し る べ    
風の道標・第十五話




 すでに、天からは白き妖精が舞い下り始めていた。シレジアの詩人は、雪のことをそう表現する。白き妖精達の降り立つ大地シレジア、と。ただ、その妖精達は節度を知らない。全てを雪で埋め、地上の支配を奪おうとしているのでは、とすら思えてしまう。ただそれでも、春に力を回復する偉大なる太陽には敵わない。
 冬の間の、しかし決して短くはない妖精達の国、シレジア。
「でも、彼らがこれから起きる凄惨なる光景を、包み隠してくれるというのであれば、悪いことばかりじゃないわよね」
 その妖精達と同じ、白い馬に跨った女性は、灰色の空を見上げると呟いた。
 纏う鎧も、その馬の色に合わせたかのように白い。そのなかに、鮮やかなグリーンの髪の毛が目を引く。シレジア人特有の、グリーンの髪の毛。そして、その瞳もまた、髪の色と同じ色である。その瞳が映すのは、舞い落ちる妖精と、そして重い、雲。
 少し、震えが来る。武者震いだと思いたいが、それだけではないかもしれない。寒さ以外の、もう一つ。恐怖による震え。
 戦うことを恐ろしい、と思ったことは幾度もある。それでもここまで勝敗の見えない戦いは始めてだ。それも、これほどに大規模な。
 双方合わせると1000人を超す兵士が同じ戦場でぶつかるのである。おそらく、このユグドラル大陸でも、これだけ大規模の戦闘は、そう数はないだろう。近いところであったとすれば、かのイザーク戦争くらいか。一昨年から去年にかけてあったアグストリアの動乱では、最終的に動いた兵の数は多かったのだが、各戦闘はこれほどの規模にはなっていないはずだ。
「マーニャ」
 呼ばれて、振り向いた。来たのはシレジアでは比較的珍しい黒髪の女性。その立ち居振舞いは、気品と、そして優しさを感じさせる。マーニャが忠誠を誓う、現在のシレジアの実質の王、ラーナである。前シレジア王の妃であるということから、夫の死後シレジアを治めてきてすでに10数年。ただ、セティの血族でない、という理由から王位に就くことを頑なに拒んできていた。けれど、おそらく今誰よりもシレジアの王として相応しい方だと、マーニャは思う。
 そしてそのためにも。マーニャは何としてもこの戦い、負けるわけにはいかなかったのだ。
「マーニャ、どうしても出撃するのですか」
 ラーナは不安そうに尋ねてきた。無理もない。相手は同じシレジアの、それもラーナにとっては義理の弟にあたるダッカー公だ。
 前王フェゼオには二人の弟がいた。ダッカーとマイオス。彼らは去年から、シレジアを離れ、トーヴェとザクソンへと移ってそこで公然と兵を集め、戦争の準備をしていた。前々から王位を譲るように言ってきていた二人である。目的は明らかだった。
 話によれば、トーヴェのマイオスはすでに兵を挙げ、こちらは去年からシレジアの客分となっているシグルド公子が迎撃に出ているという。これは、期待通りであった。シグルド軍の精強ぶりはよく聞いていたし、トーヴェから攻めあがるには、絶対にセイレーン城を通らなければならない。おかげで、シレジアはザクソンにのみ注意すればよかったのだ。
 しかしそのザクソンもまた、シレジアに匹敵する戦力を、あるいはそれ以上を蓄えていた。シレジアにとって痛かったのは、魔法師団を全て、ダッカー、マイオス両公に持っていかれたことである。
 風の魔法を得意とする魔法師団は、天馬騎士達にはそれほど恐ろしい相手ではない。ペガサスの持つ、強力な対魔法障壁が、彼らの魔法の効果を削ぎ落とすからだ。問題は歩兵である。彼らは、風の魔法に抗するに、己自身の力を持ってするしかない。はっきり言って、期待する方が無茶である。天馬騎士の数は、こちらの方が多いのだが、歩兵を魔法師団に削り取られては勝ち目が薄くなる。
 幸いなのは、シレジアには天馬騎士団同士の混戦になってしまえば、その中に矢を放って確実に目標に当てるだけの技量を持つ射手はいない、ということだ。混戦になってしまえば、弓は怖くなくなる。あとは、個々の戦闘能力と、指揮官次第。
