し る べ   
風の道標・第四話




「風よ。その身を刃と化し、一振りの剣となれ。その力もて、わが敵を打ち払え!!」
 魔法を修めたものならば、それが風の上位魔法の呪文であることは容易に想像がつくだろう。しかし、盗賊風情が知っているものではない。そもそも、彼らにとっては魔法すらも、縁遠いものであり、見たことなどありはしないのだ。だから、やや離れたところに現れた二人の男女を、脅威と感じることはなかった。
 ひゅっ。風が走り、その音が木々にこすれて音を出す。直後、盗賊は何が起きたかも分からず、ただ自分の胸から、熱いものが流れ出していることだけがわかる。そしてそれが、自分の血であることを認識した時には、すでに声を上げることもできず、また呼吸の必要もなくなっていた。
「ついてくるのは構わんが、盗賊の前に出るなよ。怪我をしても、責任は取れんぞ」
 風の魔法を放った魔術師――レヴィンはシルヴィアにそう言うと、別の盗賊を探す。盗賊の数は、助けた村人によると、30人ほどで、この辺りにある開拓村を次々に略奪しているらしい。盗賊たちは、大体5,6人の集団で行動している。もう二組を倒したから、あとは20人ほどだ。さすがに、全部を倒すのは難しいかな、とレヴィンが思い始めた時、突然森の中から騎馬が飛び出してきた。
 どちらがより驚いたかは、分からない。だが、この場所に今いる騎兵といったら、アンフィニーの兵だろう。だとすれば、盗賊たちの仲間、と考えてしまって構わない。レヴィンは素早く距離を取ると、再び呪文を紡ぐ。
「ま、待て。君は……」
 騎士が何か言おうとしたが、それより先に呪文が完成した。風の魔法は、力の発現が速い。見えざる風の刃が、騎士を襲う。しかし、それは紙一重でよけられた。わずかにかすめたのか、騎士の着ている服の一部が裂ける。
「何?!」
 風の術には自信があった。紙一重とはいえ、避けられたのは初めてだ。
 油断ならない相手だ。レヴィンは慎重に間合いを取った。魔術師である自分では、騎士の剣を受けたらひとたまりもない。しかし、騎士の方はその剣を構えることはしなかった。
「君か?盗賊を倒してくれていたのは」
 その騎士は、穏やかな表情で問いかけてきた。今ここが戦いの場であったことを忘れそうになる。
「ああ、そうだ。誰だ?あんたは」
 レヴィンは魔道書を懐にしまう。とりあえず、攻撃する意志がないことを示すためだ。
「失礼。私はグランベルのシグルドだ。村人を助けてくれて、礼を言う。吟遊詩人と聞いていたが、魔法が使えるのか」
 自分に魔法が撃たれたことも、あまり気にした様子はない。随分とのんきな性格なのではないか、とも思えた。
「まぁ魔法も芸の一つさ。こんな時代だ。自分のことぐらいは何とかできないとな」
 そう言ってから、シグルド、と名乗った騎士を改めてみてみた。少なからず返り血を浴びているのは、彼らもまた、盗賊たちを倒していたからだろうか。実際、自分一人ではカバーできなかっただろうから、それについては感謝をしている。だが、彼らがここまで来て戦争を始めなければ、今回のようなことは起きなかったんじゃないか、という考えがなくもない。実際には、遅かれ早かれ、このような事態になったかもしれないが、今回、直接の契機を与えたのは、間違いなくシグルド達なのだ。
「なるほど。あんたが今噂の、グランベルのシグルド公子か。よその国まで来て戦争とは、よほどヒマらしいな。グランベル軍というのは」
 無論、レヴィンはグランベル軍の大半がイザークへと出征していることは知っている。おそらく、シグルド達がここにいるのも、何か、やむを得ない事情があってのことなのだろう。だがそれでも、このぐらいの嫌味は言いたくなる。
「君は怒っているようだな」
「当たり前だ。勝手にきてドンパチ始めて。ここで暮らしている人の身にもなってみろよ」
 旅から旅を続ける吟遊詩人が言うのもおかしなセリフだが、シグルドはその様なことは気にしない。ただ、しばらく考え込むように、押し黙っている。
