作り出せぬもの(後)




 『賢者の石』
 錬金術の究極の到達点の一つである。すべての属性の力を合わせ持ち、物質の基本的な性質すら変化させることが出来るもの。錬金術、の名の通り、金を生成することの出来る素材である。そして、エリーはついにその生成に成功した。そのとたん、エルフィール=トラウムの名はアカデミーでも一気に知れ渡った。ここ数年、この賢者の石を作れるほどの研究者は、あのマルローネだけだったのだ。それを、マイスターランクに進んでわずか一年半の錬金術士が成し遂げたのは、衝撃であった。
「そんなに凄いことなのか?」
 騎士であるダグラスには、賢者の石の価値をいわれても、やはりピンと来ない。久しぶりに飛翔亭に行ったら、ちょうどエリーにばったり会って、時間がちょうどよかったので昼食をとっているところである。
「……凄いこと……なんだけどね。まあダグラスにはあまり関係ないかもしれないしね。でも、賢者の石作れたのって、ダグラスのおかげなんだよ」
「俺、何かしたか?」
 するとエリーはかばんの中から一つの植物を出した。それは、ダグラスにも見覚えがある。
「確か……ドン……なんとかとかって名前だっけ? 去年日食の日に採って来た。それが?」
「これが、賢者の石を作るには欠かせない素材だったの。賢者の石って言うのは……」
 ダグラスが慌ててエリーが喋り出そうとするのを止めた。専門的な説明をされたところで、ダグラスの頭は混乱するだけである。
「とにかく、そいつが使えたんだな。そいつはよかった」
「うん。ダグラスのおかげ。ホントにありがとう」
 エリーは話を中断されたことに少し膨れてみせたが、すぐいつもの笑顔に戻った。
「いや、いいさ。お前と旅してきたりしたおかげで、隊長に勝てた気もするしな」
 それは、嘘ではない。エリーと一緒に行かなければ、フラウ・シュトライトと戦うこともなく、未だに自分は隊長に勝てなかったと思う。『竜殺し』という称号の重みを、ダグラスは改めて感じていた。
「ところでお前、どうするんだ、これから?話を聞いていると、錬金術を極めちまったんじゃないのか?」
 するとエリーはちょっと呆気に取られた後、首を横に振った。
「そんなことないよ。賢者の石だって、結局は通過点だもの。さらにまだ何か出来ると思うの。マイスターランクの、特にイングリド先生とかはそんな研究をしているんだ。錬金術って、どこまでいっても終わりなんてないと思う。でもそれって、ダグラスにとっての剣と同じじゃないかなあ?」
 すると今度はダグラスは虚を衝かれたようになった。
「……なるほどな。確かに。剣だって上を見たら多分きりがねえ。隊長にだって、勝ちはしたけど、まだ隊長を超えたかどうかは自信がない。それに、もしかしたらこの広い世界、隊長よりも強いのだっているかもしれないし、あのフラウ・シュトライトより強大な怪物だっているかもしれないんだしな」
「うん。私だって、もしかしたら、マルローネさんやイングリド先生より凄い人だっているかもしれない。でも、私もいつかあんな人たちと肩を並べられるようになってみたいし」
「……一生研究生活か?」
 するとエリーは考え込んでしまった。錬金術の研究は面白い。けれど、自分がイングリド先生のように一生研究に奉げるのか、というと考えてしまう。また、マルローネのように旅の中で、錬金術とは何か、というものを探す、といってもこれもまた、漠然としすぎている。まだ、足元ばかり見て走ってきたような感覚なので、先のことなど、考えたことはほとんどなかった。ただ漠然と、錬金術の研究を続けていくのかな、と思っていたのだ。
「まあ、まだまだこれからなんだろう? ゆっくり考えればいいさ」
 ダグラスはそういうと、立ち上がって飛翔亭を出ていった。
(もうしばらく、このままがいいな)
 それがエリーの、今の正直な感想だった。

「毎年のこととはいえ、やっぱりあんまりいいものじゃないなあ」
 昼だというのに、星を見上げてエリーはぼやいた。今日は6月18日。エリーがザールブルグに来て、6回目の誕生日である。ザールブルグに来た時はまだ15歳だったのに、もう21歳だ。故郷にはたまに手紙を書いているが、帰ったことは一度もない。ロブソン村までは、ザールブルグからは馬車もなく、徒歩で30日近くかかるのだ。
