「まったく。夏といってもまだ寒いだろうに。公女達が風邪でも引いたらどうするんだ」 「ごめんなさい……」 揃いの表情が同時に消沈する。 「気にしないで下さい。私もミリーも、自分で泳ごうって思っただけなんですから」 「まあ、幸い風邪などは召されていないようだから、安心だが」 フィールはそう言うと、手元にあった木切れを焚火に放り込んだ。その横でラキナがスープの入った鍋をスプーンでかき回している。 フィールとラキナが来るのがやや遅かったのは、どうやらこの事態を想定していたらしい。少し陽が翳ってきた頃に二人はやっていて、手早く焚火を起こしたのだ。おかげで、四人は濡れてしまった下着を乾かすことが出来、陽が沈むまでには服を着ることができた。ただそれでも、冷え切った体はそうそう温まるものではない。四人ともフィールとラキナが持ってきてくれた毛布に包まって、焚火に当たっていた。 いつの間にか空の支配のほとんどは闇に変わっていて、西側のかすかな朱色が、少し前までの支配者の色を残している。だが、それも間もなく消え失せるだろう。空の大半は、既に小さな無数の光が満たし、その中に一つ、大きな銀色の光がある。満月ではないが、それにかなり近い、綺麗な月である。 銀色の月光に照らされたシレジアの森は、夜の森が本来持っているはずの恐怖ではなく、ある種の幻想的な美しさすら感じさせた。目の前の池に目を移すと、そこには空の月がさながら水鏡の様に綺麗に映っている。 風がかすかに吹き抜けて木々の葉を揺らす音と、どこかで鳴いている梟や虫達の声、それに焚火で木が爆ぜる音だけが全てを満たしている、そんな感覚すらある。『静寂』というのは、こういうものを指して言うのだ、となんとなく思えてくる。 「はい。飲みなさい。体が温まるわよ」 ぼうっと周囲に意識を拡散していたミリー達はラキナの声にやや慌てて振り返った。 ラキナの手には木で出来たカップがあり、中には食欲をそそる美味しそうな、そして温かそうな匂いがする。 「ありがとうございます」 ミリーとレンティーナはそれを受け取ると、包み込むようにカップを持って、そのまま飲む。まるで、体の芯から温まっていくような気がした。 その様子を見て、ラキナはにっこりと笑うと孫娘達にも渡す。二人もやはり同じように飲んでいた。 「あの……」 少し落ち着いたところで、レンティーナは控え目にフィールに声をかけた。 昼食の時から、ずっと気になっていたのだ。 アイリーン達の祖父母が、かつて戦いに参加していたのは間違いない。しかも、解放軍に。だがそれ以上に、ミリーや自分の母親のことを知っている気がするのだ。 「分かってますよ、レンティーナさん」 フィールは一度レンティーナの方を見てから、また焚火に目を落とす。空色の瞳が、炎の紅を映じて、不思議な光彩に揺らめいている。 「……何から話したものか……」 そう言って、一度妻の方を見る。ラキナは、ミリー達が見ても魅力的だ、と思えるほど穏やかで優しい笑顔のまま、小さく頷いた。それを受けて、フィールは四人に向き直った。 「アイリーン、ナスリーン。これから話すことは、お前達にとっては本当に驚くことだとは思う。だが、事実として、そのまま聞いてくれ」 二人は祖父の言い回しが気にはなったが、素直に頷いた。それを見て、フィールはやや小さくなりかけた焚火に、新たな薪を放り込んでから口を開いた。 「私の本当の名は、フィールではない。フィン、という。ラキナも本当の名ではない。本当の名はラケシス。かつて、獅子王と謳われたアグストリア、ノディオン王エルトシャンの妹、つまり現アグストリア国王アレスの叔母に当たる」 四人はほぼ一様に驚愕の表情で固まっていた。 「え……で、では、フィン……様、というのは、まさかあのレンスターの青騎士と謳われた……」 フィール――いや、フィンは静かに頷いた。 トラキア王国の人間なら、いや、ユグドラル大陸でもほとんどの人が知っている。あのグランベル帝国の暗黒期、大陸における希望、セリス皇子とリーフ王子を守り通した剣聖シャナンと青騎士フィン。この二人の名は、既に伝説となっている。 聖戦後、シャナンはイザークの王位に就いたが、フィンは姿を消した。その後、リーフ王と自分の娘ナンナの結婚式の時に現れた、と云われているだけで、それ以後の消息は全く不明である。既に死んだ、という説、大陸を出て旅に出たのだ、という説など諸説あるが、それも終戦後二十年も経てば、忘れられている。 レンティーナも、かつてそういう人がいた、というくらいしか認識がなかった。