 マーニャは、ザクソンの天馬騎士を率いるパメラを思い出した。少なくとも、個人の戦闘能力に関する限り、パメラはマーニャに一歩も引けを取らない。模擬戦の成績も全くの五分だ。だが、彼女を討ち取れるか否かが、この戦いの趨勢を握っている。たとえ、共に互いを鍛え、また競い合ってきた仲であっても。すでにその決意に迷いはなかった。
「ラーナ様。彼らから兵を挙げたのです。我らはただ、シレジアを、ラーナ様をお守りすることだけ。それに、レヴィン王子も、きっともうすぐ戻られます。新たなる決意と共に。私、そんな気がするんです」
 とっさに言ったことだが、マーニャには何故か確信があった。レヴィン王子は、きっと戻って来る。あの王子がフォルセティを継承すれば、きっと全てはよい方向に向かうだろう。自分は、それまで時間を稼ぎ、そして王子が治めるべきシレジアを、有るべき姿に戻すだけだ。そのためには、この身が同国人の血にまみれようとも、かまうまい。
「分かりました。ですが、決して無茶なことはしてはだめよ。天馬騎士パメラは、私が言うまでもないでしょうが、大変優秀です。敵としたとき、シレジアでもっとも恐ろしい相手の一人。よいですね。死ぬことは許しませんよ。あなた自身、まだ言うべきことが残っているのでしょう?」
 その言葉に、マーニャは一瞬、次の言葉を発しそこねた。
「私は……こういう生き方しか出来ません。お気になさらないで下さい。それに、もう私ではなく……」
 マーニャはそこで言葉を切り、再び目を閉じた。何かを振り払うように、頭を振る。
「例えどうあれ、必ず生きて戻りなさい。よいですね。これは、命令です」
 ラーナはそういうと、控えていた侍従がもっていた槍を受け取り、マーニャに手渡した。真銀の、穂先のつけねに、風を意匠化したシレジア王家の紋章を刻んだ槍。シレジアの軍最高指揮官を示す、風の槍である。かの十二神器には遠くおよばないが、強力な力を持つ、蒼碧一対の槍。そのうちの蒼風の槍。そして、おそらく、次位を示す碧風の槍は、パメラが持ってくるであろう。
「ありがとうございます、ラーナ様。この槍にかけても、必ず勝利を、そして平和を」
 マーニャは恭しくその槍を受け取ると、高々と掲げた。槍が、それ自身が輝いたのか、かすかに光を放つ。
「出陣!!」
 マーニャの号令と共に、250騎の天馬騎士が同時に飛び上がった。空は、一瞬、雪ではなく白く染め上げられた。

「マーニャの部隊が、進発したようだ。マイオスも倒れたという。パメラ、頼むぞ」
 ダッカーの声に、パメラは頭を下げ応じる。だが、その表情には釈然としないものが浮かんでいた。
「お前の気持ちも分からなくはない。だが、我らは負けるわけにはいかぬのだ」
 ダッカーはそういうと、壁にかけてあった槍を取る。ラーナがマーニャに与えた槍と同じ形。ただ、色だけが違う。
「とれ。これがなくては、おそらくマーニャには敵うまい。やつもまた、これを持ってくるだろう」
 パメラはその碧風の槍を黙って受け取った。槍から、何かの力が伝わってくるような気がする。かつて、シレジア建国の祖、セティが特にあつらえてもらったという二本の槍。そして彼は、その槍に己の力の一部を込めたという。
「私には、ダッカー様の決定に対して、異を挟む資格を持ちません。ですが、願わくば、せめてその介入を遅らせてはいただけないでしょうか。マーニャとの決着、それに対して割り込まれることは……」
 パメラはそこで口をつぐんだ。ダッカーが明らかに怒りの感情を込めて、自分を睨んでいたからである。
「パメラ、早く出撃せよ。のんびりとしていては、先に先発した魔法師団と歩兵部隊が、マーニャの部隊にかかって全滅することになるぞ。いかにアーヴァとて、マーニャの相手は務まるまい」
 パメラは、なおもまだ何かを言いたそうにしていたが、おそらく聞いてもらえないだろう、と判断し、その場を辞した。
「パメラよ、お前は騎士として戦うがいい。私は、せめてその舞台だけを、最大限与えよう。あのハイエナどもに、付け入る隙を与えぬようにな……」