 去年はダグラスがドンケルハイトを採りに行ってくれたが、今年は彼は来ない。騎士隊の仕事で、ちょっと遠くまで行っているらしい。昨日は、アイゼルやノルディス、フレアさんが飛翔亭で誕生会をやってくれたのが嬉しかった。なんでも、ダグラスに誕生日を聞いたらしい。ダグラスがちゃんと覚えていてくれたことが、何よりも嬉しかった気がした。
 ふと思い出して、テーブルの上にある手紙をとった。昨日は、遅くなったので、眠くてすぐ寝てしまったのだ。それは、故郷の母からの手紙であった。最後に手紙が来たのは去年の年末だったから、ほぼ半年ぶりである。
 いつもと変わらない内容である。村のこと。誰が何をした。一つ、エリーを驚かせたのは、エリーより二つ下の、妹のように一緒に育った子が結婚した、という話だった。
「そっか〜。そういえばあの子ももう19歳だもんなあ。結婚しても不思議じゃないわよね……」
 結婚なんてあまり実感の湧かないことだったが、自分の知っている人が結婚するとなんか不思議な感じがする。最初の年に、結婚式を見に行ったが、もう5年も前のことなので、あの時はやっぱりまだ実感はなかった。なまじ、周りに結婚してる人がいないのも原因かもしれない。イングリド先生もヘルミーナ先生も結婚していて不思議はないのに、どちらも結婚していないのだから。
 そんなことを考えていたが、エリーはふと手紙の字が、わずかに歪んでいるのに気がついた。父が書いた部分だろう。考えてみたら、父ももう50歳にはなっているはずで、大分体も弱っているのかもしれない。元々、字はきれいだったのに、そんなに弱っているのだろうか、と急に心配になった。
「考えてみたら……ずいぶんと親不孝な娘だよね……わたし」
 流行病で死にかけて、助かったと思ったら無理を言ってアカデミーに入って。そして6年間帰っていない。送り出す時は、父も母も賛成してくれたが、いい加減一度は帰ってきて欲しいと思っているかもしれない。
「帰ろうかな……それに……」
 これまで漠然と抱いていた想いが、急に形を持った感じがした。今のまま、ザールブルグで研究を続けても、いつかはイングリド先生と同じくらいになれるかもしれない。それは無理でも、先生を助けていくことは出来るだろう。でも、自分がなりたかったのは、研究者ではない。人を助けて、頼りにされる人になりたい、と思ったのだ。そしてその具体的な道を見せてくれたのがマルローネで、自分が選んだ道が錬金術だった。
 錬金術の研究はどこでも出来る。あるいは、ザールブルグの近く以外に、エリーの知らない材料などがまだたくさんあるかもしれない。究極の高みを目指す、というのも魅力ある道ではある。けれど、同じくらい、いやそれ以上にロブソン村の役に立ちたかった。6年前、無理を言った自分を快く送り出してくれた人たちに報いるためにも。
「うん。帰ろう。ここにはいつでも来れるし」
 すぐ、というのは無理だが、マイスターランクの研究期間は1年ごとで切ってある。あと二月半。そうしたら、帰ることにしよう、とエリーは決心した。ただ、ほんの一瞬何かが引っかかった気がしたが、それがなんなのか、それは分からなかった。

「帰る? ロブソン村に、ですか」
 最初、イングリドは聞き返してきたが、それは、確認のためのような聞き方だった。
「はい。たった2年しかマイスターランクには在籍しないことになりますけど……ロブソン村に戻って、みんなの役に立ちたいんです。ロブソン村は、いまだに医者もいませんから……怪我とか病気とかしたら、大変なんです。今の私なら、そんな時に役に立てると思うんです」
 するとイングリドはにこりと笑ってエリーの肩に手を置いた。
「それも立派な、錬金術士の仕事です。分かったわ。お行きなさい。でも、マイスターランクって言うのは、いつ戻ってきてもいいんだからね。また、研究がしたくなったら、戻ってきなさい」
 そういってから今度は何かを思い出したようにイングリドは笑う。エリーは不思議そうに見ていた。
「あの子……マルローネも『こんなところじゃ、ただの頭でっかちになるだけよ』って言ってわずか半年でマイスターランクを出ていったわ。まあ……あの子の性格だと、マイスターランクで研究するより、外の世界で何かを掴む方が向いていたと思うけどね」
