前へ | 次へ |
コニールの街は、トラキア王国の王都コノートから南に、徒歩だと二日ほどの距離にある。急げば、一日でいくことも可能だ。 トラキア大河から程近い丘陵地帯にある街で、主街道からやや外れている割に、比較的大きな街である。 のんびりした街の雰囲気が好まれているのか、トラキア王国の王都がコノートに遷都されてからは、大都市に成長しつつあるコノートに馴染めなかった人で、ここに移り住む人がたまにいるため、じわじわ大きくなっているのだ。 その、コニールの街の一角に、小さな私塾があった。 一般的に人々は、神殿で読み書きを習う。それはもちろんこのトラキア王国でも同じで、特にトラキア王国は、そのために神殿にかなりの援助もしている。 私塾とは、そういった基本的な読み書き以上の教育を受けたい人が、お金を出して通うものなのだが、このコニールの街にあるものは若干異なり、無料であった。 別に酔狂で運営しているわけではない。私塾となっているが、実際には神殿からお金をもらっているのだ。トラキア王国では、いくつかの私塾はこういう形で運営されているのである。 コニールの街にある私塾は一つだけ。あまり大きくもなく、一般の家を改装したもので、先生も一人だけだ。ただ、その先生はとても美人だということで評判で、その評判を聞きつけて他の街からわざわざ見物に来る酔狂な人がいるほどだった。 もっとも、そういう邪な目的で訪れた者は、ことごとく失意の元に帰る事になる。さすがに、既婚者を口説く勇気のある者はほとんどいない。そして、仮にいたとしても、さすがにもうすぐ十四歳になる娘までいるとなると、諦めていくものらしい。 その、人気者の先生は、名をサラといった。 緩やかなウェーブのかかった紫銀の髪の持ち主で、今年で三十五歳になるが、初めて会ってその年齢を言い当てられる者はまずいない。たいてい、二十半ば程度と間違える。極まれに、二十前後、という人がいるほどだ。 ちなみに、その良人はラエルという。 二人とも、聖戦後からこの街に住んでおり、実はお互いに知らなかったが、お互いに異性には人気があったらしい。その二人が結婚したとき、悔しい思いをしたのは両手の指の数ではきかないという。 人気があるのは悪い気はしないが、かといってさすがにこの年齢になってまでそういう噂が広まって人が来る、というのはどうなんだろう、とサラなどは思う。 「じゃあお母さん、行って来ます」 突然呼びかけられて、サラは顔を上げた。 そこには、昔の自分に少し似た、銀色の髪の少女がいる。 ラエルとサラの一人娘、ティアである。 まもなくある春分祭が過ぎると、程なく十四歳になる。並んでいると姉妹に見えることがある……かというとそうでもない。 サラが二十半ばに見えるとすれば、ティアはともすると十二歳とかその程度に見られるのだ。 同年代の少女に比して、若干幼く見えるせいだろう。もっともこれは、サラ自身もそうであったので、サラとしてはあまり気にしていない。むしろ、ラエルがやや過保護気味に育ててしまったせいか、少し内気なところがあるのが気になるくらいだ。 「そこは似なかったわよねぇ」 サラの、ティアと同じ年の頃の経験といえば、暗黒教団の中でかしずかれていたか、その後は解放軍の中だ。内気にしてる暇などなかった、というのが本音である。 「いってらっしゃい、気を付けてね」 最近のティアの日課は、春の色が日一日と濃くなる近くの草原への散歩である。 親ばかと言われるかもしれないが、ティアは十分美しくなる素質があると思う。このまま成長すれば、どこかの貴族が見初めたとしても不思議はないだろう。 そのような少女が一人で街の外に行くのは危険がないとはいえないが、ティアはサラの才能を受け継いだのか、非常に優れた魔法の使い手でもあった。 元々、この私塾は初歩的な魔法を教える塾である。ティアは、それを横で聞いているだけであったのに、それだけである程度の魔法を使いこなせるようになってしまった。あるいは自分以上かもしれない、と思うこともある。 そんなわけで、平和なこの地域ではそうそうめったなことなどあるはずもない。 その、はずだった。 だが、サラが次にティアを見るのは、もう冬の足音が聞こえる、秋の暮れまで待つことになるのだ。 |