 ダッカーは憎々しげに東の空をみやった。遥か東の方は、雲がないのだろうか。かすかに明るい。だが、その空の下にあるのは、血に飢えたハイエナであることを、ダッカーだけが知っていた。

「援助?」
 ダッカーはもう一度聞き返した。夏のまぶしい太陽が差し込んでいるはずなのに、この部屋はまるで真冬の、それも夜の吹雪のように暗い。明るさが、ではない。目の前にいる人物が暗さを醸し出しているのだ。
「左様。ダッカー様がシレジアの王位に就くのに、我がグランベルが援助しよう、というのです。具体的には、兵力をお貸しいたします。精強をもってなる我がグランベルの兵力を持ってすれば、シレジアの天馬騎士団ごとき、有象無象の雑兵に過ぎませぬ。……いや、これは失言でしたな。ただ、我がグランベルには天馬騎士がもっとも苦手とする弓を得意とする軍もありますれば……」
 ユングヴィのバイゲリッター。噂は、ダッカーもよく聞いている。おそらく、弓の技量であれば大陸一である騎士団だ。全員が、卓越した弓の使い手であり、噂に拠れば、文字どおり、飛ぶ鳥を射落とせることが騎士団に入る条件であるという。天馬騎士を射落とすくらい、造作もないのだろう。
「そこまでして、私が王位に就くことを援助する見返りに、グランベルが求めることはなんだ?領土か?金か?」
 ダッカーにとっては、グランベルの申し出も胡散臭かったが、なによりも目の前の人物を信用できなかった。いくら涼気を含んだ風が吹くシレジアの夏とて、暑くないわけではない。だというのに、目の前の男は濃紫のローブを頭からすっぽりかぶっているのである。しかも、そのフードすら取ろうとしない。頭に大きな戦傷があるから、ということだが、本当かどうかも怪しいものだ。
「いえ。ただシレジアとグランベルは国交がなく、これまで国境で村人同士が争うような、無益とも思えるような関係でありました。この様な不幸な関係に終止符を打つには、伝統に縛られた血統で受け継ぐ王位ではなく、公のように、明敏な方が王位に就かれるのが両国のためかと。我らが求めるのは、平和と安定。そして両国のこれからのよりよい関係でございます。それに、今の王位継承者は、王として相応しいかどうか。この私も、少なからず色々と噂を聞いておりますれば……」
 おだてられても、そのおだててくれた相手がこれでは、とてもいい気持ちはしない。それに、ダッカー自身、レヴィンの資質については、実はまだよく分かっていない。なんのかんの言っても自分の甥だ。それを、全く関係のないグランベルの、それもこれほど怪しい男に悪し様に言われるのでは、不愉快になるだけだ。
「随分と勝手な言い草だな。私とて、王族にあるもの。国の中枢に関わるものだ。グランベルが、ただそれだけで動くとは、容易に信じられんな。何を企んでおる」
 ダッカーの言葉が、怒気が孕んだ。かすかに、部屋の風が変わる。だが男は、全く動揺した様子を見せなかった。
「私は所詮使者。アルヴィス様のお心うちは、分かりかねます」
 やや大仰とも思えるような態度で言う。それが、余計に怪しく見える。
「大体、なぜアルヴィス卿の使者なのだ。アズムール王の使者ではない、というのはどういうことか」
「アルヴィス様は、すでにバーハラ王家の王女、ディアドラ様と御婚約がお決まりです。近いうちに正式に結婚されることでしょう。そうなれば、アルヴィス様は次期国王となります。聖者ヘイム直系でない方が王位を継ぐのは前代未聞ですが、この場合は仕方ないでしょう。ですがアルヴィス様もまた、かのファラの血をお引きになる高貴なお方。大国グランベルの王としては、相応しいでしょう。そのアルヴィス様が、このシレジアのことで、これまでの不幸な関係に心痛められ、私を派遣なされたのです」
 筋は通っているように思える。だが、不審であるのは否めない。
「それに、このままシレジアが不安定なままであると、アルヴィス様としては、治安の安定のために必要な手段を講じる必要が出てきます。アルヴィス様は、そのためにも今回の申し出を提案してきたのではないかと、私などは考えますが……」
