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聖夜に降りる天使 第一話




 空を飛んでいた。
 飛べることは、奇妙には思えなかった。自分の体を支えるのは、光の翼。そんなものがあるはずはない、とどこかで考えているのに、それは不思議でもなんでもなかった。
 なぜなら、それはあって当然のものだから。
 大地は遥か下にあって、太陽の輝きを受け、緑の大地が宝石にも似た輝きを放っていた。
 一体どこだろうか。
 どこまでも続く緑の大地の中の、わずかに開けた場所に家らしきものも見える。人影は見える気もするが、あまりにも遠くてよく分からない。
 どこまでも高く、速く。
 その時になって、何かから逃げていることに気がついた。
 何かが、背後から来る。それから逃げている。
 けれど。
 あ、と思った。
 背中に、焼けるような痛みに似た衝撃が走る。
 そして、世界が回る。
 見る見るうちに、大地が大きくなる――。

「きゃあっ」
 がば、と。
 文字通り、布団を跳ね上げて飛び起きた。
 ぐっしょりとかいた寝汗で、肌に張り付いたパジャマが気持ち悪い。
 呼吸も荒い。
 背に感じた痛みは、あまりにもリアルだったが、それが夢であるのは明らかで、実際今は何の痛みもない。
 呼吸が落ち着くと同時に、ぶる、と身震いした。当たり前だ。今は十二月も半ば、いくら地球温暖化が叫ばれようが、十二月ともなれば、寒いことに変わりはない。
 時計を見てみると、午前五時半。外はまだ暗く、そして一番冷え込む時間である。
「寒っ」
 まだ学校までは早い。だが、一度冴えてしまった頭は再び眠りに落ちてはくれそうにない。加えて、昨日は久しぶりに二十三時に寝た。睡眠時間は十分だ。それに、横になっても汗が気持ち悪い。
「うん、シャワー浴びちゃおう」
 声を出したのは、少しだけ心細かったからである。半年前まで、家族四人で一緒に住んでいた家に、今は一人だ。慣れたとはいえ、真夜中などは少し心細くなることがある。
 ベッドから出ると、風呂場に行く。汗で濡れたパジャマを脱ぐと、そのまま洗濯機に放り込んだ。
 少しだけ温度を高めに設定したシャワーは、先ほどの夢の感覚を、眠気と一緒に流してくれるようであった。

 ――見つけた――

「み〜の〜り〜〜、何呆けてるのっ」
「み、水希っ、危ないって」
 がば、と。そんな音でもしそうな勢いで、同級生の篠崎水希が、首に抱きついてきた。重心はかろうじて前よりだったので、引きずり倒されるのを、かろうじて堪える。
「だって、美典、ぼーっとしてるんだもん。隙だらけだから、つい」
「隙だらけって……あのねぇ」
 呆れたように言いながら、水希を引き剥がすと、彼女に向き直った。その水希は、悪びれもせず、くすくすと笑っている。ショートカットより少し長めにカットされた髪が、それに合わせて少しだけ揺れる。
「でもホントに呆けてるわよ? やっぱ、受験がもう終わっちゃって、気が抜けた?」
「別にそうじゃないわよ……ちょっと夢見が悪くて、ね」
「夢見?」
 水希は好奇心を全開にして身を乗り出してきた。
「うん、あのね……」
 口を開きかけた時、ホームルーム開始を告げる鐘が鳴り響く。それを待っていたかのように、担任の津崎先生が入ってきた。
「あ、あとでね」
「うん」
 それだけ言うと、二人は自分の席に着いた。

