シレジアは二つの季節で有名な国である。長く、厳しい冬と、そして短い夏。おそらく、冬のシレジアに良い印象を持つものは、大陸にはいないであろう。かつて、シレジアの外で育った詩人が、シレジアで冬を過ごしたとき、それは寒さの監獄である、と詠ったと云われているほどだ。そこまで言わなくても、と思うが、その表現自体には間違いはないだろう、とも思える。おそらく、来ていきなり冬を体験する羽目になったシグルド軍の者達も、その大半はその意見に同意するだろう。しかし。 同時にシレジアの夏は、その過ごしやすさと美しさで知られている。あまり気温も上がらず、また雨も少ないため風が常に涼気を感じさせてくれる。しかし乾燥しているというわけではない。シレジアの大地を縦断するシレジア河には、山岳地帯から流れ出す冷たい雪解け水で、いつも豊かな流れを見せている。 シレジアの気候は、南と北で大きく分かれて、シレジアの北は夏は雨が少ない。そのため、北側は夏は雨が滅多に降らない。しかし、その分適度に湿り気を帯びた風が常に海から吹いてきているため、乾燥している、という気はしない。また、シレジアの南側は、風は乾いているのだが、時々嵐のような雨が――主に日が暮れる頃に――降ることがあるのである。ただしこの雨は、あまりにも急に降るため、シレジアの街では、よく雨具を持たない人が、屋根の下で雨宿りをしている光景を見ることができる。 シグルドやレヴィンが今いるセイレーン城は、もちろんシレジアの北側に位置する。雨はあまり降らないが、海からの湿り気を帯びた風で、大変に過ごしやすい。多くのシレジア人がそうであるように、レヴィンもこの夏が好きである。こういう時は、城でじっとしているのは嫌いであった。かつてはよく、母ラーナやマーニャの目を盗んで、よく外へ遊びに行ったものである。今は、それに比べると監視は緩い。フュリーも、仕事で忙しく、レヴィンが城を抜け出すのを監視する余裕はないのだ。 夏になると、さすがに流通も盛んになる。特に、シレジアの北と南を結ぶ道は、陸路では一つしかない。だが、それでもかなり険しい山道であり、春ではまだ雪が残っていて、雪崩などの恐れもあるため、あまり行き来する隊商などはないのだ。しかし、夏は別である。夏になると、それまで閉ざされていた北と南の流通が、一気に復活する。多くの品物が――北側には、他国と貿易する港もないため、商品の多くは他国の品物である――入ってくるのだ。北方の街では、毎日のように市が立ち、商品が売買される。だが、そのような者を狙う輩もまた、活動を盛んにするのである。すなわち、盗賊達が。フュリー達、天馬騎士の仕事は、この隊商達の警護、及び盗賊達の捕縛である。だが、今年はそれに加えてトーヴェ城の監視、という仕事もあるのだ。 だが、幸いというべきか、トーヴェの動きもまた、掴みやすくはなっているのである。いかに戦いの準備をしているとはいえ、マイオス叔父も、商業を阻害する意志はないらしい。実際、シレジアの北のはずれに位置するトーヴェは、外から来る商人達は重要な情報源であり、また物資の補給線でもあるのだ。その意味では、トーヴェへの商人の移動を禁止する、というのは有効な手段ではあるのだが、シグルドはもちろんそのような手段はとらなかった。自分自身がシレジアの人間でないこと、なにより、軍事上の理由で、市民達の生活に悪影響を与えることを厭ったのだ。とことん、お人好しな性格である。だが、逆にトーヴェから戻ってきた商人達から、トーヴェの情報を得ることもできる。無論、情報は操作されているかもしれないし、あるいは商人達がマイオスに雇われる形で誤情報を流している可能性もあるので、それに振り回されるのは危険ではあるが、それでも全部が全部そうなっているはずもなく、また監視も続けているため、その情報と総合すれば、大体の状況は分かってくる。 それらから総合すると、マイオスは確実に戦争の準備を進めている。だが、まだ準備は完了していない。あるいはまだ戦争を起こす気がないのか。確かに、まともに考えると軍を動かすのは夏がいい。だが、セイレーンにいる軍隊は、シレジアの軍ではない。寒さになれていないとなれば、あるいは寒くなり始めてから軍を動かすのかもしれない。 