櫂が水を弾く音にすら、敏感になっている自分に気が付いた。 息が荒い。周りはあまりにも静かだ。 小船が水を切る音すら、遥か遠くまで届いてしまう気がする。 手足もこわばっている。だが、無理もないだろう。 もし、今ここでこの小船がひっくり返ったりしたら、泳げない自分ではまず助からない。まして、今は夜であり、誰も気付いてくれないに違いない。 頼りになるのは、半月の明かりだけ。 けど、それでも彼は慣れない手つきで必死に櫂を操り、遥か河面の向こうに見える船を目指していた。 あそこに、サラがいるはずだ。≪転移≫の術はそう遠くまでは移動できない、と聞いたことがある。ならば、あの場所から程近い場所にある船は、それだけなのだ。 音を立てないように、息を殺して近付こうとするのだが、呼吸や心臓の音で気付かれてしまうのではないか、とすら思えてくる。実際にそんなことがあるはずはない、と思ってもなぜかそう思うことが止まらない。 近くまでくると、船は意外に大きかった。幸い、かがり火を焚いている様子はない。どうやら見張りもいないようだ。 船に取り付くと、ラエルは甲板に上がれる場所を探した。 中型の帆掛け舟だが、今はもちろん帆は張っていない。 静かに、船にぶつかったりしないように必至に小船を操り、少し回ったところで、なんとか手をかけられそうな凹みが並んでいるのを見付けた。多分水面付近で作業するためのものか何かだろう。 ゴクリ、とつばを飲む。 この船にいるのは、サラ以外はおそらく人殺しなどなんとも思っていない者達だ。あの、暗黒教団の残虐さは、ラエルもよく知っている。 殺さなければ、殺される。 そう思ったとき、自分の手が、ものを持てないほどに震えているのに気が付いた。 人を殺す、ということ。考えてみれば、自分はこの手で人を殺したことはない。 かつて解放戦争に参加していたときも、ほとんど後方支援のみで、一度だけ前線部隊の援護のために弓部隊の一員として出撃したが、あの時は武器は弓であり、ひどく現実感を欠いていた。 だが、船の中では、当然弓は使い物にならない。一応持ってきてはいたが、もう使えないだろう。そうなれば、剣で人を殺すことになる。 それは、ひどく現実感がないように思えていたのに、体が分かっていたのか。震えは止まりそうにない。まして、自分が殺される確率の方が、遥かに高いのだ。 一瞬、このまま帰ろうか、とすら思いかけたとき、サラの最後の顔が脳裏をよぎった。そして、続けざまにサラのことが思い出される。この想いを封じ込めたまま生きていくことは、今ここで死ぬより、ずっと辛い。そう、思ったからこそ。 ラエルは震える手を引きちぎらんばかりの強さで噛んだ。 「今、ここで戦わなかったら、僕はきっと、ずっと後悔する」 呪文のように呟く。そして、震えの止まった手を、取っ手にかけた。 ゆっくりと、用心深く上っていく。船の縁から顔を上げてみたが、幸い周囲に人影はない。 出来るだけ物音を立てないように、ラエルは甲板に降りた。とりあえず物影に隠れる。 サラはどこにいるのだろうか、と考えかけた矢先に、向こう側から足音が聞こえて、一瞬心臓が止まるかと思った。数は複数。話し声がかすかにするが内容までは聞き取れない。ただ、声から二人だろう、と分かる。 殺さなければ、殺される。 まるで、呪文のように頭の中で繰り返した。そして、震える右手で小剣を握り締める。呼吸すら止める。だが、それでも心臓は激しく脈打っていて、その音だけで気付かれるのではないか、と思えてしまう。 足音と話し声はなおも近付いてくる。ここまでくると、話の内容を聞き取れたはずなのだが、ラエルは緊張していて話の内容など、はまったく頭に入ってこなかった。 やがて、自分の目の前を二つのローブ姿が通過しようとする。それは、間違いなくあの時見たベルクローゼンのローブだ。やはり、サラはここにいる。それが確信に変わった時、ラエルの震えが止まった。そして、その姿が、完全に背中を向けたとき、ラエルは飛び出していた。 その音に驚いて二人は立ち止まる。だが、まさかこんな侵入者がいるなど、思いもしていない二人の魔道士は、完全に反応が遅れた。そしてそこに、ラエルの小剣が振るわれる。 