「ティアが……行方不明?」 トラキア王国の国王、リーフがその報告を受け取ったのは、春分祭まであと六日、という日の昼過ぎだった。 朝一で、グランベルのセリスからとんでもない報告がもたらされ、それについて極秘の対応会議が終わった後にもたらされた報告だ。 コニールの街に住むサラという女性に関して、王宮で知る者は多くはない。だが、彼女は出自の都合上、常にある程度監視と警戒を必要とされる存在なのである。 朝、セリスから伝書使――転送通信とも呼ばれる、転移の魔法を利用して書物を飛ばす手段――から届けられた報せ――闇のロプトウスの魔道書が奪われた――は、真っ先にそのサラの存在をリーフに思い至らせた。 かつて暗黒教団の頂点にあった、大司教マンフロイの孫娘。 二十年近く前にも、彼女はやはり暗黒教団の残党に狙われている。その時は、幸いにも事なきを得たが、以後も、リーフは彼女とその身辺には常に護衛を配していた。 もっとも、すでに聖戦から二十年以上が経過しており、その危険はないと見ていた。 セリス達の聖戦――第二次聖戦と呼ばれる――以後、グランベルを始めとして、各国は暗黒教団に対して弾圧を徹底して禁止した。 十二聖戦士の聖戦――第一次聖戦と呼ばれる――以後、暗黒教団に対する弾圧は苛烈を極めた。無論それは、それまで数百年にわたって抑圧され、理不尽な暴力に曝されてきた人々の復讐であっただろうし、また、十二聖戦士もそれをむしろ初期においては奨励していたとすらされている。 結果、近年まで『魔人狩り』と呼ばれる暗黒教団の教徒と思しき者を『狩る』という風習が残っている地域もあったのだ。そしてそれらが、暗黒教団を追い詰め、結果として暗黒神の再臨という事態を招いている。 ゆえにセリス達は、暗黒教団に対して、不当に弾圧することを禁じた。無論、教団の教徒として殺戮を行っていた司祭などは、ことごとく処刑した。だが、教団の構成員の多く、特にイード神殿で百年の長きに亘って雌伏の時を過ごしていた者達の多くは、それ以外に寄る辺のなかった者なのだ。彼らのうち、全てが残虐な精神の持ち主というわけではなく、事実、暗黒教団に帰依した者を除名していた者もいる。また、そのように已む無く帰依した者もいるのだ。 そういった者で、戦後もなおロプトウスという神に対する信仰を捨てられない者は、やはりいる。水面下では、さらに多いだろう。ゆえに、セリスは暗黒教団をロプト教と改め、数ある信仰の一つと位置付けさせた。十二聖戦士を崇める宗派と同じ扱いである。無論、ロプトウスを唯一の神と崇め、神に逆らう者はことごとく殺す、という過激な信仰は止めさせなければならないが、それ以外に関しては、極力寛容に努めた。 そして二十年。現在ロプト教団というものは一応存在はしているし、本部もバーハラからそう遠くない小さな街に存在するが、危険性はもうほとんどない。とはいえ、常に監視をしているが、これは教団側も『過去の贖罪』として受け入れている。 その街以外にも教団の人間がいないわけではないだろうが、教団が把握している範囲においては監視下に置かれている。ロプト教団そのものは、すでに危険な存在ではない、という認識が、人々の間にもようやく芽生えつつある。 そのような時にこの事件だ。 リーフは、セリスからの報せを受け、即座に国内の教団員の動向を報告させたが、今のところ不審な動きは一切見られない、ということだ。そして、念のため、とサラの周辺の警戒を強めるように指示した、その入れ替わりに入ってきたのが、サラの娘ティアが行方不明になった、という報せだったのだ。 