 そして、もう一度、エリーを見る。いつもの、厳しい表情であった。
「頑張りなさい、エルフィール。錬金術士の道は、決して一つではない。あなたは、あなたの道を見つけなさい」
「はい!!」
 元気よく返事をしたエリーだが、やはり何かがひっかかっているような感覚はまだある。
「それで、いつから行くの?」
 今日いきなり、とか言われたらさぞかし困るだろう、などとエリーは不謹慎なことを考えたが、さすがにエリーの用意も出来ていない。
「今期いっぱい……つまり、8月30日まではマイスターランクに在籍します。あと一月くらいですけど……」
「そうね。その方が、こちらの手続きも楽だわ。じゃあ、それまでに色々準備もあるでしょうし。あの家は引き払うのね?」
「あ、はい。今までありがとうございます、イングリド先生。私、先生のお蔭でここまでやれたんだと思います。だから、ホントに……」
 言っているうちに、自分の視界がややぼやけ始めていることに、エリーは気がついたが、だが溢れそうになっているものは止められらなかった。
「こらこら。まだあと一月もあるのよ。それに、あなたはまだ他にも挨拶しなきゃ行けない人が多いのではなくて?のんびりしていたら、一月なんてあっという間に過ぎるわよ」
 そう言いながらも、イングリド自身の声も涙ぐんでいたが、エリーはそれには気づかなかった。

 エリーがロブソン村に帰る、というのは驚くほど早く街中に広まった。エリー自身にはその認識はあまりないのだが、エリーは街ではかなり評判だったのだ。マイスターランクの錬金術士、というのはアカデミーでずっと研究をしているものである。しかしエリーは、マイスターランクに進んでからも、以前ほどではないにせよ、色々な頼みごとを引き受けていたのだ。そのため、すっかり人気者になっていた。エリーの知らないところで飛翔亭ではエリーのお別れ会をやることになっていたり、それで武器屋の親父が歌を披露する、といって全員に反対されたり、と小さな祭りのような騒ぎになっていた。ちょうど夏祭もある、ということで夏祭と日程まで合わせられたのである。
 そして夏祭の8月15日。飛翔亭は半ば貸し切りのような状態になっていた。集まった人は20人近く。イングリド先生までいたのである。エリーは改めて、自分がこの街に来て、どれだけ多くの人と親しくなれ、そして助けられてきたかを再認識した。だが、特に参加者を驚かせたのは、ブレドルフ王からの名代、という形でエンデルクが来ていたことだろう。なぜ王の名代が、という質問がエリーに殺到したが、これについてはエリーは完全に口をつぐんだ。前王との約束を守るためである。
 夏祭の騒ぎと重なって、酒場の中はあっという間に大騒ぎになってしまった。エリーはふと周りを見回していたが、どうしてもある人物だけは見つけられなかった。
「どうしたの? エリー。誰か探しているの?」
 エリーのその様子に気がついたのか、ノルディスが声をかけてきた。ノルディスの横にアイゼルがいるのだが、こちらはもう酔いつぶれてしまっている。
「うん……ダグラス、来てないなって思って」
 言われてからノルディスは店内を見回した。アカデミーに入ったころは同じくらいの背の高さだったが、今ではノルディスの方がずっと高い。しかし、それでも見つからなかったらしい。
「本当だ。いないね……エンデルク様に聞いてみたら?」
「そうだね」
 エリーはそういうと、エンデルクのところまで行った。彼は、酒場の端の方で、クーゲルと共に静かに酒を飲んでいた。クーゲルもかつては騎士であったというから、もしかしたら一緒にいたことがあるのかもしれない。一瞬、邪魔しちゃ悪いかと思ったが、ダグラスのことが気になったので、結局割って入ってしまった。
「あの……ダグラス、どうしたんでしょうか?」
「なんだか知らんが、今日は城にも来ていない。数日前から休むと言っていたから、何か用事があるのではないか?」
「用事って……」
 エリーは思わず聞いてしまったが、エンデルクがそんなことを知るはずもない。結局、何の情報も得られないまま、エリーはその席から離れていった。
「ごめん、ちょっと外出て酔いを覚ましてくる」
