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奪われた聖書




 柔らかな陽射しが、すぐ間近に来ているであろう春の訪れを感じさせた。
 色を失っていた大地に、草の緑や、花の白、黄色といった色が付き始めている。
 もうすぐ春だ、と思うと心が躍るのは、一体何に起因するものなのだろう。少女はふと、そんなことを考えたが、答えは分からなかった。
 草原を渡る風は、まだわずかに肌寒さを感じさせるが、それもあと数日だと思うと、むしろ惜しいとも思えてくる。
 冬の時は春の訪れを待っているのだが、冬は冬で、嫌いな季節というわけでもないのだ。
 もっとも、父にとってはこの季節はあまりいい季節ではないらしい。
 狩人である父にとって、この、山の雪が融ける季節は、雪崩の恐れがあるのであまり山に入っていくことは出来ないのである。
 とはいえ、しばらくすれば雪融けの季節も過ぎ、そうなれば山は実りの季節を迎える。
 父には禁じられているのだが、少女はその時期に山に入るのが好きだった。確かに、危険な獣がいないわけではないのだが、行く場所を間違えなければ、人を襲うような獣に襲われることは、まずない。そして、そういう道は、可愛い小動物が多いのだ。彼らもまた、冬の間は眠り続けているのだが、春になればまた現れる。もうここ数年、仲良く過ごしているリスや鹿などもいて、彼らに会うことが出来るのが、今から待ち遠しい。
 広い草原にいるのは、少女一人。
 母に頼まれて、薬草を取りに来たのだが、半分は散歩である。多分、あと数日もすればこの草原は色とりどりの花々で、鮮やかに花の絨毯となるだろう。それが、とても楽しみだった。
「早く咲いてね、お花さん」
 その時、ひゅう、と風が吹き抜ける。
 少女の銀色の――陽に透かすと金色にも見える――柔らかい髪が、風に舞う。
 その風の冷たさに、少女は思わず身震いした。
「さすがに、まだ寒いみたいね?」
 堅く閉ざされた蕾に優しく触れると、少女は立ち上がり、薬草を探し始める。
 程なく目当ての薬草は見つかり、少女は、まだ肌寒い風が吹く草原をあとにした。

「神託が――降りた」
 厳か、と表現してもいい声が、その闇に響いた。
 その言葉に、幾人かの者達のどよめきが続く。
「新たな神の依代が示された……黒の聖書をもて、かの者をここへ。さすれば、真なる神が再臨される……」
 どよめきが、大きくなる。
 そこに渦巻いているのは、憎しみと、狂喜。静かに、だが確かに『狂って』いると思わせる何かが、そこにあった。
「まずは――黒の聖書を――」

 その日、グランベル王国の王都バーハラは、まもなくに迫った春分祭の準備に、街中が賑わっていた。
 春分祭(天分祭)、盛夏祭(夏至祭)、秋分祭(収穫祭)、そして新年祭(冬至祭)。
 年に四度ある季節祭りは、かつてのグランベル王国よりも遥か以前、グラン共和国の頃から行われていた祭りで、現在も大陸全土で行われる重要な祭典である。
 このうち春分祭は、春の訪れを祝うと共に、その年の豊穣を祈願するという意味もある。
 バーハラはどちらかといえば商業中心の都市だが、だからといってこういった祭事をおろそかにするようなことはもちろんない。むしろ、祭事そのものは、バーハラ王家にとっても重要な年間行事の一つであるのだ。
 春分まではあと半月ほど。
 バーハラは、ユグドラル大陸ではかなり北に位置するため、春の訪れはむしろやや遅い。だがそれでも、春分祭までには、陽射しは春のそれに変わるし、また、大地も色づき始める。
 何より、寒い冬から暖かい春になる、というのは、それだけで人の気持ちを明るくさせる何かがある。
 それを祝う祭りなのだ。当然、誰もがはしゃぎたい、そんな気持ちになるのだ。
「街は今頃、祭りの準備で賑わっているんだろうね」
 そう呟いた人物は、バーハラの街の中の、だが街の様子の見えない部屋にいた。
 バーハラの市街の最奥、バーハラ宮殿の、その中でも最も奥まった場所。バーハラを含めたグランベル王国を統べるバーハラ家の、私的なエリアがそこにある。
