前へ 次へ


聖夜に降りる天使 第二話




「ただいまー」
 どこの家でも、帰宅時にされる挨拶。だが、それに対する「お帰りなさい」の声はない。代わりにあるのは、薄暗い家と静寂。
「ま、誰もいないわよね」
 篠崎水希は、溜息を一つつくと、門灯の電気スイッチをオンにして玄関の扉に鍵をかけ、カバンを一度玄関において雨戸を閉じると、階段を上がっていく。途中、テーブルの上には二人分の食事の用意と、メモがあった。何が書いてあるかは考えるまでもない。
 水希は一人暮らしというわけではない。両親と、現在中学二年生の弟の四人暮らしだ。
 だが、パン屋を――ケーキも扱っている――経営する彼女の両親が、この時期に暇であるはずはなく、最近は特に遅くまで仕事をしている。また、弟は最近塾で遅い。受験生のはずの水希より忙しそうだ。
 時間はまだ十七時。弟が帰ってくるまででも、あと四時間あまりはある。
 もっとも、水希も暇な身分ではない。一ヶ月もしないうちにセンター試験はあるし、すぐに受験シーズンとなる。もう最後の追い込みの時期だ。
 かばんをベッドに放り投げ、コートと制服を脱いでハンガーにかけた。
 シャツもそのまま脱ぎ捨てると、いかに南向きの部屋で、昼間に太陽光で暖かくなっていた部屋とはいえ、さすがに寒い。
 一瞬身震いすると、ベッドの上においてあったトレーナーの上下を羽織った。そして、部屋の空調のスイッチを入れる。程なく、暖かい風が噴出され始めた。
「さて、と。勉強勉強」
 本棚にある問題集を取り出し、広げる。
 壁にある時計を見て、時間を計って問題を解き始めた。
 十分、二十分。
 部屋は静寂に包まれ、コチコチ、という時計の秒針の音と、紙の上をシャープペンが滑る音だけが響く。たまに遠くの幹線道路を通る車の音が聞こえるが、それだけだ。
 今日は風もなく、ある種怖いくらいの静寂に包まれていた。
「ん〜〜〜〜」
 問題が一段落し、両手を組んで上に伸ばし、大きく伸びをする。堅くなった体が、ぴしぴし、と音を立てているように思えた。
 その時。
「誰!?」
 ふと何かを感じて、水希は振り返った。だがもちろん、そこには誰もいない。当たり前だ。
 玄関の鍵はかけているし、雨戸も閉めた。誰かが帰ってきた音はしていない。仮に帰ってきていたとしても、挨拶くらいはするはずで、それなら気付かないはずはない。
「気のせい……よね……うん」
 ふぅ、と息をつく。
 このところずっとだった。部屋に一人でいる時とは限らない。ただ、誰かに見られている気がする。そんな事が増えていた。
 最初は気のせいだと思った。受験が近付いて、ナーバスになっているからだ、と。
 だがあまりにもそれが続いていた。最初、ストーカーでもいるのかと思ったが、家の中まで入られているとは思えない。カーテンは閉めているから、中が見られているとも思えない。この部屋のカーテンは遮光カーテンだから、たとえ夜、中で電気をつけてても、外にはほとんど見えないはずだ。
 これで寝不足になる、というほど気に病んでいるわけではない。受験のストレスかと最初は思ったが、それも違う気がする。
 だが、かといって人には相談できない。
 本当は今日、美典に相談しようかとも思ったのだ。彼女なら、受験も終わっているから負担にもならないし、何より一番の親友だ。
 しかし今日、美典に『心配事?』と聞かれたとき、思わず『なんでもない』と答えてしまった。
 美典の、並外れた洞察力ともいうべきものの事は良く知っている。その美典がそう訊いてきたということは、実際自分は何か不安を抱えているのだろう。そしてそれは、これしかない。
 うっかり『なんでもない』なんて言ってしまったがために、そのまま押し通してしまった。こういう時、自分の少しだけ天邪鬼な性格が恨めしくなる。
「ふぅ……やっぱ明日相談しよっと」
 勉強を一段落させて、ベッドに倒れ――こんだ瞬間、水希は頭が真っ白になった。
 目の前の壁――すなわち天井に、顔があったのである。
「お前、だな」
(だれ……)
 声に出したくても、何も言葉が出ない。
 見えているのは、金髪碧眼の、こういう状況でなければ少しはゆっくり鑑賞したくなるような、美しく整った顔立ちだった。
 その顔が、天井に張り付いている。正確には、天井裏にいて、顔だけ天井を透過して見えるようにした感じだろうか。
 音もなく、その顔が近付いてきた。
 予想通り、その体は天井裏にあったらしい。天井を壊すことなく、それは水希の前に全身を現した。
 その姿は――。
(天、使?)
 中性的な、だが文句なしに美しいといえる顔。白い、古代ヨーロッパの人が着ていそうな服。淡く輝いて見えるその体。そして何よりも、その背中には白い翼がある。
「イシュリエルよ。お前の犯した罪は、決して許される事はない」
 そういうと、その天使は手にある槍を水希に突き出してくる。その切っ先は、銀色に輝き、その先端はどこまでも細く鋭い。
(やめて……)
 声を出したくても声は出ない。体を動かしたくても、体は恐怖で固まったかのように指一本動かせなかった。
 その槍は、ゆっくりと水希の右足の足の甲に、ゆっくりと突き刺さっていく。
 しかも、いつの間にか両足の甲が重ねられており、槍はそのまま左足も貫いていく。
 不思議な事に、痛みはない。骨が粉々になっていてもおかしくないのだが、何の痛みもなかった。だがそれは、恐怖で痛みが麻痺しているだけかもしれない。
(いや……助けて……!!)
 せめて、この恐怖から逃れるために目を瞑りたいのに、それも出来なかった。目は見開かれ、眼球だけがかすかに動かすことが出来る。そして、今その視線は、右足にずぶずぶと突き刺さる槍を、まるで他人事のように見ていた。
 どのくらい時が経ったのか、いつの間に槍は引き抜かれていた。
「残るは両手。聖夜の終わる時、お前は神への裏切りに対する罪の証をその身に刻み、永劫の業火の中で呪われるのだ」
 その言葉を最後に、その天使は消えた。
「い……」
 言葉が紡げる。恐怖が、声と共に堰を切って溢れ出す。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
 その溢れ出した恐怖は、あっさりと水希の意識をも奪っていた。