レヴィンはそんなことを空を見ながらぼんやりと考えていた。ふと、叔父もこの夏を満喫したいと思っているのだろうか、とも考えた。レヴィン自身、できることならこの美しい夏を血で汚すことはしたくない。 「よっと」 起き上がったレヴィンの髪を、風が弄んでいる。頭飾りの布が、風に飛ばされそうになって、慌てて抑えた。今日は海からの風が強い。あるいは、海辺だからかもしれない。波が眼下の絶壁に当たる音が、心地よく感じられる。 ふと、冬にマーニャと海岸に来て、風の魔法を氷海に叩き付けたことを思い出した。今だと、なんであそこまで吐露したのだろうか、とも思うが、あれから少しだけ心が楽になった気がするのは事実だ。誰かに聞いてもらいたかったのかもしれない。あと、あの日のことで気になるのは、途中から記憶がないことだ。気がついたのは翌日、自分の部屋であり、飲んだ量から考えても自力で部屋に戻ってこれたとは思えない。そもそも、酒場を出た記憶すらないのだ。多分マーニャが送ってくれたのだと思うが、だとしたらかなりの迷惑をかけてしまったことになる。しかし、マーニャに謝ろうと思ってもなかなか言い出せずにいるうちに、すぐマーニャの休暇は終わってしまってマーニャはシレジアに帰ってしまったのだ。それ以来会っていない。今更母ラーナに怒られるのは慣れているのだが、こう中途半端だと何故か落ち着かないものである。普段は忘れているだけに、思い出すと気になって仕方がない。 かといって、シレジアまでは簡単に行ける距離ではない。ペガサスであれば、風に乗って数日でついてしまう距離だが、歩いたり、陸路を行くとなるとかなりの時間がかかってしまうのだ。 「まあ、いいさ。別にいまさらなあ」 半分は開き直りである。夏のシレジアを、歩いてシレジアまで行くと言うのは魅力的ではあるのだが、現実問題として、もしマイオスが兵を起こしたりしたら、大変なことになる。そういうリスクを冒すような冒険は、さすがにできるものではなかった。 |
セイレーンに駐留する天馬騎士は全部で50騎。本来、セイレーンにいるのは20騎程度であるから、普段の倍以上の騎士がいることになる。だが、数が増えれば仕事が減る、ということはなく、数が増えただけの働きを期待されてしまうものなのだ。そして、その50騎を統括する立場にあるフュリーは、多忙を極めていた。 隊商達の移動報告があれば、騎士を派遣し、また報告がない場合もあるので、常にある程度の騎士を配置しておく。また盗賊を捕縛した場合は、それらを牢につなぎ、シレジアへの移送の手続きを取る。加えて、トーヴェに対する警戒も、決して怠ってはならないのだ。さらに、街の治安警備の責任者も、フュリーになっている。本来であれば、魔法師団の部隊長が配置されているので、近距離の治安等はそちらに任せるのだが、セイレーンには魔法師団は配属されていなかった。 もともと、魔法師団は数が少なかったのだが、さらにダッカー、マイオスがかなりの数を自軍に引きいれてしまった。そのため、シレジアからセイレーンに回す数がなかったのである。その分の働きを、シグルド軍の者達に頼めばよいのだが、フュリーは、シグルド達はあくまでシレジアの客人だから、といって、頑としてシグルド達の協力も拒んでいた。要請すれば、本来フュリーの部下である天馬騎士残り100騎のうち、50騎は回してもらえるだろうが、フュリーはそれも遠慮している。 冬の間は比較的仕事も少なかったからなんとかなっていたが、夏になってくるとそうもいかない。真夜中に起こされる様なこともしばしばである。疲れていない、といえば嘘になるのだが、フュリーはよく耐えていた。真面目なのはシグルド軍の全員がよく知っていたことだが、それでも無理が過ぎる。それを心配したエスリンとラケシスが、フュリーの元を訪れたのは、非常に天気が良い、昼時前であった。 「ちょっと、いいかしら?」 コンコン、という扉のノックと共に聞こえた声に、フュリーは顔を上げた。淡い緑のチュニックと、同じ色のキュロットスカートを着たエスリンと、白い、同じデザインの服を着たラケシスがそこに立っていた。フュリーはちょうど、明日出発すると報告のあった隊商の護衛の人選を考えていたところである。 