「……すまない。その通りだな。この国の人々にはすまないと思っている」
「口先だけなら何でも言えるんだよ。本当に悪いと思っているのなら、さっさとこの国から引き上げたらどうなんだ?」
 吟遊詩人であるレヴィンが言うと、逆に妙な説得力のあるセリフである。シグルドは、再び押し黙っていたが、やがて何か吹っ切れたように顔を上げると、剣を収めた。
「そうだな。その通りだ。早速みんなに相談しよう」
 この返事は、予想していなかった。噂で聞いていたシグルドの性格なら、あるいはありえるとは思っていたが、実際に軍を動かして、戦争をしている以上、そんな簡単に方針を変更できるものではない。それに、今のこの国の現状は、先ほど知ったばかりだ。相手がシグルドと同じような人物ならともかく、シャガール王の噂は、アグストリアに来てから、嫌というほど聞かされている。
「おいおい、本気か?」
「もちろんだ。この戦いが無意味であることは、私自身もずっと感じていた。けど、君にいわれてやっと決心がついたよ。シャガール王に使者を派遣して、停戦の交渉をしよう」
 一介の吟遊詩人の言うことを真に受けて、あっさり考えを実践できるのか、この公子は。レヴィンは半ばあきれるとともに、この公子は信用できる、と確信した。
「やめとけ。シャガール王に何を言っても無駄だ。あの男と停戦なんぞして、グランベル軍が引き返してみろ。シャガール王は、グランベルに協力した住民を皆殺しにするに決まっている」
 その時、シグルドが初めて驚愕の表情を浮かべた。
「いくらなんでもそれは……」
 どうやらこの公子はどこまでもお人好しらしい。この性格と、あの騎士としての力が共存しているのが、いっそ不思議ですらある。
「ははは。いや、もういいよ。アグスティまで行って、有利な条件で停戦でもしてくれれば。で、俺も協力させてもらうぜ」
 シグルドは驚いてレヴィンを見る。
「君が……?!しかし……」
「気にするな。俺は旅の吟遊詩人。気がついたらいなくなっていることもあるかもしれないが、気にしないでくれ」
 そういって、手を差し出す。シグルドは、戸惑いつつもその手を握り返した。
「難しい話は終わった?」
 レヴィンの影から、ちょこんと飛び出したのはシルヴィアだった。
「君は……?」
 吟遊詩人に続いて、踊り子まで出てくるとは思ってもみなかった。
「シルヴィアです。シルヴィって呼んでくださっていいですよ、シグルド様♪」
「おいおいシルヴィア……」
 レヴィンが半ばあきれている。ついさっきまで、ここで盗賊と死闘が繰り広げられていたとは、思えなかった。
「この子は、レヴィンの連れかい?」
「ち、違う!!さっき知り合ったばかりだ!!」
 なんて事を言い出すんだ、と思ったが、この状況ではそう思われても仕方がない。
「ひどい、レヴィン。恋人のあたしを見捨てる気?」
「だ、誰が恋人だ!!」
「と、とりあえず盗賊は一掃したから、一度合流しよう。君たちも来たまえ」
 シグルドは目の前で展開される漫才に、一瞬呆然としてしまったが、気を取り直すと来た方向へ馬を進め始めた。
「こ、こら。勘違いしたまま行くな。ちょっと待て」
 レヴィンが慌ててシグルドについていく。その後にシルヴィアが続いた。シグルド達は、新たに魔術師を一人、戦力として加えることとなったのである。

「陛下。シレジアから、天馬騎士が使者として参ったそうです」
 豪奢なアグスティ城の王の私室で、その報告を受けたシャガール王は、面倒くさそうに生返事を返した。せっかく、アグストリアの支配者としての富を貪り、快楽を愉しみ、心地よい眠りに落ちていたとこに、不粋な報告ではないか。そうは思ったが、無視するわけにもいかなかった。
 シレジア王国とは、隣国であることもあって、幾代も前から、友好的な関係を保っている。それを、ここで断つわけにもいかない。いずれ、アグストリアがユグドラルの中心になった時は、シレジアごとき小国、意に介すに及ばなくなるだろうが、今はそうはいかないのである。その現実とのギャップが、シャガールには歯痒かった。