 十二月二一日。
 二〇〇五年もあと十日。街はクリスマス一色に染まり、あちこちでクリスマスソングが流れている。
 そんな中でも、学校は普通にある。今年は二十二日が終業式で、すでに受験シーズンの三年生ともなると、形ばかりの授業があるだけで、午前中で終わってしまい、午後、各々塾や予備校、あるいは自宅での勉強に勤しむために足早に家に帰っていく。
 そうした受験のわずらわしさからは解放されている美典だったが、今日は、足早に教室を出て行こうとする一人の生徒を捉まえた。
「水希、ちょっといい?」
 普通に声をかけたつもりだったが、声をかけられた水希の方は、びく、と肩を震わせ、それから恐る恐る、という感じに振り返った。
 美典が持つ感情を『視る』力がなくとも、彼女が何かに怯えているのはすぐ分かる。
「どうしたの、今日。昨日からなんか様子おかしかったけど、今日は特にヘンよ?」
「大丈夫、なんでもないから。ちょっと受験勉強で、根を詰め過ぎてるだけ。後二ヶ月程度だもの。頑張らないとね」
 水希はウソが下手だ。自分も思い切り下手だが、水希も負けず劣らず下手である。ウソを吐くと、すぐ顔に出る。
 だがこの時、水希はウソを言ってはいない。なぜか美典はそう感じた。
 なんでもない、ということは、絶対にない。だが、少なくとも『彼女はその言い訳を自分で真実だと思っている』と感じるのだ。
 水希はそれだけ言うと、「じゃ、また明日」と言って歩き出す。
 その時、美典はあることに気がついた。
「水希、足どうしたの?」
「え?」
 水希は、わずかではあるが、両足を引きずるように歩いていたのだ。
 だが、彼女の足を視たとき、美典は目を見張った。
 彼女の足元にわずかに感じられる気配は、先日、街中で見たあの異様な雰囲気を持った少女のそれと、酷似していたのである。