「がっ………!」 ラエルは元々小剣の扱いは狩りでなれている。その小剣は、狙い過たず一人の男の後頭部を斬り裂いた。ほとんど言葉すらなく、男は崩れ落ちる。 「貴様!」 声を出してくれるな、とは思ったがそんなものを相手が聞いてやる義理はない。ラエルは返す刃でもう一人の男の喉を斬り裂こうとしたが、紙一重でかわされてしまった。そして、男は距離を取りつつその手に魔力を集めようとする。 だが、魔法は発動に一瞬時間がかかる。その、ほんのわずかな隙に、ラエルは体勢を立て直す。 そして、闇の魔力が放たれるのと同時に、ラエルはその手の内側に飛び込んだ。放射状に放たれた闇が背中を少しかすめたのか、そこが焼けるように痛む。だが、ラエルはそのままの勢いで突っ込み、男に体当たりをする格好で剣を胸に突き刺した。 その切っ先が背中へと突き抜けたとき、男は絶命していた。 |
ドサッという何かが倒れる音で、サラは目を覚ました。 まだ眠ってからそう時間は経っていないようだ。窓から見える月の位置があまり変わっていない。 「何………?」 なぜか動悸が激しくなっている自分に、サラは気がついた。今寝ようと思っても、眠れそうもない。 甲板に出てみよう、と思ってサラはベッドから起き上がり、思わずぶるっと震えて肩を抱いた。 春とはいえ、夜は冷える。サラは部屋を見回して肩掛けをとると、扉を開けた。そのとき、一番見たくない男が扉の前に立っていた。 「どいて、ドゥオル。少し甲板に出たいの」 少し威圧するように、サラは語気を強めた。だが、ドゥオルはそれで怯んだようには見えない。 「申し訳ありません。ただ今、何事かが起きているようなのです。いえ、サラ様のお手を煩わすほどではありません。些末なことでございますれば。どうか、部屋でお休み下さい」 言葉こそ礼儀正しいが、その態度からは、何があっても譲らない、という意思が感じられた。 何があったか気になるから、無理に通ろうかと思ったが、別にそこまでする必要もない。なにより、この男と押し問答などやりたくなかったので、サラは部屋に戻ろうとした。だが、その時。 「サラ! どこにいるんだ! 返事をしてくれ!」 ほんの少し前に聞いた声。なのに、ひどく懐かしいと思える声。 「ラエル?!」 サラは驚いて振り返り、外に出ようとした。だが、その前にドゥオルが立ちはだかる。 「どいて」 「なりません、サラ様」 「もう一度だけ言うわ。どいて」 言葉と同時に、右手に力を集める。そこに、光の魔力が集まり、輝き始めた。だが、ドゥオルには動じた様子はない。 「あまり私の手を煩わせないで頂きたい………」 その時ドゥオルの目は、凶暴といえるほどの光を宿してた。 本能的に危険を感じたサラは、両手で顔を覆う。 直後。 凄まじい爆発音と共に、船室部の一部が吹き飛んだ。サラは思い切り弾き飛ばされ、船縁に背をうちつけて一瞬呼吸が止まってしまう。 よく気を失わなかったものだ。背中の激痛が、あるいは逆に意識を留めてくれたのかもしれない。 かすんだ視界が回復したとき、サラの視界には立っている人間は一人しか映らなかった。向こうにも何人かいるようだが、今の爆発でことごとく吹き飛ばされ、サラと同じようにどこかに体をぶつけたらしい。 「あなたはただ存在さえしてくれればよろしいのですよ。あとは、私が教団をまとめますから」 その、ただ一人立っているドゥオルは、まさに暗黒教団の司祭らしい邪悪な笑みを浮かべていた。 「あ、あなたは………」 「私はマンフロイ大司教を尊敬しておりました。そして、その大司教が倒れられたとき、私は誓ったのです。必ず、再びこの大陸の覇権を、暗黒教団が握ってみせる、と」 あるいは今まで言いたくて仕方がなかったのだろうか。恍惚とした表情でドゥオルは語り始める。 「あなたは、何も分かっていない。それが………」 サラはなんとか手をついて立ち上がった。外傷はたいしたことはないが、体のあちこちが痛んだ。あるいは、もしかしたら体の内側が傷ついたのかもしれない。けれど、こんなところで倒れているわけにはいかない。向こうに倒れている中には、ラエルもいるはずなのだ。彼だけでも、なんとしても助けなけたい。 それに。 