その伝説が今目の前にいるのである。しかし、それをいきなり認識しろ、といっても無理な話である。 「うそ……」 アイリーンとナスリーンは声を揃えて呟いた。それはそうだろう。 いきなり自分の祖父母が伝説の騎士である、といわれてすぐ納得できる人間はいない。 その時、ふとレンティーナはあることを思い出した。そう。確か、ナンナ王妃の母君は。 「でも、確か話によると、ラケシス様はイード砂漠で……」 ラケシスはトラキアからイザークへ、息子デルムッドを迎えに行く途中、イード砂漠で行方を絶った、と伝えられているのだ。 「そうね。知られてる話だと、私は死んだことになってるけど……」 ラケシスはそこで言葉を切って、自分の若い頃の生き写しのような孫娘二人を見やった。 「そうなるとこの子達も誕生していないことになるでしょう?」 「え?」 一瞬、言われた意味が分からなくて、レンティーナは頭の上に疑問符を浮かべてしまった。その後で、その意味に気付く。 そういえば、彼女らの父親、セレイオンの年齢は、明らかに三十台半ばだ。逆算すると、彼はまだ聖戦の始まるよりずっと前に、そう、ラケシスが行方不明になっている間に生まれている。いや、正確にはラケシスが行方不明になったという直後に。 「あ、それじゃあ……」 「そう。私がイザークに向かった時、すでに私の中にはセレイオンがいたの。私はとある隊商に護衛として雇われてイザークに向かったんだけど、途中暗黒教団に襲われてね。それで、本当に死にそうになったんだけど。その時運良く砂漠の民に助けられて。そこで、セレイオンは生まれたのよ。ただ、体が回復してもトラキアには戻れなかった。小さなセレイオンを抱えてイードを越えられなかった、というのもあるし、フィンの邪魔になるのも分かっていたから」 ラケシスはそこで、複雑そうな表情をしているフィンの方を見ると、少しだけ微笑んだ。その笑みは、なぜかとても優しく、そして少しだけ子供のような――そんな印象を与える笑みだった。 「そして聖戦が終わった後、フィンが私を探し当ててくれて。それで、この場所に移ってきたの。ここは、私達が結婚した思い出の場所だったしね」 「でも、なんでトラキア王国に戻らなかったんですか?」 それまで黙っていたミリーが、唐突に口を開いた。ただ、それはレンティーナも不思議に思ったことである。トラキア王国に戻れば、彼らは王族として遇される。そうなれば、多くの人が望んでも果たせないような生活を送ることができるのだ。 「理由は二つある」 ラケシスに代わって、今度はフィンが答え始めた。 「一つには、私はもう過去の存在と言っても良かった。そんな人間が、仮にも外戚として王国に存在することは、いらぬ不穏の種を蒔くことにもなりかねない」 確かに、リーフ王ならば、あるいはフィンに宰相の地位すら与えるかもしれない。レンティーナはリーフ王に会った事はそう多くはないが、それでも時折「フィンがいてくれたら楽だったんだけど」という言葉を聞いたことはある。一人の家臣に大きな権力が集中するのは、王国の礎を歪ませかねないのだ。 「もう一つは、もっと簡単な理由だ。少し、休みたかった。これは、ラケシスも賛成してくれた」 その言葉に、ラケシスが小さく微笑んだ。 「セレイオンには十五歳の時にやっぱり今回のように全部話したんだ。お前達もそろそろかな、と思ってね」 フィンはそう言って、言葉を切った。 ミリーとレンティーナは、この祖父に良く似たアイリーンとナスリーンの父親を思い出す。 優しそうな、それでいて意思の強さを感じさせる瞳の持ち主だった。一体あの人はなぜ自ら名乗り出ることをしなかったのだろう。 その時ふと、レンティーナはあることに気がついた。 「え? でもじゃあ、ちょっと待ってください。あの、セレイオンさん、いえ、セレイオン様はナンナ王妃殿下の……弟……?」 レンスター王リーフの妃ナンナは、フィンとラケシスの娘である。そして、その二人の子供であるセレイオンは、つまりナンナの実弟、ということになるはずだ。 「そういうこといなるわね」 「お父様は、そのこともご承知なのですか……?」 「ああ。エゼリも知っている。だが、セレイオンはここに留まることを選んだんだ」 アイリーン達は顔を見合わせている。やはりまだ、実感は湧かないのだろう。 「それじゃあ、アイリーンとナスリーンは、ディオン王子やセネル王子の……従妹ということに?」 「そういうことになるわね」 今度はラキナ――ラケシスが答えた。 ミリーとレンティーナは、やはりとても驚いていたが、同時に納得した。それならば、自分達の親を知っていたのも納得がいく。マリータもディーンも、そしてシルティールもかつての聖戦に共に参加していたのだ。二人とも、何度も当時の話を聞いているし、フィンのことも聞いている。 「……お父様はなぜ、留まることを選んだのでしょう……?」 アイリーンが恐る恐る訊ねた。それに対して、フィンは首をかしげる。 「……それは、お前達から直接訊いて見るべきだろう。私たちが言うことじゃない」 フィンは孫娘達に諭すように言うと、再び薪を放り込んだ。薪の爆ぜる音が、小気味よく響いた。 |