 リージア・ロットは一人戸塚の商店街を歩いていた。
 目的はクリスマス用の食材の買い込みである。
 長い黒髪と、透き通るような青い瞳、白い肌を持つ彼女は、道行く人の目をひきつけずにはいられない。実際今も、すれ違った大学生と思しき男性が、足を止めて振り返り、そして横にいた恋人と思われる女性に頬を抓られていた。
 その様を見て、リージアはくすりと笑う。
 ああいうのを見ると、ついお節介を焼きたくなるが、リージアは堪えた。
「お幸せに、ね」
 未来視の力などないが、長い経験から、あのカップルは幸せになれる、と感じた。
 リージアは、見た目は三十歳前くらいの女性に見える。だが、その実年齢は、実にその二十倍に達する。正確な年齢は忘れて久しいが、ペストの大流行は覚えているから、その頃にはもういた事になる。。
 彼女の正体は魔女だった。
 魔女そのものは古くからいたが、そのイメージは人それぞれで曖昧であり、確たる定義はなかった。ローマ教会が魔女を異端とした後も、魔女というのは人々の中で色々なイメージをもたれていたのだ。
 ところが一四八五年、異端審問官ヤーコプ・シュプレンガーとハインリヒ・クレーマーが『魔女の鉄槌』という書物を著した。その中で『魔女』について定義されており、以後『魔女』というのは、悪魔と交わり契約した者で、それにより特別な力を与えられて人や作物、家畜に害をなす、と云われ、ローマ教会からも『異端』という烙印を押された。以後ごく最近まで、『魔女』は迫害の対象となっている。いわゆる『魔女狩り』だ。
 実は今でも『魔女』は西欧では忌み嫌われている。
 魔女は大半が女性とされているが、これは契約する悪魔が大抵男性格であることが理由だろう。男性の『魔女』がいなかったわけではない。
 ただ、実際に魔女狩りで殺された魔女は、ほとんどいない。皆無といってもいい。だが、その魔女を信じる人々の想いによって、多くの本当の『魔女』が誕生している。ただ、そのほとんどはリージアより若い。
 リージアは、人々の『魔女』のイメージが固まる前に誕生した魔女である。もっとも、その力に大きな違いはない。
 ホウキに乗って空を飛び、特殊な薬を精製したり、不可視の力で物を持ち上げたりは出来る。
 また、わずかに人の運気を上向かせたり、逆に吉凶を視て、それを変化させる力もある。
 元々魔女というのは、古代の呪い師のイメージから来ているのだ。
 また、魔女というのは悪魔と契約したため、常に若く魅惑的な女性である、というイメージから、リージアもそれに縛られている。彼女に、本来の姿というものはない。今街を歩いている、この姿がそのまま本来の姿である。
 現在彼女は、『宿場町』のメンバーの一人で、また、レストラン『たべるなあるぴーな』の料理長でもある。レストランの食材はもちろん業者から購入しているのだが、時々足りなくなるものを、こうやって買いに来ているのだ。特にこの時期は、普段は売られていないような調味料などが売られている事もある。
 そうでなくても、なんとなくこういう祭りめいた雰囲気が、リージアは好きだった。
 なれた街であるのだが、それでもキョロキョロと見回してしまう。その時、ふと視界の端に知った影がよぎった。
「あら、リンちゃん?」
 リンちゃん、と呼ばれた久我山鈴は、リージアに気付いて手を振りながらこっちに走ってきた。
「お買い物?」
「うん、ちょっと。リージアさんは?」
「私もよ。もうすぐクリスマスだしね」
「うんっ、楽しみ♪」
 キリスト教の聖夜であるクリスマスを祝う吸血鬼。これほど奇妙なものもあまりないな、などと思ってしまう。
 その時、リージアは人込みの向こうに、もう一つ、知っている人物を見出した。
「あら、天城さんのお嬢さん……」
 その言葉に、鈴がヤバイ、と体を硬直させた。
 リージアはその容姿ゆえに、その気すら、人のそれとほとんど変わらない。彼女を見た目等で妖怪だと見抜く事は難しい。だが、鈴はそうはいかない。昨日の反応から考えても、見られてたらすぐ分かってしまう。明らかに人と違う気を持っている事を。
「ここは帰りなさい、ね?」
 しかも彼女は、何かを探すようにキョロキョロとしている。しかも急いでいるようでもある。
「うん、じゃあ、またあとで」
 リンはそういうと、人込みに隠れるようにして消えていった。こういう時は、人込みに完全に埋没できる背は武器になる。
 リージアは一息つくと、美典の方へ歩き始めた。
 何をしているのかが、気になったのだ。
「あの……」
 それまでリージアに気付いていなかったらしい。いきなり声をかけられて、美典は驚いて目を見開いた。
「あ……えと……」
「すみません、突然。なにかをお探しのようでしたから……何か落とされましたか?」
 そんな事ではないのは分かっている。彼女は、明らかに人込みに目を配っていた。おそらく、誰かを探しているのだろう。
「えと、人を探しているんです。小さな女の子で、ショートカットの、十二歳くらいの子で、赤い帽子を……ああ、今日かぶってるとは限らないか……。えと、とにかく元気そうな女の子なんですけど」
 直感的に、リージアは美典が探しているのがリンである事を察した。
 昨日視た、明らかにこれまでとは異なるオーラが気になった、というだけではなさそうだ。それならば、昨日もっと必死に探しているだろう。
 本来であれば、リージアも普通の人間とはオーラが異なる。だが、リージアは長い人間社会での生活の中で、オーラを人間のそれとまったく同じにする事が出来るようになっているので、オーラを視る事が出来ると思われる美典にも、気付かれる事はない。
「どうかなさったんですか?」
 そもそも、突然話しかけてきた相手に何をやっているかを話す時点で、彼女の焦燥ぶりが察せる。
「いえ、ちょっと……すみません、急ぎますので、これでっ」
 美典は挨拶もそこそこに、また駆け出していった。
 一体何が、というのは非常に気になったが、かといって理由が分からない以上、リンの事を教えるわけにもいかない。かなり気になりはしたが、リージアが決めかねているうちに、美典の姿は人込みの中に消えていた。