 シレジア四天馬騎士の一人、フュリー率いる合計10人の騎士は、応接室で待たされていた。フュリーは、どうもこの不必要なほど装飾過剰なこの城に、居心地の悪さを感じていた。アグストリア諸公連合は、ユグドラル大陸では、グランベルに次ぐ大国であり、その王城ともなれば、それなりの装飾が必要なのは分かる。しかし、ここまで悪趣味なほど、金や銀で飾りたてなくてもいいではないか、と思う。最初、国威を見せ付けるためにこの部屋だけが、このように装飾過剰なのかとも思ったが、そうではなく、この城全てがそうであった。先王イムカの時代には、このようではなかったのだが、初めてアグストリアを訪れたフュリーには、知る由もない。
 ややあって、フュリー達は謁見室へと通された。さすがに、大国らしく大きく広い。しかしここも、不必要なほど金銀宝石で飾りたてられている。あまりにも居心地が悪いが、かといってそれを理由に辞去するわけにもいかない。
「遠き北国よりようこそ、わがアグストリアへ。して、今回の来訪、いかなる用件であろうか?」
 遠き北国、という言い回しの中に、シレジアに対する意識が現れている。このような場所で、その様なことを言う辺り、シャガール王の度量が知れてしまう、というものである。しかしもちろん、フュリーはその様なことは気にせずに、用件を切り出した。
「シャガール陛下におかれては、ご壮健なこと、我がシレジアも嬉しく存じます。このたびは、陛下にお願いがあり、参上いたしました」
 そういってラーナ王妃の親書を取り出した。王の傍に控えていた騎士がそれを受け取り、シャガールへと手渡す。シャガールは、シレジア王家の紋と蜜蝋で封をされた書簡をナイフで切り、手紙に目を通した。
「……なるほど、話はよく分かりもうした。レヴィン王子の情報、我らも聞いたことがある」
「本当ですか?!」
 思わず立ち上がりかけて、慌ててフュリーは自制した。
「し、失礼しました。それで、その情報というのは……」
「ふむ。なにしろ多少前のことなのでな。もう少し情報を集めねばならん。貴公らはそれまで城に留まるがよかろう。情報が入り次第、貴公らにお知らせしよう。いくらなんでも、この広いアグストリアを探し回るわけにはいかんだろう?」
 この申し出を断る理由は、フュリー達にはなかった。
「ありがとうございます。シャガール陛下」
 完璧な礼を示して、フュリーは退出していった。
「……陛下。失礼ながら、我らにそのレヴィンという王子の情報など、ありはしませぬが?」
 フュリーが退出した後、先ほど手紙を渡した騎士が問う。
「ふん。そんなことは分かっておる。だが、あやつらには利用価値がある」
 この程度のことも分からんのか、とその騎士を侮蔑したように言う。こういう時、シャガールは、自分がいかに有能な王であるかを感じ、優越感に浸っているのだ。
「現在、シグルドがアグストリアの城を次々と制圧しておる。グランベルは強兵だ。忌々しいことだがな。しかし、天馬騎士の強さもまた、大陸では有数のものだろう。しかも、あの隊を率いていたのは、四天馬騎士の一人だ」
 シャガールはそこまで言うと、くっくっくと笑った。全てが、自分の思うままに運んでいる。シャガールは、砂の上に築いた、己の城を夢見ていた。

 アンフォニーを制圧したシグルド達は、ノディオン城へと戻っていた。ここからアグスティまでは、距離はあるが、ほぼ一本道である。なりゆきでハイライン、アンフォニーを制圧せざるを得なかったが、シグルドとしても、これ以上この地で争いを繰り広げたくはない。。
 しかし、アグストリアの、少なくとも支配者にとっては、シグルドは忌々しい侵略者であった。そして既に、ノディオン、ハイライン、アンフォニーと落としていったシグルドは、アグストリアを全て占領する気がある、としか思えなくなっていたのだ。
 こうして、シグルドがこの段階で停戦を、と考えて使者を立てようとした時に、マッキリーが臨戦態勢にあるという報告がもたらされた。シグルド達は、戦う以外に道はなかったのである。