この男は危険だ、とサラは本能的に感じていた。この男を、生かしておいてはいけない。なんとしても、この場で止めなければ。この男の、狂気とも思える野望が動き出したら、大陸が再び闇に包まれるかもしれない。 「それが、多くの人々を苦しめる。だから反抗される。それがなぜ、わからないの。ロプト帝国が、なぜ滅んだのか。考えれば分かるでしょう!」 サラはドゥオルを見据えて糾弾した。だが、ドゥオルは動じた様子はまったく見せない。 「サラ様。お戯れを。我ら暗黒教団は、神に選ばれた者なのです。我らは神の名の元、神に従わない愚か者達を正当に扱っているだけですよ」 ドゥオルは尊大に言い切った。その目はもはや、狂気に染まった者の目だ。 「マンフロイ大司教は、一つだけ過ちを犯しました。それは、ナーガの継承者であるユリア皇女を殺さなかったこと。ですが、私はそのようなミスはしない。ナーガの血を継承するものは、そしてそれに協力した者は、全て殺す。そして時を待ち、再びロプト神を降臨させる。そして私は、大司教としてこの大陸を征服するのです。すでに計画は動き始めている。もうすぐ、トラキア王は我らが復讐の刃にかかって、死ぬことになるだろう」 しかし狂気じみた声で高らかに宣言するように。ドゥオルは文字通り喚いていた。 狂っている。サラはそう直感した。だが、それは凶器を孕んだ狂気だ。あまりにも危険すぎる。 この場でなんとしてもこの男を止めなければならない。 今の言葉どおりならば、レンスターに暗殺者が向かっているのかもしれない。今リーフ王が死んだりしたら、それこそまたトラキア半島は混乱に陥るだろう。未だに潜伏しているであろう暗黒教団、それに旧トラキア王国の復活を願う者達などはまだたくさんいるのだ。 さらに、この狂気は、あるいは己すら顧みずに、その邪悪な意思だけで全てを破壊しようとするだろう。そしてそれは、大陸中の人間を、不幸に陥れる。そして何よりも、今目の前にいる親しい人までも! 「あなたを放っておくことは出来ません。マンフロイの孫として命じます。直ちに愚かな計画を止めるのです」 だがドゥオルは、そのサラをまるで憐れむような目でねめつけた。 「サラ様。勘違いをされては困りますぞ。あなたは暗黒教団の象徴としているだけで結構なのですよ。実際には、私が全てを統率しますから。ただ、私では大陸各地に潜伏する同朋達を呼び寄せるには、やや弱いのでね。そのためのあなたなのですが……」 ドゥオルの瞳の色が、変わった。狂気から、殺気へと。 「そうも抵抗されるのであれば、止むを得ませんね。申し訳ないが、一度死ぬ思いをしていただきましょう。いえ、大丈夫です。そのあとの傀儡の術をかけますので」 サラは一瞬あとずさった。 傀儡の術は、サラも存在だけは知っている。人の精神を閉じ込め、操り人形にしてしまう術。祖父マンフロイが得意としていた術で、あの聖戦の最後の戦いで、ユリア皇女を操り、同士討ちをさせようとした術だ。 「私は残念ながら、生命力のひどく弱った対象にしかかけられないのですよ。というわけで申し訳ありませんが……」 サラが横に跳ね飛ぶのと、サラがいた場所に闇が炸裂するのは、ほぼ同時だった。 一瞬前までサラが立っていた場所はこなごなになった船縁があるだけである。 「ほう。さすがはマンフロイ様の血を引くだけのことはありますな。だが、その体でいつまで避けきれるのか」 ドゥオルは立て続けに魔法を放つ。サラは避けるのがやっとだった。 「さあ、いつまで続きますかな?」 ドゥオルは愉快そうに笑っていた。 |
不思議と、震えはなかった。だが、心は震えていた。いや、あるいは、もはや震えすぎて麻痺しているのかもしれない。 立て続けに聞こえてきた会話は、その全てが彼の心を砕くに、十分なものであった。 目は開いているのに何も見えない。聞こえてくる言葉も、そしてそのあとから続いている爆発音も、ひどく現実離れしているように思う。。 一体自分がなぜここにいるのか。何をしに来たのか。 自分は一体誰なのか。 思い、出せない。 ただ、何か大切なことがあったはずである。 体中が痛む。 感覚がないが、左腕は折れているようだ。 だけど、そんな想いをしても、しなければならない何かがあったはずだ。 