サラの娘ティアと、リーフは面識はない。聞いた話では、かなり高い魔法の才能を持っているということだが、これは母であるサラのことを考えれば当然といえる。一方、彼女はマンフロイの曾孫にあたり、かつ精霊の森の一族の血――すなわちロプトの血をわずかなりとも受け継ぐはずの娘だ。 あるいはまさかロプトウスの次の継承者ではないのか、と思われたが、それはありえないこともリーフは知っていた。 セリスが、次代のロプトウスの継承者についてすでに把握し、監視しているということを――まさかそれが王子だとは思いもしないが――リーフは聞いているからだ。となれば、ティアがロプトウスの後継者であるということはありえない。 あるいは、ティアの失踪と今回の事件は無関係なのかもしれないが――このタイミングでそれは、正直考えにくい。 「リーフ様……」 不安そうな妻の声に、リーフは大丈夫だ、と言うと廷臣たちに向き直った。 すでにグランベルでは、全騎士団に対して緊急招集がかかったらしい。春分祭が間近であり、今からそれを中止することは難しいが、春分祭の四日目――最終日に、国民に対してロプトウスの魔道書が奪われたことを通知、グランベル全土に警戒宣言を出すという。もっともこれも、相手が春分祭が終わるまで何もしないのが条件であり、何かあった場合のために、各都市、地域の貴族や有力者にはすでに状況を伝えてあるという。 リーフは早速、トラキア国内においても同様の対処をするように命じた。いついかなることがあっても、即時対応できるようにさせる。また、竜騎士団については、全騎に待機を命じた。竜騎士団は、ユグドラルにおいて最も機動力のある騎士であり、たとえ大陸の逆側であろうとも、数日で行くことが出来る。『敵』の狙いがなんであるか、そしてどこで行動を起こすかまったく読めない以上、どの様な状況でも対応できるようにしておくしかない。 無論、このような厳戒態勢を取れば、民達も程なく異常なことには気付くだろう。ともすれば、徒に不安を煽ることになるが、止むを得ない。 「竜騎士は、その三分の一をコノートに待機させるように手配しろ。また、トラキアに待機する竜騎士については、その指揮をアリオーン大公に一任する。そしてディオン。コノートの竜騎士はお前が指揮を執れ」 ディオン、と呼ばれたその若者は、一瞬緊張したように体を震わせた後、「はいっ」と力強く頷いた。 リーフとナンナの第一王子であり、王太子でもあるディオン。母譲りの金髪を持ち、どちらかというと亡き祖母――エスリン――に似ているといわれるこの王子は、類稀な槍の才能を持ち、また、竜を乗りこなす竜騎士でもある。そして何より、現トラキア王国における最強の戦士でもある。 彼は、伯母アルテナの次の、地槍ゲイボルグの継承者なのだ。 そして、ゲイボルグそのものの継承はすでに済ませている。 「一体どう転ぶか……さっぱり読めないが……」 春分祭が近いこともあって、街はすでにお祭り一色に染まりつつある。この時期を狙ったかのような、ロプトウスの魔道書の奪取、そしてティアの失踪。 かつての聖戦を経験している者だからこそ分かる、戦いの予感めいたものを、リーフは感じずにはいられなかった。 |
ユグドラル大陸北東部。トラキア王国とは海を隔てて境を接するところに、イザーク王国はあった。 かつては蛮族が住む土地、などと云われていたこともあるが、今その様に言う者は一人もいない。確かに、今も昔ながらの放牧と狩猟が主な産業であることは変わりない。だが、街道は整備され、街の規模も、街中の整備状況も、グランベルと比べてもなんら遜色ない。特に、国名と同じ名を持つ王都イザークは、その規模において大陸でも有数の大都市と云われている。 もっとも、都市が大きくなればそこを統治する者にとっては利と同量の問題が生産されるようになるのは、古今東西変わらない。 