 今度こそ――逃がしはない――

 天城美典は、十八歳になる普通の女子高生である。
 いや、現在の生活環境は、普通とはやや異なるだろう。
 一人暮らしをしている女子高生は、多くはないが一般的だろうが、3LDKのマンションを一人で占領して過ごしている女子高生は、非常に少ないに違いない。
 これは別に、彼女の家が特別に豊かであるわけでは、ない。
 また、両親を亡くして、遺産としてそのマンションを受け継いだ、というわけでもない。
 今年の五月までは、同じマンションで家族と過ごしていたのである。
 父和樹は、警察のいわゆるキャリアだった。
 ただ、やや実直なきらいがあることと、本人が元々警察庁にいるよりも地方警察の現場にいることを――キャリアにあるまじきことに――好んだため、神奈川県警へ出向し、戸塚警察署の署長を務めていた。それでも順当にいけば、神奈川県警の本部長も間近だったのだが、いきなりそこで警察を辞めてしまった。
 別に、他意があったわけではなく、家業を継ぐことにしたからであるが、出世レースに嫌気が差したのではないか、と美典は思っている。
 天城家は、元々は岐阜県出身の士族らしく、一応本家らしい。家系図を辿ると、平安期あたりまで遡れるらしいが、これは怪しいものだ、と思っている。その様な古い家柄ではあるが、旧態依然とした堅苦しい風習などほとんどない。家業というのは造り酒屋で、これは酒通の間で人気らしいが、お酒をあまり――家が家なのでたまには飲んでいた――飲まない美典は、良くは知らない。ただ、自分の実家で作ったお酒が一番美味しい、とは思っている。
 そんなわけで、突然岐阜に引越し、となったわけなのだが、その時美典はすでに高校三年生で、受験も控えていた。
 結局家族会議で、美典だけがこちらに残って、両親と妹――まだ小学六年生――だけ岐阜に行くことになったのだ。元々美典の志望校は関東の大学だったので、いずれは一人暮らしをすることになるのだから、早くても問題はない、と言ったのは放任主義を自認する父だった。
 で、新たに部屋を借りるのも面倒だし、家のローンももうそれほどなかったことから、美典はそのまま、それまで家族で住んでいた家に一人で住むことになったのである。
 JR戸塚駅から歩いて十分程度で、春になると桜がきれいな柏尾川沿いにあるこのマンションは、美典も気に入っていたので、この決定は喜んだ。以前から、一人暮らしをしてみたい、という願望があったというのもある。
 そんなわけで一人残った美典だが、受験は早々に終わってしまった。
 第一志望の大学の学部が、今年から一般推薦入試を実施していたので、出願したら合格してしまったのである。英語は得意だったから、受験にはそれなりに自信はあったが、志望しているのは社会学系であり、これは予想外だった。
 というわけで、本来の高校三年生が受験勉強に勤しむこの十二月に、美典は一人暇な時間を持て余すことになったのである。
「よーやく終わったー疲れたー」
 一日の最後の授業の終わりを告げる鐘が響き、教師への礼が終わると、篠崎水希は「疲れた〜」と両手を机の上に投げ出した。
 掃除当番に当たっている生徒以外は、めいめい、下校の準備を整え、帰りのホームルームに備えている。
 さすがにこの時期になると、参考書や単語帳を広げている生徒が多い。
 美典らが通う桜台高校は、公立の学校で、地区のトップ校ではないが、進学率はほぼ百パーセント近い数値を誇る学校で、地元でもそこそこに優秀な生徒が集うということになっている。そのため、これから受験本番となる生徒達は、勉強に余念がない。
 今日は十二月二十日。すでに授業などほとんどなく、二年生以下はもうすぐ始まる冬休みを楽しみにしているが、三年生にそんな明るい冬休みなどというものはない。一部を除いては。
「お疲れ、水希」
「美典はいいね〜。受験終わってて」
「それはそうだけど……逆に居にくいわよ、ちょっと」
「あ〜、まーねー」
 そういう水希も受験はこれからなのだが、実は彼女の成績は学年でもトップクラスである。美典も成績上位者の常連ではあるが、彼女より高い点を取ったことがあるのは英語だけだ。これは、子供の頃に英国で暮らしていた経験があるからである。
 美典と水希は、この学校の入学式で出会った。クラスが一緒で、席が隣同士だったのだ。それで、仲良くなって、気付いたらもう三年である。
 特に、美典が一人暮らしになってからは、何回か泊まりに来たこともある。
「で、今朝見たっていう夢。その、痛みを感じたあとは?」
「何もなし。そこで目が覚めたもの。でも、すっごい怖かった」
「う〜ん。ドラマがないなぁ、ダメよ、そんなんじゃ」
「あのねぇ……夢に文句言ってよ」
 美典が呆れたように言い、水希はころころと笑った。
「今日は、美典は?」
「普通に帰るわ。水希は?」
「私も。家帰って勉強〜。あぁ……灰色の受験生活……」
「まったく……でも大丈夫? なんか疲れてない? 受験以外で心配事があるんじゃ……」
 その言葉に、水希は一瞬目を見開いて、それから「そんなことないって。勉強疲れ」と言って笑う。
 それを合図にしたかのように、津崎先生が入ってきた。
 進学校の割に、この学校の教師はどこかのんびりしたところがあるのか、生徒の勉強を煽るようなことは言わない。あるいはこの津崎先生だけがそうなのかもしれないが、その彼女が、進路指導担当だというのだから、他の教師は推して知るべし、である。
 だが、この学校もあと三ヶ月ほどでお別れだ。そう思うと、美典は、一抹の寂しさを感じずにはいられなかった。