 一度席に戻ったエリーは、そのまま外に出た。ノルディスが「大丈夫?」と聞いてきたがそれには生返事を返しただけである。しかしノルディスが一緒に外に出ようとしたら、酔いつぶれているはずのアイゼルがノルディスの袖を掴んだままであったため、結局外には出られなかった。

 夏とはいえ、夜は意外に気温が下がる。少し風も出ているので、非常に過ごしやすい。別に今までだって、ダグラスがいつも傍にいたわけではない。実際、ここ数ヶ月はほとんど会っていない。それで淋しいと思ったこともない。しかし、今日だけはいて欲しかった、と感じていた。
「バカ。ダグラス、今日ぐらい、都合つけてくれたっていいのに」
「だ〜れがバカだ」
 あまりにもタイミングよく返ってきた返事に、一瞬エリーは誰かのいたずらだと思った。しかし、振り返った時、そこに立っていたのは確かにダグラスである。
「ダグラス!!」
「よお。すまねえな。なんでか知らねえけど、あまり、送別会には行きたくなかったんだ。故郷で、ガキのころ、稼ぎに出て行く人たちを送っていたけど、そのほとんどは傭兵として、だ。だから帰ってなんか来なかった。それ以来、どうしても送別会ってのは苦手なんだ」
「あのねえ。私が行くのは故郷であって、戦場なんかじゃないのよ。そんな心配しないでよ」
 ダグラスが、自分を嫌いになったから送別会に来なかった、というわけじゃないと分かったので、エリーは何故かとてもほっとしていた。しかし、同時に、自分が故郷に帰る、ということはダグラスと会えなくなることだと言うことにも気づいてしまった。
 今までだって、いつも一緒にいたわけではない。特に最近は、滅多に会うこともなかった。けれど、故郷に帰ってしまったら、本当に会えなくなる。そう簡単にザールブルグは来れる場所ではない。今更のように、エリーはその事に気づいてしまった。同時に、何かがすっぽり抜け落ちてしまったような、そんな感覚に襲われた。
「とにかく、元気でやれよ。もう、俺が護衛につくことも出来なくなるしな。お前、いっつも無茶するから、少し心配だけどな」
「私……」
 何かを言おうとしても、言葉にはならない。こういう時、詩人のような才能が欲しいと思うが、今ないものを欲しても仕方がない。ただ、涙が流れ出してしまっていた。
「お、おい。俺、何かしたか?!」
 エリーは慌てて首を横に振る。
「ううん。違うの。なんか、ゴミが目に入ったのかな。涙が……」
 とりあえず言いつくろうとして、失敗した。この時になって、エリーは、自分がどれだけダグラスに傍にいて欲しいと思っているか知ったのである。しかし、今更故郷に帰るのを取りやめるなどできない。それは、自分の夢にも関わるからだ。だがもちろん、ダグラスに一緒に来て欲しい、などと言えもしない。ただ、何も出来ないから、エリーはダグラスに抱き付いていた。
「お、おい」
「何でもないの。なんでも」
 抱き付いておいて、何でもない、もないだろう、ということはエリーにも分かっていたが、この場合、エリーにはそれしか言えなかった。
「どうしても……帰るのか?」
 エリーは驚いて顔を上げた。すぐ目の前にダグラスの顔がある。考えてみたら、こんな近くて顔を見たことなど、もちろんない。
「うん……ロブソン村の人達に……恩返ししたい。でも私……」
 かすかな月明かりの中、お互いの顔だけが照らされているようにも感じた。飛翔亭から多少離れているためか、その喧騒も聞こえない。
 銀色の闇の中で、二人の影が静かに重なった。

「ふうん。来年の武闘大会優勝候補と評判の錬金術士ねえ。いいカップルじゃないの」
 酒場に戻ったエリーは、いきなり後ろから声をかけられ、飛び上がるほど驚いた。ダグラスは、もう家に帰っている。いまさら送別会にでるのも、なんかマヌケだ、ということで帰ったのだ。
「ア、アイゼル。もう酔いは……?」
 なんとか話題を逸らそうとするが、それが無駄な抵抗であるのは分かっていた。
「別に言いふらすつもりなんてないわよ。安心なさい」
「み、見てたの……?」
 多分今の自分の顔は真っ赤だろう。幸い、ここが酒の席であるため、それで不審に思われることはないが、目の前の人物には、それが酒のためでないことはばれている。
「ちょっと酔い覚ましに外に出たら、偶然ね。別にいいんじゃない? あなた、彼のことが好きなんでしょう?」