「シャガール王、いつまで待てばよろしいのですか。もう一月、ここに我らは留まっているのです。これならば、我らで探した方が、早いのではありませんか?」
 一国の王に対して、いささか礼儀を欠いているのは承知していたが、フュリーはかなり苛立っていた。いや、フュリー配下の騎士達も同じである。困難と思われたレヴィンの情報がある、と聞いて、最初は喜んだ。だが、いつまで経っても王から情報はもたらされない。そうして、無為に一月もの時間が過ぎてしまったのだ。フュリーも限界まで我慢したが、さすがに耐え切れなくなっていた。
「す、すまぬ。今使いの者をやろうと思っておったのだ。ようやく情報が掴めたのでな」
 フュリーが冷静であれば、あるいはシャガールの虚言など見抜けたかもしれないが、この時、フュリーは精神的にもあまり落ち着いていない状態だった。そこに「レヴィン王子の情報がある」と言われたら、他のことなど気づくはずもない。
「レヴィン王子は、今我が国を侵略しているグランベル軍に囚われて、エバンス城におるという話だ。やつらは、我が国の罪もない人々を次々にグランベルに従わぬ愚か者、と称して処刑しておるらしい。レヴィン王子も近々処刑されるという噂だ」
「な……っ!!」
 よく考えてみれば、あまりにも荒唐無稽な話である。現在で、無差別に住民を虐殺するような軍隊など、まずありはしない。つい先立って、ヴェルダン王国がその様な行動をとったが、文明国であるグランベルの軍隊が、その様なことをするはずがないのである。
 しかし、フュリーも、天馬騎士達も一月も待たされている間に、精神的にはかなり疲れていた。不必要なほど豪奢な宮殿が、シレジア人の感性に合わなかったのかもしれない。
「分かりました。では、我らは独自の行動をとらせていただいてよろしいでしょうか?」
 ここはアグストリアであり、行動するには、王の許可が必要となる。さすがに、このような配慮を失うほどに、冷静さを失ってはいなかった。
「おお、もちろんじゃ。自由に行動されるがよかろう」
「ありがとうございます。ラーナ王妃から、極力他国の兵との争いは避けなさい、といわれていましたが、仕方ありません。王子がエバンスにいるとなったら、エバンスを攻撃せざるを得ません。それでは、失礼いたします、シャガール陛下」
 フュリーはそういうと、半ば駆け足で部下達のいる部屋へ戻っていた。だから、シャガールが邪悪とも言える笑みを浮かべていたことなど、気付くはずもなかった。

「エバンスへ行く?」
 突然、レヴィンからそういわれたシグルドは、怪訝そうに聞き返した。これから、マッキリーからくる部隊を迎撃しようという時にである。
 レヴィンの実力は、同じ魔法使いであるアゼルが保証してくれた。アゼルも、炎の聖戦士、ファラの血を受け継ぐ強力な魔法使いであるが、彼自身が、レヴィンの実力は、自分より遥かに上である、と言ったのである。魔法は、修練次第では、上位魔法を操ることが可能になる。だが、そのさらに上にある、最上位魔法は、神々の血を受け継ぐか、ごくまれに存在する高い才能の持ち主にしか使うことは出来ない。アゼルも、この最上位魔法まで使う可能性を秘めているらしい。だが、レヴィンは、使う魔法こそ上位魔法であるが、その威力がすでに、最上位魔法に匹敵する、とアゼルは話していた。それは、才能の高さを表している
「何故急に?今度の相手には魔法使いもいるらしい。君が欠けるのは、正直、つらいのだが」
「そうだな……風が教えてくれた、じゃだめか?」
 シグルドは一瞬、冗談かとも思ったが、レヴィンは大真面目であった。実際、レヴィンはシグルド軍と同行しているとはいえ、シグルドの部下でもなければ、傭兵でもない。だから、勝手に行動することに対して、シグルドがどうこう言えるものではないのだ。
「わかったよ。好きにしてくれ。道中、危険はないとは思うのだけど、気を付けていってきてくれ。そうだ、ついでだから、エバンスの駐留部隊にノディオンまで来るように、伝言を頼めるか?」