 つまり、この申し出を断ったら、グランベルから軍隊を直接派遣する、ということだ。彼らにとって『シレジアの治安を理想的な状態で安定させる』ために。
 脅しを含んだ協力の申し出。どうあってもシレジア領内にグランベル兵を入れたいのか。
 どちらにしても、選択肢はこちらには与えられていない、ということか。ダッカーはそう判断すると、協力要請を受諾した。
「おお、よかった。これで私も安心して国に戻れます」
 男はそういうと立ち上がり、早速戻ろうとする。
「使者殿」
 ダッカーはその背中へ呼びかけた。ややあって、使者が緩慢な動きで振り返る。
「おぬしの名を、聞いておらなんだが、何と言う?」
 男はもう一度完全に振り向き、また大仰な動作で頭を下げた。
「おお、これは失礼いたしました。私は、マンフロイ、と申します。アルヴィス様の下で働かせていただいております」
 マンフロイ、と名乗った男はそういうともう一度、出口で恭しく頭を下げてから、部屋を出ていった。

 ダッカーがわざわざこの時期に兵を挙げたのは、なによりもこのグランベルの介入があるからであった。冬になれば、シレジア人ですら兵を動かすのが大変になる。いわんや、この寒さになれていないグランベルは兵を動かすのが大変だろう。まして、ユングヴィはグランベルでも南に位置する。雪すらまともに体験したことがない、という可能性だってあるのだ。
 本音を言えば、確かにグランベルの介入なしには、この戦いに勝つのは困難である。
 確かに戦力的にはほぼ五分。天馬騎士はシレジアの方が多いが、その分魔法師団がいる。歩兵の兵力差を補ってあまりある。だが、最大の問題はマーニャの存在だ。個人の武力では、マーニャとパメラはほぼ互角である。にもかかわらず、なぜマーニャが四天馬騎士筆頭であるのか。それは、個人の戦闘力ではなく、軍の指揮能力に拠るものなのだ。
 パメラの指揮能力が、優秀でないわけではない。だが、マーニャと比べると、明らかに劣る。その能力は、圧倒的と言ってもよい。加えて、機動力ではシレジアの方が勝る。また、時間が経つとセイレーンからの援軍もありえる。シアルフィの公子シグルドの実力は、ダッカー自身は知らないが、噂ではよく聞いている。戦乱を潜り抜けてきた彼らの経験は、決して侮れない。まして、シグルド軍には多くの聖戦士達がいるというのだ。
 さまざまな理由から、ダッカーは実際には非常に中途半端な心理状態のまま、兵を挙げることになった。
 グランベルの戦力をあてにしたいが、だができれば、グランベルの介入は受けたくない。あるいは、そのためにレイミア率いる傭兵隊を雇い入れたのだが、彼らがパメラの指揮下に入るとは思えない。
 そして。
 そのダッカーの迷いを、ある意味では解決する報告が、入って来た。パメラ率いる天馬騎士が進発してから、2日後のことである。
 曰く『ユングヴィ公アンドレイ率いるバイゲリッター、国境を越え、シレジア領内に来る』と。そしてほぼ同時に、そのアンドレイから使者が来た。内容は簡潔に、戦場の場所を教えて欲しい、ということ。ダッカーはとりあえずザクソン城に入るように指示し、その上でパメラに使者を飛ばした。

 その3日後。マーニャ率いるシレジア軍と、パメラ率いるザクソン軍が風の平原で戦端を開いた。彼我の兵力はほぼ同じ。本来であれば、すぐに戦闘に入るはずであったが、両軍が戦場に到着したときに、激しくはないが、吹雪になったのだ。戦端を開くこともできなくはない程度の吹雪ではあったが、シレジアの吹雪はいつどう変化するか分からない。結局、そのままお互いの陣で3日間の睨み合いになってしまったのだ。
 そしてこれが、わずかに遅れるはずのバイゲリッターに、介入の時間を与えてしまったことは、果たしてどちらにとって幸運だったのか。あるいは、どちらにとってもただ不幸なだけではなかったのか。
 それを知る者は、シレジアにはいなかった。




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