こぼれる想いを抱きしめて 第二幕



 トラン共和国首都グレッグミンスター。この地が赤月帝国と呼ばれていたのは、も

う四年前になる。そのときの解放戦争で荒れ果てたこの街は、いまやその国威を表す

がごとく美しい街並みを見せている。

 元から強大な国家であった上、今の共和国になってからの国としての結束も固く、

国の隅々までその治世は行き渡っている。おそらくその勢力はハルモニア神聖国に匹

敵するのではないか、とは多くの人の論じるところだ。その二つの国に挟まれている

デュナン国が、果たしてどうなるのか。それは国政の舵取りをしているシュウに全て

がかかっているのだが、そこまでは今、この街の入り口に立つ少年が気にする必要は

なかった。自分は少なくとも、その責務からは解き放たれたのだから。

 改めて、街を見回す。さぞかし今自分は、田舎者に映っているだろう、という自覚

はあったが事実であるので気にはしない。

「すごい、な。ルルノイエもすごいと思ったけど、ここはそれ以上だ」

 街を行く人々の顔は皆明るく、翳がない。果たして自分が仮にあの戦争で勝利した

としても、これほどのことを出来るのだろうか、とふと思ってしまう。

 ――過ぎたことを思っても仕方ないな――

 想いを振り払うように、彼は足を前に進めた。風が、彼の金色の髪をなびかせる。

ハイランド皇国最後の皇王は、ブライト皇家の人間として初めて、グレッグミンスタ

ーに足を踏み入れた。

 