 レヴィンは、わかった、と言うとすぐさま城を出ようとして踏みとどまった。
「おいおい。命令書くらいはくれよ。俺が、シグルドの伝令だなんて、誰も信用しねえぞ」
 シグルドは思わず、「あ」と口を開けると慌てて文書をしたためる。こういう無防備とも言える人の良さが、この男の魅力であり、欠点であるんだな、とレヴィンは感じていた。

「あれね、エバンス城は」
 山間にペガサスを休めながら、フュリーは遠眼鏡でエバンス城を観察していた。
 普通にアグスティから、エバンスまで行こうとすると、マッキリー、ノディオンと通過しなければならない。道は整備されてはいるが、それでも10日はかかる行程である。真っ直ぐ行こうとすると、山岳帯にを縦断しなければならず、より時間がかかってしまうのだ。
 しかし、フュリー達天馬騎士達にとっては、道も山もない。天馬の辿る道は、空であり、風なのだ。そして、風に乗った時のペガサスの速さは、トラキアの竜騎士を除いて、大陸で最速である。通常は、10日はかかるような距離であるのだが、わずか5日で着いてしまう。
「レヴィン様が囚われている、という話だけど、グランベル軍はその大半がノディオンにいると言うわ。一気に制圧して、レヴィン王子を救出後、すぐに離脱する。それで、いいですね?」
 フュリーは部下達――といってもみんながフュリーより先輩にあたるのだが――にそう伝えると、鮮やかにペガサスに乗り込む。他のものも、それに続いた。
「もう少し、きびきび命令してくれていいのに。フュリー隊長は」
 部下の一人が、からかうような口調で言う。他の騎士もそれに同意した。
「だ、だって私はまだ……」
 四天馬騎士とはいっても、フュリー自身はまだ騎士になって二年ちょっとしか経っていない。そのことが、どうしても命令するのに気後れを感じさせてしまうのだ。だが、そのような態度が逆に、部下達には好意的に取られていた。
「と、とにかく行きましょう。いまなら、早朝ですし、まさか攻撃があるとも思っていないでしょうから」
 そういってフュリーはペガサスの翼を羽ばたかせ、空中へと舞い上がる。他の9騎の騎士がそれに続いた。

 エバンス城の駐留部隊を預かっていたのは、アーダンである。だが、この日はもう、ノディオンへ向けて出発することになっていた。昨日、突然現れたレヴィンという名の吟遊詩人が、シグルド公子の使いだ、といって、シグルドの命令書を持ってきたのである。一瞬、偽者かとも思ったが、それは間違いなくシグルドの命令書であった。
 そして当のレヴィンは、というとしばらくこの城に留まると言っている。訳の分からない男だ、と思ったが、それは無視することにした。実際、出立となれば準備で忙しくなるからである。
 そのアーダンが、心地よい朝の眠りを貪っているところを起こされたのは、まだ陽が地平から顔を出したばかりのころだった。
「な、何者かが空中からこの城に向かってきます!!」
 アーダンはまだ寝ぼけていたため、数瞬その言葉の意味するところを理解できなかった。やがて、頭がはっきりしてくると、その報告の異常性に気付く。
「馬鹿なことをいうな。どうやって空から……」
 言いかけてアーダンは思い出した。このユグドラルの中で、二つだけ、空中を自在に飛び交う騎士団が存在することを。シレジアの天馬騎士団と、トラキアの竜騎士団。だが、アグストリアにはいないはずだ。いるとすれば、傭兵として雇われることの多い、トラキアの竜騎士か。だとすれば、大変なことだ。
 城に駐留している部隊は全部で50人ほど。エバンス城は、すでに後方の安全を確保してあったため、注意は前方に向けるだけでよい。そして、エバンスから道が通じているのはノディオンだけであったので、ここにいるのは、最低限度の守備隊だけなのだ。
「そ、そんな……まさか……」
 アーダンが狼狽しかけた時、扉の前に立っていたのは、昨日来た吟遊詩人だった。
「安心しろ。今回は運がいい。最悪のシナリオは避けられたぜ。空から来る部隊は俺に任せな」