 ――まだ目覚めては――ならば――好都合――

 最寄り駅であるJR戸塚駅のホームに降り立ったのは、午後六時過ぎだった。思ったより遅くなってしまった。
 帰りにちょっとだけ、と体育館の下にある道場を覗いたのが失敗だった。
 三年生は、基本的に夏休みで部活動は引退する。それは美典も例外ではなかったのだが、すでに受験という関門を終えてしまった美典は、実は結構時間を持て余す身分である。
 なので、ちょっと覗きにいったのだが、そこで捕まってしまったのだ。
 美典が所属していたのは空手部である。最近の健康ブームと格闘ブームで、それなりに流行ってはいるが、それでも公立高校には空手部はあまりあるものではない。この空手部は、美典が入学する一年前に同好会として発足したものである。
 美典は、父の影響で空手を子供の頃からやっていた。父の母、つまり祖母の実家が空手道場で、父も昔そこで空手をやっていたという。その延長で空手部がある、と聞いて入ったのだが、その時に部員が激増した。
 原因は他でもない、美典本人である。
 あまり自覚はないが、美典は十人中、男性ならほぼ全員、女性でも七、八人は一瞬振り返って確認するほど整った容貌の持ち主なのだ。
 その甲斐あってか、美典が三年の夏の大会では、団体で県大会の準決勝まで進むことが出来た。
 ちなみに、美典は出ていない。父の言いつけで、大会等に出ることは許されなかったのだ。もっとも、美典自身もそういうものには興味はなかったが、部員達はそれを悔しがった。美典の実力は、空手部内でも抜きん出ていて、というよりは、誰も相手にならないほどに強かったのである。
 準決勝は決定戦で敗れたのだが、その時敗れた男子生徒は「天城先輩のが絶対強かったですよ」と断言した。ちなみにその相手の生徒は、個人で全国三位の成績を修めている。
 そういうわけで、今も空手部の後輩からは、美典は人気はある。というか、空手部以外にも、下級生の女子を中心にファンクラブまで存在する。ちなみに空手部の女子部員はほぼ全員がその会員という噂だ。これを知った時はさすがに辟易した。
 ただ、その美貌と、それなりに優秀な成績、空手部で並ぶ者なき強さゆえに、どちらかというと『高嶺の花』というイメージが強いらしい。残念ながら、男子生徒とお付き合いすることはまったくなかった。友達は大勢いるが、本当に親しいとなると、水希くらいである。ただ、親友、と呼べる友人がいることは、とてもいいことだ、と本人は思っている。
 JR戸塚駅は、西口と東口で、様相が大きく異なる。西口は、よく言えば古き良き、悪く言えば雑然として整備されていない昔ながらの商店街が並び、東口は平成年代にはいってから整備された都市区画である。
 西口の整備計画は数十年前、それこそ美典が生まれる前からあるらしいが、遅々として進む様子はない。
 美典の家は西口を出て、柏尾川を渡ったその川沿いにあるマンションで、春になると家からお花見が出来る――つまりお酒を飲んでいても咎められない――という絶好の位置にある。四階、という適度な高さも魅力で、夏には花火も家から楽しめる。
 元は老朽化したいわゆる『団地』と呼ばれる集合住宅だったのだが、近年これをどこだったのかの企業が全部買い取り、きれいなマンションを建てた。それまで住んでいたマンションを売って引っ越してきたのが三年前。その頃は、まだ父は辞めるつもりはなかったということだろう。
 ただ、川を渡ってしまうと、見事に店がない。よって、いつも川を渡る前に買い物をして帰るのが日課だった。
 もうすぐクリスマスとあって、街の装飾には赤や白、緑といった色の飾り付けが目立つ。ケーキ屋の、クリスマスケーキの予約締め切りが迫ってる、と店頭で宣伝するバイトの女性の声がふと耳に止まった。
 今年は一人だからどうしようか、と思ってそちらを見たとき、ふと美典は気になるものを『視た』。
「……あれ、あの人……?」
 時々、こういうことがある。視える、というのが一番適切な言い方だと思うのだが、人の感情とかが、ぼんやり分かる気がするのだ。それも、視覚から。なので、視える、というしかない。また、体調が悪い人なども分かることがある。
 今、笑顔でケーキ屋の宣伝をしている女性の、その心は、まさに悲しみ一色、という感じだった。いやなことでもあったんだろうか。
 かといって、何が出来るわけでもない。少しだけ心が痛んだが、その時ふと、ホームルーム前に視た水希のことを思い出した。これほど明確ではなかったが、彼女は、何か悩みを抱えているようにも視えたのだ。
「う〜ん」
 彼女は、悩みがあればすぐに言うタイプである。だが、本当に深刻な場合は、それをおくびにも出さずに溜め込むタイプであることも、美典は知っていた。
 あるいは何か、深刻な悩みがあるのかもしれない。あの時は確信がなくて、先生が来たことでそれ以上追求しなかったが、気になりだすと止まらない。
「……いっか。明日聞いてみよ……!?」
 それは一瞬、本当に一瞬だけ視えた。
 これまで、一度も視たことがない、雰囲気、というべきか。明らかに他の人と異なるそれは、だが一瞬で人込みの中に消えて、見えなくなってしまった。あまりのことで、その雰囲気の主の姿もまったく見ていない。
「今の……何?」
 だが、その彼女の問いに答える者は、もちろんここにはいなかった。

