなく、ラエルが走ってきているのが分かる。だけど、今ここに来たら。 「来ないで!」 サラは鋭く警告の声を発する。 だが、その叫びはわずかに遅かった。ベルクローゼンの一人が手を躍らせると、そこに闇の波動が生じ、サラが対応しようとするより早く、彼女の横を通過していく。 「ラエル、避けて!」 言葉と、振り返るのは同時。だが、鍛えられた戦士ならともかく、ごく普通の街人であるラエルに、避けられるはずもない。しかしラエルは奇跡的にそれを避けていた。 「な、な……」 避けたというよりは、どちらかというと転んで偶然外れた、という方が正しいかもしれない。ただどちらにせよ、ラエルは完全に腰が抜けていて、立つことも出来そうにない。 「サラ様に近寄るな。この愚か者が」 四人のうちの一人が、吐き捨てるように言い放つ。 「サ、サラ。こ、これは一体………」 ラエルが恐怖で固まっているのを、臆病だと誹るのはあんまりだろう。 いくら記憶が薄れつつあるとはいえ、ユグドラルに住む者にとって、彼らベルクローゼンの記憶は、悪夢以外の何者でもないのだ。 「愚か者が。貴様のような下賎な輩が、我らが主であるサラ様に近寄るなど。その罪、万死に値する」 リーダー格の男が、再び魔法を撃とうとする。ここで撃たれたら、避けることなど出来そうにないラエルは、まず間違いなく死ぬ。それだけは絶対に止めなければならない。けど、それには………。 サラが迷っている間に、男は魔力を掌中に集める。もはや、考えている時間はなかった。 「待って………やめなさい。私が行けば、いいことなんでしょう。その人を殺すことはありません」 サラの言葉に、男は手に集めた魔力をそのままに、サラの方を振り向いた。 「それでは、マンフロイ様の血を引く後継者として、我らの統率者となってくださるのでしょうか?」 その言葉に凍り付いているのはもちろんラエルだった。 暗黒教団の大司教マンフロイの名は、すでに大陸中の人々が良く知っていた。大陸において、最も忌むべき名。そして、あの聖戦において倒れた、大陸全ての混乱の元凶。 ラエルに一番知られたくなかった事実であったが、こんな形で知られてしまうとは、サラも考えてもいなかった。だけど、今はどうしようもない。とにかく、ラエルを助けるには他に方法がないのだ。 「そう言ったつもりよ。だから、その人を殺す必要なんてないでしょう?」 サラはなおも語気を強める。 言外に、もし殺したらそのときは何をするかわからない、と言っているのだ。 男はなおもしばらく考えていたが、やがて納得したのか、掌中の魔力を拡散させる。 「御意。なればとりあえず、トラキア大河に船が待機しております。まずは、そちらへ」 それから男はラエルの方を振り返った。 「サラ様に免じて、今ひと時命を存えさせてやろう。感謝するのだな。街の者どももな」 そうして、ベルクローゼンは次々に≪転移≫で消えていく。 その言葉で、彼らはサラが抵抗しようとしたら、街の人たちを殺すつもりだったことを悟った。結局、どうあってもサラに抗う術はなかったのだ。 「さあ、サラ様」 最後に残った男が、サラの手を取ろうとする。 「いいわよ。自分で出来るから」 「では………」 男もまた、魔法陣の残光を残して掻き消えた。 「ラエル、ごめんなさい。大丈夫?」 男が消えてから、サラはラエルの傷を診ようと彼に近付いた。だが、ラエルはなかば反射的にあとずさる。 「サラ………嘘だろ? 君が………」 その言葉に込められた感情は、恐怖。そう。彼にとって、もうサラは、マンフロイの血縁者でしかない。それは、恐怖と憎悪の対象なのだ。それはなにより、彼の目がそれを物語っている。 サラは悲しそうに、差し出しかけた手を引き、顔をそらして空中に魔法陣を描き始めた。 今のサラは、もうラエルの顔をまともに見れなかった。 騙してきたわけではない、と思っても、やはり彼にしてみれば騙されたとしか思えないだろう。 もう、多分リーフ様にもセリス様にもマリータにもラナにも会えない。いや、きっと彼らと戦うことになるのかもしれない。 その想像は悲しかったが、今のサラにはそれ以上に、ラエルや孤児院の子供達とも会えなくなることが、そしてそれ以上に憎まれるであろう事が悲しかった。 けど、何を言ってもそれは弁解であり、そして彼らに受け入れられる種類のものではない。 サラはラエルの視線から逃げるように、呪文を紡ぎだす。 「ごめんなさい………ありがとう、ラエル」 サラはそれだけ言うと、呪文を完成させ、発動させた。 半瞬遅れて、サラの姿はその場から掻き消える。魔法陣の残光だけが、かすかにサラの足跡を残していた。 そして。 あとに残ったのは、ただ一人の青年の慟哭であった。 |
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