 レヴィンという名の吟遊詩人はそれだけ言うと、さっさと城壁の上に行く。城壁の上では、すでに弓兵が何人か待機していた。しかし、いずれも弓など、まともに扱ったことのないものばかりである。だが、それでも万に一つ命中でもされた困る、と思ったレヴィンは、射たないように言った。だが、当然のように反論が来る。
「何を言っているんだ。やつら、明らかに攻撃してくるぞ。俺達が殺されてもいいのか!!」
 レヴィンは、仮に今本当のことを話しても、信用してもらえそうにない、と思ったので実力行使に出た。つまり、魔法をその兵士の足元に叩き付けたのだ。
「黙っていろ。殺されるのがいやなら、城の中にでも引っ込んでいろ」
 その時のレヴィンには、シグルドやキュアンと同等の、圧倒的なまでの迫力があった。兵士達は、まるでなにかから逃げ出すように、城の中へと入っていった。
「さて、と。誰が来たのかな?」
 レヴィンは、風が教えてくれたものの正体が、これであることは確信していた。このような場所に派遣されてくる以上、四天馬騎士か、そのクラスである。だとすれば、レヴィンを知っているだろう。

 天馬騎士の攻撃は、基本的に槍による突進である。高空から一気に降りてくる速さは、竜騎士にすら引けをとらない。その一撃の威力が、天馬騎士最大の武器である。しかし、フュリーは城壁の上に一人しかいないのをみて、驚いた。兵が少ない、というのは聞いている。だが、それでも迎撃が一人ということはないのではないか。しかも、その一人は鎧を着ているようにも見えないし、なにより武器を持っていない。敵わぬ、と思って降伏するのかとも思えたが、いくらなんでも考え難かった。自分達はたったの10騎である。
 その一人だけいる兵士が、手を振っているのに最初に気がついたのは、フュリーだった。降伏の意思、というわけではない。さらに近付いてくると、その兵士のものであろう声が聞こえてきた。そして、その時フュリーは自分の耳を疑った。彼女にとって、聞き間違えようのない声だったのだ。
「そ、そんな。レヴィン様?!」
 フュリーはペガサスの速度を一気に上げた。こうなると、フュリーのペガサスに着いてこれるペガサスはいない。どんどん近付いて、その人物の顔が識別できるような距離に来た時、今度は自分の目を疑った。そこにいたのは、間違いなくレヴィン王子だったのだ。
「レヴィン様!!」
 視界が急にぼやけたのが、自分の涙のためであることは分かっていたが、フュリーにはそれを止める術はなかった。そのまま、レヴィンの横に降り立ち、ペガサスを飛び降りる。一瞬、そのまま飛びつきそうになったが、かろうじてそれだけは自制することができた。
「レヴィン王子……よくご無事で」
「フュリー?!」
 フュリーと同じくらい驚いたのはレヴィンだった。フュリーは、レヴィンの記憶が正しければ、まだ18歳、天馬騎士になって、まだ2年である。こんな危険な任地にいかされるようなことはないはずだ。その疑問を解決してくれたのは、フュリーの鎧の肩に刻まれた紋章であった。
「それは四天馬騎士の紋章……フュリー、お前、四天馬騎士なのか?!」
 あのマーニャでさえ、四天馬騎士になったのは19歳の時である。それでも、史上最年少であった。だが、フュリーはそれよりも早かったというのか。
「あ、は、はい。あ、いえ、その……」
 フュリーは、レヴィンに会えた嬉しさで、うまく言葉が出ない。それでもどうにか、言葉を紡ぎ出す。
「よくご無事で……エバンス城に囚われていた、と聞いて慌てて来ましたのに……」
 その言葉で、レヴィンは不思議そうな表情を浮かべ、首をかしげた。
「俺がエバンス城に囚われただと?そんなの、誰に聞いたんだ?」
「あ、いえ、その、アグスティのシャガール王に……」
 戸惑いながらもフュリーは正直に答えた。だが、すでにこれが虚偽であったことは、フュリーにもなんとなく分かってきていた。
「やれやれ。シャガールに騙されたんだな。素直なのはいいけど、それだけじゃ、都会じゃ暮らせないぜ。ま、変にすれてシルヴィアみたいになっても困るけど……」