 細い路地を、人込みを避けるように駆け抜けた少女は、背後に誰もいないことを確認して、ようやく足を止めた。
「ふぅ……危ない危ない……」
「気をつけろ。一瞬だが気付いた様子だった」
 その場にいる人影は一つ。
 十二、三歳程度のその少女は、どこにでもいる普通の女の子に見える。
 あとは、その手に抱きかかえられた、小型犬がいるだけだ。  だが声は、男の声とその少女の、二つ。
「ごめんごめん。つい、ね。でも、『オーラを見る』能力はあるみたいね」
「そのようだ」
 その声は、その小型犬から発せられている。だが少女に、驚いた様子はない。
「どんな人なのかな?」
 好奇心に溢れた声が、犬に投げかけられる。
「分からぬ」
 それに対しては、それ以上の返答はなかった。

 ――に対する裏切りには――断罪を――死を――

 クリスマスまで一週間を切ったこの時期、『クリスマスセール』という大看板を掲げて、今年最後の売り上げに励む人々が街には溢れている。
 それは無論、JR戸塚駅も例外ではない。
 その、あちこちの店の宣伝を横で聞きつつ、ふと美味しそうな香りを漂わせるたこ焼き店に足が止まったその青年は、わずかばかり逡巡した後、降参、とばかりにその店でたこ焼きを購入し、メインストリートから川の方へと抜ける道に入った。
 JR戸塚駅の西口を出て、すぐ川沿いに向かい、最初の橋を渡ったところに比較的新しい、低層のマンションがあり、その一階に、一見そうと分からないようなレストランがある。
 掲げてある看板には『たべるなあるぴーな』とある。かなりふざけているようだが、ポルトガル語でレストランを意味する言葉の一つらしい。もっとも出す料理は無国籍に近いが、それ以前に普通の客はまず来ることはない――ここはそういうレストランだった。
 レストランのオーナー兼店長は久我山薫といって、四十歳前くらいの男性だ。一見、脱サラしてレストランを始めたお父さん、という雰囲気があるが、間違いとはいえない。そう『演じて』いるのは事実だ。
 その入り口の『本日休業』の札を無視して、青年はレストランに入る。
「ただいま〜」
 彼の名は綱島和也。れっきとした大学生である。容貌に特徴はない。強いて言えば、『特徴がないのが特徴』というような顔立ちである。
「お帰りなさい。カズくん。あら、美味しそうな匂いじゃない」
 彼を迎えたのは、三十過ぎ、という感じの女性だった。どこか神秘的な雰囲気も感じさせる。名を石神希佐奈といい、普段は横浜駅の地下で占い師をやっている。あたる、と評判で人気がある。特に失せ物探しに関しては非常に評判がいいが、これは仲間内からすれば『ズルだよなぁ』といわれてしまう。
「ええ。しかしホントに寒いですね、この時期。あれ。店長は?」
「上。リンちゃんが『彼女』と接触……というか気付かれかけたんだって」
「そこまで来ているのですか」
「みたいね。私の『占い』でも、目覚めは近いって出てる。ただ……」
 そこで希佐奈は、顔を曇らせた。
「何か分からない、割り込みみたいなものがあるの。それがなんなのかが、分からない」
「割り込み?」
「ええ」
「貴女でも分からないのですか」
 その言葉に、希佐奈は「はあ」と呆れたように溜息をついた。
「何度も言わせないで。私の力は、あくまで可能性を見る力。そりゃ、確定した結果を知る力なら間違いはないわ。でも、不確定な未来に対しては、私の力はあくまでありえるであろうビジョンだけを導くのよ」
「すみません、そうでしたね」
 和也はそう言うと、たこ焼きをもって階上に上がる。
 レストラン『たべるなあるぴーな』は、一階が客席とバー、二階が厨房や倉庫という作りになっている。そして三階から最上階の五階まではワンルームから2LDKまでの部屋があるマンションだが、その全てが『たべるなあるぴーな』の従業員または常連客の住居だった。無論それは偶然ではない。
「ただいま、店長」
「あ、たこ焼きっ」
 部屋にいたのは三人。一人がオーナー店長の久我山だ。
