し る べ    
風の道標・第十九話




 吹きすさぶ風は、すでに冬の厳しさを感じさせた。シグルド達にとって二度目のシレジアの冬である。すでに大地は白く染まり、その様相を一変させていた。『雪の女神に祝福された』大地とはよく言ったものだ。しかしまだ、戦えないほどではない。馬の蹄の半分ほどしか雪は積もっていないのだ。人の背丈に倍するほど積もるシレジアでは、この程度はあるいは雪と呼ばないのかもしれない。
 トーヴェを後にしたシグルド軍は、その騎兵のみの編成が幸いして相当の速度でセイレーン城まで帰還した。トーヴェの事後処理は、残っていた守備隊とクロード神父に任せてきた。すでに戦力らしい戦力は全て掌握していたので、むしろ彼のような人物の方が適役と判断したのである。また、彼が乗馬が苦手、というのも要因の一つではあった。
 セイレーンに戻ったシグルド軍は、残留部隊の指揮官レックスが適確な判断をしていたことを知った。すでにセイレーン城に最低限度の守備を残して出撃していたのである。
「どちらにせよもうセイレーンに危険は少ない。我々もシレジアへ急行する!!」
 シグルドはそう宣言すると、セイレーンでは一日――というよりは夕方着いたので泊まっただけなのだが――休んだだけですぐに出撃した。
 セイレーンとシレジアの間には、シレジアを南北に分けるシレジア山脈と、そこから流れ出すシレジア河を越えなければならない。特に、山岳帯は騎兵でもかなり足を取られて遅くなってしまうものだ。
「シグルド」
 呼ばれて振り返った指揮官の前に立っていたのは、レヴィンだった。すぐ後ろにフュリーも控えている。
「俺と、天馬騎士だけで先行しようと思う。事態がどう動いているかも、ここからではさっぱり分からない。マーニャがそうたやすく破れるとは思わないが、どうも嫌な予感がするんだ」
 シグルドは少し考える素振りを見せたが、彼自身、これに反対する理由を考え付かなかった。というより拒否する理由が全くない。
「分かった。先行して状況を確認しておいてくれ。だが、決して無茶な真似はしないと約束してくれ」
「もちろん、そのつもりだ。まあマーニャなら、あるいはもう反乱を鎮めてしまっているかもしれないしな」
 気軽に言ってみせたのは、控えているフュリーを安心させるためである。だが、効果はなかったようだ。レヴィン自身、今自分で言った言葉を信じているわけではない。何か、言い知れない不安のようなものが、彼らの心を捉えて離さなかったのだ。

 結論から言えば、レヴィンの予測はほぼ正しかった。それはレヴィンが想像していたうちの一つであり、そしてその中でも最悪のものに近かった。最悪でなかったのを、彼が幸いと思えるかどうかはまた別ではある。
 フュリーのペガサスに乗り、160騎の天馬騎士と共に、レヴィンは一気に山を越えた。地上を行く場合大変な道のりも、空を行くペガサスの前には関係がない。わずか半日でレヴィン達はシレジア山脈、そしてシレジア河を越えることができた。そして、そろそろ休もうか、という時にその影を見つけたのである。
 天馬騎士達の目は、飛びぬけてよい。時折、近くを見るのに不自由する者たちが出るほどである。レヴィンも目は悪くないのだが、それでもフュリー達には敵わない。そのフュリー達が、遥か向こうの空に、かすかな影が出現するのを見つけたのは、もう夕陽が地平に姿を消そうというときであった。やがてその影は一つ二つと増えていく。
「あれは……?」
 この方向に来る天馬騎士、というのはフュリーも考えてはいなかった。ありえるとすれば二つ。
 一つは、ザクソンとの戦いに勝利したシレジアの天馬騎士が、その報せのために。もう一つ――フュリー自身考えたくもないのだが――ザクソンのパメラ配下の天馬騎士が、シレジアを占領し、その勢いでそのままセイレーンまで手中に収めようとするために派遣した部隊である。
 だがこの場合、そのどちらにも当てはまりそうになかった。彼ら天馬騎士は、地上すれすれを飛行し、そしてなにかと戦っていたのである。
「どうした?フュリー?」
 すぐ後ろでレヴィンの声がした時、フュリーはどきりとして一瞬制御を失った。ペガサスが大きく揺れる。
「わあああ!!フュリー、どうした」
 フュリーは慌てて体勢を立て直して状態を安定させた。すぐ後ろにレヴィン王子がいることは分かっていたのだが、極力意識しないようにしていたのだ。だが、このように話しかけられるとつい動揺してしまう。
「い、いえ。すみません。それよりレヴィン様、あれ、何だと思います?」
フュリーが指差した先には、レヴィンにはかすかに天馬騎士が見える程度である。確かに、あれほどの低空を飛行するのは珍しいが、それ以上のことは分からない。
「なにかと、戦っているみたいなのです。ただ、それ以上は……」
 レヴィンは考えをめぐらせたが、結局フュリーと同じ思考で止まる。判断材料が少ない状態では分かるはずもない。
「とりあえず近づいて見ろ。数はこちらの方が多い。いざ戦闘となれば、俺は降ろしてくれていい」
 フュリーは一瞬判断に迷ったが、結局その言葉に従った。
「前方下に見える天馬騎士と接触します。場合によっては戦闘もありえますので、全騎、そのつもりで!!」
 そういうとフュリーは一気に急降下する。半瞬遅れて他の天馬騎士が続いた。