 あっさり言ってしまうアイゼルの口をエリーは慌てて塞いだ。幸い、誰にも聞こえなかったらしい。
「でもどうするの? あなた、ロブソン村ってところに帰るんじゃないの?かなり遠いって聞いたけど」
 するとエリーは暗い表情になった。
「うん。だから、しばらく……もしかしたらずっと会えないかもしれない……。ダグラスは会えるって言ってくれたけど」
 そう簡単に会えはしないだろう。ダグラスは王室騎士であり、基本的にザールブルグから離れられない。以前、カスターニェにいけたのは例外というべきだ。ロブソン村までは、徒歩で30日もかかるのだ。馬車が通っているカスターニェより、実質的には遠い。
「ふ〜ん。彼、モテるからすぐ誰かに取られちゃうかもよ?」
 エリーは慌てたように顔を上げる。考えてみれば、当然だ。無敵と謳われたエンデルクを倒した若き騎士。普通の街娘にとっては、憧れの的だろう。
「ダ、ダグラスはきっとまた会おうって……」
 思わず大きな声になりかけていて、エリーは慌てて自分の口を塞いだ。アイゼルはその様子を見て、クスクスと笑っている。
「分かっているわよ、そんなの。ま、あなたならそのうちロブソン村とザールブルグを短時間で行き来したりするようなものを作れるんじゃないの?」
 アイゼルのその声には少し羨望の響きもある。自分と同じ年齢で、『賢者の石』を生成するまでにいたったエリーとアイゼルでは、今ではエリーの方が遥かに優秀なのだ。もちろん、アイゼルとてこれで終わる気などないが、今はエリーの方が優れている、ということは認めざるを得ない。
「どっちにしても、そんな辛気臭い表情はおやめなさい。主役が沈んでいたらせっかくのパーティーも台無しよ」
 そういってドン、とエリーを突き飛ばした。エリーは転ばないようにバランスをとって、何とか立ち止まったが、そこはすっかり出来上がっている酒の席の真ん中で、あっという間に巻き込まれてしまう。
 宴は、夜が更けてもずっと続いていた。

「これでよし、と……結構広かったんだなあ、ここって」
 すべての荷物をすっかり片づけてから、エリーは6年間過ごした工房を見渡した。この辺りでしか取れない希少な材料や、いくつかの道具、素材はすでに故郷に配達を頼んである。随分遠く、また通常の荷馬車の路線からも外れているため、随分お金はかかったが、この6年間で貯めていたお金のおかげで、十分余裕がある。
 掃除が苦手なエリーだが、今回は妖精達にも手伝ってもらって、工房の大掃除をした。多分また、自分のように条件付き入学をした生徒が、ここを使うことになるのだろう。自分と同じように。急に、これまでの6年間の思い出が次々によみがえってきた。初めて調合に成功したこと。失敗したこと。妖精さんが大勢来て大騒ぎをしてくれたこともある。考えてみたら、いろんな人が来てくれた。その一つ一つが思い出された。そして……ダグラスのことも。
 思えば、最後にダグラスがここに来たのは、去年の年末、武闘大会の日だ。あの時から自分はダグラスのことがずっと好きだったんだと思う。だから、武闘大会で勝てた時もとても嬉しかった。そしてその後「お前の応援で勝てたようなもんだ。ありがとよ」と言ってくれた。それももう、ずっと前のことのような気がする。
「いつまでもこうしていても仕方ないもんね。さ、行こう!!」
 エリーは見送りはしないでくれるように頼んだ。絶対泣いてしまうからである。別に、ずっと別れるというわけではない。来ようと思えば来れない場所ではないのだ。そう思っても、やはり悲しいのである。だから、見送りは遠慮した。
 外門には、誰も来てはいなかった。いつも通りの、門番がエリーに挨拶をする。彼らもまた、エリーのことはよく知っているし、彼女が今日街を出て行くことも知っている。さすがに彼らに見送るな、とはいえないが。
 外門を出て、そのまま歩いて行く。天気は、気持ちがいいくらいきれいに晴れていた。こんな日は、ヘーベル湖のほとりだと気持ちがいいんだよな……などと考えていると、この影から人が現れた。一瞬、盗賊かと思って警戒したが、すぐその緊張を解く。それは、ダグラスだった。
「見送りはいいって言ったのに……」
 来てくれたことは嬉しかったが、でも、一番別れがたい相手でもあった。