その、イザークの主は、剣聖と名高いシャナンである。 今年で四十八歳になるが、未だに剣において並ぶ者なき王、と呼ばれている。 第二次聖戦において、解放軍最強の剣士として活躍し、聖戦後も、イザークの復興に尽力、聖戦や、その前の暗黒教団の影響が少なかったことから、他国に先駆けていち早く復興し、その勢力はグランベルの旧貴族達を恐れさせたほどだ。 そのおかげか、イザーク最大の貴族であるスカサハが、バーハラのユリア王女を娶るということで、グランベルとイザークの関係は極めて良好であるとされる。また、セリス王の後継者であるセリオ王子も、このイザークで幼少期を過ごしており、イザークとグランベルの関係はそこからも推測できる。 そのイザークに、ロプトウスの魔道書のことがもたらされたのは、リーフがその報せを受け取った日と同日だった。 ロプトウスの力は、シャナンは良く知っている。その力を強く受けたマンフロイと対決したのは、他ならぬシャナン自身だ。 その報せを受け取ったとき、シャナンは即座にセリオのことを思い浮かべた。 シャナンは、セリオがロプトウスの後継者であることを、セリスとラナ以外で知る唯一の人物である。 だが同時に、あの王子がロプトウスに呑まれるということは、シャナンには考えられなかった。 セリオは六歳の時から十三歳まで、ほとんどをこのイザークで過ごし、シャナンに師事し剣を学び、また、時折ユリアに教えてもらって魔法を学んだ。もっとも、魔法に関しては正直教える必要があるのか、というほどの才能に溢れていたし、剣についても、セリスを越えるほどの才能を示した。 シャナンにとって、セリオはもう一人の息子のような存在なのである。だが、だからこそ断言できる。彼は、ロプトウスに呑まれるほど弱くはない。 かつてユリウス皇子が、ロプトウスに侵食されるように残虐性を帯びていった、というのはユリアから聞いている。だが、おそらくセリオの強さは、ユリウス皇子とは比較にならない、とシャナンは感じている。 第一、セリオがロプトウスの継承者であるということは、ほとんど知られていない。このイザークで共に過ごしたフィオですら知らない――ラナの魔法で聖痕は隠していた――のだ。第一、セリオは光のナーガと聖剣ティルフィングの継承者でもある。その彼が、ロプトウスの継承者であるなどと、誰が考えるだろう。 だがそれだけに、魔道書を盗んだ者の目的が読めなかった。 ロプトウスの魔道書は、それ単体でもそれなりの力は持つだろう。だが、真の力を発揮するためには、継承者の存在が不可欠なはずだ。 「シャナン様……」 「父上……」 同席した王妃パティ、それに第一王子のフィオ、第一王女のフェイアがそれぞれ不安そうな表情になる。 パティはロプトウスの力を間近に感じたことがあるわけではないが、それでもその恐ろしさは良く知っている。そしてフィオやフェイアもまた、伝承だけとはいえ、その力の恐ろしさは良く聞かされているのだ。 「大丈夫だ。少なくとも、継承者のいない神器など、恐るるに足りない」 「でも、もし継承者がいたら……」 パティが不安そうに言う。 「セリスは今の継承者については抑えている、と言っている。その心配は無用だ」 さすがに、セリオのことは言えない。それを言えれば、あるいはパティは安心するのだろうが。 「とはいえ……」 相手に継承者がいないのは確実だ。だが、だからと言って相手が何もしてこないとは限らない。 ロプトウスの魔道書は、かなり強力な封印がされていたにも関わらず、奪われた。ということは、相手に相当な術者がいるということだ。継承者がいなくても何とかできる可能性を見出していないとは限らない。そしてまた、彼らがどこでどう行動するかも分からないのだ。 ただ分かっているのは、そう遠くないうちに行動するだろう、ということだ。 ロプトウスの魔道書はその強力な力により、探知が容易なのだ。