「あ、はい。なんでしょうか?なにか不便なことでも……?」 形の上では、シグルドがこの城を預かることになっているが、実際に保守・警備を指揮しているのはフュリーである。本来は、レヴィンも手伝ってしかるべきなのだが、当然のようにレヴィンは手伝ってなどいない。 「ううん。そんなことはないわ。とっても快適。今日はそうじゃなくて……ちょっと今から街に出ない?」 思いもかけなかった申し出であったが、やらなければいけない仕事は山積している。 「いえ、私、まだ仕事がありますから……」 フュリーの態度はそっけない。無論、それでいて礼儀を失することもない。だがこの場合、礼儀によって意図的にフュリーは壁を引いていた。 「あ〜、もう!!いいから来なさい!!」 いきなりラケシスは、フュリーの腕を引っ張ると、そのままずるずると引きずり始めた。 「ちょ、ちょっと待って下さい。私、まだ……」 「いいの、そんなことは」 エスリンがフュリーの後ろに回って背中を押す。さすがに、フュリーでは二人には抵抗できない。ましてラケシスは、見た目に反してアイラなどよりよほど力があることで知られていた。 「あの、本当に、困りますから、その、」 フュリーの抗議を、二人は完全に無視している。ちょうど、廊下を通りがかったシグルドが、3人を見つけて、驚いた顔のまま止まっていた。横には、キュアンもいる。 「あ、兄上、キュアン、ちょうどよかった。フュリーの仕事、引継いでおいて。それじゃ、よろしくね〜」 エスリンはそういうと、あっという間にフュリーを引きずって廊下の向こう側に消える。あとには、男二人が呆然としたまま残された。 「……仕事って……」 「やるしかないだろ。後で、エスリンが怖いし」 シグルドは苦笑する。キュアンも吹き出した。もっともこの会話は、偶然聞いていたシャナンから、エスリンに伝わってしまうのだが、それがどうなったのかは本人達しか知らないことである。 |
「あの……一体……」 フュリーは戸惑いながらも二人と一緒に馬を進めていた。普通の馬に乗るのは久しぶりだ。着ているのはさっきまで着ていた天馬騎士団の服ではなく、エスリンが用意した服である。といっても、フュリーはエスリンやラケシスよりも背が高いので、そうなるとわざわざ買っておいたものなのだろうか。 「いいから。最近あなた、ず〜っと休んでいないでしょう?忙しいのは分かるけど、たまには遊びにも行かないと、倒れちゃうわよ」 エスリンの言葉に、ラケシスが同意する。そうは言われても、と思うが、多分自分を気遣ってのことなのだろう。フュリーはその心遣いはうれしいと思う。けど、実際忙しいのは確かで、遊び歩いているわけにはいかないのだ。なかば、二人の勢いに引っ張られる形でついてきてしまったが、やはり、戻った方がいい。 「あの、やっぱり私、まだ仕事がありますから。街に出るのであれば、また今度……」 「だ〜め」 まるで駄々をこねる子供をしかりつけるような口調で、エスリンはぴしゃりと言いきった。 「でも……」 「あんまりまじめで堅物な風にばかりしていると、レヴィン王子に嫌われるわよ」 ラケシスがフュリーが反論しようとした矢先に、いきなり決定的な言葉を浴びせかけた。とたん、フュリーは、思考そのものが停止してしまったかのような状態になってしまった。 「え、あの、その、そんな、私は、別に……」 二人は顔を見合わせると、クスクスと笑い出す。その間も、フュリーの思考はほとんど停止したままである。 「気付かないと思ったの?誰が見たって、あなたの気持ちなんて、すぐわかるわよ」 エスリンが笑いながら言う。そうだったのだろうか。だとしたら、レヴィン様にも気付かれていたのだろうか、もしそうなら……。そう考えると、フュリーはどこかに顔を伏せたくなった。頬が熱を帯びているのが、自分でもよく分かる。頭の中がぐるぐると回っているような感じだ。 「もしかして……本当に誰にも気付かれてないって……?」 ラケシスの言葉に、フュリーは小さくだがうなずいた。ラケシスとエスリンは、もう一度顔を見合わせて、呆れている。 「態度見ていれば、すぐ分かるわよ。まあ……にっぶ〜い兄上は気付いているかどうかは怪しいけど」 それはあまり免罪符にはならない。