 その、街の方向に向いた――街は当然見えないが――窓際に立つのは、その宮殿の主であった。
 青い髪を緩やかに束ね、略式の額冠をつけている、壮年の男性。
 グランベル国王セリスその人である。今年で四十一になるが、肉体的にはまだまだ衰えを感じさせない。
「そんなことを言って。また、こっそり抜け出して祭りの準備を手伝いに行こう、なんてしないで下さいね」
「……毎年言われるけど……私はもうそんなこと、五年以上もやってないよ?」
「五年前にやっていれば、十分です」
 容赦のない言葉で、グランベル国王に意見したのは、長い、柔らかな金色の髪の女性だ。年齢は三十前後に見えるが、実際の年齢は、というと今年で三十七になる、王妃ラナだ。
「一生言われそうだなぁ……」
「ええ、言いますとも」
 妻の言葉に、セリスは苦笑しつつ、ふとあることを思い出して口を開いた。
「そういえば……セリオとシアはどうした?」
 すると、ラナの表情があからさまに呆れたものへと変わる。
「あの子達は、街に出て行ってしまってますよ。誰かさんの悪いところが似たんでしょうね」
 セリスはぐうの音も出ない。
 グランベル王セリスには子供が二人いる。
 第一王子のセリオと、第一王女のシアの二人だ。
 セリオは今年十八歳になる。若い頃のセリスに良く似た容貌の持ち主だが、正直セリスは、贔屓目に見なくてもかつての自分より顔立ちはさらに整っていると思っている。髪の色は同じ青だが、瞳の色が紫で、これは母ディアドラの色だろう。
 シアは今年十六歳で、母譲りの金髪と、やはり祖母譲りの紫の瞳を持つ。ただ、顔立ちは二人にはあまり似ていなくて、どちらかというと叔母のユリアに似ているが――ユリアを知る者で、その印象を最初に抱く者はかなり少ない。
 冬に生まれたにも関わらず、シアは『太陽の娘』『夏の姫』といった呼び名で呼ばれるほど、活発な王女なので、ユリアとはまるで印象が重ならないらしい。
 セリオは特にそういった呼び名はない。
 別にセリオが人前にまったく出ないというわけではない。むしろ、このような時はしょっちゅう街に出ては人々と一緒になって祭りを楽しんだりして、街の人にとっては親しみやすい存在であるのは確かだ。
 一つには、セリオが未だに王太子となっていない、というのもあるだろう。
 セリスの息子はセリオ一人。年齢も、セリスが挙兵したときのそれに近い。実際、グランベルの他の公爵家ではすでに後継者と定められている者は、そのほとんどがセリオより若いし、トラキア、イザーク、アグストリアの各国の第一王子は、ことごとく王太子として立てられている。
 いや、セリオがセリスの後継者であることは疑いようもないことだった。
 グランベルの第一王子、さらにはバーハラ王家が神々より授けられたという、光のナーガの継承者。生まれながらに、ナーガの――ティルフィングもだが――継承者としての証たる聖痕を宿していたこの王子の誕生は、何よりもバーハラの廷臣たちにとって歓呼をもって迎えられた。ナーガの継承者たるユリア王女が、イザークに嫁いでおり、継承者そのものがイザークに生まれるのでは、という懸念があったためだ。
 さらにセリオは、武器での戦いにおいてもセリスをも上回るほどの実力を持つ。また、士官学校も極めて優秀な成績を修めており、歴代でも最も優秀な生徒だとも云われている。
 為政者としても、指導者としても、そして一人の継承者としても、グランベルの歴史において最も優れた存在である――これに異を挟む者はいない。
 にも関わらず、セリスは未だにセリオを王太子として立ててはいなかった。
 廷臣たちの間にはいぶかしむ声もないわけではない。一応、言い訳としてセリオがまだ士官学校に属していることを挙げている。
 ただ、セリオは今年で修了に足るだけの単位を得てしまう。卒業するかどうかは、実は本人も決めていないようだが、別に在学中に立太子の儀を済ませてはならないということはない。
 それでもなお、セリスを思い留まらせるのは、ある恐怖ゆえだった。
 バーハラ王家に限らず、神器を継承する家の後継者を定める時、必ず行わなければならない儀式がある。