 都会、というのがこの場合はグランベルを指すのだろうか、とフュリーは考えたが、それよりも気になる単語がレヴィンの言葉の中にあった。
「レヴィン様、シルヴィアって……?」
 するとレヴィンは、しまった、という感じで視線をそらした。
「あ、いや、まあ気にするな。それより、どうしてお前がここにいる?」
 その言葉で、フュリーはようやく本来の目的を思い出した。
「王子を連れ戻すためです。王子が誰にも言わずにシレジアを出奔してからもう一年半。ラーナ様はとても心配なさっています。どうか一緒にお戻り下さい」
「いやだ」
 レヴィンの答えは簡潔を極めた。それだけに、誤解のしようもない。
「俺が戻れば、父王の遺言通り、というよりシレジア建国以来の決まりで王位を継がなければならない。だが、叔父貴たちは承知しないだろう。下手をすれば、内乱になる。おれは、そんなのはごめんだし、そうなれば一番迷惑をするのは、国民達だ。王なんてものはなりたいやつがなればいい。俺は、今の自由な生き方が気に入っているんだ」
 変わらない。王子は、一年半前と変わらずにいてくれた。その事がフュリーには嬉しく感じられたが、だからといって、このまま帰るわけにはいかない。
「王子はあの十二聖戦士の一人、風使いセティのお力を継承するお方。そして、その力の象徴である風のフォルセティを受け継ぐべきは、王子をおいて、他にはいらっしゃらないのですよ。シレジアの王は、王子をおいて、他にありません。国民もみな、それを望んでいます。レヴィン様……ラーナ様も泣いておられたのですよ。お願いです。どうか……どうかシレジアにお戻り下さい」
 再び視界がぼやけている。だが、フュリーはその涙を拭おうとはしなかった。
「おいおい、何もお前まで泣かなくてもいいだろう。……まいったな……」
 レヴィンは本当に困ったような顔をしている。どうなだめたらいいのか、さっぱりわからないのだ。
「……わかったよ。決心がついたら、シレジアに戻る。だが、もう少しこのままでいさせてくれ。決心がついたら、母上の元へ帰るから。そんなに、長い時間をかけるつもりもない」
 レヴィンのその言葉を聞いて、フュリーはようやく顔を上げた。しかし、その顔は涙でぬれている。
「わかりました……では、私も王子が戻られるまで、一緒にいます。王子が無事であったことは、部下に伝えさせます」
 そう言ってフュリーは、涙を拭う。その表情は、レヴィンが見たことのない、強い意志が宿っているようにも思えた。
「……だめだと言っても無駄だろうな」
「はい」
 フュリーは迷わずにうなずいた。
「わかったよ。だが、俺はもうしばらくシグルド公子と共に行動する。シャガールに何を吹き込まれたかは知らないが、やつは別にアグストリアを制圧しよう、とかを考えているわけじゃあない。やつとは何故か気が合うんだ。それに、やつの軍は女性も多い。お前も、彼女らと友達になるといいよ。そうすれば、少しはあかぬけるかもしれないぜ」
 最後の言葉は、ほんの冗談である。
「はい……わかりました。努力してみます」
 しかし、聞いていた方は大真面目だった。
「おいおい……冗談だよ。本気にするな。フュリーはマジメなんだからな……。別にそんなことしなくたって、お前は可愛いよ。誰にも負けないくらいにね」
「あ、はい……あ、いえ……」
 フュリーは反射的に返事をした後、その言葉の意味を理解して一気に顔を紅くした。少ししてから、レヴィンがそのフュリーの反応を楽しんでいるのに気がつくと、今度は顔を膨れさせる。レヴィンは、それを見て、さらに笑い、フュリーは結局どういう顔をすればいいか、わからなくなってしまった。
 そしてその時になって、ようやくフュリーの部下達がレヴィンのそばに来た。とっくに城壁には来ていたのだが、しばらく遠巻きに見ていただけなのである。フュリーのレヴィン王子に対する気持ちを、彼女たちも無論知っていたからだ。



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