「はいはい。でも僕の分も残してよ」
「うんっ」
 ニコニコしながら、たこ焼きの入ったビニル袋を受け取ったのは、十二、三歳の少女だった。
 スパッツから見える健康的な素足は、冬ではかなり寒いと思われるのだが、少女は気にした様子はない。
 赤いパーカーと、同じく赤い――ひいきの野球チームの――帽子が、少女の快活さを表しているようにも思える。
「そういえばリンちゃん、見られたって?」
 ちょうど、一つ目のたこ焼きをほおばろうとしてた手を、リンちゃん、と呼ばれた少女は止めた。
「うん。多分、だけど。一瞬私の方を見て、びっくりした感じだった。多分だけど……オーラを視る力を持ってるんだと、思う」
「そうか……」
 リン、と呼ばれているが、戸籍上の名前は『久我山鈴』という。
 彼女の本性は、吸血鬼である。といっても、生来の吸血鬼であり、また、そうでないともいえる極めて特殊な存在だ。
 彼女の父、久我山薫が、吸血鬼と人間のハーフで、リンはその父と、人間の母を持つ、いわば吸血鬼のクォーターである。
 もっとも、生まれた頃は普通の人間だと両親も思っていた。その彼女の力が目覚めたのは、皮肉にも世紀末のあの戦い以後だ。おそらく、何かしら影響を受けたのだろう。
 とはいえ、普通の妖怪と異なり、普通に成長するし、そもそも本性を表す、ということも彼女にはなく――父にはある――また、ハーフである父同様、吸血鬼の弱点とされるものがほとんどない。また、吸血衝動も皆無だ。強いて言えば、身体能力は夜の方が高い、というだけで、これはむしろ好都合だった。夜のリンの身体能力は、並の人間のそれを大きく上回るものだが、普段はそれをまず見られないですむのである。
 そして、人間でないリンは、妖怪の間で『オーラ』と呼ばれる、一種の生命エネルギーの輝きが、人と異なるのだ。普通は、妖怪といえどそれを『視る』力はない。だが、中にはそういう能力を持つ妖怪もいる。強力になると、対象の感情や健康状態まで『視る』ことが出来るらしい。
「幸い、すぐ離れたから、不審に思っても今の彼女には、そもそもその力に対する確信もないだろうからな。問題はないと思う」
 話したのは、三人目の、がっしりとした体格の男だ。ジーンズに厚手のTシャツ、ジャケットという出で立ちで、若く見えるが記録上は三十五歳、とある。もっともこの年齢にはまったく意味がない。
 彼の本来の年齢は、彼自身正確には覚えていない。二百はまだだったはず、というのが、先日リンに年齢を尋ねられた時の回答だった。
 波川霧雄という名前を持つこの男の正体は、人狼である。かつて、久我山薫の父、すなわち真性の吸血鬼に仕えていたが、その主は今はもういない。生きるのに飽きて今は眠り続けている。その時、波川も自由の身になったのだが、そのまま息子の薫についてきてしまったというわけだ。
 彫りが深くやや日本人離れした容姿ではあるが、黒髪黒瞳であるため、一応日本人として通らなくもない。
 また彼は、狼や犬に変身することが出来る。先ほど、天城美典が視て驚いた少女と一緒にいた子犬は、彼である。
「しかし天城さんも厄介なことを押し付けていかれる。まったく……」
 世紀末の戦い以後、妖怪の存在が静かにではあるが、人に知られるようになってきた。それは同時に、妖怪と人間の間にいざこざが起きる頻度が上昇する事も意味する。
 先の戸塚警察署の署長である天城和樹は、世紀末よりも以前から、妖怪の存在を知り、互いに情報を交換していた、いわば人間の協力者の一人だ。彼が、昇進もせず、そして後年は警察組織に嫌気がさしていたにも関わらず、戸塚警察署の署長などに留まっていたのも、そのためである。
 幸い、彼の部下の一人で、宇木崎宗一という刑事が、『彼ら』の協力者として今も残ってくれている。というより、彼に押し付けて念願の退職を果たしたというところだろう。
 彼ら――すなわち妖怪ネットワーク。この戸塚周辺の妖怪たちが属するネットワーク『宿場町』の拠点。それがこの『たべるなあるぴーな』なのである。