フュリーにとっては、レヴィンに知られてしまっているかどうかだけが、問題になるのだ。 「あの、それ、みなさん気付いて……?レヴィン様も……」 泣きそうな、それでいてかすれそうな声になる。顔を上げるのすら恥ずかしかった。ラケシスはそれを聞いて、怪訝そうな表情になる。 「う〜ん。さすがに本人には聞いていないけどねえ。でも、そんなにレヴィン王子に知られるのが怖いの?」 「それは……そうです。だって、レヴィン様はいずれ、王になられる方です。そんな方のことを、一介の騎士である私がそんな感情もつなんて……恐れ多いです……」 ラケシスはなぜか、それを聞いてクスクスと笑い出した。今度は、フュリーが不思議そうな顔になる。 「あ、ごめんなさい。ただ、フィンみたいな人っているもんだなあって」 そういいながら、ラケシスはまだ笑っている。 レンスターの騎士フィンとラケシスは、この夏結婚した。ただ、その結婚に際しては、いろいろとあったという。 「フィン、結婚しようっていったら身分のこと、ずいぶん気にしていたものね。ラケシス姫も、すっごいやきもきしたみたいだし。でも実際、騎士と王子なんて、お似合いじゃないの。御伽噺だと、騎士がお姫様のハートを射止めるなんて、多い話じゃない」 エスリンはそう言ってくれるが、実際にはそうはいかないものなのだ。あれは、御伽噺だからだ、とフュリーは思う。 レヴィン王子は優しい。だけど、それはみんなに優しいのだ。そしてだからこそ、国民はみなレヴィン王子を慕っているし、それは自分も同じなのだ。それを、独占したい、と思うことは、騎士としてはあるまじきことである。 黙ったまま何も言わないフュリーを見て、エスリンとラケシスは困ったように同時にため息を吐いた。なまじ、少し前までフィンのことで悩んでいただけに、フュリーの悩み、というものも分からなくはないのだ。ラケシスの場合、どちらかというとラケシスが押し切った、という話になっている。真相は定かではない。こればっかりはラケシスも口を閉ざし、フィンはもちろん何も言っていない。ただ、ラケシスの方が積極的だったのは確かだ。しかし、どう考えてもフュリーはラケシスのように行動できる性格ではない。となるとレヴィンをけしかける方がいいのだろうけど、この様子では、それでもフュリーは応じないような気がした。 「私は……レヴィン様のそばにお仕えできるだけで良いんです。それだけで、十分なんです」 真っ赤になりながらも、フュリーは二人に対して、初めて顔を上げて言いきった。二人はしばらく顔を見合わせる。 「……まあ……とりあえず……」 ラケシスが、やや疲れたように言う。エスリンは、にっこりと笑うと、ぽんぽん、とフュリーの肩を叩いた。 「まあ、それがあなたの気持ちなら、それでもいいけど、でも後になって悔やんでも仕方ないからね、それだけは忘れないでね」 そう言ってから突然フュリーの馬を先導するように動く。ラケシスも、いつのまにかフュリーの馬の手綱をつかんでいた。普通の馬の扱いかけては、エスリンやラケシスは、フュリーより遥かに慣れている。 「それはともかく、と。こんな天気の良い日に、城に閉じこもって仕事ばかりしていたら、それこそレヴィン王子にだって嫌われるわよ。で、せっかくだからどっかいいところを案内して」 「あ、あの……」 フュリーの言葉を無視して、二人は引っ張っている。しばらく抵抗していたフュリーだが、やがてあきらめたのか、二人についていった。実際、フュリーですら城に閉じこもっているのはもったいないと思わせるほど良い天気だったのだ。 (たまには、いいわよね) フュリーはそう思うことにすると、二人の馬を進める速さに合わせる。 「それじゃ、私が知っているこのあたりで一番きれいなところ、案内します。ついてきて下さい」 それもまた、レヴィンに教えてもらった場所だ。今は、王子と一緒にいられるだけで幸せだと思う。これ以上を望むのは、罰当たりだと思えるほど。二人の言っていることもわかる。けど、自分自身がレヴィン王子に好かれているか、という自信もない。もし、告白して断られたら。それは、何よりも恐ろしいこに思える。だから、今のままでいい。フュリーはそう言い聞かせると、馬を走らせた。 |