「正直言うと、見送りたくなかったんだけどな。いなくなるのを実感しちまうから。けど、明日になって誰もいないお前の工房見る方が、こたえそうだったからな……」
 それだけ言うと、エリーに並んで歩き始めた。荷物を持ってくれようとしたのだが、エリー自身の荷物はほとんどないのだ。
「ロブソン村って、どんなところだ?」
 いきなりの質問に、エリーは戸惑ってしまった。6年間帰ってないから、今どうなっているかなど分からない。それに、どんなところだ、と聞かれてもなんの特徴もない村なのである。
「どんなところって言われても……ごく普通の村だよ。何にもない。でも、私の生まれ故郷だから……」
 何もない村なのに、退屈だと思ったことはないような気がする。もちろん、ザールブルグの方が、ずっといろんなことは会ったと思う。けれど、多分村に戻っても、きっとそれなりに色々忙しくなるのだろう。今度は村の便利屋さんかな、などとエリーは思って少しおかしくなった。
「俺が行ったら、案内してもらえるか?きっといつか、行くからよ」
 エリーは驚いてダグラスを見た。そう簡単に行ける場所でないのは、分かっているはずだ。でも、何故かダグラスは来てくれるような気がしていた。
「うん。飽きたって言うまで案内してあげる」
 二人が別れたのは、それからしばらくしてからである。ダグラスは、エリーが見えなくなるまでずっと見送ってくれていた。


「エリー、この間はありがとう、おかげで、うちの子もすっかり元気になったよ」
 朝、顔を洗っているところに声をかけられて、エリーはとりあえず手だけ振って応えた。
 ロブソン村に帰ってきて最初の春。ようやく無事に冬を越し、村は春の準備に忙しい。農耕作業を主産業にする村では、これからが大変な時期なのだ。そしてエリーは、というとザールブルグにいた時よりむしろ忙しいくらいであった。
 エリーの技術は、村には大変に役に立っていた。さすがに、爆弾などを作ることなどないが、薬などの要望は、ザールブルグにいた時より遥かに多い。農作業はともかく、猟などをしている者たちは怪我することも少なくないのである。
 さすがに一度、村中が震撼したのが、真冬にあった暴れ熊の襲撃であった。どうも今年は山の実りが少なかったらしく、飢えで凶暴化した熊が、村にやってきたのである。幸い、エリーはちょうど新しいフラムの研究をしていたので、それを使って撃退できたが、次も切りぬけられるかというと、あまり自信はない。この村には、戦えるものなど、ほとんどいないのだ。
「やっぱり私って接近戦になると弱いよなあ。もう一度あんな熊が出てきたら……」
 熊ならまだいい。陽と風の杖の力でなんとかダメージを与えられる。問題は、魔法の効きにくい怪物が出た時だ。今研究中の爆弾なら、あるいは効果があるかもしれないが、想定通りの威力だとすると、村にまで被害が出てしまう。それでも研究してしまうのは、錬金術士の性(さが)なのだろうか。もちろん、村の人には秘密にしているが。
「ダグラスがいてくれたらなあ」
 ぼやいても仕方ないのは分かっている。噂では、この間の武闘大会はエンデルクと引き分けで終わったらしい。何度か手紙を書いたのだが、返事は来ていない。もともと、筆まめなダグラスなど想像もつかないから、それほど残念だと思ってはいないが、それでも時々淋しくなってしまう。
「一回ぐらいは返事くれてもいいのに」
 時々、どうしようもなく寂しくなる時などは、ダグラスがいてくれれば、と思う。ザールブルグにいた時はこんな風に思ったことはなかった。会おうと思えばいつでも会えたからだろう。改めて、エリーはロブソン村とザールブルグとの距離の開きを感じていた。
 ドンドン。
 ぼうっとして、ほとんど上の空でいたエリーを現実に引き戻したのは、やや荒く扉が叩かれる音だった。聞こえてくる声から、村長であることが分かる。
「は〜い。どうしたんですか?」
 また腰痛の薬をくれ、とでも来たんだろうか、などと考えながらエリーは扉を開けた。しかし、どうも違ったらしい。
「おおエリー。領主様に嘆願書を出しておったのが、承諾されたのじゃ。これで、エリーの負担も少しは軽くなるじゃろう」