けど、思い出せない。 一体、何をしようとしていたのか。 一体、自分はなぜここにいるのか。 分からない。けれど、思い出さなくてはいけないのに。 そのとき。 かすかな月の光が、視野に飛び込んできた。その銀色の光だけで、視界の全てが埋まる。 銀色の、光の闇。 明るいのに、なぜか暗いと思わせるその光の中。 その中に彼は、突然銀色ではない銀色を見た。 かすかに紫がかった、銀。 そうだ。 まだ自分が両親を失った悲しみに沈んでいたとき。 美しい満月の夜に、妖精に会った。 月明かりの中、その長い紫銀の髪を揺らす、美しい妖精に。 そして、そのときから、自分はずっとその妖精――少女を見ていた。 どこかか細く、儚げで。でも時々見せる笑顔ははっとするほど美しく、愛らしいくて。 子供達に慕われ、やがてよく笑うようになったけど、でも時々見せる沈んだ表情。その、原因を取り除いてあげたい、と思っていた。 いつからか、誰よりも愛しい、と思うようになっていた。 その、少女の名は―― 「ははははは。サラ様。いいかげん、諦められたらどうですか?」 その声は、突然近くで聞こえた。急激に全ての感覚が戻ってくる。全身がひどく痛んだが、だが動けないわけじゃない、と自分を叱咤する。 そして、ひどく痛む体を動かして顔を上げると、月明かりの中に闇に染まったようなローブ姿が見えた。 そしてその向こうには――傷ついた妖精がいた。光で、その身を必死に守っている少女が。 「いつまで持ちますかな。その障壁が」 手前に見える男は、その手から次々と何かを放っている。それが障壁と激突する度に、少女の――サラの顔が苦痛に歪んでいた。 そうだ。 自分はサラを助けに来たんだ。もう、サラから逃げたりはしない。サラがたとえ誰の孫であろうとも、誰の血を引いていようとも、サラはサラだ。 それは、絶対に変わらない。 サラがいない未来など、考えられない。だから、自分はここに来ているんだ。 体は、まだ動く。そして、目の前の男は自分に全く気付いた様子はない。 手に剣はもうないが、だが、まだ出来ることはある。 ラエルは残っているわずかな力と勇気を振り絞り、体を動かした。 |
「やれやれ。しぶといですな。サラ様。ですが……」 男――ドゥオルは両手を合わせ、今までより遥かに大きな力をそこに集める。サラは思わず息を呑んだ。 すでに光の障壁は限界に近い。だが、もう体が動かなくて、避けるだけの力も残っていない。最後の力を集めて攻撃に転じてみても、おそらくあの闇の力に弾かれてしまうだろう。 (ごめんなさい、リーフ様。ごめんなさい、みんな……) サラの幸せを祈ってくれた、かつての仲間であり友達。けど、こんなところで死ぬことになるとは、思わなかった。いや、正確には死にはしないのだろうが、でも死んでいるのと同じだ。 しかも、その状態できっと彼らと戦うのだろう。でも。 そんなのは嫌だ。絶対に。それならば、せめて、自分の手で自分を……… 「ごめんなさい、ラエル……」 「諦めるな!」 サラはその声に驚いて顔を上げた。 「な、き、きさま。まだ……」 ラエルが、ドゥオルに背後からしがみついて羽交い絞めにしている。 「おのれ、離せ!」 だが、ラエルはなんとか振り解かれないように必死に掴んでいた。よく見ると、左腕は明らかに折れているのに、それでもなんとか押さえ込んでいる。 「サラ! いまのうちに!」 サラはラエルに言われて、慌てて力を集めた。傷のせいか、ひどく力が集中するのが遅い気がする。まるで、無限の時間の中にいるようだった。 そして、どうにか最後の力を振り絞って集めたとき、サラはそれを撃てないことに気がついた。このままでは、ラエルも巻き添えにしてしまう。 「ダメ、離れて、ラエル」 「僕に構うな! 撃つんだ!」 「ダメ!」 魔法は剣と違う。一人だけを器用に狙う、というのは非常に困難だ。まして、こんな消耗した状態では。 「僕は死なない! 撃つんだ、サラ! こいつを放っておけないだろう!」 その言葉に、サラはビクッと反応した。 そうだ。ここで今この男を倒せなかったら。遠からず大陸は再び混乱に陥れられる。それだけは、絶対にさせてはいけない。 サラは手に集めた力を更に集中させ、ドゥオルに向けた。 「よ、よせ、やめろ、やめろーーーー!!!」 サラの手から、光が放たれた。それは狙いを過たず、ドゥオルを直撃し、弾ける。 「ぐあああああああああああああ!!!!!」 夜のトラキア大河に、絶叫が響き渡った。 |