 その部隊は、もちろんシレジアから逃げる市民を追った盗賊達を撃退するために動いていた、元マーニャの部下であった。ただ、盗賊達の数は決して少なくなく、逃げる市民を守りながらの戦いとなるとどうしても苦戦する。さらに、彼女らの疲労も決して回復しておらず、まだ傷を負ったものも少なくない。それらの悪条件から、逆に彼女らの方が打ち倒されてしまうような事態にすらなりつつあった。その状況が一変したのは無論、フュリー達の参戦がきっかけであった。
 フュリー達は、近づくにつれ、天馬騎士がどこの部隊であるか、ということは分からなくても、何故ここにいるのか、そして何を目的に動いているのかを理解した。となれば、シレジアの天馬騎士としてとるべき行動は一つである。
 いきなり増えた150騎以上の天馬騎士に、盗賊は浮き足立った。まさか、援軍が来るなどとは思ってもいなかったのである。しかも、今度の天馬騎士達は、その体力もほぼ回復している者達である。
「出番なし、だな」
 少し離れたところに降ろしてもらっていたレヴィンはゆっくりと歩いて近づくことにした。
 しかし何故、いまこんな場所にこんな大勢の市民がいるというのか。少し考えてレヴィンは思い至った。
 シレジアは間違い無くほぼ全軍を出撃させたはずである。となれば、シレジアはもぬけの空だ。盗賊はそれを狙ったのだろう。だが、もしそうだとすれば、シレジアは盗賊達に蹂躙されたことになる。だが、その一方で、このように天馬騎士が盗賊討伐に向かっているというはどういうことだろうか。母と叔父が和解した、とはいくらレヴィンでも考えられない。ならば、すでに決着がついたということか。マーニャとパメラの。そして、勝った方がシレジアに来たところ、シレジアは盗賊に襲われていた。それを撃退し、先に逃げた市民を追いかけた盗賊達を、さらに追撃した――というところか。筋は通っている。というよりはその通りだろう。だが。
 だとすれば勝ったのはどちらなのか。マーニャか、パメラか。無論、レヴィンはマーニャの勝利を信じている。マーニャは歴代の天馬騎士の中でも最強と謳われている。それは、個人の武力に留まらない。軍を指揮する能力も、である。パメラもまた、マーニャに匹敵する武勇の持ち主、といわれているが、まともに考えればマーニャの方が有利である。それは明らかだ。だというのに。
 この得体の知れない不安は、いったいなんだというのか。まるで、胸をかきむしられているようなこの不安。いったい何が、それほどに不安を駆りたてるのか。
 そしてそれは、フュリーの表情を見た時に確信に変わった。
 フュリーは、合流した天馬騎士の指揮官らしき者と話していたようだが、その表情は――レヴィンは良く知っている。泣き出してしまう、一歩手前だ。それも、嬉しさからではない。悲しみによって。
「フュリー……まさか……」
 聞きたくはなかった。何故か、その予感はしていた。ただ、次にフュリーの口から発せられる言葉は、その絶望に近い予感を、現実にするだけのものだ。分かっている。だがそれでも、レヴィンの口はレヴィンの意に反してフュリーに次の言葉を求めていた。
「姉さまが……マーニャ姉さまが……」
 一筋の涙がフュリーの頬を伝って新雪の上に落ちる。
「戦死、された、そう……で……」
 すでにフュリーの言葉はレヴィンには届いていなかった。急に、足元を失ったような感覚。信じていた何かが壊れてしまったような、ひどく自分が不安定な場所にいるような。だが、違う。これは全部自分の責任だ。国を出奔したりせず、王位を継いでいれば。いや、戻ってきてからでもなんのかんのと理由をつけて王位を継ぐことを拒んだりしていなければ。こんな戦いは起きなかったはずだ。そう。マーニャを殺したのは、紛れもなく自分なのだ。
「う……うああああ!!!!!」
 マーニャを死なせたのは自分だ。マーニャは死ぬはずのなかった、いや、死んではいけない人だったのに。それを自分の我侭だけで殺してしまった。その認識は、レヴィンにはまるで己の四肢を八つ裂きにされても償えぬほどの罪に思えた。
「俺が、俺が迷わなければ、、王位を継いでいれば!!」
 ガツッ、という音と共に新雪の上に鮮やかな紅の雫が飛び散った。すぐそばにあった岩を殴りつけたレヴィンの手から、鮮血が滴り落ちている。
「レヴィン様、手が……」
 フュリーは慌ててレヴィンを押さえようとしたが、レヴィンはそのフュリーを突き飛ばすように押しのけた。
「やめろ!!俺にお前に優しくしてもらう資格なんてない。俺は、王家の義務すら放棄した、情けない王子だ。お前の姉を殺してしまった男なんだよ。恨み言の一つでも言ってくれよ!!その方が楽だ!!」
 その言葉は、フュリーを蒼白にさせたが、今のレヴィンにそのことに気がつく余裕などありはしない。ガツッ、という音と共に鮮血が飛び散り、次々に白を朱に染めていく。
 フュリーはそれを見て、突然あることに気がついた。そしてそれが、急に彼女の心を締め付ける。けれど。今はそんなことで足踏みをしているわけにはいかない。自分達が嘆けば、姉が生き返るわけでもないし、また、彼らの嘆く時間を、他の人達が待ってくれるわけでもない。時間が過ぎれば、あるいはもっと事態が悪化する可能性だってあるのだ。
「レヴィン様……」
「どっか行っていてくれ!!」
 レヴィンが再びフュリーを押しのけようとしたとき、鋭い音が響いた。そしてそれは、レヴィンと、そしてまわりの騎士達をも凍らせた。フュリーが、レヴィンの顔を平手で打ったのである。
「フュリー……」
 レヴィンも呆然としていた。その衝撃で、レヴィンは今自分がどれほど子供じみた行為をとっていたかを気付く。フュリーは、というと涙をまたこらえつつ、肩を震わせていた。
「しっかり……しっかりなさってください、王子。マーニャ姉さまは倒れられましたが、まだシレジアがどうなったか、などは分かっていないのです。それに、シレジアには、ラーナ様もいらっしゃるはずです。王子が、そんなことでどうするのですか!!」
 そう言ったフュリーはがたがたと震えていた。主君である王子に手を上げたばかりか、その王子のことを責めてしまうような言動までとってしまった。シレジアの騎士としてあるまじき態度であるのは重々承知している。けれど、今ここで悲しみに打ちひしがれていても、なにも事態は改善しない。今立ち止まっているわけにはいかないのだ。
 その時、レヴィンの手が、フュリーの肩に触れた。怒られる、と思って体を堅くしたフュリーだったが、レヴィンの腕は、そのままフュリーを引っ張るとそのまま自分の体に倒れこませる。フュリーは、体重をレヴィンに預ける格好になっていた。
「すまない、フュリー。お前の方が、俺より何倍も辛いのにな。俺だけが取り乱して」
 そう言ったレヴィンの声には、すでに先ほどの狂気はなかった。優しい、いつものレヴィン王子の声である。
「そうだな。まだ何も終わっちゃいない。俺達はシレジアに行かなきゃならない。母上を助けなければな。……けどフュリー、少しだけ気を緩めて良いぞ。無理に涙を堪える必要はない。今だけはな」
 そのレヴィンの優しい言葉に、フュリーの緊張が一気に解けた。涙を押さえていた堰が切れる。レヴィンの胸で、フュリーは泣き続けていた。まるで、小さな子供のように。