「ふうっ」
 ぼふん、という音を立てて、羽毛布団がへこんだ。倒れこんだ美典が、疲れた体をベッドに投げ出したからだ。
 結局、一日中探し続けても、あの少女は見つからなかった。夜の十時まで走り回ったところで、いくらなんでもこんな時間まであんな女の子がこんな時間には歩き回っていないだろう、と考えて帰ってきたのである。
「あ……ご飯……」
 走り回ってとってもお腹はすいているのだが、食事を作る気力もない。かといって、食事抜きというわけにもいかない。
 こういう時、一人暮らしは不便だ。ふと、家族が恋しくもなる。
 歩いて十分も行けばファーストフード系はあるのだが、そこまで行くのも億劫な気がした。
 美典は諦めて、ベッドから体を起こした。とりあえずご飯は滅多に使わない冷凍ピラフでごまかし、後は適当にあるもので済ます。
 ありあわせの食事をしながら、美典は冷静になってもう一度考えた。
 水希の足から感じられた気配は、少なくとも昨日まではまったくなかった気配だ。加えて、水希の精神状態は、明らかに昨日より憔悴していた。ただ同時に、あの時「大丈夫」と水希が言った時、彼女はウソを吐いてはいなかった。それは確信に近い。
 明日は終業式だから、その時にもう一度問い詰めよう、と美典は決めた。

「リンを探していた?」
 商店街の会議が長引いて、夜遅くに帰ってきた薫は、リージアの報告を聞いて驚いていた。
「少し、妙ではあったわね。なんか焦っている感じだったわ」
 人間と異なる、妖怪のオーラを視たから、というのであれば、昨日のうちに必死に探すだろう。だが、昨日は別にそんな様子もなかった。今日になって必死に探すのは、妙といえば妙だ。
「接触した方がいいのかも知れんな」
 彼女が何の妖怪であるかは分からないが、少なくとも目覚めて人間に牙を剥くような事には、おそらくならない。だが、もし戦闘能力の高い妖怪で、かつ目覚めた自分の姿を受け入れられず、混乱し、暴走し、大きな被害が出た例がないわけではない。
「あるいは、天城さんに連絡したら? こういうのは、見ず知らずの妖怪から言われるより、説得力あると思うわよ。ほら、年末年始は、あの子も実家に帰るんでしょう?」
「ふむ……」
 確かに高校生の彼女は、おそらく年末年始は岐阜の実家に行くだろう。そこで実の父に説明してもらった方がいいかもしれない。ついでに、誰か一人、一緒についていって、妖怪の存在を教えてもいいし、現地のネットワークに連絡して頼んでもいい。
 彼女の覚醒が近いのは確かだが、一日二日を争う事態ではない。少なくとも、薫はそう思った。
「そうだな。明日、天城さんに連絡してみよう」
 だが、事態は彼らが想像しているよりもずっと早く進行していたのである。