 その天城和樹が残したもう一つの土産が、娘の美典だった。
 美典が妖怪かもしれない。
 最初に相談を持ちかけられたのは、一年ほど前だ。
 美典の、並外れて鋭い感覚と、人の感情をも察する能力。いわば、オーラを視る能力。それは、人間であれば超能力といった極めて稀な能力の持ち主となるが、妖怪であればさして珍しい能力ではない。
 だが彼女は、間違いなく人間の両親から生まれた存在だ。
 ただしどこにでも例外はある。鶴の恩返し等に代表される、人と動物(正しくは動物妖怪)のふれあい。それらは悲恋で終わっているが、無事結ばれた礼が数多ある事は、想像に難くない。そしてその能力が、数世代を経て、突然目覚める事がある。
 生まれ変わり。
 極めて稀なこのケースは、そう呼ばれる。
 そして、天城家の記録によると、天応二年(一三二〇年)、当時美濃の国司に仕えていた天城家に、翼を持つ娘が降り立った、という記述があるらしい。
 いかんせん七百年近くも昔の記録で、正確性にはほとほと乏しいが、妖怪の歴史というのは古い。そして、翼を持つ妖怪など、非常にたくさんの種類がある。
 そのうちの一人が、人間と結ばれていたとしても、ありえないと断じる事は出来ない。
 特に、彼女の能力はここ数年で強くなり始めているという。そして同時に、希佐奈がある可能性を占いから導いた。
 人の中から、新たなる存在が目覚める、というのである。
 そしてそれは、天城美典個人を占っても、同じ結果になった。
 そして、和樹が引っ越す前、美典に確認したところ、そういうものが『視える』ようになったのは、中学生になった頃だという。時間的には、あの世紀末の戦いの時期に一致する。あの戦いの影響は、それこそ世界中に広がっている。リンも影響を受けた一人だ。そして、生まれ変わりとして眠っていた力が影響を受けたという可能性は十分にある。
 無論彼女にとっては、そんな力など目覚めずに一生を終える方がいいかもしれない。だが、もし何かの拍子で目覚めてしまったら。彼女が混乱するのは想像に難くない。その時のためにフォローする。
「新しい仲間が誕生する時よりは楽だしね」
 今も、人間の『想い』によって、妖怪は生まれ続けている。
 妖怪は、人間の『こういう存在がいるのではないか』という『想い』から生まれる。そして、生まれた妖怪は、最初、人間の『そうあるべき』という行動を繰り返す。吸血鬼であれば、人を襲い、処女の血を好む。そして、そしてその弱点もまた、人間が想うとおりになる。十字架に弱く、光に弱い。流れる水の中では身動きをとれない――吸血鬼のそういうイメージに、そのまま縛られてしまうのだ。
 だが、一度誕生した妖怪もまた、命ではある。そして命は成長するものだ。ゆえに、妖怪は、やがて自我を獲得する。そしてその時になって、世界を認識する。無論中には、その生まれた時の本能のままの妖怪もいる。だが、そういった妖怪は大概人に迷惑をかける――あるいは害する存在であることが大きい。彼らを説得し、世界の理を教えて、そしていたずらに人間を害さないようにする、それが出来ない場合は、その妖怪を滅する。それが、現代を生きる妖怪たちの自己防衛手段にもなっている。
 ただ今回の天城美典の場合は、目覚めたとしても元が人間である。生まれ変わりのケースはそれほど多くないので分からないが、生まれ変わると同時にその妖怪の本性に支配されるケースはほとんどない。むしろ懸念は、変わってしまった自分を受け入れられずに、自傷してしまうケースだ。
 ただ、ないわけではない――古い悪魔などには意図的に生まれ変わりをさせるといわれる個体もいる――ので、それも気をつけなければならない。
「ま、大事にならないと思うけどね」
 希佐奈はそういって、紅茶のカップを口元に運んだ。
 だが後に、彼女はこの自分の言葉は、これまでで最大の『はずれ占い』であった事を、思い知らされる事になる。




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