ぼんやりと霞んだ視界の中で、光の向こう側にぼんやりときれいな妖精の顔が見えた。 とてもきれいなのに、その顔は涙でぬれてしまっている。何かを言っているようだが、その声はひどく遠い。きれいな声のような気がするのに、もったいない――。 「ラエル、しっかりして、お願い!」 突然、近くに聞こえた声に、ラエルは驚いて目を開けた。目の前に、涙にぬれたサラがいる。 「う……サ、サラ?」 「良かった、良かった………」 サラはそのままラエルの胸に倒れこむと、泣き崩れた。体中がひどく痛むが、だがそれが、今生きていると実感させてくれる。 いつのまにか夜が明けていたらしい。河面に朝日が反射して、金色に輝いている。まだあの船の上のようだ。 夜のことは、まるで夢だったのではないか、とも思えるのだが、今体中が痛むのは、間違いなくあれが現実だったことの証だろう。なにより。 今ラエルの胸の上で泣いているサラは、間違いなく現実である。それが、ラエルにはとても嬉しく思えた。 「サラ………」 まだ泣きじゃくっているサラの頭を、ラエルは優しくなでた。 「ラエル、無茶しすぎよ。なんで、こんなことを」 サラはその涙も拭かずに、責めるようにラエルを睨む。 だが、それに対するラエルの返事は、もう決まっていた。 「言っただろう?」 ラエルはなんとか右腕で上体を起こそうとする。サラが助けてくれたので、なんとか壁に上半身を持たれかけさせた。 「僕は、君のことが好きなんだから」 ずっと言えなかった言葉が、今のラエルには素直に言えた。 その言葉は、サラにはとても嬉しい。けれど、彼はもう自分の正体を知ってしまったはずなのに。 「でも、私は………」 言いかけたサラの唇に、ラエルが指を当てる。サラは少し驚いて、その先を言葉を続けられなかった。 「サラは、サラだ。僕にとっては、誰よりも大切な、ね」 そしてラエルは微笑もうとして、失敗した。傷の痛みに、思わず顔を歪ませてしまう。 サラは慌てて治癒の魔法をかけながら、ラエルの表情を覗き込んだ。 「いいの? だってもしかしたら、またこんなことが………」 サラにとって、何よりも恐いのがそれだ。巻き添えになって誰かが傷つくのが、一番恐かったのだ。 もう、こんな思いはしたくない。 だけどラエルは、いつもの優しい笑顔を浮かべてくれて。 「そのときは、二人で立ち向かおうよ。それともサラは、僕が嫌いかい?」 サラは思わずぶんぶんと大げさに首を振ってしまった。 「そんなことは、ない、けど………」 それでも、自分と関わることはほぼ確実に不幸になる。それがわかっているのなら、やはりもう人には関わるべきじゃない。 「だったら、僕は大丈夫だ。一緒に、幸せになろうよ」 ラエルは優しくサラの手をとると、ゆっくりと自分の手をそれに重ねた。その手からは、今まで以上に彼の気持ちが伝わってくる。 「一緒に、幸せに……」 ――きっと、あなたを受け入れてくれる人が、どこかに必ずいるから―― 今までに、幾度となく言ってもらっていた言葉。その意味が、今ようやくわかったような気がした。 自分だけじゃない。自分と一緒に、幸せを掴もうとしてくれる人―― 「私で………いいの?」 ひどく恐れるように。けれど、目を逸らさずにサラはラエルを見つめて訊いた。 それにラエルは、これまでサラが見てきた中で、一番素敵な笑顔を見せた。 「君が、いいんだ」 ラエルはサラを抱き寄せる。サラは抵抗せずに、そのままラエルの胸におさまった。 二人の距離が近くなる。サラは小さく何かを呟き、ラエルはそれに、笑顔で応えた。 お互いがお互いに触れ合い、抱きしめ合う。 春の陽射しが二人を優しく照らし、トラキア大河の流れが、静かに二人を包み込んでいた。 |
きっと二人で、幸せになろうね――。 |
第三幕 | 後書き |
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