無論それは相手も分かっているだろうから、強力な障壁をもって隠そうとするだろう。だが、バーハラのあの宝物殿のような強力な障壁ですら、完全にその存在を隠すことは出来なかったのだ。相手の規模は分からないが、そういつまでも隠れとおせるとは思ってはいまい。 「フィオ。お前は戦士団がいつでも出撃できるようにしておけ」 「はい」 フィオは頷くと、すぐ踵を返して退出する。 「私達は……」 「パティとフェイアは今回は残ってくれ。正直、相手がイザークで事を起こす可能性は低いと思う。奴らが、かつての教団と同じ連中だとすれば、な」 イザークはグランベル帝国時代ですら、ドズル王国とされたにも関わらず、ただの一人も暗黒教団の司祭は派遣されてこなかった。それは、教団がこの地域をいかに軽視していたかを物語っている。 無論、だからこそセリスはこの地から旗揚げしたわけで、あるいはその報復として、このイザークが狙われる可能性もある。だが、その可能性はかなり低い。 「いずれにせよ、動きがあるとすればここ数日だ。……春分祭が無事に終わる……といいのだが」 小規模の戦いで終わってくれればいいのだが。 それがシャナンの、偽らざる心境だった。 だがそれは、完全に裏切られることになることを、シャナンはあるいはどこかで感じていたのかもしれない。 |
シャナンとフィオは、そのまま廷臣たちを集めての会議を招集した。緊急の連絡が回され、ソファラ、リボーからもソファラ公スカサハ、その妻ユリア、リボー公セディ、その妻マリータが、転移の魔法でイザークに集まっていた。 そこにはパティも呼ばれているが、ただ一人、イザーク王家の者で呼ばれていない者がいる。フェイアだ。 フェイアはイザークの王女ではあるが、一兵を指揮する権限も持っていない。別に、箱入り娘と言うわけでもない。バーハラの士官学校には入らなかったが、十分な教育も受けているし、実際、すでに父シャナンの施政の補助などもしている。 だが、こと軍務となると、完全にフェイアは蚊帳の外だ。 「……分かってはいるのですけどね……」 むしろ十六歳という若輩で、政治に参画していることは誇っても良いはずだが、やはりイザークは武を尊ぶ気質がある。それはおっとりした性格のフェイアでも例外ではなく、ゆえに少しだけ悔しいとは思う。 「フェイア様?」 声をかけられて、フェイアは足を止めた。振り返った先にいるのは、もちろん見知った顔である。 「ジーン、どうしたのですか?」 ジーン・フェナー。イザーク王宮に仕える王宮護士の一人である。剣に加え、弓を能く使う戦士であり、第二次聖戦にも参加していたらしい。今回、おそらく王宮護士も召集されるだろうから、彼もまた、戦場に赴くことになるだろう。 「いえ。急遽召集がかかりましたので……」 どうやらまだ詳しいことは聞いていないらしい。 「今父上達が会議中ですから、それから指示があります。……ちょっと大事みたいですから」 「ふむ」 ジーンは形良く整えられたあごひげに手を添えて、考え込んだ。 が、差し当たって何が起きているのか、判断する材料が余りに少ないため、とりあえずそれに対する想像は止めた。 代わって口をついたのは、別のことだった。 「フェイア様もご出陣されるのですか?」 これは別に、他意あって聞いたことではない。実際、フェイアは、イザークでもあのソファラ公スカサハすら凌ぐほどの剣腕を誇ると云われているのだ。本人は知らないらしいが。 「いえ。私は未熟者ですから……留守番です」 その声には、少しだけ悔しさのようなものが感じられる。 そのまま視線を外して、窓から見える景色へとずらす。その横顔は、一枚の絵のように美しかった。 フェイアは、イザークはもちろん、大陸でも有数の美姫として名高い。彼女の母パティも美しかったが、彼女はそれを凌ぐ。 ジーンはかつて解放軍に参加していた時、わずかばかりパティに対する好意があった。もっとも、それを認識したのは、聖戦が終わってからである。