 十二月二十二日。
 多くの学校では終業式を迎えている。本来は二十四日が終業式なのだが、今年は二十四日が土曜日、二十三日は天皇誕生日のため、二十二日が終業式となる。もっとも、終業式といっても、いわゆる成績表は配られない。二期制となっているためだ。
 もっとも、三年生はこの後年明けに学校には来る事は来るが、すぐセンター試験が始まるし、その後は授業は任意参加が認められている。
 そしてそのまま二月に突入し、三月の頭には卒業式だ。事実上、卒業式の前にクラスメートが揃うのは、今日が最後である。
 後期の終業式ではないが、年末の挨拶として全校生徒が体育館に集められ、校長の話や休み中の注意事項が伝達される。
 美典はすぐにでも水希を捉まえたかったのだが、水希は珍しく朝ぎりぎりに登校してきたので、もう移動が始まっていて、問い詰める暇もありはしなかった。
 ようやく長い――そして去年と同じではないかと思われる――校長の話と、決まりきった連絡事項が終わり、生徒は順次教室に戻っていく。戻ったらすぐ水希を捉まえたかったのだが、すぐ担任の先生が来てしまう。だが、簡単な連絡事項のみで、すぐホームルームも終わってくれた。
「じゃあ、大半のみんな、勉強がんばれ!!」
 津崎先生がそう言うと、生徒がみんな拳を突き出して「おー」と応じる。こういうノリのいいクラスで、その筆頭が水希だったのだが、彼女は小さく手を挙げただけだった。
「解散!!」
 その先生の言葉で、生徒は立ち上がり、帰り始める。
 美典は自分の荷物をまとめるより先に、のろのろと荷物をカバンに詰めている水希の机まで行った。
「水希」
「なに?」
 そう応じる声は、いつもの水希だ。だが、美典は水希を視てぎょっとした。
 昨日にはなかったはずの、左手の甲に痣があったのである。
「水希、その痣、どうしたの?」
「え? ……ああ、これね。昨日ちょっと、熱湯こぼしちゃって。大丈夫よ、もう」
 昨日と同じだ。彼女はウソを吐いていない。正しくは、ウソを吐いていないと思っている。だが、それが少なくともただの痣ではないことは、明らかだった。その痣からは、はっきりとあの少女と同じ気配を感じたのである。
「ねえ、ホントにその痣……」
「うん、大丈夫よ、心配しないで。すぐ冷やしたから。そのうち消えるわよ」
 そう言いつつ、水希は立ち上がる。
「じゃあ、新年にね」
「ちょ、ちょっと待ってよ、水希」
 反射的に、美典は水希の左手を掴んだ。その瞬間。
「離して!!」
 怒鳴り声に近いその声と共に、思い切り手を振り切られる。突然響いた大声に、まだ帰り支度中だったクラスメートの視線が、一気に集まってきた。
「……ごめん。私もう、帰るね。勉強あるから」
 美典は半ば呆然と、水希を見送った。クラスメートが心配したのか、美典の近くに来る。
「どうしたのかしら、篠崎さん。あんな風に声を荒げる人じゃないのにね」
「うん……」
 振り切られた手は、わずかにしびれてすらいた。
 明確な拒絶の意思。それを、叩きつけられた気がした。
「水希……」
 何かある。なんだかは分からない。ただ、その手がかりは、今の美典にはあの少女しかなかったのである。

「リンちゃん……だけじゃないけど、あまり出歩かない方がいいわね」
「む〜」
 リージアの言葉に、リンは口をへの字に歪ませた。
 せっかく学校も終わって、クリスマス、正月と子供にとって楽しみなイベントに浮かれるのは、リンにとって基本中の基本だ。
 元々夏祭りや運動会といったイベントが大好きである。
 今年も、クリスマスは『宿場町』のみんなで祝おうと楽しみにしているのだが、そのための飾りつけなどを毎年担当している一人がリンなのだ。だが、街に出れなければ買うことも出来ない。
 だが、街は今天城美典が走り回っているという。昨日同様、リンを捜し歩いているらしい。
「ねえ。悠長な事言ってないで、ちゃんと説明した方がいいと思うよ、もう。それに、お姉ちゃんが何であんな必死になってるか、気にならない?」
「そうね……」
 確かに、美典の行動は妙だった。
 最初に見かけた時は驚きはしたものの、追いかけてなど来なかった。それが翌日にはうって変わって、リンを探し続けている。
 一応、『宿場町』のメンバー、及び近隣のネットワークのメンバーに警告して、彼女の目に入らないように――戸塚周辺をうろつかないように――してもらっている。
 彼女の目的は不明だが、こうなってくると素直に実家に帰るかすら怪しい。それほど必死に探し回っている。
「とりあえず、≪バロウズ≫の結論も待ちましょう。お父さんが明日行くみたいだから」
 世紀末の大戦以後、関東一円に形成された巨大ネットワーク≪バロウズ≫。その中心は語学学校であり、実際人間の生徒も半数はいる。だが、もう半分は日本に住まうことを選択した妖怪であり、彼らに一般常識や言葉を教えるための学校でもある。大戦直後から、いくつかのネットワークの妖怪たちが協力して作り上げたネットワークで、この『宿場町』も≪バロウズ≫ネットワークの一部だ。
 薫は今日は別件で戸塚にいない。明日には帰って来て、≪バロウズ≫で相談してくる、と言っていたので、『宿場町』としては、その結論を待ってから行動しよう、と決めたのである。
 おそらく、年末を待たずに接触を持つ事になるだろう、とは思うが、彼女が危険な妖怪ではない、という保証がない。そして、今『宿場町』の主戦力である綱島はゼミ合宿で帰ってくるのは明日、波川は薫と共に行動している。
 とすれば、おそらく接触は明後日、つまりクリスマス・イブだろう。
 クリスマス・イブに素敵な出会いを、と洒落ているつもりもない。もっとも、本人からしてみたら洒落にならない可能性だって十分あるが。
「さて、と。明後日の仕込みを始めましょう。リンちゃん、手伝って」
「うんっ」
 リンもとりあえず考えるのは止めた。元々苦手だ。ただ、新しい仲間が増える可能性には、少なからず楽しみに感じる部分があった。