 それは、後継者による神器の解放。
 解放、といっても、別に神器に触れ、それに認められたと判断されれば良い。ただ、武器の場合はそれを振るうだけでいいのだが、魔法の場合はそうはいかない。一度は発動させる必要がある。
 そして十二年前。
 セリオは一度、ナーガを継承しようとしたことがある。当時まだセリオは六歳であったが、その時すでにセリオは魔法の扱いにおいて、母であるラナをも凌駕しつつあった。ゆえに、問題はない、と判断し、ユリアがナーガを受け渡そうとしたのだ。
 だがその時、あろうことかセリオの能力が暴走した。その時の傷痕は、今も王宮の片隅に刻まれている。あの時、セリオ一人の力の前に、セリス、セティ、ユリア、サイアスの四人がかりですら敵わず、かろうじて暴走を止めることは出来たが、サイアスはその時の傷が元で二度と魔法を使えなくなってしまったほどだ。
 その時の恐怖が、今もなおセリスにはある。
 無論今のセリオは、あの時とは比較にならないほど魔法についても成長している。だが、そもそもあの時溢れ出した力は、人間に御せるものなのか、と思えてしまうのだ。
 それが、セリスが立太子の儀を行わせていない、本当の理由だった。
 また、シレジア王セティも、セリオの力を心底恐れている。
 グランベルとシレジアの関係は極めて良好、と言っていいのだが、そのセティをして、セリオへの恐怖と、それに伴う隔意は隠し切れないらしい。セリオもそれに気付いているのか、セティ王がバーハラに来るときはいつも席を外しているし、セリスもまた、シレジアを訪れるときにセリオを伴ったことはない。
 とはいえ、まったく会わないということはなく、また、会った時は普通に話をしている。嫌いあっている、というわけではないのだ。複雑なところだが。
 また、さらに一つ。セリスがセリオを後継者と定めていない理由がある。
 これを知るのは、セリスとラナ、そしてシャナンのみ。妹のシアも、ユリアも知らない事実があるのだ。
 十二年前の事件以後に発覚した、セリオのもう一つの力。
 そして、決して明らかに出来ない力でもある。
 ただ、両親の懸念をよそに、セリオは本当に素直に育ってくれた。
 もっとも、妹のシアに言わせると、あまりにも他人の恋愛感情の機微に鈍いらしい。人の気持ちを察せない、というわけではない。ただ、なぜかセリオはこと恋愛関係の感情が絡むと、あまりにも鈍くなる。もっともこれに関しては、両親もあまり偉そうなことを言えないので、揃って口を噤んでいる。
 妹のシアは逆にそのあたりの話は大好きらしい。人の噂を集める才能でもあるのか、宮中の侍女の恋愛事情のほとんどを把握してる、とすら云われている。これはかなり疑わしいが、実際恋愛相談はよく受けているらしい。
 ちなみに本人は、というと、目下士官学校に在籍中のイザークの王子に夢中だということだ。
 イザークの第一王子フィオは、セリオと同じ十八歳で、現在士官学校に在籍している。といっても、もう卒業は決まっていて、春分祭を待たずにイザークに帰ることになっている。
 セリオが六歳の頃からイザークで過ごしていたため、セリオとは非常に仲がよく、その繋がりでシアとも知り合ったらしい。
 イザークに帰国してしまうフィオを、一時期はシアは本気で追いかけようともしていたらしいが……。
 そのシアの決意を知ったセリスが慌てて、シャナンと連絡を取り、あることを約束してそれを思い留まらせたのである。
 それは、フィオとの婚約を、今年の収穫祭で発表する、という約束だ。
 シアはそれでようやく納得したらしい。
 本当は間近に迫った春分祭で、と言いたかったらしいが、大国たるグランベルの王女と、同じく大国に成長しつつあるイザークの王子の婚約発表となれば、それなりの準備も根回しも要る。一日二日は極端にしても、数ヶ月は準備が必要だ。その約束を交わした時、すでに春分祭までは一ヶ月を切っており、もはやその準備は間に合うはずもない。シアにもそれは分かっているので、どうにか納得してもらったのだ。
「……ふと思うとさ」