 エリーは一瞬、何のことか分からなかったが、しばらくして思い出した。確か、兵士を派遣して欲しい、というような内容の要望書を出したのだ。ロブソン村は、主街道からはずれているため、あまり人は来ないので、山賊といった輩はほとんどいない。だが、その代わり怪物の類――この間の熊のような――が出ることがあるのだ。そのため、兵士を派遣して欲しい、という要望を出し続けていたのだ。ずっと前から。それが、やっと派遣されてくるというのか。
「そっか。これで安心できるわね。よかったわ」
 実際、普通の兵士を、ダグラスのような騎士と比べるのは無茶であろうが、少なくとも、エリーが接近戦をしなければならなくなることはない。魔法が効きにくいような怪物が出てきてもどうにかなるだろう。もっとも、滅多にないだろうけど。
 ただ、派遣されてくるのはほぼ一月後である。随分時間がかかるとは思ったが、色々準備とかもあるのかもしれない。

 もうすっかり暖かくなってきていて、野山も緑に覆われている。人々が待ち望んだ春であるが、エリーは、というと工房――といっても新しく作った家を改造しただけだが――にこもっていた。帰ってきて初めて、『賢者の石』の生成をしていたのだ。結局、色々な研究をしていたが、この石なくてはこれ以上は不可能であったのだ。もうほとんど終了しており、あとは結晶として固まるのを待つのみ。微妙な調整が必要な場合もあるが、二度目であることもあり、ミスするとも思えなかった。そんな時、突然来訪者があった。大きな調合中だから、しばらくは来ないで欲しい、と言っておいたはずなのに、と思ったが、かといってなにか大事だったら無視するわけにもいかない、と思って玄関の前に行く。
「は〜い。今開けます」
 ザールブルグにいたころは、多少は警戒することもあったが、さすがにロブソン村ではみんな顔見知りだから、来客を警戒することはしなくなっている。時刻はもう夕方で、ちょうど西向きにあるエリーの家の玄関からは陽の光が射し込んできた。そのため、玄関の前に立っている人物が、黒くなって誰だか分からない。ただ、村の人でないのは分かった。そのシルエットが鎧姿だったのだ。この村で、鎧を持っている人などいない。
「だれ……ですか?」
 まだ目が馴れないため、手で光を遮りつつエリーは聞いた。
「おいおい。俺の顔を忘れたのか?」
 一瞬、エリーは呼吸が止るかと思った。その声は、聞き間違えようのない声だったのだ。その間に目が馴れて、目の前の人物が誰だか判別がつくようになる。青――といっても今は夕陽の色を受けて赤いが――の鎧を纏った騎士。エリーが最後に別れたザールブルグの人。一瞬、夢かとも思ったが、それは紛れもなく現実だった。
「ダグラス!!」
 エリーは声と同時に抱き付いていた。冷たい鎧の感触が頬に当たったが、それも気にならない。
「おいおい。鎧が痛くないか?」
 そういいながらも、ダグラスはエリーの頭を撫でてくれた。
「淋しかったんだから、ずっと、ずっと」
 エリーはまるで子供のころに戻ったように泣きじゃくる。
「すまねえな。この村がずっと兵士派遣を要望しているのは知っていたが……俺を派遣してもらうようにするのに、時間がかかっちまった」
 その言葉で、エリーは驚いてダグラスを見た。
「……じゃあ、一緒に、この村にいてくれるの?ずっと」
「ああ。まあたまには王都に行かなきゃならないがな」
「その時は私も行くわよ。たまにはアカデミーに行かないと……」
 そういって、強くダグラスを抱きしめる。
「もう、離れるなんて嫌だからね」
「ああ」
 ダグラスは優しくエリーを抱きしめた。その時、後ろで大きな音がした。ダグラスはびっくりしたが、素早くエリーを庇うように前に立つ。
「あ〜〜!! しまった〜〜!!!」
 エリーは大きな声を上げて、慌ててダグラスの横を摺り抜けて奥へ走り出した。ダグラスが後に続く。そこには、水が満たされた容器の中に、ひびの入った石が浮いていた。
「……やっぱり……失敗しちゃった。ま、いいか」
 エリーはあっさりというと、ダグラスの方に振り返る。
「たとえ『賢者の石』でも、今のこの瞬間は作れないもの」
 エリーは再びダグラスに抱き付いた。ダグラスもまた、エリーを抱きしめる。

 エリーは、今誰よりも幸せだと感じていた。



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