 陽が落ちつつある時刻、その家の主、レイ・マクドールはベランダに出て地平に沈

み行く夕陽を見つめていた。朱い、地に落ちるその太陽の最後の光は、かつては血の

色を思わせたが、今はそういうことはない。穏やかな時、というのは人の心を癒すの

かもしれない。

 少しの間だけのつもりだったのに、結局この家に一年近く留まっている。思い出の

染み付いた場所は辛いと思っていたけど、それよりも彼らのことを忘れる方が辛いと

いうことに気が付いたからだろうか。ここには、父や親友との思い出がたくさんある

から。

 もっとも父を慕っていたソニア将軍などは、グレッグミンスターにいる方が辛い、

とかでほとんどを水上要塞シャラザードで過ごしている。悲しみの癒し方、というの

は人それぞれなのだろう。

「坊ちゃん」

 いつもの聞きなれた声で呼ばれて、レイは振り返った。そこには予想した通り、グ

レミオが立っている。

「坊ちゃんを訪ねてこられた方がいます。お通ししますか?」

 一瞬、誰だろう、と思ったが思いつかない。ここに落ち着くようになってからは、

レパントがよく訪ねてきていたが、最近はどうやら忙しいらしくあまり来ない。どう

もデュナン国との交渉が大変らしい。前にレイ自身が協力していた時に、確か向こう

の代表になっているシュウという人物には会ったが、確かにあれは難物だろう。

 だが、レパントは来る場合必ず先に連絡を入れる。となるとレパントではない。さ

すがに、これだけでは誰が来たのかなど分からなかった。

「いいよ。通して。あと、何か飲み物を頼むよ」

「はい」

 グレミオは一度お辞儀をすると、屋敷の中に戻っていく。ややあって、彼に付き添

われてきた人物は、レイの記憶にはない人物だった。やや細面な、美男子といってい

い顔立ちだ。長い金色の髪を後ろで一つに括っているのは、動きやすくするためか。

 ふと、その容姿とレイの記憶の何かが結びついた。

「では、今飲み物を持ってきますので」

 グレミオが屋敷の中に戻る。案内された少年は、やや所在無さげに佇んでいた。

「そこに突っ立っていても仕方ないだろう、座るといい。ジョウイ君」

 その言葉に、少年ははっきり分かるほど驚愕している。

「な、なぜ分かったのですか?ぼくはまだ・・・」

「いや、デュナン軍に協力していた時に、セリオ君から色々と君のことも聞いていて

ね。もしかしたら、と思ったんだよ。・・・ああ、グレミオ。そこに置いておいてく

れていいよ。ありがとう。それから、夕飯は彼の分も頼む」

 後半は再びベランダにきたグレミオに向けられたものだ。彼は冷たい無花果水を水

差しに入れ、コップを二つ置くと「分かりました、坊ちゃん」といって再び屋敷に戻

っていく。

「・・・セリオから少し話に聞いてはいましたが、さすがですね」

「そうでもないさ。立っている相手に話すと首をずっと上に向けてないといけないか

ら、座ったらどうだい?」

 ジョウイは素直に勧められた椅子に座った。あらためて、目の前の人物を見る。

 弱冠十六歳にして、この強大なトラン共和国の建国の礎となった人物。そして、そ

の戦いが終わったと同時に、姿を消した『幻の英雄』。ジョウイ自身、伝わってくる

逸話から、すごい人だと思ったものである。見た目には、自分と年齢の変わらない普

通の少年に見えるというのに。

「それで、ぼくに何を聞きにきたのかな?」

 改めて聞かれると、一瞬たじろいでしまう。ジョウイは一度呼吸を整えるように深

呼吸をして、それから言葉を選ぶようにゆっくりと訊ねた。

「あなたは、なぜ戦いが終わった後に姿を消したのですか?」

 するとレイは、文字通り苦笑した。

「なかなか鋭いところを聞いてくるね」

 レイは苦笑しつつしばらく夕陽を見つめていたが、やがてゆっくりと振り返る。

「・・・ぼくは、出来るだけ人と関わりたくなかったんだ。この・・・」

 そういってレイは右腕の手袋を外す。そこには、一つの紋章が描かれている。

「このソウルイーターの力は聞いてるかい?」

「いえ・・・。生と死を司る紋章である、とか闇の紋章の祖である、くらいしか知り

ません」

「この紋章はね、意思を持っているんだ」

 ジョウイは一瞬驚いたが、考えてみれば不思議ではない。世界の創世に関わったと

いう真の紋章であれば、あるいは意思があっても当然なのかもしれない。

「そして、この紋章は名の通り、魂を求める。それも、宿主に近しい人の魂をね」

 その瞬間、ジョウイは寒気を感じていた。ぞくっとするほどの恐怖を。

「実際、この紋章は、ぼくの父や親友の命を喰った。だからぼくは、国を出た。これ

以上、この紋章に人を喰わせないために」

 淡々と話しているが、その内容たるや、凄まじく恐ろしいものである。人を喰らう

紋章。紋章とは、人の力になるものだと思っていたジョウイにとって、それは衝撃的

な事実であった。

「けど・・・けど、あなたはセリオに協力した時に、その力を少なからず使ったって

聞いています。それは・・・」

「確かにこいつは、邪悪な意思を秘めている。けど同時に、父さんやテッド――ぼく

の親友の魂も眠っている。そしてなにより、この紋章はその親友が託してくれたもの

だ。だから邪悪なものではない――。グレミオが、そう言ってくれた」

 その言葉にはグレミオという人に対しての、全面的な信頼感が伺える。いや、信頼

という言葉だけではくくれない、強い何か。それを感じずにはいられない

「そしてテッドなら、あの時セリオ君に協力して、戦いを早く終わらせるようにした

だろう。だから、ぼくはセリオ君に協力した。それがぼくの、真の紋章を受け継いだ

者の義務であるとも感じたから。そしてなにより、もう何かを失って悲しむ人を見た

くなかったから」

 ジョウイは改めて、レイ・マクドールという人物の強さを知った気がした。単に所

有している紋章や、武力などではない。この人は、自分の過去や悲しみにとらわれる

ことなく、未来を進む力を持っているのだ。

「それで、君は何かを失ったのかい?」

 いきなり質問されて、ジョウイは戸惑ってしまった。

 何にも代えて守りたいと思った、セリオとナナミ。だが結局、彼らを守ったのは彼

ら自身である。本来なら、あるいは途中で、少なくともルカ・ブライトをセリオ達が

倒した時点で戦いを止めるべきであった。デュナン軍と和睦を結び、戦争を終わらせ

る。それが出来なかったのは、彼ら以外に、失いたくない何かを手に入れてしまった

から。そしてそれを守るために、戦いつづけるしかなかったから。

「ブライト王家の最後の一人として、責任を果たす、それが君の選んだ道かい。その

紋章は決意の表れかな?」

 ジョウイは一瞬驚いて右手をかばってしまった。考えてみれば、何ら後ろめたいこ

とはないのだが、だが反射的に取ってしまった行動である。

「真の紋章の共鳴、というのかな。なんとなく分かったよ。それにそいつとは、一度

戦っているしね」

 ジョウイは観念したように右腕につけていた手袋を取った。そこには、銀色の紋章

がある。

 ブライト皇家に伝えられし、破壊と守護を司る獣の紋章。かつて、ルカ・ブライト

がミューズでその力を、人の血を持って解放し破壊の魔獣を目覚めさせた、その紋章

である。そしてジョウイが自らの命をかけて抑えていたものである。

「ルルノイエの瓦礫の中に、まだ残っていたのです。本来これは、ブライト皇家のも

のですから、ぼくが持っていておかしくはないでしょうし」

「それで、それをもってどうするんだい?」

「迷っています」

 ジョウイは素直に言った。どうせこの人にはごまかしは通用しそうにない、と判断

したのである。

「ハイランド皇国は滅びました。それは間違いありません。その意味では、このぼく

が『ジョウイ・ブライト』として存在しようというこの行為は間違いなのかもしれま

せん。けど、ぼくはいつまでも逃げるわけにいかない、と思います。だから、この紋

章を継承しました。でも、この先何をすべきか。それが、わからなくて・・・」

「では聞くが、君はなぜ皇王となってまで親友と戦ったんだい?正直、状況を見る限

り、君が皇王とならずにいれば、多分デュナン軍はそのままハイランドを滅ぼしただ

ろう。事実上、君が戦争を長引かせたといっても過言ではない」

 本当に痛いところを突いてくる。ジョウイは臍(ほぞ)を噛んで俯いていた。

「セリオとナナミと同じくらい・・・守りたいものがあったんです。そしてそれは、

ぼくが皇王にならなければ守れないと思ったから・・・」

 そこでいきなり、レイは立ち上がっていた。

「そろそろ夕飯が出来る頃だ。君も今日は泊まっていくといい。部屋は無意味にいっ

ぱいあるからね」

 そう言うとすたすたと屋敷に戻っていく。そして、扉のノブに手をかけた状態で、

彼は一度動作を止めた。

「ジョウイ君。君がまだ守れるものがあると思うなら――そして君が親友と争うこと

になっても守りたいと思ったものなら――それは決して間違いじゃない。人は生きて

いる限り、多くのものを得て、そして失っていく。でも、両手ですくった水の、ほん

のわずかな雫でも、大切だと思えるものがあるのなら、零れ落ちる前に守れるなら、

守ることで人は強くなれる。その想いが、真の紋章を変えていく。ぼくはそう思って

いるんだよ」

 ジョウイが顔を上げたとき、レイはすでに屋敷の中に入っていた。

「ぼくが、守る、もの・・・」

 グレッグミンスターの風は、なおも優しくジョウイを包んでいた。



第三幕

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