軽い浮遊感のあとに降り立った場所で、まだ浮いてるのかと思うほどサラはバランスを崩しそうになった。それを、先ほどの男が支える。その感触には、ラエルのような優しさも温もりも、欠片ほども感じられなかった。 「いいわよ。大丈夫だから」 サラはその手を、やや乱暴に振り解く。 どうやら揺れているのは船の中だかららしい。まだ明るい時間のはずなのに、まるで光を拒否するように船室は暗い。 一瞬吐き気がするほど、ここに何かが溜まっている気がした。 空気が澱んでいる。そういう表現が一番適切だろう。 「それは失礼いたしました。私はドゥオルと申します。一応、今はこの船を預かっております」 慇懃無礼を絵に描いたような会釈をすると、ドゥオルと名乗った男は先に立って歩き始めた。 ≪転移≫の波動の感じでは、先ほどの場所からそう離れているわけではないようだ。 あるいは、ここから逃げてしまえば――と考えなくもないが、それが無駄であることは分かっていた。 もう、ラエルに自分のことを知られてしまった。おそらく、明日にはもう街の人々にも知れ渡るだろう。 そのうち、その噂はトラキア中に広まる。『サラ』という人間がマンフロイの血縁であることが。 しかも、自分の容姿はかなり目立つ。紫銀の髪など、そうどこにでもいるものではない。 もうどこへ行っても、名を変えたところで無駄だろう。 セリスやリーフに保護を求めれば、おそらく彼らは助けてくれるだろう。けれど、いつかは彼らにも迷惑がかかる。 やはり、自分がどう変わろうとしても、自分のこの血の呪縛はついて回るのだ。 あの時。リーフとエーヴェルの声に導かれるように、光の中へ出れた、と思った。 祖父とも決別し、そしてその祖父が死に、全ての鎖から解き放たれたと思ったのに。 結局、今自分の目の前に広がるのは、あの暗い、闇の世界。世を呪い、呪詛を吐くだけの集団。 「サラ様。皆、サラ様をお待ちしておりました」 ドゥオルの声で、サラははっと立ち止まる。 暗い船室には、五、六人の蠢く闇が見えた。 かろうじて吐き気を抑えると、サラは彼らの前に立つ。 「サラ様。どうか我らをお導き下さい」 ドゥオルが、恭しく頭を垂れると、それに他の者も倣った。 (一体彼らは、何がしたくて………) 聖戦後、セリス王は元暗黒教団の者に対する不当な弾圧を厳しく禁じた。これは、他国も倣っていて、ロプトウスを絶対の神とする教義――というよりは狂気――に拘らない限り、彼らは不当に扱われることはない。 無論辺境ではそうもいかないことも多いが、総じて暗黒教団の者達は新しい社会に馴染んでいっていた。 となると、この者たちは、狂気を捨てられなかった者達だろう。 ロプト神を唯一絶対と崇めて、そしてその下僕として、世界を制することを望む者達。 本当はロプト神といってもただの竜族だったというのに、と思うが、この事実は十二聖戦士の神格化のために公表されていないのだから、知らなくても無理はない。けど、仮に知ったところで彼らは否定するだろう。 いずれにせよ、彼らにとっては、もうとっくに失われてしまった、遥か昔のロプト帝国の時代が真実の時代なのだ。一体彼らは、滅んだ帝国をいつまで大事に抱きつづけるのか。 けど、自分もそれを実践しなければならないのだろう。その認識は、今のサラには眩暈がするほど気持ちが悪くなるものだった。吐き気がして、頭がぐらぐらする。 「サラ様、どうかなさいましたか?」 サラを気遣って声をかけてくれているのかもしれないが、その声すらサラには耳障り以外の何者でもない。 「少し疲れました。私は休みます」 サラは、それだけ言うとさっさと船室から出ていった。 |
カタカタと。 全身が震えるのを止めることは出来なかった。 思い出すだけで。いや、その皮膚が覚えている感覚だけで。 震えは止まらない。 濃紫色のローブ。男の低い、まるで呪詛のような声。 そして、闇。 あの暗黒教団の大司教マンフロイの血縁だったという、娘。 とても信じられなかった。だけど、彼女は行ってしまった。 闇に誘われるように。 紫銀の髪が、光に透けるとまるで虹を描いているように美しかった。 初めて見たとき、本当に妖精だと思ったほどだ。 その美しさも、全ては偽りだったというのか。闇の正体を隠すための。 けれど。 「ごめんなさい………ありがとう、ラエル」 あの言葉は、一体なんだったのか。 騙されていた。そのはずなのに。 あの温もりは。あの笑顔は。 何が正しいのかすら、わからない。 恐い。 怖ろしい。 暗黒教団は、恐怖以外の何者でもない。 誰だって、死にたくはない。 死んでしまったら、全て終わりだ。 だけど。 このまま、この想いを抱えたまま。 それで、生きていられるのか。 それは、あるいは、死ぬよりも。 ―――そして―――彼は走り出していた。愛用の弓矢と、小剣を持って。 |
目を開けたとき、涙で袖が濡れているのに気がついた。 少しだけ眠っていたのだろうか。だが目覚めは最悪であった。 もう忘れたい思っていた、忘れかけていた闇の波動が、すぐ近くに感じられる。 あの、悪寒を感じずにはいられない波動。人間の、負の感情を凝縮したような波動が。 けど、これからずっとこの波動を感じて生きることになるのだ。その事実は、認めたくないが、だがどうしようもないのも分かっていた。 窓の外を見ると、月がその姿を半分だけ見せている。空はきれいに晴れ渡っていて、星が美しい。 今の自分と、あまりにも対象的に感じる。 ふと、かつて孤児院の子供達や司祭様、それにラエル達と一緒にハイキングに行ったことが思い出された。確かみんなで川に入って遊んだのに、ラエルだけは岸で見ていた。あとで聞いたら、かなづちだから、と恥ずかしそうに教えてくれた。 帰ってきたときは夕方だったけど、そのあとラエルと二人だけで星を見ていた。あの時も、確か半月だったように思う。 ラエルは星の伝説に意外なほど詳しくて、色々教えてくれて、二人で結局明け方近くまで話していた。 こう考えると、聖戦が終わってからの思い出のほとんどに、ラエルがいる気がする。気が付いたら、彼はずっと一緒にいてくれていた。 けど、もう彼と会うこともない。孤児院の子供達とも。街の人たちとも。ラエルとも。 ポタリ、と何かが木の枠に落ちる音で、サラは自分が涙を流していることに気が付いた。 どこかでこうなるのではないか、と怯えていた日々。それは、忘れかけた頃に突然やってきた。 これが、自分の現実なのだろう。 血の呪縛。 今までが、泡沫の夢。 ここから逃げることは不可能ではないが、そうなったら彼らはサラのいたあの街の人々を、ラエルを殺すだろう。それは、サラには到底耐え切れない。それに、きっともう自分がいられる場所もないだろう。だから、せめてここにいて、彼らの暴走を止めてみるしかない。 でも。 覚悟を決めたのに、涙は止め処もなく溢れていた。 「ラエル………ごめんなさい………」 少女の涙混じりの呟きは、静かに流れる川面に吸い込まれていった。 |
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