「もう、大丈夫なのか?」
 レヴィンの言葉に、フュリーは「はい」と頷いた。
「いつまでも泣いていては、姉さまに叱られてしまいます」
 そう言って、笑う。その、フュリーの表情は、レヴィンにはなぜかとてもきれいに見えた。一瞬、ドキリとする。
「……そうか。じゃあ、行こう。シレジアへ。パメラが母上に手を出すとも思えないから、多分無事だろう。けど、急がない手はないからな」
 レヴィンはそれから逃げてきていたシレジア市民の方に振りかえった。
「まだ雪も深くないから、お前達はセイレーンに行け。多分途中で、シグルドという男が率いる部隊に会えるだろうから、事情を話してセイレーンに入れてもらえるように頼むんだ。彼なら、取り計らってくれる。ここまでの道中は、多分安全だから、安心していくといい」
 市民達はレヴィンが王子だと、もう分かっているため、ひどくかしこまってそれを聞いていた。
 こういうとき、なるほど、自分は王子なんだ、と改めて認識する。なじんだ街の人々ならともかく、初めて会う彼らにとっては、レヴィンはシレジアの王子であり、畏敬の対象であるのだ。風使いセティの力を継承する、聖戦士の末裔として、そしてシレジアの王位継承者として。
「分かりました。それでは殿下、ご武運をお祈りいたします」
 市民達はそう言って北へと向かっていった。レヴィンとフュリーはそれを見送ると、部下達の方へ振りかえる。
「総勢200騎士の天馬騎士か。壮観だな。かつて、これほどの騎士を指揮した天馬騎士もいないだろう。大役だな、フュリー」
「はい」
 フュリーの返事は澱みない。本当は、わずかな心の揺らぎがあったのだが、今のレヴィンはそこまで読み取ることは出来なかった。
「では、全軍出立!!」
 フュリーの号令で、天馬騎士200騎が同時に空に舞う。天は一瞬、純白に包まれていた。