思えば、なぜ自分が最後まで戦ったのか、その理由はパティのためだったのかもしれない。 パティと知り合ったのは、コノートにいた時。同じく弓を得意とするパティの兄ファバル――彼は得意などと言うレベルではなかったが――と、幾度か仕事をしたことがあるため、それで知り合う機会を得た。最初に会った時は賑やかな娘だと思っていたのだが、それが逆に心地よいと感じるようになったのがいつかはもう覚えていない。 その後、解放軍がコノートに至り、ジーンも解放軍に参加した。パティがいたのには大層驚いたが、戦いが終わったら、そのパティがイザーク王子シャナンの恋人になっていたというのに驚くと同時に、その時になって自分の気持ちに気付いた――が、もちろん遅すぎた。さすがに、自分とシャナンを比べる気にもならないし、彼女が幸せならば十分だとも感じている。 その後、ファバルのつてで一度はヴェルダン王国に仕えたが、パティがイザークに嫁ぐにあたって、その侍従の一人としてイザークに来た。 以後二十年近く、ジーンはイザークに仕えている。 結婚もしたのだが、子供はなく、妻も二年ほど前に事故で亡くなってしまった。 王妃も気にかけてくれているが、再婚する気にはまだならない。 「そんなことは……」 ない、と続けようとしたが、ジーンはそれ以上は言うのを止めた。 一般兵としてはともかく、フェイアは自分が弱いと思っている。少なくとも、父王、兄に対して、自分の武力はあまりにも頼りない。それは事実だ。だが問題なのは、その比較対象である。 フェイアは、ジーンの知る限り、イザークから出たことはほとんどない。近年になって、シャナンと共にあちこち行くようになったが、それは政治的な用向きであって、もちろん剣の修行のためではない。 よって、彼女にとって剣の相手というのは、父であるシャナン、兄であるフィオ、それに近年までイザークで過ごしていた、グランベル王子セリオの三人くらいなのだ。 ところが。 この三人は、ジーンの目から見れば異常ともいえるほどに強い。本当に人間なのか、と疑いたくなるほどだ。 ジーンも、剣、弓ともにかなり自信があるほうだし、事実王宮護士の中でもかなり上位に位置するが、彼らと手合わせしたら、おそらく一瞬も剣を握っていられるとは思えない。 彼らの恐ろしいところは、それがたとえフェイア相手であっても同じなのだ。 彼らとフェイアは良く手合わせをしていたが、彼らは明らかに手加減していた。それが、フェイアにも分かるのだろう。 そして、フェイアは継承者ではないとはいえ、剣聖オードの血を引く聖戦士だ。いかに継承者とはいえ、そこまで実力に差があると、自分は未熟だ、と思ってしまうのだろう。 「いいんですよ。私は私で、このイザークの留守を守ります。父上や兄上が、いつでも帰ってこられるように」 何か言葉を続けようと思ったが、結局、ジーンは何も言わずその場を辞去した。 ジーンを含めた王宮護士のほとんどに、待機命令が出たのは、その日の夕方のことだった。 そして数日後。彼らに出撃が命じられることになる。 |
同様の報せは、無論シレジア、アグストリア、ヴェルダンにも発せられていた。 各国とも、その予想外の報せに驚きつつ、いつでも対応が取れるように戦力を整え始める。 そして三日後。春分祭まであと三日というその日。 コノートの南、コニールの街からさらに徒歩で半日という距離に『それ』は出現した。 それだけの距離がありながら、コニールの街からはっきりと『それ』は見えた。 天を衝かんばかりの巨大な闇が。 そして誰もがはっきりと聞いた。 声ならぬ、人々の心を凍らせる、その嘶きを。 闇は周囲を侵食し、やがて巨大な一つの輪郭を成していく。 その姿は、伝説にある竜そのものだった。 後に『黒の処断』と呼ばれる大乱の、これがその始まりの咆哮だった。 |
< 奪われた聖書 |
竜騎士団壊滅 > |
目次へ戻る |