「起きてますか?」 暗闇に響いたアイリーンの声に、他の三人は言葉ではなく上体を起こして答えた。やや遅れて、声を発したアイリーンも起き上がる。 さすがに夜遅くなったから、ということで四人は泊まっていくことにした。フィンの家にはちょうどセレイオン一家が泊まるための部屋も用意されていたので、ベッドもちょうど四つあるのだ。 「お姉ちゃん、どうしたの?」 そうは訊いたが、ナスリーンにも姉の気持ちは良く分かっていた。 どう判断すればいいのか迷っているのだ。 これまでの自分を否定されたわけではない。 だが、いきなり自分達は現アグストリア王家に連なる者で、レンスター王の姪にあたる、と言われて納得できる方がおかしいのだ。 「そう、悩まれることもないのでは?」 「でも、何がなんだか……」 「アイリーンもナスリーンも、どこも変わってないんだよ? ただ、知らなかったことを知っただけ。そうでしょう?」 レンティーナが言おうとしたことを、ミリーが先に言ってくれた。レンティーナは追従するように頷く。 「それで、何を迷っているのですか?」 「……私に伯父さんや伯母さんがいるなら、会ってみたい……って思ってるの。でも、私たちが訪ねていったって……」 思わずミリーとレンティーナはクスクスと笑い出した。 「あのねえ。私たちのこと、忘れていない?」 「あ……」 アイリーン達は同じ顔を見合わせる。 「ディオン王子は、今はバーハラにいらっしゃるからお会いできませんが……。セネル王子はまだトラキアにいますし、それにバーハラに行けば、確かノディオンのセフィア王女もいらっしゃるはずです。やっぱり、アイリーン達の従姉に当たる方よ」 「でも正直、なんか実感湧かないんですよね。やっぱり。お二人が貴族というのはともかく……」 「あ〜、ともかくって何よ、ともかくって」 ミリーが文句をいってアイリーンのベッドに飛び込む。こういう行動に出る時点で、そういうことを言われる自覚が十分にあることを証明してしまっているのだが、そこまでミリーは頭が回らない。 もっとも、十四歳の女の子二人連れで旅に出るような貴族の女子がいるなど、普通は考えないだろうから、この場合アイリーンの評価の方が正しいのだろう。レンティーナはそれが分かっていたから、特に何も言わなかった。そしてそのまま寝ようとしたところに、突然枕が飛んできて顔面を強打する。いや、強打といっても所詮枕だから痛くなどないのだが、衝撃はかなりのものだ。 「こらあ、レティ、あなたもそんなところでほえほえしてないで、なんか反論しなさいよ〜」 ミリーの言葉に引きずられるように、ずるずると枕が落ちて、視界が開ける。しばらく静止していたレンティーナは、突然その枕をむんずと掴むと、思いっきりミリーに向けて投げつけた。 「痛いじゃないですかっ。何をするのですっ」 レンティーナの参加と同時に、ナスリーンも面白がって参加した。暗い部屋はあっという間に枕投げ大会の会場となり、少女達の声が響き渡った。 その、二つ隣の部屋で。 「……元気だな、本当に」 「ええ。なんか昔を思い出します」 その言葉に、フィンは少し驚いた顔で妻を見直した。 「シレジアで、あなたがレンスターに帰ってから。時々、ですけど」 「子供もいたろうに」 「あら。適度の運動は、赤ちゃんにはいいと言うじゃないですか。実際、デルムッドは強い子に育ってくれてますよ」 「それはそうだが……」 ふと耳を澄ますと、どうやらもう騒ぎは終わったらしい。いつの間にか静まり返ってる。多分疲れて寝てしまったのだろう。 「明日ちゃんと起きれるのかな、あの子達は」 「アイリーンもナスリーンもお寝坊さんですからね……」 「ミリー公女とレンティーナ嬢もあまり朝は強くなさそうだしな」 だが、このフィンの予想は大きくはずれた。 翌朝、ミリーの三回転回し蹴りが寝坊娘三人を捉えたのは、言うまでもない。 |