「やはり、戻らないか」
 パメラは北の空を見上げてつぶやいた。天馬騎士が、逃げた市民を追った盗賊に敗れるとは思っていない。だとすれば、フュリーと合流したのだろう。ディートバが敗れたとはいえ、その部下の天馬騎士が全滅したとは思えない。恐らく、フュリーの下に組み込まれているだろう。だとすれば、フュリーの部下は少なく見積もっても150騎はいるだろう。自分達とほぼ同数。これに加え、セイレーン軍にはヴェルダン、アグストリアと戦い抜いてきたグランベルやアグストリアの騎士達がいる。
 まだ冬本番、というほどではない。数的不利はこのシレジアでは挽回できるとは思えなかった。
「これは、攻められたら撤退しかないな」
 天馬騎士はその機動力が最大の武器であり、防衛戦は苦手である。まして、セイレーン軍には優れた弓の使い手もいるという。天馬騎士だけは勝ち目はない。
「ラーナ王妃は……連れては行けないな。まあいい。もうたくさんだ」
 一人ごちたパメラのいる部屋に、息を切らせて部下の一人が駆け込んで来た。
「パ、パメラ様。斥候より連絡。フュリー隊は先行してシレジアに迫っています。その数、およそ200騎。また、レヴィン王子も一緒にいるという話です」
 パメラは軽い驚きの表情を浮かべていた。
「200騎……か。それは……」
 予想していたより遥かに多い。フュリー隊だけ先行している、と聞いたとき一瞬、持ちこたえて、あわゆくばセイレーンの本隊が到着する前に叩き潰せば戦える、と考えたのだが、そもそもそのフュリー隊からして、こちらより多いのでは話にならない。くわえて、フュリーの力も未知数である。
 フュリーは戦いが始まる前、50騎しか従えていなかったはずだ。例えグランベルの軍の援護があったとはいえ、従妹のディートバを撃破したのは事実だ。油断していると足元をすくわれかねない。ディートバの力は、パメラが良く知っている。少なくとも、パメラの知るフュリーの実力で勝てる相手ではない。
「勝ち目はないな。全軍に伝達。シレジアより撤退。一度、ザクソンに戻ると伝えろ。早急に出立する!!」
 パメラの命を受けて、伝令してきた部下は弾かれる様に外に出ていった。
「さあ王子。フォルセティはあなたに預けます。その力を示して見せてください。それこそが、ダッカー様がお望みになられたこと……」
 パメラの独語を聞いているものは、もちろん誰一人いなかった。

 グラン暦759年初冬。シレジアの支配者は再び変わろうとしていた。
 風は、静かにその時を待ち続けている。




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