 思索にふけっていたセリスは、ふと、先の約束を交わした時のことを思い出して口を開いた。
「はい?」
「私達って、ある意味楽をしたよね。面倒な儀式やら儀礼やら手続きやらすっ飛ばして、結婚できたから」
 思いもかけなかったセリスの言葉に、ラナは小さく笑った。
「それは……そうかもしれませんけど」
 実際には皆無というわけではなかったのだが、戦後の復興の最中であり、いずれにしても大規模な儀礼めいたことを行う余裕がなかった、というのもある。イザークに嫁いだユリアなどは、婚約から結婚までの期間がわずか二ヶ月という短さだ。婚約発表というより結婚発表に近かった。
 ただ、さすがに終戦から二十年が経過し、大陸はかつての安定を取り戻している。そうなれば、儀式なども省略せず行うことが出来るし、また、そういう儀式がある程度必要なこともわかっている。
「いっそ戦乱でも起きれば、なんて物騒なことを考えそうですね、シアだと」
「……まさかぁ」
 無論この時は、冗談だった。
 だが後で、セリスはこのことを思い返して慄然とすることになる。

 バーハラ王宮の最深部。王家の住まいたるエリアとは、ちょうど東西の逆側に位置する場所。そこに、厳重に封印された区画が存在する。
 この区画は、かつても宝物殿があった場所であり、警備は厳重であった。そして今も、宝物殿があるということで、厳重な警備が敷かれている。ただ、現王セリスはあまり宝物を溜め込むような性癖はなく、献上された宝物についてはその多くは別の、宝物殿に置いてある。
 王家伝来の冠や宝剣、王錫など、儀式で使う宝物は神殿が管理してあるため、やはりここにはない。
 ではここには、というと、実は知る者はほとんどいなかった。ただ、非常に重要な物が安置されている、とされており、神殿や現在使われている宝物殿と同等かそれ以上の要員を割いて警備されている。
 警備の責任者はフラクリスというヴァイスリッター所属の騎士である。六十に届こうという老いを感じる年齢ではあるが、かつてのセリスの聖戦において、正義がセリスにあると感じてヴァイスリッターを抜け、解放軍に協力した人物であり、セリスの信任も厚い。
 去年までは隊長の一人として部下を指導する立場にあったが、さすがに老いを感じて、一線を退き、この宝物殿警備の責任者になっている。閑職といえば閑職だが、フラクリスはそれなりに満足している。さすがにもう若い騎士たちと一緒に訓練することは出来ないし、かといって自分に騎士団長のような立場が務まるとも思っていない。
 最終的には分隊長――大体二十人くらいの騎士を統括する――までいけた。大した才能もない自分としては、十分だと思っているし、この仕事では、若い騎士や兵たちと話す機会も多いので、逆に楽しくもある。
 その日、フラクリスはなんとなく宝物殿の近くまで来た。普段は、そこから程近い詰め所から出る必要はないのだが、春とは思えないほどに肌寒い風が、逆に何か不審なものを感じさせたのかもしれない。
 宝物殿は二重の鉄扉に閉ざされており、一つ目の扉を開ける鍵は詰め所にある。ただし、厳重な鍵のかかった倉庫の中であり、その倉庫の鍵はフラクリスが持っている。二つ目の扉の鍵は、セリス自身が持っている――といわれている。正確なところはフラクリスも知らない。
 扉は掌の幅ほどもある分厚い金属製で、たとえ騎兵の突撃槍をもってしても、突き破ることはできないほどの強度を持つ。
 警備の兵は扉の両脇に一人ずつ、さらに宝物殿自体が区画を分けられていて、高い塀に囲まれている。その敷地への入り口もまた、一つだけで、ここには四人の兵が常に立っている。
 さらに、このこの区域内は、転移の魔法を無力化する結界が張られており、いきなり宝物殿の中に転移するといったことも不可能になっている。宝物殿の建物も、花崗岩で作られており、しかも内側には鉄を張ってあるという。壁の厚さは大人の片手の長さほどもあるとされており、外部から破壊することは不可能に近い。そして地面の下までその壁は張り出しており、いわば箱そのものを埋めてあるというのが正しい。
 戦後すぐに作られたものらしい。