 ぼふん、と。昨日と同じパターンで、美典はベッドに倒れこんだ。結局、一日探し回ったのに、少女は見つからなかった。歩いている、同年代と思われる子供に聞いてみたのだが、ことごとく外れだった。かろうじて、隣のクラス、という子がいたが、名前までは知らなかった。
「水希……」
 時計はすでに夜十一時をさしている。
 昨日の教訓から、今日は家に帰る前に食事を済ませてしまったが、味の記憶はない。
 夜八時ごろに、水希に電話をかけたのだが、その時彼女は勉強で忙しいから、と言ってすぐ切ってしまった。
 あとはひたすら空振りである。
 本当に、そんな少女を視たのだろうか、と不安にもなってくる。
 人の気配とかが視えるようになってきたのは、本当にここ一年ほどの事だ。最初は気のせいだと思った。
 だが、そのうちその視える『意味』がなぜか分かってきた。二ヶ月くらい前から、少し集中するだけで、すぐはっきりするようになった。感情が視える、というのは人の心を盗み視ているようで、最初いい気はしなかったが、なれるとそこまでは視ないように出来たし、不思議ではあるが、なぜか怖いとは思わなかった。
 だが、あの少女のような気配を『視た』のは初めてである。
 同じ気配は一つとしてない。だが、道行く人々は皆、どこか共通したものを持っていた。あの少女以外。
 そして、その気配と同じ気配が、水希の両手足から感じられた。
 水希がおかしくなったのは、昨日からだ。一昨日は、どこか不安そうにしているところもあったが、いつもの水希だった。だが、一昨日、あの足に異様な気配を感じて以降、水希はおかしくなった。そして、その同じ気配を感じさせた左手の痣。おそらく、足にも同じ痣があるのではないか。
 勉強をしている、というから、家に行くのはさすがに遠慮していた。だが、こうなってくるともう無視してもいられない。もしかしたら、変質者か何かに追いかけられているとか、あるいは……。
 警察官の父を持つだけあって、悪い予感は次々に巡る。
 世界一安全な国、と呼ばれていた日本だが、ここ最近の犯罪の増加とその凶悪化は、留まるところを知らない。つい先日も、あろう事か安全を維持する役目の警察官が殺人を犯していた。
 行った事はないが、第二次関東大震災で崩壊し、復興した後の新宿では、麻薬や拳銃などが当たり前に――無論非公式に――取引されていると言う。インターネットなどでのウワサだが、ありえないとは言い切れない、と美典は思っている。
 そしてそれは、この戸塚だって例外ではないのかもしれない。
 水希が、それらに――?
 水希の家は、両親がこの時期は遅くまで仕事をしている。彼女一人のところに、あるいは変質者が訪れたと言うのか。
 ありえない話では――ない。彼女の家は一軒家だし、注意していればこの時期、彼女しか家にいないことはすぐ分かる。
 一度動き出した考えは、どんどんと悪い方へ進む。
「……うん、明日、家に行ってみよう」
 一緒に勉強したっていい。英語以外は自分が彼女に教えられるものはないが、とにかく彼女とゆっくり話がしたい。
 そう決めてしまうと、少しだけ気が楽になった。




< 第一話

第三話 >


戻る