 この話を聞いたときは、厳重すぎるのではないか、と思ったが、グランベル王国のバーハラ家の宝物殿だ。厳重にして、過ぎるということもないだろう、とフラクリスは思っていた。
 だが実は、現在使われている宝物殿も、神殿の宝物庫も、これほどに厳重ではない。無論、それなりに厳重でもあるし、警備もされている。だが、ここの警備も防備も、それらを遥かに上回るものなのだ。
 ゆえに、この宝物殿には関してはいろいろ噂も飛び交っている。
 曰く、神殿等の宝物庫は実は空で、大事なものはことごとくここに納められている。
 曰く、宝物殿であるというのは実は虚偽で、実際にはここは神々と王家が対話するための祭壇がある。
 曰く、実は宝物殿ではなく、王家の密かな別宅である。
 などと、結構無責任な噂が多い。
 ただ、悪意ある噂は皆無に等しいのは、やはり今のセリス王の人徳というべきだろう。
 実際のところ、この宝物殿に何があるのかは、フラクリスも知らない。というより、前任者も知らなかった。なぜなら、この宝物殿は完成され、閉ざされてから以後、ただの一度も開かれたことがないというのだ。作ることを命じられた職人も、何を納めるものであるかは知らなかったらしい。最後にここを封印したのは、セリス王とユリア王女だったらしく、すなわち、この中に何があるのかを知っているのも、彼らとその近しい者だけに限られるのだろう。
 最も、この中に何があるか、というのはフラクリスには関係はない。興味がまったくない、といえば嘘になるかもしれないが、知らなくても良いことというのが世の中にはあることも、よく分かっている。
 その夜は、春の訪れに対して冬が最後の自己主張をするかのような、冷たい風が吹いていた。
 フラクリスは、普段は夜は自邸に戻るのだが、今日は当番制によって夜に詰め所にいたのだ。彼の立場なら、夜の当番はしなくても良かったのだが、彼はそういう特別扱いを嫌い、自分も月に二度程度だが、夜に詰める事になっている。ただ、何事かない限りは、詰め所を出る必要はない。
 この時、見回りに出たのは、なぜだったのか。もし後で考えることが出来たならば、それを『虫の知らせ』とでも解釈したのかもしれない。
 詰め所から宝物殿までは、角を一つ曲がるだけである。
 通路は外に面していて壁はなく、風が冷たいこの夜は、思わず身震いしてしまうほどに寒かった。
 通路にはところどころにかがり火が焚かれており、明かりに困ることもない。このかがり火の維持もフラクリスらの仕事である。かがり火の一つが消えそうになっているのに気づいて、フラクリスは当直の兵にそれを伝えようと、角を曲がった。
 視線の先には、大きくはない宝物殿が、夜の闇の中にその黒い姿を見せている。そして、それを囲む塀と、その入り口があり、そこには四人の兵が立っているはずだった。
 だが。
 今、彼が角を曲がったとき、そこには誰も立っていなかった。いなかったわけではない。倒れていたのである。
 一瞬で、フラクリスは事態を察した。
 ここで、あるいは応援を呼べば、彼にはこの先の未来もあったかもしれない。
 だが彼は、腰に佩いた剣を確かめると、宝物殿に向かったのである。それは、彼の騎士としての自負がそうさせたのだろう。

 翌朝。
 事態は、交代の兵が来たときに発覚した。
 宝物殿の警備の兵は、責任者であるフラクリスを含めて、全員死亡。外傷はなく、ことごとくが生命力を吸い尽くされたかのように干からびて死んでいた。
 そして宝物殿は、なんと扉に人一人が通れる位の大きさに、穴が開いていたのだ。力ずくで空けたものではない。何か強力な力で溶かした、という感じである。
 発見した兵は直ちにセリス王に報告、現状を維持した。宝物殿に入る資格は彼らにはないのだ。
 そして駆けつけたセリスは、中に入って愕然とした。
 想像はしていた。だが、一体『それ』を奪って何をしようというのか。
「セリス様……?」
 ラナも報せを聞いてきたのだろう。彼女も、ここに何があったのかを知っている、数少ない人物だ。
「ロプトウスが……奪われた」
 その言葉に、ラナは宝物殿の中心にある台座に目をやる。
 台座は金属製で、周囲には十重二十重に厳重な結界が張ってあったはずなのだが――その全てが破られていた。
 そして、その台座にあったはずのもの。
 かつてロプト帝国の皇帝が継承し、二十年前、暗黒神と化したユリウスの手にあった、十三番目の――あるいは最初の――神器とも云うべき、ロプトウスの魔道書。『黒の聖書』とも呼ばれる、それを封じるためだけに、この宝物殿はあったのだ。
 それが奪われた。
 だが。
「一体あれをどうするつもりなんだ……あれは、一人を除いて誰にも使えないはずだ……」
 セリスの言葉に、ラナが無言で頷く。
 ロプトウスを含めた神器は、各代に一人しか誕生しない継承者にしか扱うことは出来ない。そして、継承者は直系に生まれる確率が高いが、必ずしもそうではなく、また、必ず一代に一人は誕生するものらしい。実際、セリスらの代のトールハンマーの継承者はイシュタル王女、ファラフレイムの継承者はサイアス司祭だが、その子の代の継承者は、トールハンマーの継承者はイシュタルの従妹リンダの娘に、ファラフレイムの継承者はサイアスの従弟にあたるアーサーの娘に誕生している。
 もっともロプトウスは、かつての十二聖戦士の聖戦において、ロプト皇帝の血脈は断たれ、継承者が現れるまでに百年を要した。だが、今回もその保証はない。
 ヴェルダンの『精霊の森』に住んでいた一族が、かつてロプト帝国において皇帝に対して反旗を翻した、皇弟マイラの一族の末裔であることが分かっている。彼らの末裔の誰かに、ロプトウスの継承者が現れる可能性は否定できなかった。
 ゆえに、セリスらは最初ロプトウスの魔道書を破壊しようとしたのだが、これは、ナーガをもってしても出来なかった。ゆえに、破壊を諦め、厳重に封印することにしたのである。
 しかし現在、それは杞憂に終わっているはずだった。
 ロプトウスも含め、神器には各代に継承者は一人、という絶対原則がある。これが、かつてのロプト帝国や、現在の支配体制を確立する礎ともなっているのだ。
 そして、セリスの子供達の代のロプトウスの継承者は、実はすでに誕生しているのである。
 だが、『彼』がロプトウスの魔道書を奪うということはありえない。セリスは今朝、この報告を受けたときに、真っ先に『彼』のことを確認しているが、不審な点は一切なかったのだ。
 第一に、『彼』がそんなことをするとは、到底思えない。
 だが、これは容易ならざる事態であることは確かだった。
 ロプトウスの魔道書を奪った者が何者であるかはわからない。だが、暗黒教団の――それもかつての教義をまったく捨ててない者の――仕業である可能性が高い。だが、いくらなんでもその継承者が『彼』であることは、暗黒教団でも想像もつかないはずだ。
 しかし、魔道書が奪われたのならば、あるいは今後接触がないとは限らない。実際それで、マンフロイはアルヴィスとディアドラを探し当てているのだ。
「……すまないが、セリオを呼んで来てくれ」
 セリスは、宝物殿を出ると、控えていた騎士にそれだけを言って、それから空を見た。
 そこには春になろうとする青空は見えず、暗い雲が垂れ込めている。
「セリス様……」
「大丈夫、だと思う。セリオなら、ね」
 不安そうにする妻を、少しでも安心させようと、セリスは彼女を抱き寄せた。
「でも……」
 かつて、ユリアから聞いている。ロプトウスを受け継ぐまでのユリウスは、妹思いの、優しい兄だった、と。ロプトウスの魔道書には、人の心を変えてしまうほどの力があるのかもしれない。
「大丈夫。そんなことには、私がさせない」
 セリスは、自分に言い聞かせるように、強い決意を込めて空を見上げる。
 空は、まるでこれからの事態の激しさを暗示するかのように、暗い雲が強い風に流されていた。

 セリスが、セリオを王太子として立てるため、継承の儀を行わない最後の理由。
 それはセリオが、三つ目の神器、闇のロプトウスの継承者であるという事実だった。




 

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